2013年10月30日水曜日

『あすてりずむ vol.3』を読む ~鈴木牛後~

 
『あすてりずむ vol.3』を読む
 
 
~鈴木牛後~
 


先日、隣町のセブンイレブンに行って「あすてりずむ vol.3」を入手してきた。わが家からセブンイレブンまで 20km、車で30分ほどかかる。面白そうなネットプリントがたくさん発行されていて、読みたいと思うことも多々あるのだが、簡単には行けないのが田舎の辛いところだ。



さて、「あすてりずむvol.3」、小さいながら洒落た体裁だ。俳句を並べるだけなら私にも作れそうだが、読んでもらうためにはデザインも大事。残念ながら、こういうセンスは私にはない。やるなら、センスのある人と組まなければ。【itak】にもひとりくらいそういう人がいるんじゃないかな。

それでは好きな句を挙げさせていただく。



 指先のナンの熱さよ小鳥来る 後閑達雄

ナンといえば、膨らんでいないパンのようなもの。これを自宅で作って食べる人は日本ではあまりいないだろう。たいていはカレー屋で、カレーと一緒に食べるのではないか。

私が田舎者だからかもしれないが、ここで感じるのは本格的なカレー屋に入るというちょっとした祝祭感だ。恋人と一緒なのかもしれない。出てきたナンをさっそく摘めば、思いのほか熱かった。「熱い!」などと言いながら二人で笑い合う、そんなささやかな幸せに小鳥来るという季語が寄り添っている。


 電卓に0(ゼロ)光りたる秋の暮 後閑達雄

今の電卓は液晶だから、数字は黒く色が変わっているだけで光ってはいない。だからこの句は、かつて緑色に数字が光っていたころの光景だろう。わが家に電卓が初めて現れたのは小学生の頃だっただろうか。どんな難しい掛け算や割り算も一瞬にして答が出るのが面白く、しばらく遊んでいたような記憶がある。1分間に何回キーを押せるか、という競争を友達としたこともあった。「1」「+」と押してから「1」を押すと、押した数だけ数字が積み上がっていく。そうやって飽きずに遊んでいられた子どもの頃、気がつくと液晶だけが光り、外は夕闇が迫っていた。


 達筆の文字読み取れぬ帰燕かな 金子敦

昔は達筆、というより読めない筆跡の人が多かったように思う。若い頃から書道を習っていたりしたことに加え、仮名も今では使わないような難しい字を使いこなすからだ。母方の祖母はそういう字を書く人で、手紙を読むのも大変だったことを憶えている。

作者もきっと亡くなった祖父母の書いた手紙か原稿を読んでいるのではないだろうか。もうこの世にはいないので、何と書いてあるのか尋ねてみることもできない。あれこれ悩んでいる窓の外を燕が帰ってゆく。燕は遠い国との間を軽々と行き来できるのに、作者は手に触れている作者の意志さえ掴めないでいる、そんなもどかしさが掲句から感じられた。


 コスモスや裏手に男子更衣室 小早川忠義

男子更衣室を詠んだ俳句は非常に珍しいのではないか。何だか意味もなくドキリとした。

学校の男子更衣室はとても騒がしいところだ。ただでさえうるさい男子が狭苦しいところにひしめき合うのだから当然だろう。パンツの柄がヘンだとか、すね毛が濃いだとか、どうでもいいような話題で笑い合う。その声は校舎の外にまで響いていて、花壇の手入れをしていても聞こえてくる。花壇は今はコスモスが盛り。男子更衣室の爆弾のような喧噪も、コスモスの花畑を通ればたちまち青春の香りに変わるような気がする。



☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)

 

2013年10月25日金曜日

俳句集団【itak】第10回 朗読者紹介


俳句集団【itak】第10回イベント 朗読者紹介
 
 

矢口以文(やぐち・よりふみ 札幌市在住)


1932年宮城県石巻市生まれ。東北学院大学、国際基督教大学などで学ぶ。1966年から北星学園大学勤務。現在同大学名誉教授。詩集『にぐろの大きな女』、『夜の木立』、『先祖たち』『イエス』、『呼ぶ声』、『詩ではないかもしれないが、どうしても言っておきたいこと』などのほか、評論集や訳詩集など。

 
 
今回は初めて、誌の解説と朗読をお願いしました。
20世紀のアメリカの詩人の作品を解説していただきます。
そのあとで矢口さんの作品を数篇朗読していただきます。





『詩ではないかもしれないが、どうしても言っておきたいこと』









*と き 11月9日(土)午後1時~4時50分
*ところ 北海道立文学館講堂(札幌市中央区中島公園1-4
*参加料 一般500円、高校生以下は無料


●第1部  詩人・矢口以文氏による20世紀アメリカの詩と自詩の解説・朗読会
       ~解説と朗読~『アメリカの詩と私の詩

●第2部  句会(当季雑詠2句出句

●懇親会のお申し込みもお受けしております

詳細お問い合わせはEメール(itakhaiku@gmail.com)へ。




2013年10月20日日曜日

第十回俳句集団【i t a k】イベントのご案内



第十回俳句集団【i t a k】イベントのご案内です。



俳句集団【itak】事務局です。
早くも初雪の報せが来るなど、めっきり冷え込んで参りました。


第九回講演会・句会には50名のご参加をいただきました。
三連休初日のご参加、ありがとうございます。

下記内容にて【itak】の第十回 朗読会・句会を開催いたします。
どなたでもご参加いただけます。
今回は札幌在住の詩人・矢口以文さんをお迎えして
自作詩の朗読会を行います。
年内最後のイベントとなります。多くの方々のご参加をお待ちしております。
第一部のみ、句会の見学のみのご参加も歓迎です。
懇親会のご用意もございます(実費)。
少し早いのですが今年一年を振り返り、俳句談義と参りましょう。





日時:平成25年11月9日(土)13時00分~16時50分

場所:「北海道立文学館」 講堂

      札幌市中央区中島公園1番4号
      TEL:011-511-7655


 
  
■プログラム■



第一部 朗読会


~解説と朗読~

 
『アメリカの詩と私の詩

    
          詩人 矢口以文 


 
 


第二部 句会(当季雑詠2句出句)


<参加料>
一    般  500円
高校以下  無  料  (但し引率の大人の方は500円を頂きます)
※出来る限り、釣り銭の無いようにお願い致します。
※イベント後、懇親会を行います(実費別途)。
  会場手配の都合上、こちらは事前のお申し込みが必要になります。
  会場および会費など、詳細は下記詳細をご覧ください。



