2018年5月31日木曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(4)」第35回イベント抄録


HAIKU-DRUNKERAS~俳句のイマを飲み干す~

(2018年1月20日 北海道立文学館にて)


五十嵐秀彦 今回は座談会。瀬戸優理子さん、栗山麻衣さん、橋本喜夫さん、司会の私ということで、座談会をさせてもらいます。タイトルは「HAIKU-DRUNKERAS~俳句のイマを飲み干す~」という大変適当なタイトルをつけました(笑)。あまりタイトル自体には意味はないかと思います。俳句というものは、作家それぞれが自分の個性を発揮する文芸ですから、そういうものではあるんですけど、俳句に限らずあらゆる表現手段は、いつも何かしら時代を映しているところがあろうかと思います。俳諧が始まった室町時代から、江戸、明治、大正、昭和、平成と、それぞれ個性的な作家が登場している中でも、背景には時代というものが常にあったのではないか。そういう意味で、今、現在の俳句というのは、どういうところにいるんだろうか。そういうテーマで、ここに集まっている4人にそれぞれ5人の5句を選んでもらいました。それを肴にして、話を進めていく。おちのある座談会じゃありませんので、結論は出ないと思いますが、何かしら、今の俳句の姿が見えてくるのではないかということで、やらさせてもらおうと思います。じゃあ栗山さんからお願いします。

栗山麻衣 いまご紹介いただきました栗山です。レジメの左下に書いてありますが、銀化で俳句をやっています。いろんなタイプの人がいた方がいいのかなと思って、軽く引き受けちゃいました。自分なりに今を感じる俳句を選んでみました。最初、どうやって選ぼうかなぁと思ったんですけど、気になった俳人とか、自分がいいなと思った俳句について、あんな人いるな、こんな人いるなと考えているうちに、でも、じゃあこの人はこの系統かなって自分の中で分割してみて、それぞれに特徴的な人を挙げたつもりです。順番に説明したいと思います。

 一番最初が、「子燕の母呼ぶ頸の抜けさうな」。津川絵理子さんという俳人です。季語のバトンの継承者、いわゆる角川俳句賞的な王道の俳句を詠んでいる人だと思います。だけど、王道だからといって、すごく格式高くて、わかりにくいかというと、結構笑っちゃうような句も、かわいい感じ句もいっぱいある感じです。私、この人の句を読んでみて、びっくりしたのは、これまで結構いろんなものが詠まれているので、もうそんなに新しい視点ってないだろうと思ったんだけども、意外にまだまだ見落としてることってあるんだなということ。こういう句があることで、次世代の人もさらに季語の深みを知っていくんじゃないかなと思って、選びました。
 次は「南から骨のひらいた傘が来る」。これは鴇田智哉さん。今年49歳になるんですが、前衛にして王道と書いたんですけども、今年の俳句年鑑で櫂未知子さんは「(私には)わからないが、若いかたがたの一部はじゅうぶんわかっているようだ」とはっきり言っています。ただ、マネができないことはわかるとも言っていて。どんな人かなと思って読み始めたら、私は結構はまりました。前衛にして王道、伝統を踏まえた上で、俳句の安定感を疑い、季語文法の解体、そこに残る詩を試みている。俳句の辺境を発掘、広げていると思います。この人はもともと有季定型の俳句に学んでるんですけど、それをやっていくうちに、どんどん飽き足らなくなって、どんどん自分なりの俳句ならではの言葉だからこそ、できる芸術を追求している人だと思います。「南から骨のひらいた傘が来る」は、無季なんですけど、基本は有季定型です。この句を選んだ理由は後で話したいと思います。
 3番目は、大御所、正木ゆう子さんの「尋常の死も命がけ春疾風」。正木さんは、昨年の蛇笏賞受賞者で、大ベテランです。読売新聞の俳壇選者もやっています。昔はすごく柔らかな女性らしい感性の句を創っている印象でしたが、だんだん社会的になっているように私は感じています。巫女のような感じから人間になっている感じがしています。この句については震災があって、尋常ならざる詩が誰の頭にもある時代の中で、とはいえ、普通に病んで死ぬこともすごく大変なことだということを、改めてさっくり詠んでいます。今の時代っぽいし、真摯な俳人だと思って選びました。
 4番目は巫女感をさらに深めた、今90歳になる柿本多映さんです。この人は割と観念的な句が多くて、賞もいっぱいとっています。好き嫌いは結構わかれると思いますが、私は好きです。一番最近の句集から「起きよ影かの広島の石段の」を選びました。これも今の時代だからこそ、社会派っぽいんですけど、広島の原爆について、改めて詠もうというところに彼女のまじめさというか、戦争を知っている世代ならではの重み、かといって、スローガンにならないすごさを感じます。読めば読むほど、この人は死んでからも句が創れるんじゃないかと。妖怪っていうとちょっと悪いんだけど(笑)、すごくおもしろいというか、魔女というか、すごいおばあさんだなぁと思っています。
 最後は、自分が学ぶというと年上の人に目がいきがちなんですけど、がんばっている若い人をと思います。震災つながりで、「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」を発表した福田若之君。若之君って、私知らないのに気楽な感じで呼んでますが(笑)、素敵な人だろうと思います。彼が去年句集を出していて、句集のあり方もおもしろいんですけど、「ヒヤシンスしあわせがどうしても要る」は20114月にインターネットで発表された句です。当時、私も仕事で東京に住んでいたんですけど、このままどうなるんだろうかとか、原発事故もこのまま収束しないんじゃないかとか、そういう不安がありました。そうした中で、こういうふうに詠めたのは彼の切実さと、俳句をちゃんとやっていながらも写生句だとか、津川さんのように王道にとどまらないで違う表現がないか普段から考えてたからだと思います。若いんだけど、すごくあり方も今っぽいなと思ったので選びました。以上です。
 
