2013年11月29日金曜日

第11回俳句集団【i t a k】イベントのご案内



第11回俳句集団【i t a k】イベントのご案内です。

俳句集団【itak】事務局です。

年用意の季節となりました。日は短く、寒い日が続きます。
第10回朗読会・句会には37名のご参加をいただきました。
お忙しい中のご参加、ありがとうございました。

下記内容にて【itak】の第11回イベント 講演会・句会を開催いたします。
どなたでもご参加いただけます。
今回は作曲家・音楽研究者 久保田翠さんによる音楽の企画を準備いたしました。新年早々ではございますが多くの方々のご参加をお待ちしております。
各賞受賞祝いと新年会を兼ねた懇親会のご用意もございます(実費)。文芸・芸術談義に花を咲かせましょう。

なお1月のイベント会場は札幌市資料館に変更となっております。お間違いになりませんよう、お気を付けてお運びください。


日時:平成26年1月11日(土)13時00分~16時50分
場所:「札幌市資料館」2階 研修室
      札幌市中央区大通西13丁目

      http://www.s-shiryokan.jp/
      TEL:011-251-0731


■プログラム■

第一部 講演会

『音と言葉 ~うた作りの現場から~

 講演 作曲家・音楽研究者 久保田 翠

        言葉に音がつき、うたになる。リズムが反復し、時間が生まれる。
        金子みすゞの詩に作曲する中で考えたこと、感じたこと。
 
第二部 句会(当季(冬・新年)雑詠2句出句)
 
<参加料>
一    般  500円
高校以下 無  料  (但し引率の大人の方は500円を頂きます)
※出来る限り、釣り銭の無いようにお願い致します。
※イベント後、懇親会を行います(実費別途)。
  会場手配の都合上、こちらは事前のお申し込みが必要になります。
  会場および会費など、詳細は下記詳細をご覧ください。


■イベント参加についてのお願い■

会場準備の都合上、なるべく事前の参加申込みをお願いします。
イベントお申込みの締切は1月8とさせて頂きますが、締切後に参加を決めてくださった方はどうぞ遠慮なくこちらのメールにお申込み下さい。

なお札幌市資料館も会場に余裕がございますので当日の受付も行います
申し込みをしていないご友人などもお連れいただけますのでどなたさまもご遠慮なくお越しくださいませ。

参加希望の方は下記メールに「第11回イベント参加希望」のタイトルでお申込み下さい。お申し込みには下記のいずれかを明記してくださいませ。

①講演会・句会ともに参加
②第一部講演会のみ参加
③第二部句会のみ参加(前日までにメール・FAXなどで投句して頂きます。)

特にお申し出のない場合には①イベント・句会の通し参加と判断させていただきます。

■懇親会詳細と参加についてのお願い■

会場:ホテルさっぽろ芸文館
    札幌市中央区 北1西12 (旧厚生年金会館) 011-231-9551
   http://www.sapporo-geibun.jp/index.html
   
時刻:17:30~19:30
会費:5000円(飲み放題つき)
   ※当日キャンセルはキャンセル料を申し受けます
定員:60名(先着順・可能な限りキャンセル待ち対応をいたします)
 
新年早々でもありますのでこの懇親会は新年会と、各種受賞祝いを兼ねて行います。ご都合が合わずイベントにご参加いただけない方々のお申し込みもお受けいたします
ご遠慮なくお申込み・お問い合わせくださいませ。

ホテルの準備の都合上、こちらは必ず事前のお申し込みをお願いします。
懇親会申し込みの第一次締切は12月20日とさせて頂きます。以降はお問い合わせください。
参加希望の方はイベントお申し込みのメールに④懇親会参加とお書き添えください。

itakhaiku@gmail.com

ちょっとでも俳句に興味ある方、今まで句会などに行ったことのない方も、大歓迎です!
軽~い気持ちで、ぜひご参加ください♪
句会ご見学のみのお申込みもお受けします(参加料は頂戴します)。