■イベント参加についてのお願い■

会場準備の都合上、なるべく事前の参加申込みをお願いします。
イベントお申込みの締切は11月6とさせて頂きますが、締切後に参加を決めてくださった方もどうぞ遠慮なくこちらのメールにお申込み下さい。

なお文学館は会場に余裕がございますので当日の受付も行います
申し込みをしていないご友人などもお連れいただけますのでどなたさまもご遠慮なくお越しくださいませ。


参加希望の方は下記メールに
「第十回イベント参加希望」
のタイトルでお申込み下さい。
お申し込みには下記のいずれかを明記してくださいませ。

①朗読会・句会ともに参加
②第一部朗読会のみ参加
③第二部句会のみ参加(前日までにメール・FAXなどで投句して頂きます。)

特にお申し出のない場合には①イベント・句会の通し参加と判断させていただきます。
 


■懇親会詳細と参加についてのお願い■

会場:キリンビール園 本館 スペースクラフト(パークホテルの向かい)

時刻:17:30~19:30
会費:4500円(焼肉3種食べ放題・飲み放題つき)
※当日キャンセルはキャンセル料を申し受けます
 

準備の都合上、こちらは必ず事前のお申し込みをお願いします。
懇親会申し込みの第一次締切は11月3日とさせて頂きます。
以降はキャンセル待ちとなりますがお問い合わせください。
参加希望の方はイベントお申し込みのメールに

④懇親会参加

とお書き添えください。


itakhaiku@gmail.com

ちょっとでも俳句に興味ある方、今まで句会などに行ったことのない方も、大歓迎です!
軽~い気持ちで、ぜひご参加ください♪
句会ご見学のみのお申込みもお受けします(参加料は頂戴します)。


 





北海道立文学館へのアクセス

※地下鉄南北線「中島公園」駅(出口3番)下車徒歩6分
※北海道立文学館最寄の「中島公園」駅3番出口をご利用の際には
①真駒内駅方面行き電車にお乗りの方は進行方向先頭部の車両
②麻生駅方面行き電車にお 乗りの方は進行方向最後尾の車両に
お乗りいただくと便利です。



2013年10月18日金曜日

回文俳句 「秋果十品」  鈴木牛後


回文俳句 「秋果十品」  鈴木牛後


 

逢え裏で軒貸す垣のデラウエア
栗痛きおおアジア大き大陸
見る苦悩双方向放送の胡桃
子細地図揺るるアルル柚子ちいさし
薄き罪椅子の上(え)の水蜜奇数
撓うよな羽翼啼くような洋梨
愚問漏れ解いて愚弟とレモン捥ぐ
エマなのよ酢橘持ち出す余の名前
分厚く林檎剥き無言理屈浴ぶ
企画家麻生庭にうそ赤く柿


俳句集団【itak】事務局です。
久しぶりの俳句ギャラリーは鈴木牛後さんの回文俳句です。


2013年10月14日月曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ 掲句一覧


『かをりんが読む』をご高覧頂きありがとうございました。
文中掲句について改めて一覧をまとめましたのでご覧くださいませ。


(その1)

五体ほど玄関で待つ案山子かな      福井たんぽぽ

ひとひらの雲洗いたて秋気澄む      古川かず江
爪先に夏ころがして秋に入る     福本東希子
肩書きのとれて百態薯を食ふ     高野 次郎

 

(その2)
 
コスモスを倣えば君に成就する      高畠 葉子
赤とんぼ隣にすわつていいですか   小路 裕子
舞踊家の声の野太く唐辛子         久才 透子
倒木の茸わらわら狐雨            久保田哲子

 
(その3)

天高く身ぶりおほきく呼ばれけり     鈴木 牛後
虫の音の途切れて闇の重たかり      小笠原かほる
真夜中のはららご深くしづもりぬ   久才 透子
とろろ汁お茶目のままに老境に    平  倫子

 
(最終回)

虫籠あり使へぬ引き出物のごと       橋本 喜夫
稲屑火や農夫これより蔵びとに       青山 酔鳴
月光の栞挟みし文庫本            栗山 麻衣
秋風を牛の重量移りけり           久保田哲子



2013年10月13日日曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ (最終回)


『 かをりんが読む 』 (最終回)

~第9回の句会から~

今田 かをり
 
 
虫籠あり使へぬ引き出物のごと
 
 
この句を読んだ途端に、実家にあった納戸(なんど)を思い出した。使わなくなった食器や道具類、それに葦戸や扇風機、ストーブといった季節が来るのを待っている物が詰まっていた。そしてその納戸は、結婚式の引出物として頂いた食器類や、シーツやタオルといった布類が、「使わないもの」から「使えないもの」へと変化していく場所でもあった。その「使へぬ引き出物」を、使わなくなった「虫籠」、そしておそらくこれからも使われないであろう虫籠の直喩として使うなんて・・・ほんとにびっくりして、スパークした。 以前、アンティーク雑貨の店で、ヨーロッパの古い鳥籠が吊るしてあって、その中にホオズキが入れてあった。命が灯っているようで、とても素敵だった。この虫籠にも何かを入れてみたい。さて、何がいいだろう。
 
稲屑火や農夫これより蔵びとに
 
 
先日、砂川、奈井江あたりを車で走っていたら、あちこちで藁屑を燃やしている煙が上がっていて、どこか焦げ臭いような臭いも漂っていた。これが「稲屑火」であるが、それを季語として使っていることに、まずびっくりした。 さてこの農夫は、これで稲作の仕事を一旦終え、農作業の始まる春先まで、杜氏として出稼ぎにいくのであろう。農夫といい、杜氏といい、どちらも自然を相手の、米にまつわる仕事である。こうして繰り返し繰り返し、営々と暮らしを続けていく農夫の、おそらく実直であろう人柄までが浮かび上がってくる。さらに、稲屑火の煙や灰を思うと、いかにもはかない感じがするが、実はこれが肥料となって、大地を肥沃にするのである。自然の大きな循環の中の、人間の小さな循環、季語に「稲屑火」を斡旋したことによって、それがいっそう感じられる句になったのではないだろうか。
 