瀬戸優理子 句を選ぶときに「俳句のイマを飲み干す」というタイトルだったんですけど、平成的な俳句というオーダーがありました。私自身が俳句を始めたのが平成7年で、今平成30年ですから、平成俳句をほぼ一応は見てきていると思うんですが、その中でも今っていうのは多様性がいろいろあって、自分なりにカテゴライズしながら選んだつもりですけど、橋本さんからは「好きな句ばっかり選んでるよね」って言われて。
ということで1句目は、金原まさ子さんの「ああ暗い煮詰まっているぎゅうとねぎ」。こちらは『カルナヴァル』という著者の第4句集なんですけど、100歳になってから出された句集で、「徹子の部屋」にも出られたことがあるので、俳句をやっていない方でもご存じの方がいるかと思います。俳句の外の世界に対しても訴えかける力を持つような句を作ってるところで注目をしたいと思って、入れました。やっぱり100歳と高齢なので、基本的には外出されないで創られた。いわゆる活字やニュースから、短い単語をキャッチして、俳句にするのが好きです。その言葉遣いが私のリズムだと、『徹子の部屋』に出られたときにおっしゃってたんですけど、そういう机上派ではあるんですけども、やはり十七音になるときには、ご自身の体験とか、そういうものと言葉がリンクして創られているので、ものすごく映像化もしやすいような、俳句を創られていると思います。これは実は震災の年の320日ぐらいの「週刊俳句」というインターネット上に発表された句でもあるんですけど、詠んでいるのはお鍋のことだけど、ちょっと混沌とした時代背景も写しながら詠まれているのかなと思いました。
2句目も震災絡みにはなってしまうんですけど、照井翠さんの「龍宮」から、「泥の底繭のごとくに嬰と母」。いわゆる昭和の日本人が共通に背負った不安気な感じで、戦争を詠むということが一つの昭和の俳人の大きなテーマではあったかと思うんですけど、それを平成という時代に写したときに、東日本大震災も、神戸の震災もありましたし、日本人の中でいつ戦争以外に何が起こるか、戦争以外でもあしたの命がどうなるのかわからない、ましてや映像でものすごい津波を見て、自分の今の平穏な暮らしがどうなるのかわからないというようなものを、根底に持ちながら、どこか表現に対しても不安感や不透明さが無意識のうちに反映されているのかなと思って挙げました。ただ、照井さんは東北の方ですから、実際に被災を見て句を詠んでいるわけです。高野ムツオさんの、震災詠が有名ですけど、女性の視点からより共感性の高い句を書かれている。私も女性なので非常に詠み方としては視点の置き方が好きだなと思って挙げさせていただいた句です。
3番目が、北大路翼さんの『天使の涎』から、「マフラーを地面につけて猫に餌」。金原さんもそうなんですけど、割と俳壇の中心というよりもちょっと外側にいるような人の句が、私が割と注目しているのが多いので、北大路さんは結社には所属はされていますが、新宿歌舞伎町で俳句バー〈砂の城〉をやりながら、ここに集ってくる若者と句会をやったりしながら、きれいなものとか美しいものだけを詠むんじゃなくて、人間の持ってる影の部分や闇の部分を俳句にしていてもいいんじゃないかという考え方で仲間をつくってやっています。挙げさせていただいた句は、歌舞伎町色はそんなには強くないふうなんですけど、やっぱり結社でやられているので、きちんとした句も書けるんですよね。私はどちらかというと歌舞伎町色が強いものよりは、こういう視線が弱い者とか、下の方に向けられてるような、照井さんもそうだと思うんですけど、そういう視線の置き方が割と平成っぽい句じゃないかなと思って選びました。
4番目が田島健一さんの『ただならぬぽ』で、「白鳥定食いつまでも聲かがやくよ」。ただならぬ句集なんですよね。季語のない句もたくさんあるんですけど、やっぱり今まで見てきた俳句と違う。「白鳥定食」の句は、『新撰21』っていう若手のアンソロジーが何年か前に出たんですけど、その中にある句で、白鳥なのか定食なのか、何の声が輝くのか、わからないなりにも、やっぱり一句から受ける実態感っていうのがとっても薄いんだけれども、白鳥定食、声がきらきらしている、そういうまぶしい感じの、切ないような景色が浮かんでくれば、言葉の魔術感っていうのがすごいなと。なかなかまねするのも難しいし、まねすると火傷をする創り方だと思うんですけど、一つの平成らしい句ということで挙げてみました。
最後に、割とやんちゃな感じの句が続いたので、俳人協会系の句から一つ。藤井あかりさんの「落葉道二度聞きとれずもう聞かず」。若者らしい人間関係の距離感っていうのが、聞きとれなかったら、普通聞くでしょって思うんだけど、もう聞かない自分の中で完結しちゃうっいうところが、今どきのコミュニケーションの断絶というか、象徴的な感じがしましたので。やっぱり読後感として明るく創る句っていうのが好まれる傾向にある。実際ある時代もあって、そういうものが多いと思うんです。だけど、藤井さんの場合はどちらかというと暗めというか、陽と陰でいえば陰の方の俳句を詠んでいらっしゃるところでも個性的かなと思って、注目しているので挙げさせていただきました。