札幌市資料館へのアクセス

※札幌市営地下鉄東西線
 「西11丁目駅」1番出口より西へ徒歩5分
  
路線図・時刻表札幌市交通局

※JR北海道バス・北海道中央バス
 「北1条西12丁目(旧厚生年金会館前)」下車南へ徒歩2分
 
路線図時刻表JR北海道バス) / 時刻表北海道中央バス

※駐車場はございません


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2013年11月27日水曜日

五十嵐秀彦第一句集『無量』から ~平 倫子~

五十嵐秀彦第一句集『無量』から

――寺山ワールドという通過点――
                      平 倫子

 


手に馴染みやすいフランス装の本である。今年1月のitakの会で、山口亜希子さんにお会いして、魅力的なお人柄と豊富な話題に引き込まれたのだったが、その方が書肆アルスの編集者で、五十嵐さんの句集の発行人でいらした。

 

五十嵐さんにはじめてお会いしたのは1999(平成11)年9月、北海道の「藍生はまなす句会」に旭川から参加されたときだった。それ以来「藍生」と「はまなす句会」と、そして最近は俳句集団【itak】でご一緒させていただいている。

 

『無量』を一読したとき、つぎの三句が立ち上がってきた(括弧内はページ)。

 

  かたくりや希望は別の名で咲きぬ(25

  自転車に青空積んで修司の忌(27

  五月雨や父なきときを母とゐて(104)

 

そして繰り返し読むうちに、これらの三句がわたしの中で鍵句になって定着した。以下はそのことをふまえた試し読みである。

 

1.「自転車に青空積んで修司の忌」、あるいは寺山ワールド

 

この句は2002(平成14)年5月に「はまなす句会」に投句され高得点句だった。五十嵐さんが寺山修司に強い関心を持っておられるのを知ったのもこのときである。同年「藍生」8月号の<選評と観賞>欄で黒田主宰が、若い世代が寺山の世界を受け継いでゆく、と注目しておられた句であった。

この年北海道文学館では、寺山修司の特別企画展「テラヤマ・ワールド きらめく闇の宇宙」があり、4月20日の山口昌男と九條今日子のトーク・セッションにはじまって、夏まで文芸セミナーや映像作品鑑賞のイベントが続いていた。

その後五十嵐さんの寺山研究はどんどん進み、深められ、2003年には「寺山修司論」で現代俳句評論賞を受賞され、いまや寺山修司研究のエキスパートとして知られている。

 

『無量』を読んで、いままで句会や会誌「藍生」で目にしていた同じ句が、句集のなかでは異なる色や光を放っていることを知った。五十嵐さんが寺山の土や空を共有しておられることが確認出来たのも句集になってこそであった。

 

  自転車に青空積んで修司の忌

  街角を曲がる角度で冬に入る

  露寒やどこにも行かぬ日の鞄

  古里の母音の空の花芒

  下駄なんか履いてゐる人ほととぎす

  その細き身をその旗として夏野

  大寒や人は棺を空に置く

  悼一句寒の日の透くセルロイド

  沫雪やわれらと呼ぶに遅すぎて

 

2.「五月雨や父なきときを母とゐて」、あるいは喪の仕事

 

五十嵐さんはいつか「自分はさびしがり屋だ」といわれたことがある。そこが五十嵐さんの優しさを裏付けていると思う。読み返すほどに、お父上の晩年に寄り添って多くの句を詠み、また喪の仕事(平成216月父上を亡くされた)としての悼句をあのようにたくさん詠まれたことに、五十嵐さんの優しさがにじみ出ている。寺山の若書きの句「林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき」や「父と呼びたき番人が棲む林檎園」の肉親への心情にもつながるのではないだろうか。

 

  こときれてゆく夕凪のごときもの

    肉塊の淋しき西日射す柩

    五月雨や父なきときを母とゐて

    魂ひとつ青野に還す血曼荼羅

  冬の日のなほあたたかな時を病む

  新涼のふたり分け合ふものすこし

  緘黙の父に行き合ふ虫の闇

  幻影となり父の声雪の声

  咳こぼすひとりの刻をひろびろと

  窓ぬぐふ人惜しみ年惜しむとき

  父は去り母は冬日の遠汽笛

  生国は雪生むところ海と山

  母老いて姉また老ゆるつつじかな

 

3.「かたくりや希望は別の名で咲きぬ」、
       あるいは「意味か?音か?」

 