 
月光の栞挟みし文庫本
 
 
「月光の栞」とは、なんて美しい響きだろう。私の脳裏には、窓辺の机に開かれた文庫本が載っていて、そこに一条の月光が射している映像が浮かんだのである。その一条の光は、あたかも栞のようにページに差し込んでいる。何かのものの隙間から月光が差し込んでいるのかもしれない。 ところが、「挟みし」で躓いてしまった。月光を栞のように挟み込んで文庫本を閉じたということだろうか。とりわけ躓いたのは、「挟みし」の「し」なのである。文法のことをとやかく言うのは無粋だとは思うが、それを承知で言うことをお許しいただきたい。実は、私事で恐縮だが、津田清子先生のカルチャースクールに持っていった、初めての句に過去の「き」を使った。こんなところで披露するのもどうかと思うのだが、みなさんにも考えていただきたくて、あえて拙句を披露すると、「初蝶や息つめてもの思(も)ひし時」。その時の津田先生の言葉を今でもよく覚えている。「思(も)ひし時(思っていた時)、なんていう過去の回想は、俳句という短い詩型にはそぐわない。今を切り取って詠むのが大事です」と言って、「思ふ時」に添削された。 そんなこともあって、過去の助動詞「き」に少々神経質になり過ぎているのかもしれない。もちろん俳句や短歌では、この「き」を完了のように使って、「〜した」という意味で使用することがよくあることも知っている。おそらく作者は、月光の差し込んでいた文庫本を、月光とともに閉じたのであろう。それはそれで素敵である。が、回想で読んでしまう読者がいることも否定できない。「月光の栞」が余りに魅力的なだけに、本当にもったいなくて、もう少し別の表現がないのかと思うのである。
 
 
秋風を牛の重量移りけり
 
 
「牛の重量が移」ったとは、どういう情景なのだろうか。牛がトラックか何かに乗せられた、というような大きな動作ではない気がする。反芻している牛がほんの少し重心を移動させた、あるいは立っている牛がほんの少し脚を前に出した、といったわずかの体重の移動の方が、上五の「秋風を」にふさわしい気がする。そして、なんといっても「秋風を」の「を」の使い方が絶妙である。句の終わりに「けり」があるので、「秋風や」と「や」で切ることはないが、普通なら「秋風に」、あるいは「秋風の」とするところである。読者は、この「を」で一旦立ち止まって考える。曖昧な表現は俳句の場合マイナスになることも多いが、この句の場合は、「秋風を」としたことで、「秋風の中を」とも、「秋風を感じて」とも取る事ができ、かえって句に厚みを加えたのではないだろうか。さらに、「牛」が動いたのではなく、「牛の重量」が移ったとすることで、生身の牛そのものではなく、もう少し普遍的な、牛のもつ「命の重量」のようなものを感じ取ることができるのである。不思議な魅力をもった句である。
 

(了)
 

 
 

2013年10月11日金曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ (その3)


『 かをりんが読む 』 (その3)

~第9回の句会から~


今田 かをり


天高く身ぶりおほきく呼ばれけり


すこーんと晴れ渡った秋の青空が目に浮かぶ。その空の下で、「身ぶりおほきく」、おそらく大きく手を挙げて、あるいは大きく腕を振って呼んでいる人がいる。その呼びかけに、呼ばれた人もきっと大きな身ぶりで返事をしたことだろう。季語の「天高く」が効いている。「冬の空」では、こうはいかない。関西から札幌に来て、空の高さ、とりわけ秋の空の高さに驚いた。関西とは、高さの格が違うのである。北海道の広い大地、抜けるような青空の下で、私も身ぶり大きく呼ばれてみたい。

 
虫の音の途切れて闇の重たかり


鳴きすだいていた虫の音が途切れた時の「静寂」を、「重さ」に言い換えた。作者は、突然の静寂によって、闇の密度が高くなったことを感じ取ったのだろう。「聴覚」から「皮膚感覚」への転換である。「闇が濃い」という言葉はよく使われるが、「闇が重い」ということで、いっそうその皮膚感覚が研ぎすまされている感がある。さらにこの句の面白さは、「闇の重さ」が「心の重さ」にまで繫がっていくことを予感させる点である。今度は、「皮膚感覚」から「深部感覚」への転換なのである。
 
真夜中のはららご深くしづもりぬ 


魚類の産卵前の卵を「はららご」と言うのだということを、北海道に来て初めて知った。とりわけ、鮭の卵の入った卵巣を「すじこ」と言うことも。さて、この句の「はららご」は、どういう状態なのだろうか。台所で醤油漬けするために容器の中に「しづもっている」とも取れるが、やはり、まだ母鮭の胎内にあると読みたい。体外に放出された途端に、たくさんの卵は、一粒ずつそれぞれの時間を生き始めるが、今はまだ、母鮭は自分の胎内に、数えきれない卵のそれぞれの時間を孕んでいるのである。けれど、機は熟しつつあることが、「深く」から感じられる。そして、「真夜中」という時間が、その生命の神秘を支えているのである。

 
とろろ汁お茶目のままに老境に 


年を重ねても、どこかに「やんちゃな少年」が残っている人は魅力的である。その女の子バージョンが、この句である。そして、お茶目なおばあちゃんが啜っているのが「とろろ汁」。素朴でなつかしい食べ物である。とろろ汁を啜りながらお茶目だった幼女時代、そしてその頃の家族の風景をきっと思い出しているのだろう。その頃からどれほどの春秋を重ねてきたことかと思いつつ、ふと我に返ると、そこには本質的には何も変わっていない自分がいた。過去と現在を結ぶ食べ物として、「とろろ汁」という季語が絶妙である。お茶目なおばあちゃんは、ほんとに素敵である。
 

(つづく)


 

 

2013年10月9日水曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ (その2)



『 かをりんが読む 』 (その2)


~第9回の句会から~

今田 かをり



 

 コスモスを倣えば君に成就する
 
 「コスモスを倣」うとは、どういうことなのだろう。風に靡き合っているコスモスの、肩に力を入れない自然体を言っているのだろうか。そして「君に成就する」とは、「君への思いが成就する」ということなのだろうか。わからないことだらけの句であるが、不思議な魅力のある句である。異性への初々しい心の揺れを感じる。今の私の頭の中には、毎回出席してくれている高校生の男の子が浮かんでいるが、もしかしたら、人生をかなり生きてきた方の句かもしれない。でもそれはそれでとても楽しい。初々しさは、おそらく「コスモス」という花の選択によるのだろう。これが「すすき」だとそうはいかない。どうか心の揺れは揺れのまま、思いが成就しますように。
 
 赤とんぼ隣にすわつていいですか 
 
 「隣にすわつていいですか」と言っているのは誰なんだろう、これが真っ先に浮かんだ疑問である。①赤蜻蛉が舞っている公園か駅のベンチに句の主人公が座っていて、そこにやって来た人が声をかける。②ベンチに座ろうとしたら、そこに先客の赤蜻蛉がいて、主人公が声をかける。③赤蜻蛉が、ベンチに座っている人に声をかけている。いろいろな解釈ができるところが、この句の魅力なのだろう。赤蜻蛉の人なつこさからすると、案外③かもしれない。口語体の効果も相俟って、親近感のあるあたたかい句になっている。
 