 橋本喜夫 今回のテーマは、平成の俳句を語ろうよっていうことなんですよね。だから平成の今、これから未来を通してわかるような形で、もしみなさんが読むのであれば、2008年に出た小川軽舟の『現代俳句の海図』というのがある。そこに昭和30年代生まれの作家10人の評論が書いてある。中原道夫、正木ゆう子、櫂未知子、片山由美子、三村純也、岸本尚毅、長谷川櫂、小澤實、石田郷子、田中裕明。全部、今、俳壇をリードしている人たちばかりです。それに本人。
それと2冊目が『新撰21』。これは筑紫磐井、対馬康子、高山れおな編で、2009年に出ています。40代以下の世代のアンソロジーで21人全員きょう出ています。やはり今を、未来を押さえている俳人だと思います。
3冊目が2010年に出た『超新撰21』。これは3人のもうちょっと5歳から10歳ぐらい年取った、今現在俳壇の中枢にいる人たちですね。大谷弘至、田島健一、榮猿丸、小川軽舟、上田信治とか入ってる。
4冊目が昨年出た『天の川銀河発電所』。これはおそらく佐藤文香個人の好みによる『新撰21』バージョンです。この4冊を把握していれば、平成の俳句は大体見えてくる。
私が5人を選んだ理由はそこ(レジュメ)に書いていますので、それを読んでいただければ、私としてのコメントはすべてです。また、例によって、それぞれの俳句の橋本喜夫の独善口語訳をつくってきましたので、それを読んで、私の部分は終わりたいと思います。
「一瞬にしてみな遺品雲の峰」。櫂未知子。お母さんと私は決して仲の良い親子とは言えなかったかもしれないけど、最後の頃はずっと東京から看病に来れて、私も娘として少し気が済みました。死んでしまうということは一瞬のことで、母さんの残した細々としたもの、古くなった家、そして私たち娘たちの立ち振る舞いも含めて、一瞬で遺品になってしまうのね。今私は海の向こうに立つ雲の峰を仰ぎながら、魂が抜けたように呆然としているだけですよ。
「船のやうに年逝く人をこぼしつつ」。矢島渚男。川の流れを、時の流れを、川に例えれば、人間は船に乗って時間という大河を旅する旅人のようなものだ。今年も大河をゆく船は、年末という時間の堰を切って、新しい年へと渡っていくのだなぁ。今年はまた随分多くの死者たちをこぼしてきたものだなぁ、この時間という大きな箱船は。
石田郷子。「来ることの嬉しき燕きたりけり」。これ一番内容がないので、口語訳も一番内容がないのですが。燕が来ると考えるだけで嬉しくなるのに、その燕がたった今来たんだわ。なんて嬉しいことでしょう。これで終わりです(笑)。
小川軽舟。「死ぬときは箸置くやうに草の花」。俺は静かに目立たずに、でも一生懸命生きてきた。人に指を指されるようなことは何一つしてこなかったつもりだ。死ぬときは食後に箸を置くように、ごちそうさん、ありがとう、おいしかったよ、という感じで静かに死んでゆきたい。そう、あの草の花のように。
最後、「人類に空爆のある雑煮かな」。関悦史。いやぁ、三日前の雑煮を温め直して食べてるとき、テレビをつけたら、まだやってるよ、空爆だよ。こんなに三日目の雑煮が美味しいと感じたことはなかったなぁ、俺。以上です(笑)。

五十嵐秀彦 橋本喜夫さんは独自の口語訳シリーズをいつまで続けるつもりなんでしょう(笑)。みんな楽しみにしてるから毎回やらなきゃだめですねえ。最後に司会の私。僕が挙げたのは必ずしも好きな句ではない。ただ、福田若之、中村安伸、田島健一、小津夜景、北大路翼ですね。この人たちに、ある種の共通点、それと違う部分、そして句集を創るというものの考え方の新しい姿、その辺りがこの5冊の句集に表れている。そういうものを選んだ。みんなここ12年の作品ばかりです。なので平成の俳句を読もうということではあったんですけど、同時に平成のといっても来年で終わってしまう。そういう中では次の時代を読むものという前兆は、すでに今ここにあるはずなので、この先のあり方をのぞき見るような5人の作家の5つの句を挙げた。