 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に、公爵夫人がアリスにむかって「意味に気をくばりなさい。そうすれば音はおのずから決まってくるのです」(第9章)というところがある。これは英語の格言 ”Take care of the pence, and the pounds will take care of themselves.” (日本では「一円を笑う者は一円に泣く」で知られる)を、キャロルがpの一字をもじってsensesounds にした言葉遊びである。キャロルの意図は、事がらを表現するための方便として、センス(意味・内容)を上位に、サウンド(音のひびき)を下位に見立てているのでる。

 

  かたくりや希望は別の名で咲きぬ

  不可知なる言葉すずらんなどと呼ぶ

  

この二句を見つけたとき、五十嵐さんは若い頃詩を書いておられた、と伺ったのを思い出した。そして五十嵐さんは、まさにキャロルの代弁者だと思って嬉しくなった。「かたくり」や「すずらん」という音のひびきが、それぞれの花の意味・内容を表していない、つまり「名が体をあらわしていない、あるいは逆に、体が名にそぐわない」というのである。その言い分が愉快だった。

黒田主宰は『無量』の序文の冒頭で「五十嵐秀彦。いい名前だと思う」と書いておられる。とても合点がいく。

 

このようにみてくると、『無量』の大半の句はお父上への哀悼の思いと深く結びついていることに気づいた。生国、先祖、信仰、死後の世界、へとひろがって、その延長線上に五十嵐さんの新しい折口信夫研究や中上健次研究があると思った。



☆平 倫子(たいら・くみこ 俳句集団【itak】幹事 英文学者)


(2013年8月24日のブログ記事を再掲)


2013年11月25日月曜日

五十嵐秀彦句集『無量』書評 ~山田 航~


五十嵐秀彦句集『無量』書評
山田 航
 

・・・冬と無常と断絶と・・・

 

 冬の句が多い句集だ。そして無常感と諦念に満ちている。著者は札幌市在住、一九五六年生まれの俳人。俳誌「藍生」と「雪華」に所属している。「雪華」の同人となった一九九七年以降の、十五年間の作品を収録した第一句集が本書である。序文は黒田杏子、跋文は深谷雄大、帯文は吉田類が寄せている。

 北海道という環境が冬の句を多くしているというのは、確かにあるだろう。しかしこの句集には「寒さ」だけではなく「苦さ」もある。敗北の季節としての冬が描かれ続けている。〈氷下魚裂くつまらぬ顔は生まれつき〉〈氷柱折るときなにものか折られけり〉〈指切りをするたび失せし雪をんな〉〈沫雪やわれらと呼ぶに遅すぎて〉いずれも果たせなかったことへの無念に満ちた句だ。かつて何か大きな夢を諦め、断念した。その思いが、彼の句に「冬」を呼び寄せているのかもしれない。

 句集のタイトルである「無量」は仏教用語から来ており、無限の意である。この他にも仏教関係の言葉を用いた句が散見される。〈一代の咎あれば言へ沙羅の花〉〈伝行基観音冥き秋時雨〉〈眼球の無量遊行の十三夜〉〈半跏坐のままや冬日を身に入るる〉しかし著者は別に仏教哲学に深い知識を持っているわけではないという。しかし、冬の句の詠み方にとりわけあふれている諦念が、仏教の無常観と親和性があるのは確かである。自らの無念や敗残の気持ちも置き去りにして、時間はひたすら過ぎ去ってゆき、すべてを無へと変えてゆく。そのはかなさへの共鳴が、句集全体の通奏低音なのだろう。

 著者の文学体験の原点は寺山修司である。しかし北海道に生まれ育った著者には、寺山がその世界の背後に抱えていた「東北」という巨大な体系がない。『田園に死す』などで描かれた前近代的なムラ社会の奇怪さは、いわば「日本」そのものの原始的な姿を浮き彫りにしようという試みだったが、北海道ではその深淵へは近付けない。結果として、この句集は「断絶」の気配に満ちている。ページをめくったらいきなり白紙があらわれて終わりとなってもおかしくないくらい、一句一句が屹立し、世界を断ち切ろうとする。きっとそれが著者なりの、北海道という世界に対する回答なのだ。〈蝶有罪あるいは不在雨あがる〉〈わが視野を石狩と呼ぶ大暑かな〉北海道の向こう側には、ひたすら風の吹く荒野しかない。しかしそれを引き受けることが、俳句という詩型の本質である「断絶」に、一層の強さを与えている。
 