 舞踊家の声の野太く唐辛子 
 
なんだか南米あたりの風景が浮かんできた。「唐辛子」の原産地だからだろうか。唐辛子といってもパプリカにように辛味のないものもあるが、「野太」い声を上げて踊っている舞踊家には、「ハバネロ」のようなとびきり辛い唐辛子が似合う。ヒリヒリと灼けつくような辛さは、ヒリヒリとした灼けつくような思いにも繋がっていき、身を焦がすような思いを抱えながら、声を上げ、踊っている舞踊家の姿が目に浮かぶ。唐辛子の赤、そして南米の赤く渇いた風。「舞踊家」と「唐辛子」という不思議な取り合わせが、私をまだ行ったことのない遠い地へ連れて行ってくれた。
 
 倒木の茸わらわら狐雨


 こちらの句にも、不思議な森の入り口に連れて行かれた。それは「わらわら」というオノマトペに因る気がする。「わらわら」で真っ先に浮かぶのは、河野裕子の「わが頬を打ちたるのちにわらわらと泣きたきごとき表情をせり」という歌であるが、もともと「わらわら」は、散り乱れるというような、崩れた感じを表すオノマトペである。この句では、それが不気味感を引き出している。また、陽気なさまも加わって笑いを表すこともあり、毒キノコの「笑茸」を連想することも容易である。どちらにしても、倒木にわらわらと生えている茸は、決して食べてはいけない危険な香りがいっぱいである。そこにもってきて「狐雨」。ヘンゼルとグレーテルが迷い込んだ森のように、この森に足を踏み入れると、ただでは戻って来られないような・・・でも入っていきたいような・・・


(つづく)


 

2013年10月7日月曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ (その1)



『 かをりんが読む 』 (その1)


~第9回の句会から~

今田 かをり

 
 9月14日の第9回【itak】は、第1部イベントで札幌琴似工業高校の文芸部の研究発表があるということで、とても楽しみにしていたのだが、仕事が入ってしまって出席できなかった。石狩の句会・尚古社の歴史と伝説の俳人・井上伝蔵についての立派な発表だったようで、本当に残念だった。

 この発表に続く第2部の句会は参加者42名という、今回も大句会となったようで、後日、作者名を伏せた資料が手元に届いた。前回は「出会い頭の句」ということで選ばせていただいたが、今回は、「火花の散った句」ということで選ばせていただこうと思っている。選句をするということは、体のどこかが句に反応してスパークするということである。激しく火花が散る事もあれば、穏やかに、けれど継続して散ることもあり、またそれは、心でスパークすることもあれば、頭、目、鼻とさまざまである。ただ、体調及び精神状態に依るところ大であるから、そこのところはお許しいただきたい。




 五体ほど玄関で待つ案山子かな


「五体ほど玄関で待つ」まで読んできて、ぎょっとした。地震、津波、竜巻、大水等、ここ数年、大きな自然災害が続いているからだろうか。「五体」、えっ!「玄関で待つ」、ええっ〜!!本当にぎょっとした。そして座五にきて「案山子かな」で、ほっとして頬がゆるんだ。なあ〜だ、「案山子」だったんだ。それぞれに身支度を整えた案山子が、田んぼへ出る人間を待っている。「案山子」を詠んだ句で、人間を待っている案山子の句なんて、初めてではないかしら。なんともユーモラスで、切字の「かな」が効いている。


 ひとひらの雲洗いたて秋気澄む


 「洗いたての雲」とは、真っ白な真綿のような雲なのだろうか。あるいはもしかしたら「洗いたて」なのは「空」なのかもしれない。たしかに秋の空は、アルコール消毒をしたかのような清潔な感じがする。「雲」「空」、どちらにしても実にすがすがしい。そして駄目押しのように、季語の「秋気澄む」。ここまできて、なんだかちょっともったいない気がするのである。もう少し別の季語を取り合わせてみてもいいのかもしれない。
 

 爪先に夏ころがして秋に入る


 初物は待ちに待って愛でられ、旬の物は喜ばれ、そしてその後は飽きられ、忘れられていく。「夏ころがして」は、もちろん消費されていく「夏」そのものとも取れるが、私の脳裏には、台所の隅にころがされている小振りの西瓜といった瓜類の映像が浮かんだ。もう食べ飽きて、見向きもされなくなった野菜たち。死力を尽くして実をつけたのに・・・そして季節は移ろっていく。愉快でもあり、また切なくもある句である。


 肩書きのとれて百態薯を食ふ


 「肩書きのとれて」、定年を迎えられたのだろうか。その年を迎えた寂しさよりも、肩書きに抑圧されていたことからの解放感が、「百態」によく現れている。そして、食べているのが「薯」なのである。ポテトグラタンでもなく、ましてじゃがいものニョッキでもなく、おそらく芋の煮っころがしのような素朴な料理を食べているような気がする。これから続くであろう平凡な日常を、自然体で受け入れようとしている作者の心意気を詠んだ句とも受け取ったが、きっとこの句の作者は、「心意気、そんな大げさな・・・」とおっしゃるような気がする。
 

(つづく)



 
 




 
 
 
 

 
 

2013年10月5日土曜日

第9回俳句集団【itak】イベント 研究発表会抄録


俳句集団【itak】第9回イベント

「石狩の句会・尚古社の歴史~伝説の俳人・井上伝蔵~」

2013年9月14日@道立文学館
 

俳句集団【itak】は9月14日、9回目のイベントを札幌の道立文学館(中央区中島公園)で開きました。今回は、高校生による研究発表会。札幌琴似工業高校文芸部の1、2年生が、文芸部の歴史や活動内容と、秩父事件の主導者で俳人の井上伝蔵(※)や石狩にあった俳句会「尚古社」についての講演を行いました。文芸部については詫間さん、川代さん、宮川さんの女子部員3人、尚古社については川中君、遠藤君、風間君の男子部員3人が担当しました。発表会の詳報を紹介します。
 (※井上伝蔵 1884年(明治17年)の農民蜂起「秩父事件」を主導。北海道に逃亡し、石狩尚古社にも参加。最後は野付牛村=現北見市=で死去)




【札琴工文芸部の歴史と活動】

 
 今回は、主体となっていた3年生が就職試験で来られないため、不慣れな私たち1、2年生が説明しますが、大目にみてもらいたいと思います。
「文芸部」が一体どんな活動を行っているのか、ほとんどの方がご存じないと思います。この場を借りて、説明しようと思います。