一つ目の「こおろぎのあたまのなかが濡れている」。栗山さんも選ばれた福田若之くん。26歳。どうしても同世代としては語れない。『自生地』っていう句集なんですけど、これまでの句集のイメージをまったく裏切るつくりになっていて、やたら散文が、散文というか断章がちりばめられています。それを26歳でこういう句集を出した。そこのところに新しい世界を、ものの考え方、作り方、進め方が感じられた。ただ、作品は、形はとても前衛的なものもあるんですが、非常に裏にあるものが優しくて繊細なんですね。ひょっとすると現代的なのかもしれないなと思いました。
次に、中村安伸さんの「サイレンや鎖骨に百合の咲くやまひ」。これも『虎の夜食』といったちょっと話題になった句集ですが、この人は橋本喜夫風にいうと、言葉派の人なんじゃないかなぁと。言葉から俳句を作るような気がします。この人も面白いことに、句集の中に俳句以外の文章がやたら入ってるんですね。俳人は俳句一本で勝負しろっていう人は、腹が立って破り捨てたくなるような。そういう意味で句集のあり方を問いかけている。ただ、福田作品と違って、なかなか不敵な雰囲気を持っている句を多く創られる方。全体を通して物語性の可能性にも挑戦しているということでとり上げました。
次に田島健一さんの「光るうどんの途中を生きていて涼し」。これは瀬戸さんも取り上げました。『ただならぬぽ』という、ただならぬタイトルの句集を出して、注目されました。かなり売れた句集だと思います。句集全体を通してですが、結構抽象的、観念的。あんまり具体的なことは書いていないにもかかわらず、注目を浴びた不思議な句集です。ここに挙げなかった人もどちらかというと似た傾向を示している。それは十七音の詩を書こうという意識を持っている人が強くなってきているように思います。良いか悪いかは別として。その辺りの象徴として田島健一がいるのかなぁと。
次に小津夜景の「オルガンを漕げば朧のあふれたり」。『フラワーズ・カンフー』っていう変わったタイトルの句集です。この人はフランスにいて、「」という攝津幸彦系の文芸誌に関わってますが突然現れて摂津幸彦賞をとっちゃった。なかなかすごい人ですが。なかなかややこしいです。句集なんですが、短歌もかなり入っているし、漢詩を俳句にリライトしたようなものも入っている。これも純然たる句集の体裁をとっていないという意味では特徴的なものであります。
最後に、「寝苦しき夜ニンゲンを売る話」。北大路翼。北大路翼はさっき瀬戸さんのおっしゃった通り、僕が挙げた5人の中ではちょっと毛色が違うんです。さきほど福田若之のところで、褒めているのか、けなしているのかと言いましたけど、そういう意味では北大路翼は非常にとんがっているというか攻撃的な感じで、今の若い人にこういう人もいるんだなぁということを思わせるものです。おもしろいことに北大路翼の『天使の涎』という句集も結構散文が入ってるんですね。その辺りもちょっとおもしろいなぁと思って。そういう意味でこの5人を選んだということです。
さてここから4人のパネリストの話を聞いていきたいと思います。麻衣さんは前も「震災と俳句」というテーマで講演をしてもらいました。今回もそういう意味で、震災後も気にしている。あるいは瀬戸さんも照井翠さんの句を挙げたり、震災というのは今現在の俳句の世界でそこに何かあるんじゃないのかなと思いますが、麻衣さんはどうですか。

栗山 瀬戸さんのレジュメに書いてあったと思うんですが、平成の日本人のトラウマは震災ではないか、と思うというのが、ああそうだなぁとしみじみ思うところです。あれだけの災害を映像で見たというのもあるし、身近に感じたというのもあるし、自分も揺れたというのもある。何も影響を受けなかった人は一人もいないと思う。それが大きく出るか小さく出るかわからないけれども、俳句でも小説でも何かしらの形でこれからも出てくるんじゃないかと思います。この中では、津川さんはあまり影響を受けていないような作風です。ただ、彼女も311で変化を受けたかと問われたという『俳句アルファ』って雑誌のインタビューで、意識には変化があったと言っています。彼女は、阪神・淡路大震災に直接遭ったみたいで、それも大きな衝撃だったようです。でも「自分とどう絡めて創るかはとても難しい」と明かしています。戦後70年についても、「戦争については主に本やテレビの内容でしか知り得ないと思っていましたが、近年になって亡くなった母のことを考えていて、戦争に行った母方の祖父の戦後の人生が母へ、母から私へと影響を与えていることに思い至ったことがあります。個人的な経験からしか言えませんが、戦争は過去の出来事ではなく、人はまだその影響を受け続けているのではないか、そう思っています。そういうことから私なりに向き合っていきたい」というふうに語っています。これは戦争だけじゃなくて、震災と置き換えても多分同じで、影響から逃れられる人は多分一人もいない。それをわかりやすく、今回挙げた中では、正木さんや照井さんとかのように出ていくか、わからないけれども、心の中に大きな宿題が残ったということだと思います。小説家の池澤夏樹さんもそう言っています。やっぱりあれだけの人が一瞬にして命を奪われるということはどういうことかを考えていくのが、文学の大きなテーマだと言っていました。俳句も同じだと思います。

五十嵐 瀬戸さんは照井翠さんの句を選んでいます。

瀬戸 正直、俳句の質としては『龍宮』ってすごく話題になった句集なんですけど、例えば「双子なら同じ死顔桃の花」とか、俳句の質としてはそんなに高いとは思っていないんです。ただ高ぶった詩情みたいなものが、あのときすごく受け入れられたし、一般の俳句を詠まない方も新聞で取り上げられたこともあって、そういうところで避難所などでも書ける短い俳句十七音が自分の癒やしになったりとか、あるいは今後生きていくための心のよりどころ、祈りみたいになった現象というのを注目したいなと思って。系統は違うんですけど、北大路翼さんもおそらくそんな感じの象徴的な存在だと思うんです。そういうような俳人のあり方、俳句の中の世界だけではなくて、外の世界の人にも訴えかけていくような力を持った人として、私の中で共通項があって選んだんです。