 
(2013年9月5日 北海道新聞 夕刊に掲載)


☆山田 航(やまだ・わたる 俳句集団【itak】幹事 歌人)

2013年11月23日土曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~橋本 喜夫~

句集『無量』の一句鑑賞
橋本喜夫

 わが視野を石狩と呼ぶ大暑かな    五十嵐秀彦


『無量』を通読して、感じたのは従来五十嵐氏の俳句に付き纏っていた現代詩的な難解さはイメージだけが先行していたということだ。共感した佳句が多く、そのどれもが難解さなどは感じられず、むしろ「手練れ感」があることだ。もしかして、「手練れ」と評すると作者本人が一番嫌うかもしれないが、季語の選択、言葉の選択力どれをとってもうまい俳人である。作者本人が持っているリリシズムと作者が選んだ師二人の好影響もあるのだと思う。さてたくさんの佳句のなかからあえてこの句を抽出した。作者は仕事上、転勤族であったが、おそらく終の住み家を石狩の地に選んだのではないだろうか。もしくは自分の住んでいる場所あるいは地域をあえて「石狩」と呼びたかったのだろう。さて「石狩」という固有名詞はどういうイメージを持つであろう?広辞苑の記載を借りれば「北海道もと11か国の一つ。1869年国郡制設定により成立。現在の石狩、空知、上川支庁の地域」とある、つまり広大なイメージである。「石狩平野」という地名も想起され、広大なイメージが湧く、「視座」とせずに「視野」としたところも、そのイメージを助長するのだ。作者は高い位置から石狩平野を望んでいたとする。いま自分の見下ろす視野は石狩という広大で肥沃な平野であり、そのような広い視野を自分も持ちたいと望んでいるのであろう。そこで選択した季語が「大暑」。二十四節気の一つで、太陽の黄経が120度のときで、太陽暦では7月22日頃に当たり、暑さが最もきびしい頃である。つまり、大暑という季語を暑さが最もきびしいというイメージではなく、「もっとも巨大な暑さ」という捉え方をしたのである。つまり温度感覚を、空間感覚にイメージ転嫁させて使用している。大暑という季語を石狩という固有名詞でメタファーしたことにより、もちろん厳しい暑さではあるが、広大で、すがすがしく、肥沃な季語として読者は感じ取ることができるのだ。もちろん、自分の視野を石狩と呼んだことで、今後の作者の人生観や、終の住み家まで想起できる作り方である。掲句は時候の季語である「大暑」を用いて、石狩の大景を詠んだ秀句であり、しかも作者みずからの来し方と行方(未来)をも彷彿させる大きな句柄の作品になっている。
( 雪華誌より転載 )
 
☆橋本喜夫(はしもと・よしを 俳句集団【itak】幹事 銀化・雪華)
 
 

2013年11月21日木曜日

【itakスタッフ】野良猫リポート#8 来なかったらどうしよう?の巻


11月9日・猫的にはもう無理な気温ですー



*今回もナイスパンダちゃんズ*
 
前回はとても良い研究発表をしてくれた高校生諸君、ありがとう。就活・テスト、お疲れ様です。
今回はいつまでたっても先生からのお申し込みがないとかで、「え?燃え尽き症候群?若いのに?」とか人間たちは目茶苦茶心配していたみたい。猫的には「なるようになるにゃ」だけどさ。
ともあれ無事に3名が参加してくれたので、幹事さんズも一安心。今後ともよろしくお願いします。

句会ではFちゃんの「寒空に子供の声と早い闇」が詩人・矢口以文さんの天を、P君の「『とくダネ』や湯呑片手の生姜湯か」が三国真澄さんとK君の天を見事にゲット。
K君の「秋寒の風が染み入るシャッター街」はP君が人に採っていました。
評や披講の時におもしろかったのはやっぱり『とくダネ』という番組名の辺りだったかな。
野良猫さん的には「稲妻のできそうにないバック転」が好きでした。キャッと空中三回転にゃんぱらり。点は入っていなかったんだけどね。