●文芸部の沿革と活動

 まず部の沿革からです。私たちの学校は1963年(昭和38年)に創立されました。文芸部は、創立3年目の1965年(昭和40年)から1972年(昭和47年)までの8年間活動していました。
 生徒会誌や、卒業アルバムを見ますと、毎年15名前後の部員が男女半々で写真に写っており、「俳句」は生徒部員と教職員とで毎月行っており、活発に作句活動していたようです。生徒会誌『琴友』にも、俳句作品がきちんと所収されています。
 その後、1972年から2006年まで、34年間の長きにわたり、部の活動は休止していました。2006年、転勤してきた教員が同志を募ったところ、10名を集め、同好会を新規結成。翌年には15名を集め、部に昇格が認められ、活動を34年ぶりに再開しました。

 次に活動内容です。
文芸部は、「俳句」・「川柳」・「短歌」・「詩」・「エッセイ」・「小説」の6ジャンルに取り組んでいます。共同作品なども同時並行で行っています。例に挙げると、詩人研究、俳人研究、アイヌ語を入れて短歌俳句づくり、小説の共同執筆作品づくりをしています。今回の(文芸誌)23号にも共同作品があります。


 学校祭展示では、一教室をお借りして、細長い用紙の京都の和紙の短冊に「短歌」「俳句」「川柳」を、正方形の色紙に「詩」を展示しています。小説は、分量があるため、冒頭だけを拡大しています。平成25年7月の学校祭では、本校文芸部が発行してきた歴代の文芸部誌を23種類展示しました。
 大会などで交流している全国100校以上の他校の文芸部誌の主なものを展示しています。その他、歴代の先輩方が受賞した表彰状も展示しています。2~3人ペアを作って学校祭のために編集した「文芸部誌・学校祭号」を、毎年4種類ぐらい展示しています。来校された市民にも丁寧に説明しています。

6月は松山市主催の「俳句甲子園」道予選に出場しました。8月には高文連主催「石狩支部大会」、10月は「全道大会」、「北海道・東北文芸大会」。12月は「全国コンクール入賞者表彰式」、3月は徳島県三好市主催の「文芸誌甲子園」など、年間7種類もの大きな大会に参加して技量を磨いています。
また、野外に出て、俳句や短歌の「吟行」も実施しています。5月の新入生歓迎会や、6月には石狩市にある俳句結社「尚古社」への取材を兼ねた共同研究。尚古社はこの後、男子陣が説明します。9月~10月に平取町へ無料バスで出かけ、アイヌの聖地を訪ねての吟行を実施しています。10月の全道大会、同月の北海道東北文芸大会、12月の全国コンクール入賞式(東京)にかこつけて、野外で風景を体感しながら、創作活動も行いました。
 また、句会は毎月1回校内外で実施しています。俳句や短歌を披露、批評し合う「句会」「歌会」では、「手作りのお菓子を持参して交流会」にもして、創作と味の両方を楽しんでいます。

●文芸誌「風花舞」

 部として、文芸部誌を年間4回発行しています。12月末号、4月号(新入生歓迎号)、6~7月に「学校祭号」を作り、作品の内容を部員全員で合評します。審査を受ける8月発行の「大会号」は近年、部員15名前後で、200ページから300ページのボリュームで完成させています。
 2008年(平成20年)12月の大会で、詩部門でいきなりの全国優秀賞(第2席)を皮切りに、平成21年には、詩部門で全国優良賞(第3席)、平成22年には、詩部門で全国入選(第4席)、そして平成23年には、俳句部門で全国入選(第4席)と、応募総数3万点余りの中から、上位16作品に4年連続して入賞しました。普通科高校が圧倒的に多い高校文芸界の中で、工業高校から入賞を重ねるということで、大変珍しがられており、報道機関からの取材依頼も多くあります。
 毎年作っている文芸誌についてです。
文芸部部員が1年がかりで作った作品集である「文芸部誌」が、連続して全国入賞しています。高校生文芸の最高峰・最多応募の「全国高等学校文芸コンクール」では、平成22年、23年、24年と3年連続で入賞しました。  
さらに、平成24年度は、過去26年間の歴史の中で、北海道からも初の、何と「最優秀賞&文部科学大臣賞」(第1席)に次ぐ、優秀賞(全国第2席相当)を『風花舞』第20号が受賞してしまいました。
 その他、平成22年に新設された徳島県三好市主催の「富士正晴全国高等学校文芸誌賞」で、第1回は優秀賞(全国2席)、第3回は奨励賞(全国4席)に入賞しました。
 山口県下関市の梅光学院大学主催「第10回全国高等学校文芸誌コンクール」でも、佳作(全国3席)に第14号が入賞するなど、賞を総なめして、琴工高旋風を「高校文芸界」で吹き荒らしてしまいました。

 次に手作りの文芸誌作りの方法について、10項目に分けて紹介します。
①テーマ・内容を話し合って全体像を決めます。今年の23号のテーマは「銀河」でした。②特集や企画を決めます③効果的にジャンルやページの順番を決める④個人・共同作品作り⑤挿絵・共同ページの分担作業⑥原版印刷⑦校正に入ります⑧挿絵を挿入します⑨大会号では、1週間に及び自前で複数枚印刷。⑩業者に製本だけを依頼する―という流れです。
完成品を大会の全道大会、全国大会、「文芸誌甲子園」で、審査員に審査していただきます。今年の23号は300ページとなりました。
 (全国での)総数は、個人作品が毎年2万5000点~3万5000点、参加している学校の文芸部数は、全国から400校~440校余り。運動系に比べると小規模の状況です。野球、サッカー部の10分の1だそうです。毎年12月第3土曜日に、東京のオリンピック記念施設で、表彰式や審査講評会が行われています。



 最後に、約50年前、1960年代に、本校では文芸部員が「俳句」創作を大いに楽しんでいたようです。そして、今、2010年代、「詩」「短歌」「俳句」に現在の部員達もまた、心底から楽しんでいるのを見て、不思議な縁を感じております。これで活動報告を終わります。




【尚古社の研究発表】

 男子部員が尚古社研究について発表したいと思います。
 川中が文芸誌第17号の「井上伝蔵の俳句研究」、遠藤が第20号の「尚古社の俳句研究」、風間が第23号の「子規に消された俳人たち」について説明します。