五十嵐 橋本さんは関悦史さんを取り上げてますけど。関さんも震災の地にあってツイッターで揺れている様子をさかんにライブ中継のようにツイートした人物です。

橋本 関悦史自体が被災者なんですよね。すごく揺れて、家がぶっ壊れちゃって。平成の時代って、二つの大きな震災があったんだけど、平成俳句ってテーマ性という意味ではテーマがなかった。社会性俳句や戦争俳句と違って。不幸にも二つの大きな震災があって、これからも当然大きなテーマになっていくんだろうと思うんですね。それって長谷川櫂みたいに、すぐに出しちゃうと、自分の心の中で十分熟成していないと批判されるだけだから。これからむしろ平成が次の時代になって、震災の句は俳人が詠んでいくテーマだと思います。少なくとも俳句の表現史には何ら影響はないと思いますね。ただ単にテーマ性という意味では、非常に大事だと思いますね。

五十嵐 実際に震災が与えた影響でどんな成果があったのかといえる段階ではないんだと思うんですね。だけど、大きな問題をいくつか提供した。いま橋本さんが言ったように、長谷川櫂さんが歌集と句集を出したんですよね。物議を醸しましたよね。あのとき物議を醸したっていうのは、それぞれの作品のレベルとか内容のどうこうもあるのかもしれないけど、震災を直接経験していない人が創れるのかという問いかけもありました。そのときに微妙だと思ったのは、経験しなくては詠めないのか。俳句って経験をしたものを詠むんだというものすごい大前提があって、経験しなかったものを詠むというのを嫌うきらいもあります。震災という中でそれが非常に極端な形で議論になったのかなと思います。その辺りで何か意見がある方いますか。

栗山 経験しなかったことを詠んではいけないという議論もあったんだけども、長谷川櫂の詠み方は、「水漬く屍」とか言っていたり、どこから目線なのっていう、あんた神様かみたいな、そういう批判がありました。もし東京で震災を経験していても詠んでもいいと思うんだけれども、リアリティーがなくて響かないということであれば、作品としてダメなわけです。自分の考え方としては、極端に言えば想像で詠んでも良いと思います。ただ、震災については、まったく経験していない人はほぼいないと思うので、何らかの形では出てくるのだと思いました。鴇田智哉さんは震災の句は改めて創ってはいないけれども、見たものと見たような気がするものは区別がつかないというようなことを言っています。また、逆に、実は自分は全部写生で創っているというふうにも言っていて、「うすぐらいバスは鯨を食べにゆく」という句もあるんですけど、これは自分が歩く道に夕方バスが通っている。そのバスに乗って鯨を食べに行こうというときに、バスの中は暗かった。それをこう言葉にしてみたっていうだけで、自分にとっては実際の経験だと言って創っています。ただこれを読むときに、そういうふうに読むかというと、謎のバスが鯨を呑み込みにいくような、ちょっと絵本みたいなイメージで読む人が多いんじゃないかと思います。そこがおもしろさであって、それは手を離れたおもしろさ。現実と俳句のリアルとはまた別なのかなっていう気もします。

五十嵐 極論では経験をしていない人が書いたって、という意見があの頃あったんだけど、実際に作品を読む人は作者が経験したのかしていないのか知りようがない話なんです。結局は作品主体で見ていくしかない。その中で、震災のことの句が今後どれだけ評価されるのかはこれからの話なんじゃないかなっていう感じがします。そういう意味では北大路翼の『天使の涎』の中にも震災を直接的にうたったものはないんだけど、「放射能床に音なく蜂が飛び」っていうのがあります。それはやはりどこか震災を引きずっている。震災のかなり不安感が文芸の底に生まれてきてしまったのかなと感じます。そういう中で、橋本さんが選んだ人たちは、平成のもう少し奥の時代で、一つの平成俳句の大きいな成果をつくった方たちを挙げていますが。ちょっと視点を変えて。

橋本 5人ともおそらく平成をリードしている人もいるし、矢島さんも当然蛇笏賞をとってる。関悦史はきっと怪物的なところがあるから、代表的な作家になるんじゃないかなと思うんですね。石田郷子さんは、口語訳でも冷たかったんですけど、好きなわけではないんですけど、いまの角川俳句賞の期待の句でしょうと思って選びました。つまり「石田郷子ライン」という言葉がありますが、石田郷子が賞をとってから、石田郷子に似たような人たちが、感じの良い俳句を創ってる。何の文句もない。季語の使い方もうまいし、何の文句もない。美しい。すがすがしい。みずみずしい。何の文句もない(笑)。いま、そういう方がおそらく角川俳句賞をとる。

瀬戸 さっぱりとして、軽い癒し系とか、BGMみたいな集団とか、中原道夫さんがおっしゃっていた。生活臭があまりしない。木がささやいて日差しの中でどうのこうのといった句。というような、ちょっとネガティブに言ってますけど、でもこれって本来の俳句の王道の世界ではあるのかなと思いますけど。

五十嵐 いま、俳句の王道という話が出たんだけど、近頃の動きを見ていると、王道がそこから離れようとしている動きが非常に多いのかな。ここに挙げられた20句を見ても、従来の客観写生などの意味合いで考えられるような俳句があまりない。そういうのばかり選んだのかっていうと、決してそうではなくて、割とここ数年出てくる俳句の一般的な形になってるかもしれない。そうすると、俳句のこれまでの骨格というものが随分変わってきているのではないのかなぁという感じがしますが。その中で、まず一つは田島健一。瀬戸さん、田島健一についてもうちょっと。『ただならぬぽ』について話しませんか。