彼らの選句はこんな感じ。

「団栗を拾ふ賢治の夢に逢ふ」 「立冬の午後コーヒーを深く淹れ」
「たべすぎとおやすみは似て夜長かな」 「トーストに檸檬クリーム冬に入る」
「すれ違ふ犬の後から冬来る」 「老いた手やあふるるほどの蜜林檎」
「『とくダネ』や湯呑片手の生姜湯か」 「秋寒の風が染み入るシャッター街」

そうね、句会はおやつの時刻。食べ物飲み物系いっちゃうか(^^

人数も多い句会でなかなか簡単には点が入らないかもしれないけれど、まずは参加して投句してみて、皆さんの句を読んでいっぱい勉強して帰りましょう♪
もうすぐ冬休み、宿題はたくさんあるだろうけれど、いっぱい句集を読んで楽しみながら勉強してくださいにゃ。


                          △  △
以上野良猫がお送りしました。(=ΦωΦ=)



※高校生の句に対する句評や、高校生の選評に対するご意見などは、【itak】事務局で随時お受けしております。明日の我々の生きがいになるかもしれませんよ、ご遠慮なくお知らせください。
明後日よりしばらくは、句集『無量』の一句評をシリーズでお送りします。




2013年11月19日火曜日

俳句集団【itak】第10回句会評 (籬 朱子)



俳句集団【itak】第10回句会評
 

2013年11月9日


籬 朱子(銀化)
 
 
第10回の句会は37名の参加、74句を投句頂きました。今回は五十嵐代表の不在を受け、「第10回を終えて」を橋本喜夫、「句会評」を籬朱子にティルトします。ご高覧ください。


           か げ
 天井に水光ゲあそぶ新豆腐   草刈勢以子


<水光>という美しい日本語に出会って先ず心惹かれた。
町の豆腐店はこの頃みかけなくなったが、油で黒ずんだ古い天井の記憶が蘇ってきた。
新豆腐というと私などはついつい其のもの自体に目がゆくが、些か遠いところからその目出度さに触れている所が何とも奥ゆかしい。

 

 初雪や神の骨より白きもの   三品 吏紀

 
<神の骨>とは思い切った私的な措辞である。
見たことは無いけれど、それであれば曇り無く純白で無ければならない、と思わせる。
しかし、それよりも白く穢れないものが初雪だという。
初雪を最上級に讃える句になった。

 

 リップクリームひねれば冬のせり上がる   栗山 麻衣

 
<冬のせり上がる>とはリアルな表現だ。
こんな小さな化粧品(薬品?)の動きから冬を目測している感性が実に柔らかい。

 

 枯草に足を取られて風もがく   矢口 以文   

 
作者が枯草に足を取られた、と思って読み進むと下五の<風もがく>ではっとする。
これは風の足であったのかと。詩的な面白さがある。
俳句には出来るだけ擬人法を使わないように、という意見もあるが、全てを否定してしまうと名句の幾つかは消えてしまうことになるのでは。

 

 稲妻にできそうにないバック転   宮川 双葉

 
稲妻は稲光のこととすると、あの剣のような直線(ギザギザ)の光が曲線になることはあるのかしら。それがバック転になるなど、ますますあり得そうもない。
あり得ないけれども、なんだか面白い発想だ。

 

 立冬の午後コーヒーを深く淹れ   林  冬美

 
中七の<午後コーヒーを>という措辞がこの句を素敵にしている。
立冬になったという事実も午後になれば少し馴染んできて、コーヒを飲む作者に心のゆとりも生まれる。深くはゆっくり冬を受けとめている姿と、コーヒーの濃い色合いも思わせる。

 

 三島忌やノイズにまみれたるラジオ   橋本 喜夫

 
およそ近年の作家の忌日として三島忌ほど捕らえどころのない忌日はない。
その著書の数冊を読んだぐらいでは、彼の最後の行動の説明は付かない。
三島と長い親交があり、彼の英訳を担当していたドナルド・キーン氏でもその死の知らせを受け取って「思いもよりませんでした・・。」と言うのだから。
しかし、ドナルド・キーン氏はその全集で「彼の死は、ある特殊な美学に捧げられた人生が必然的に行き着いた極点である。」という言葉を記している。
この句の作者は、ラジオをマスメディアの一つの象徴として、大方の三島への批評を“ノイズ”と感じたのかもしれない。
三島忌はやたらに健全で明るすぎなければ、どんな措辞を持ってきても句が響いてくる。
実にエニグマチックな忌日(季語)である。