 ●伝蔵の俳句研究

 川中が井上伝蔵の俳句研究について発表します。
 まずは石狩尚古社についてです。結成は1856年(安政3年)。石狩場所の請負人や役人たちが、仕事の合間に俳句を詠み、苫小牧や函館の俳人たちと交流。1902年には「尚古集」が発行されました。物故会員12人の霊をまつり、能量寺で法要した記念事業として編集されたもので、全国から3538句が選ばれ、連句と共に掲載されています。応募者は道内を始め、沖縄からも寄せられたことから、道央俳壇の拠点だったことが分かります。
 大正末期になると、尚古社を支えていた会員が亡くなり、活動も徐々に下火となりました。そのうちに自然消滅してしまったそうです。
 井上伝蔵について説明したいと思います。彼が生まれたのは1854年(安政元年)、秩父郡下吉田村の資産家の家に育ちました。秩父事件の直前、31歳で自由党に入党。暴動後、近くの土蔵に身を隠していましたが、明治21年ごろ、津軽海峡を渡って石狩の市街地に、伊藤房次郎の偽名で移り住んだそうです。その後明治25年に高浜ミキという女性と結婚し、同39年、40年には八幡神社の祭典委員も引き受けていました。秩父の土蔵で潜伏中に法律や会計学を勉強したこともあり、法律や数字には明るく、文筆もたつことから、町民の間で頼りになる人と信頼されていたそうです。
伝蔵は石狩が最後の住所と思われていましたが、明治44年に石狩を去り、札幌へ移り住みました。この理由は分かっていないようです。伝蔵は大正7年(1918年)6月23日、64歳でその生涯に幕を閉じます。死を意識したときに初めて妻子に、自分の本当の身分を明かし、釧路新聞社の記者にも秩父事件の井上は自分であることを告げています。

                                        
 そんな井上伝蔵の俳句を2年前、尚古社を訪問した(文芸部のOBで卒業した)大島先輩、現在3年生の新川先輩が、尚古社にあった俳句を研究したものを四つほど、紹介したいと思います。
 伝蔵が49歳、1902年(明治35年)の作品です。


 暮て散る花には風も一層よし  柳蛙(りゅうあ)

 柳蛙という俳号で作られています。暮れてから散るのではあれば、いっそ、風が吹きさらってしまうのもよいではないかという句意です。咲き満ちてはらりはらりと散る花の風情よりも、風に吹き散る花の景観を好んだではないかと書かれています(出典・「井上伝蔵 秩父事件と俳句」中嶋幸三著)。
 この句について新川先輩は、「花びらが降ってくるのではなく、吹き散る花びらが自分の好み。また、その場を想像したときのさわやかさ」を評価して選んでいます。
 
 これをから新川先輩の作った俳句です。

 風吹いて散る花々は涼しげに  新川

 

 1893年(明治26年)、伝蔵40歳のときの作品です。

 名月や軒に光りし蜘蛛の糸  柳蛙

 ひとたび闇にまぎれた蜘蛛の糸が、月の出とともに新たな光を取り戻した情景を詠んだもの。蜘蛛の網ではなく、糸であることにも注目したい。一筋流れるように漂う光を見ている。当時はこうした句が評価をされていたことを念頭に置いて読むと、伝蔵の繊細な感性を認めざるを得ない―と中嶋さんは書いています。
 大島先輩が、この句を研究に選んだ理由を「月光や、それに照らされ輝いている蜘蛛の糸が想像できる分かりやすい句だったため」と言っています。

 この句をもとに大島先輩が作った句は・・・

 葉の陰の水面にあり蜘蛛の糸  大島
 

 次は、作られた年代は不詳の作品です。

 日の恵みはるは氷も砕けとぶ  柳蛙

 石狩川に張った氷が春の到来とともに雪解川の水勢によって砕け飛ぶさまを書いたものだろうか。新川先輩が選んだ理由として「砕けとぶに力強さを感じた。また、日の恵みで春の命の暖かさも感じる」としています。
 新川先輩がこの句から作った句は・・・

 春の日と命の躍動感じ入る   新川

 最後の句は、1903年(明治35年)、伝蔵が49歳の時の作品です。

 俤(おもかげ)の眼にちらつくやたま祭  柳蛙

 伝蔵の俳句の中で特に有名な句です。この年の8月19日、尚古社は亡くなった社員12名の追悼会を石狩能量寺において盛大に行ったそうです。この句は亡くなった12名の社員のことだけではなく、恐らく、困民党の無数の群像に重ねていったに違いないという推測もあるそうです。
大島先輩がこの句を選んだ理由は「秩父事件後に北海道に行き着いた伝蔵が、共に戦った仲間たちに祈りを捧げるとともに、決して伝蔵の中で事件が過去のものにはなっていないことを感じた句だったため」としています。
  大島先輩がこの句をもとに作った俳句は・・・

 戒めの過去を仰げばたま祭り   大島
 

 以上で私からの伝蔵の紹介を終わります。


 ●尚古社の研究

 遠藤は、文芸誌第20号の尚古社の俳句研究を発表したいと思います。石狩尚古社の建物は、住宅地にぽつんとあり、ここに有名な俳人たちの有名な作品が残っていたとは思わないところでした。尚古社に収められた数多の資料を調べました。そこには有名な俳人たちの貴重な資料が眠っていました。われわれは尚古社に眠る俳句を追いました。
 尚古社に俳句が残っていた俳人の出生地を調べたところ、全国から俳句が集まってきていました。何と沖縄からも俳句が来ていました。尚古社、北海道の俳句の活動の大きさが分かりました。武蔵野、埼玉出身の井上伝蔵さんも、尚古社に入っています。残りの俳人たちにも良い俳句を書くひとがいます。興味がある人はぜひ見に行ってみてください。
 去年の部員、男子チームが尚古社に残っている俳句を調べたものです。この中から二つだけピックアップして説明したいと思います。

                                        
 きょうは来ていませんが、3年生の新川先輩が取り上げた俳人の俳句です。


 早乙女のあとつけて来る家鴨かな  鳴雪

 鳴雪という人が書いた作品です。知っている人もいるのではないでしょうか。新川先輩の感想は「早乙女は田を植える女性のこと。鴨は親の後ろについて行くものだが、早乙女にゆっくりついて行く姿がほのぼのとして楽しい」とあります。その通りです。家の鴨と書いて「あひる」と言います。僕はこっちのほうがびっくりしました。
 鳴雪の生涯について説明したいと思います。本名を内藤素行。南糖、老梅居などの俳号もあります。伊予松山藩士、内藤同人の長男として弘化4年(1847年)4月15日、江戸三田の藩邸生まれ。俳句は旧藩主久松家の嘱託で、同郷の書生の寄宿舎常盤会の監督となった46歳の時に、舎生の正岡子規に学んだことに始まり、1年も経たずに一家の風格を示しました。句は温雅な調子を愛し、もっぱら初心者の指導をもって任じ、また好んで飄逸(ひょういつ)な人物画も描きました(出典・蒲田池菱と尚古社―中島家資料にみる石狩俳壇と各地の俳人 中島勝久著)。こんなところで正岡子規の名前が出るとは思いませんでした。
 これをもとに新川先輩が作成した俳句は・・・