瀬戸 「ただならぬぽ海月ぽ光追い抜くぽ」。「ぽ」がなんだっちゅう話、音として楽しむとしか言いようがない。今年の角川俳句年鑑で、櫂未知子さんが40代の欄を書かれていて、鴇田智哉さんに対してもわからないと書かれていて、田島さんに対してもさんざん調べた、読んだ、でもわからない、私には作品を論じる資格がないようだ、とまで書かれていた。結局、意味をわかろうとするのか、それとも感じるのか、という読み方の問題だと思うんですよね。鴇田さんとか、福田さんも「オルガン」という同人誌をされています。「オルガン」の中で、鴇田さんが田島さんに対して、その時代の複数の人に共有されたある感覚、何らかの共同性に向けて投げかけられ、読まれるのを待っている俳句を書いている、というような書き方をされている。自発的に何かを訴えかけるような俳句自体を創っていないから、わからないという人も出てくるのかなぁと思います。アプローチの仕方がまったく違うので。ただ普通の句も書けるんですけど。

五十嵐 ちゃんとやるときもある。そういう意味では僕も田島さんの句を挙げましたけど、田島さんにしても、若之さんにしても、小津夜景さんにしても、ときどき無季の俳句が出てくるし、自由律が出てくる。以前だと、無季の俳句を創るには相当覚悟がいるだとか、あるいは無季の何が悪いんだっていう相当気合を入れて創る。自由律は自由律で、五七五定型に縛られていては自由な作品ができないんだという主義主張がある時代がずっとあったわけですが、この人たちは全然気にしていない。五七五と普通に創るし、その隣に自由律が来る。その隣に無季が来るみたいなことを平気でやってる。これって割と最近の現象なんだよ。

瀬戸 比較的、五七五は守られているような印象です。季語は抜けることはあるけど、割と定型感やリズム感は福田さんは口語的な発想で創るので若干違いますが、他の人は割と五七五は守ってるのかな。

五十嵐 そうですね、「ただならぬぽ海月ぽ光追い抜くぽ」っていうのも。ちょっと内面化してる感じはしませんか。内に向いている。

瀬戸 わかる、わからない問題がありました。

五十嵐 わかる、わからない問題は、この人たちは軽く飛び越していくので、わかる、わからないで俳句を読まれてたまるかっていう感じは共通してあるよね。

栗山 「石田郷子ライン」的な句について話したいのですが、そうした句は前からあると思っています。川崎展宏さんの「かたくりは耳のうしろを見せる花」とか。後藤比奈夫さんの「首長ききりんの上の春の空」とか。なんか津川絵理子さんって言われてもそうかなって思っちゃいそうな。ただそれがラインでくくられなかったのは、多分そればっかじゃなかったからだと思うんですよね。川崎さんにしても、後藤さんにしても。そこがちょっと塊で見えると言われてしまうのは、社会性がないというのが多分大きな原因かなと思います。定型、季語の話で言えば、鴇田さんも基本は有季定型に学ぶのがやっぱり筋だと言っています。彼はずっと有季定型をやってきたんですけど、それだとこれまでできているものをどんどんなぞっていくことになって、自分ならではのものを創りたいって思ったときに変わっていくのかなぁって思います。

五十嵐 それは強く感じますね。

栗山 福田さんは「週刊俳句」のインタビューで、ちゃんと演奏ができるからこそ、ウッドストックのコンサートで、ジミヘンが「星条旗よ永遠なれ」から「パープル・ヘイズ」になる演奏ができたって話していた。それはちゃんと音楽を分かってるから、そういうふうに崩しても訴えかけられる。だけど、基礎が無いまま、みんな自由律みたいに創ろうというのはなかなか難しいんじゃないかなというのが個人的な意見です。内面に目が向いているものが多くなっているというのは、絵画とかも具象ばっかりやってるうちに、また違った表現が出てくるような。そこにあきたらない、やるからには自分ならではのものをできれば残したいという気持ちが働くからかなぁと思います。

瀬戸 作者名が入れ替えられないような作品を発表したいというような欲求をすごく感じます。「石田郷子ライン」みたいなくくりに入らない。でもそういうのが出てくると、また逆に「田島ライン」になるのかもしれないし、その辺は難しいところかなって思いますけど。

五十嵐 一時、俳句が割と従来の構成というか、伝統的な俳句と、モダニズム系の俳句みたいな構図がずっと来ていて、それが形骸化してから10年、20年ぐらいあったかなぁ。それがとても流動的になった気がしています。流動的になったんだけど、革命的に変えようと思っている人はあまり今の若手にはいない感じがします。福田若之くんは26歳で、非常に大胆な句集を出していますが、その句を読むと、「夕焼けを泣いて都会の子に戻る」とか、小学生みたいな感じの句を詠んだりする。上五が抜けてる句をそのまま出したりとかもやる。さらに散文を添える。「幼稚園から逃げるように卒園し、小学校からも中学校からもやはり逃げるように卒業した僕は、結局のところその頃と何も変わらないまま今度は自分の記憶から望んでいる」。だからどうしたっていう。そりゃこのくらいの年のとき、みんなが思うようなことを書いている。でもそういうところの中から句を創ろうとしている。なので、確かに観念的な句が多かったりするけれど、割と自分の実感というか、自分の存在に重きを置いて、書いているのかなと。ただそこには、とりあえずの現状肯定と小さな不安みたいなものが共通してあるような気がする。若手の俳人の中に、20代から40代の中に、そういう傾向があるような。同時に彼らは俳句の作り方ということでは、従来言われていたような創り方よりは、いかにして、詩にするのかに力を入れている印象を受けています。その中で全然違うのが北大路翼なのかなって思う。