 

 トーストに檸檬クリーム冬に入る   三国 真澄

この句は食卓の朝の景。軽いトーストに爽やかな檸檬クリームの香りが広がる。
肩の力を抜いて冬に入る、この明るさも快い。

 

 金属に純度ありけり雪来る   高畠 葉子

 
色々な金属に囲まれて暮らしている私達の日常。それぞれ金属に固有の純度がある。
そんな、日頃気にならない事も、<雪が来る>という温度と色彩の変化で気付かされる。新鮮な視点だ。

 
 望月やガントリークレーン静かなる   鍛冶 美波

 
ガントリークレーンとはコンテナなどを上下に持ち上げる時に使われるクレーンの事(純子さん曰く)と教えて頂いた。
クレーンというとあの首の長い鉄の支柱のような機械を思い浮かべるが、背丈の低い無骨なクレーンと望月の取り合わせも面白い。<静かなる>に安定感がある。

 

 すれ違ふ犬の後から冬来る   小笠原かほる

 
散歩をしていると、良く犬を連れている人に出会う。品評会のように色々な種類の犬とすれ違う。
人間よりもその犬とすれ違う時に、ふっと冬の到来を感じた作者。
動物が纏う季節の気配があるようだ。

 

 立冬の癖字アリバイめいて浮く   青山 酔鳴

 
癖字がアリバイめいて浮くというのは、その癖字に余程インパクトがあったのだろう。ミステリーの一場面のようで面白い。その癖字によってその人の存在を示してしまうほどの強さを持つということ。
季語の<立冬の>を、<立春の>とか<立秋の>などと入れ替えてみると中七下五が生きてこないということが、良く分かった。

 
 小六月にはか床屋のお母さん   田口三千代

 
こういう光景は今もあるのだろうか。
私が子供の頃は各家庭に髪切り鋏あって、縁側か何かに座らせられて髪を切って貰うということはあっただろう。
遠い日の温かく懐かしい景が見えるようだ。

 

 枯姥百合種からつぽにする遊び   久保田哲子

 
姥百合は結構背の高い植物である。
種から百合のような清楚な花を咲かせるには何年もかかると習った。
振ると種が散る、この遊びは作者がしたのだろうが、この季節の気紛れな風雨によってもあの種は、遙か彼方まで飛び散ってゆくことだろう。

 

 薬飲むための軽食冬はじめ   及川  澄

 
軽食。そんなに食欲をそそるわけではないけれど薬のために軽く食べておく。
そんな意識を持つことも冬に向かう人の心の準備と言えるのではないか。

 

 白鳥に呼ばれしやうに振り仰ぐ   内平あとり

 
雪が降る前の夜空、白鳥の編隊が南を目指す。そんな光景に今年も何度か遭遇した。
何処から声がしたようで振り向いても誰もいない。そしてこの句の下五の<振り仰ぐ>という行為が自ずから生じる。
人の声の高さに、白鳥の声は似ているのかもしれない。

 

 綿虫に寸法のあり小中大   平  倫子

 
綿虫に寸法があるという発見が楽しい。それは全くその通りなのだ。
さらにこの句がユニークなのは、大中小としないで小中大としたことだ。
「こんな小さな綿虫が・・・」と思っている内に
「あら、もう少し大きいのが来たわ。」と思っていると
「こんな大きい綿虫も!良く飛べるものねぇ・・」
という作者の賛嘆の声が聞こえるようだ。

 

 風花やたしか腰椎すべり症   久才 透子

 
風花の心許なさを、<たしか>という曖昧な副詞で始めて、すべり症という病名なのか何なのか、ちょっとやふやな名詞で受けた。それが絶妙にフィットしている。
曰く言い難く俳諧味のある句。
 


以上です。橋本氏とは一味違う句会評、いかがでしたでしょうか。
みなさまのコメントをお待ちしております (事務局)