 打ち水の音澄ましけり水琴窟   新川

 水琴窟は、尚古社の近くにある公園にもあります。石が積まれていて、水を垂らすと下に水が落ちて、鉄琴みたいなものが置いてあり、きれいな音が出るものです。裕福な家庭にしかなく、とても珍しいものとのことです。尚古社に行く際はぜひ見てきてください。

                                        
 次の研究は、大島先輩が取り上げた俳人です。


 蝉なくや雨ふくむ雲の暮れ急ぐ       牛島勝六

 大島先輩の感想は「もう終わりそうだという夏を、やさしく表現した句だと感じました。この句の、『暮れ急ぐ』という言葉が、季節の終わりを表しているなら、『蝉なくや』は夏の終わりを重くなく表現するのに最適なものに感じました」とあります。
 牛島さんの生涯です。
  1872年~1952年。本名は虎之助、出生地 は福岡県久留米市。北海道には屯田兵として20歳の時に入植しました。明治末期から、新聞俳壇選者として頭角をあらわし、独自な風土的郷土俳句の形成の道を目指しました。また、大正10年には、俳誌「時雨」を創刊しました。
 これをもとに大島先輩が作句した俳句は

 蝉なくや窓に入りたる風もなし         大島

 
 昨年男子チームが取り上げた尚古社の感想をまとめたものもありますが、大島先輩の感想が興味深いので紹介したいと思います。「尚古社に保管されている資料が非常に膨大で、本にしてしまえば何百冊にもなる量です。実際に目にしたら、それは宝の山のように見えることだろうと思います。また、食器や着物、当時の雑誌も数多く公開されていて、本当に宝物庫のようです。実は正岡子規に潰された俳人がいたという話も聞くことができました。みなさんも石狩に来る機会があったら是非、尚古社に足を運んでみてください」。
 実際に僕も2度、行ったことがありますが、住宅地に建てられていて、その中に有名な俳人、俳句が置いてあって、まさかこんなところにと思いました。石狩浜や公園もあり、観光にもなります。とても勉強になると思いますので、尚古社に行ってみてもらいたいです。一生勉強ですから。

 
●子規に消された俳人

 風間が紹介するのは、「正岡子規に消された俳人たち」という研究についてです。
 昨年、2年生の(文芸部)男子陣で尚古社を訪ねました。目的は、子規に消された俳人の取材です。尚古社の社主である中島さんの紹介で、計4人分の俳句が出てきました。尚古社の訪問と同時期に顧問の佐藤先生が一冊の本を手に入れてくれました。その本の名は「子規は何を葬ったのか―空白の俳句百年―」(新潮選書、今泉恂之介)と言う本です。その本にはなぜ子規によって俳人やその俳句が消されることになったか、消えた俳句にはどのようなものがあったのかなど、私たちが求める情報が凝縮されていました。俳句史の中にブラックホールとも呼ぶべき未知の空間が潜んでいました。百年もの間の俳句情報が、まったくと言っていいほど我々に届いていませんでした。そもそもなぜ、多くの俳句や俳人が子規に消されることになってしまったのか、発表していきたいと思います。

 俳句史の空白についてです。江戸後期の天保時代(1830年)から明治25年(1892年)ごろまで、子規の改革に至るまでの俳句は「堕落し、救いようのない状態にあった」と多くの書物が書いてあります。権威ある文学書のたぐいが口をそろえてそのように書いていたのです。いくつかの文を読むうちに分かってきたことがあって、多くの書が「堕落」の決め手として引用する同じ文がありました。子規の「俳句大要」にある一節です。
 「天保以後の句は概ね、卑俗陳腐にして見るに堪へず。称して月並調という」
 天保時代から明治中期の俳句を語る多くの文が、この僅か30字あまりの文を水戸黄門の印籠のごとく掲げ、批判論の裏付けとしていたのです。俳句史の筆者たちは果たして、これに続く文を読んでいたのでしょうか。子規の文は以下のように続いています。
 「然れども此種の句も多少は之を見るを要す」
 子規は、俳諧の達人とみなされるような人も、時には月並調の句を誉めたり、自分で作ったりすることがあると述べています。その理由は、月並調というものをよく知らないからだ、と知ったかぶりする危険性を説いた上で
 「恥を掻かざらんと欲する者は月並調は少しは見る可し」
 と、その項を結んでいます。
 例の期間の俳句がほとんど残っていないのは、単に注目されなかっただけではなく、子規の俳句収集に限界があったことにも起因しています。なぜなら、高浜虛子らが編集した最初の歳時記でもある「俳諧歳時記」などは、俳句の情報を子規の著作から得ていたためです。子規にかかわることが積み重なって、俳句史に大きな穴を開けてしまったということです。
 ちなみに、子規の言う月並調とはなにか、この本から引用すると、
 ①感情に訴えずに知識を訴えようとするもの②陳腐を好み、新奇を嫌うもの③言語の懈弛(かいし)を好み、緊密さを嫌う傾向④使い慣れた狭い範囲の用語になずむもの⑤(俳句界の)系統や流派に光栄ありと自信するもの―です。



 次に、子規が批判した俳人、上田聴秋についてです。

 秋寒やあるだけ着たる旅衣

 尚古社にあった俳句としては

 花のみか紅葉にもこのダンゴ哉


 上田聴秋の生涯について紹介します。通称、上田肇。不識庵と号しました。美濃大垣、今の岐阜県の人で、京都に居住しました。青年のころ、慶應義塾大学南校などに学んだこともありますが、卒業にいたらず、俳諧を芹舎に学び、明治17年京都に梅黄社をつくり、雑誌も発刊しました。33年11月に二条家から花の本の号を許され、その十一世と称しました。著書に「月ケ瀬紀行」「聴秋百吟」「鶴鳴帖」その他のものがあります。昭和7年(1932年)1月17日没。享年82歳でした(俳諧人名辞典より引用)。
 正岡子規の批評は不詳です。
 
この句をもとに新川先輩が創作した句は・・・

 団子食う音や桜の花迎え
 秋寒や手鼻を隠す通学路

                                        
 2人目は穂積永機という人です。そのひとの俳句は

 白露や夕やみつくるものはなし

 尚古社にも同じ俳句がありました。

 穂積永機氏の生涯を紹介します。
通称善之。文政6年10月10日、江戸下谷御徒町に、六世其角堂鼠肝の長男に嗣承したが、明治20年に其角堂の号を門人機一に譲って、後は、老鼠堂と号した。嘉永・安政から明治にわたる江戸座系の老俳で、各地を行脚して五十余国に足跡をのこし、門人一千余人と称した。学識もあり謙抑な性格で、人望を得たといいます。機一から贈られた300金で、芭蕉200回忌法要を義仲寺で七昼夜営、「元禄明治枯尾花」を刊行しました。明治37年1月10日亡くなりました。享年82歳でした。