橋本 北大路翼は詠んでるものが、詩じゃなくて俳なんですよ。ただ、テーマが小汚いものとか、エッチなものだとか、歌舞伎町のこととか、テーマが変わってるだけで、僕は王道だと思うんですよね。昔からの。俳句の歴史は、詩と俳の行ったり来たりしながらどっちかで来ていると。森澄雄と飯田龍太で俳に1回伝統帰りして、それがメインになってきたところを、まだいま金子兜太が生きているし、詩の方が最近がんばってきたというふうな見方でいいと思うんだけど、必ずしも最近の若い人たちが、詩とも言えないような、言葉で言葉をフェイクしているような、言葉で言葉を詠んでいるみたいな、言葉で言葉を俳句にしているというような感じになってきて、詩なのか俳なのかはっきりわからない感じになってきたから、それはそれで非常に新しい形なのかなって思っています。

五十嵐 その中で、北大路翼は非常に物議を醸しましたよね。北大路翼自身が物議を醸そうと思ってやったんだなって、たくらみはひしひしと伝わってくるし、『天使の涎』は最初の数ページを読んで、こんな句集は二度と読みたくないと思った人は相当いたのではないか。そういうのを覚悟の上で句集を創っているのが、最後まで読むとよくわかる。そういう、えーっと思う句は最初に固めて置かれている。これで、えーって思う人は読まないでくれて結構です、という創りになっている。読んでいくとだんだん良くなる。ものすごく、まともなんです。今回挙げられた作家の中で、多分、北大路翼がもっとも俳句の創り方がまともです。

瀬戸 うまい。

五十嵐 うん、うまい。非常に生活感というか、まさにものを詠んでるし、自分が見ている新宿のものを、裏通り、風俗店の女性たち、そういう店の裏に明け方になると捨てられているゴミ、水たまり、といったものを非常によく見ながら、句を創っていて、僕が詩的な方向に向かってるんじゃないかといったような人たちとは相当違うやり方をしている。なおかつ、東京のど真ん中に「屍派」というグループを作って、アウトローばかり集めて活動してます。最近その屍派のアンソロジー。『アウトロー俳句』があります。「駐車場雪に土下座の跡残る」とか、これありそうだよね、よく見てるなぁと思います。北大路翼はまちに出て俳句を創ってる。似たような仲間たち集めて一つの運動を起こそうとしている。北大路翼のやり方というのは、評価はわかれると思いますが、十分注目しなくてはいけないし、これから彼らがどう動くのか見て行きたいと思っています。

栗山 北大路さんは「キャバ嬢と見てゐるライバル店の火事」とか、誰かが言ってたかもしれないんですけど、屍派の俺っちみたいなコスプレをしているような、本当のリアルじゃないような気もします。

橋本 うん、悪ぶってるというか、まじめなの。

栗山 まじめな人なんじゃないかと。

五十嵐 僕も若干知ってるんだけど、まじめな人なんだよ。

橋本 少なくとも長谷川櫂みたいに遠くから見ている訳じゃないんだな。本当にあそこに住んでて、一緒に部屋で寝てた奴が自殺してたというのがあるんだ。だからそういう生活ではあるんだけど、屍派の中で、彼だけが仕事持ってるんだ。そこがいけないんだね。本当の意味では。

五十嵐 『雪華』に「天使の涎、饒舌な現代」っていう時評を書いたんだけど、そういう意味では北大路翼は現代的な何かを求めようとはしているんだけど、技法は意外と古くさいんです。昭和っぽい。彼のテーマは反抗だと思うんだけど、「新宿」「無頼」「性」「反抗」って、寺山修司の時代じゃんという。

栗山 悪いっていうわけじゃなくてそういう印象を受ける。

五十嵐 優等生で既定路線に従順な風潮に支配された現在にノンを突きつけ、飄々としながらも、過去に使い古された武器を持ってしか、●の手段が見えてこないというところにこそ、現代の姿が現れている、と書きました。それが何かある種のフラストレーションになってるわけですよ。結局、表現者は新しいものを創らなきゃいけない。今まで誰かが創ったものをまた焼き直したってしょうがない。それは文芸である限りは新しいものを創らなきゃいけない。じゃあ新しいものを創るとはどういうことなのか、とても難しくなっている。その中で時代背景的には、震災から生まれた不安感、それと社会のコミュニティーの希薄さの中から来る孤独感、そういったものを若い人たちが一生懸命俳句にしようと努力をしている。でもなかなか新しい句はできているかもしれないけれど、一種の強さに欠けるという状況も見えている。その中で、北大路翼がやっぱり強く出なきゃいけないんだ、というふうにして出てきたけれど、その方法論は昔のものを使ってる。今はそんな状況なのかなぁと。