                                        
 次に正岡子規の穂積永機に対する批判を紹介します。
子規は「老鼠と言ひ永機と言ふ人、幾人もありとばかり覚えて、能く其の人を区別できず。故に此句の作者は如何なる価値のある人なのか、はた如何なる俳句を詠みしか知らず(中略)若し此種の句のみならんには到底二流以下の俳家たるに過ぎず」と評しています。この時子規は30歳。73歳の大宗匠を、新聞紙上で二流以下の俳家たるに過ぎずと決めつけました。
 部員の川中君がこの句をもとに作った句は


 白萩や絶え間なく露零したる
 白露の中に宿りし客舎かな


 
 このように俳句史の空白の調査は難航しました。子規の批評を研究するはずが、まったくと言っていいほど、あまり情報がなかったので、もし資料があれば、調べてみたいと思いました。(了)

 

 
☆抄録:久才秀樹(きゅうさい・ひでき) 北舟句会

 

 ※次回のitakは11月9日(土)午後1時から、道立文学館で開催。第1部は札幌在住の詩人・矢口以文さん(やぐち・よりふみ 詩集『詩ではないかもしれないが、どうしても言っておきたいこと』の著者)の自作詩朗読を予定しております。詳しくは追ってホームページなどで告知いたします。

2013年10月3日木曜日

【itakスタッフ】りっきーリポート#7 女子の力は偉大なり!!の巻



9月14日(土) 晴れ(蒸し暑かったデス)



懐かしの学校祭の雰囲気・いや、そんな昔の記憶じゃないけどさw
 

・・・おっと?りっきーリポートって、実は半年振り?
いやぁ、ずいぶんご無沙汰してました。今年の1月以来でしょうか、ここに登場するのも。
3月は本業が忙しくてitakに来れず、5月はまさかの前日に急病(急性腸炎て・・・(´;ω;`)ブワッ。そして久し振りに来た7月は、琴似工業高校の生徒さん達は学園祭で来られないというぢゃないですか。その間に代打リポートしてくれたノラネコさんには大感謝っス(今度一杯おごるわ ( ̄ー ̄) ニヤリ
いやいやいや、ずいぶんとお仕事サボってしまいましたが、今回は久し振りに報告しちゃいますよ~。


りっきーリポート#7 女子の力は偉大なり!!の巻


今回のitakには琴似工業高校文芸部から7人の生徒が参加。男女半々の割合かな?
皆いつもよりやや緊張気味の面持ち。そりゃそうだ、だって今回の第一部は彼ら彼女らの研究発表をお願いしたのだからネ。

 
緊張の面持ちでご挨拶
※諸事情により学生さんにはパンダになってもらっていますw


『石狩の句会・尚古社の歴史 ~伝説の俳人・井上伝蔵~』


・・・むぅ。かなり本格的な研究内容。僕も今回の発表で井上伝蔵という俳人の存在を初めて知りましたよ。
この研究内容の発表については、ブログ別項の抄録にアップされますので、そちらを読んでいただければと。
そして三年生はこの日の数日後に、人生を左右しかねない『就職試験』があるそうなので、発表会には参加できず。
公の場で発表するのにまだ不慣れな1・2年生の部員みんなが頑張ってくれました。本当にありがとう♪

研究発表の前半部はまず、琴似工業高校文芸部の歴史と活動紹介を女子部員が、後半部の尚古社については男子部員が発表担当でした。


 
     桜餅くん                ふうま くん               しんちゃん


女子は地に足つけてしっかりと、男子は時折ユーモアを混ぜて会場を和やかにするような語り口で発表しましたよ。うん。
男子部員のほうは何度かitakに通ってるせいか、観客の空気を読みながら喋ることができていたので、終始観客を飽きさせない発表になったと思います。
みんな、グッジョブ!!

・・・・・・しかしながらここでひとつの、そして重大な問題が生じました。


時間枠を大幅に残して研究発表が終わってしまった。 ガビーン( ゚д゚)!

これは我々itak裏方の人間にとって結構しんどい状況。というのも、毎回この第一部、ゲストの方の講演や座談会をしていただいている間に、句会用の選句表の清書やコピーに奔走してるんです。
そしてこの日は運営スタッフの人手が足りなかった上に作業が難航していたため、準備がまだ追いついてない状況でした。
・・・しかしそこは流石の文芸部、こういう状況もあろうかとシミュレーションしてたのか、空いてしまった時間をうまく使って、自分達の発行した文芸誌や活動功績などを改めて、そしてより詳しく説明する時間に当ててくれました。

 
琴似工業高校文芸部誌『風花舞』や他校文芸部誌等の展示


ここで上手く取り仕切ってくれたのは女子部員の子なのですが、なんとまぁ見事な立ち回りと話術!!
うおおぉ、サンキュー文芸部!! オヂさん達が裏でテンパッてるところを見事にフォローしてくれました。
うーん、itakの幹事に誘いたいくらいだ(笑・結構本気ですw)




 はるちゃん          ふっちゃん          なっちゃん


さて、第一部をお互い何とか乗り切ると続いて句会。先のBOSS五十嵐さんの挨拶にもあったように、句会は42人。文芸部から句会には生徒二人の参加となりました。
・・・じつは1・2年生も近々テストがあるらしく、それに向けて勉強を進めないといけないそうなので、参加したのはポリリズム君、そして句会に始めて参加するふっちゃんのみでした。
句会ではなかなか目立った活躍はできませんでしたが、初参加だったふっちゃんには良い経験になったんじゃないかなぁ?と思います。

・・・とまぁ、そんなこんなで今月も琴似工業高校文芸部は大活躍でありました。
個人的には、そろそろライバル的な学校が参加して欲しいなぁと思う今日この頃。 確かに大人の中に混じって句会に参加していれば勉強にはなるけど、やはり同年代のライバルが傍にいないと、競争心ていうのは育たないんじゃないかなぁ。『アイツには負けたくねぇ!』みたいな。文学の世界でもネ。
そこで『ちょっとウチも参加してみたいな・・・』なんて思ってる学校さんいましたら、お気軽にitak事務局までメール下さいね。部活していない個人の参加だって待ってるよ!見学だけでもモチロンOK!

ではでは今回はこの辺で。次回は詩の朗読会が君達を待ってるぞ!!


 
 
<文芸部顧問の佐藤啓貢先生の素敵笑顔>
 
このたびはたいへんお世話になりました。
感謝多謝です☆