瀬戸 意味をずらす。「白鳥定食」とか、田島さんとか、鴇田さんみたいな創り方になって、そうすると、ふにょふにょしてるとか言われる。

橋本 言葉で言葉をコスプレしている。



栗山 いまの文学界でも、札幌出身の円城塔さんとか、言葉の実験をして、言葉でものを構築したいというところがある。そうかと思えば、長崎でずっと原爆について書き続けている青来有一さんという作家もいて。俳句も言葉で言葉を開拓するような人に加えて、もっと生の生活を軸にするような人も出てきたら、さらにおもしろいのかなと思います。
(了)

2018年5月30日水曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(3)」第32回イベント抄録

itak講演会(2017年7月8日)
「新・北のうた暦」と大岡信 
古家昌伸





≪「新・北のうた暦」の始まり≫
 今年3月から、北海道新聞朝刊で「新・北のうた暦」を連載しています。【itak】の五十嵐秀彦さん、橋本喜夫さん、久保田哲子さんにもご協力いただき、ここまで5カ月、順調に進んでおります。この連載について道新本社で4月23日に、五十嵐さんと北海学園大の田中綾さんにご講演をお願いしたため、その代わり…ということで、私がこの場でお話しさせていただくことになりました。
 「新・北のうた暦」は道新の編集局で昨年、それまで連載していた「四季の栞」の後継企画として、北海道の季節感に合った俳句や短歌を紹介していくことはできないか、という提案があったことから検討が始まりました。「四季の栞」は通信社が全国に配信している記事なので、当然、本州の季節感に基づいて構成されています。有名なところでは桜の開花時期。たとえば東京などでは3月ごろなのに、北海道では2カ月近く遅れ、札幌では5月の連休にやっと満開です。連載マンガもそうですが、通信社が配信する記事は、しばしば北海道の季節感にそぐわない内容になる場合があります。
 その検討のさなか、橋本喜夫さんが道新文化面に「北海道歳時記つくろう」という原稿を寄せてくださいました。

■歳時記にある季語と実際に道内に暮らす生活者との間の「季節感のずれ」は以前から指摘されていた。この問題を考えるに二つの視点があると思う。一つは北海道という地域的特徴から実際に本州からみると1カ月の季節のずれがあること。もう一つは本州の人には理解しえない、または知らない北海道ならではの特殊な季語があること―である。(2017年6月10日、北海道新聞夕刊文化面)

 俳句の実作をされているみなさんなら、すでに実感されていることと思います。ならば、北海道の俳人や歌人に、北海道の季節感に合わせて道内の作家や作品を中心に紹介していただこうというのが「新・北のうた暦」のコンセプトだったわけです。五十嵐さんや田中さんに相談し、【itak】に参加している久才秀樹記者の知恵も借りつつ、毎日掲載なのでなかなか大変だけれど、何とかやってみようかという結論になりました。
「新・北のうた暦」については、のちほど五十嵐さん、橋本さん、久保田さんにも加わっていただき、「裏話」的なことをお話ししたいと思います。

≪大岡信の「折々のうた」≫
 さて、本日の題にもある、詩人で評論家の大岡信さんのことです。これから話す内容は、実は明日7月9日にさっぽろテレビ塔で行われる「文学フリマin札幌」に出品する文芸誌「調べ」(残党舎刊)に私が書いた「追悼 大岡信」という原稿をもとにしています。
 4月に亡くなった大岡さんが、朝日新聞に「折々のうた」を長期にわたって連載したことは、みなさんご存じと思います。「新・北のうた暦」は、ある意味で「折々のうた」の道新版という側面があるかもしれません。競合する新聞としては、こう言うのはいかがなものかとも思うけれど、それだけ「折々のうた」が与えたインパクトは大きかった。
 大岡さんが亡くなってまもなく、『現代詩手帖』5月号で「大岡信追悼」特集が組まれました。ここに詩人の渡辺武信さんが、こんなことを書いています。

■早くも新聞やテレビに現れた訃報は、大岡信の業績を朝日新聞の長期連載コラム『折々のうた』を中心に据え〝一面の左下から読ませる男〟などと表している。(「戦後叙情詩の終焉」)

 では、大岡さんは「折々のうた」でどんな文章を書いていたか。『折々のうた 春夏秋冬・夏』(童話屋)という本から、その二つを紹介します。

■青蛙(あおがへる)おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介
 芥川が生涯に作った句は約六百句という。彼はそこから厳選してわずか七十七句の『澄江堂句集』を残した。「青蛙」は省かれている。芭蕉とか芭門俳人の凡兆、丈草らに傾倒した彼の句の主流は、古調にあった。しかし右の句は初期代表作としてつとに名高い。機知の句だが、それだけに終わってはいない。読む者の意表をつく鋭い視覚的印象、歯切れいい表現が、この句を今なお新鮮にしている。
 
■あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ 土岐善麿
 『夏草』(昭一一)所収。昭和五十五年四月十五日、九十四歳で逝去した歌人。最後まで明敏な知性の活動力を保ちつづけ、単なる歌壇の域を越えた大きな文業を残した。昭和二十年夏の敗戦後、夫人とかわした会話をそのまま歌にしている。調べは散文すれすれだが、当時の多くの終戦詠の中でも白眉ではないかと感じる。続く一首は「子らみたり召されて征きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか」

 「折々のうた」の解説部分は180字で、くしくも「新・北のうた暦」も同じ。この文章を読んでおわかりのとおり、短い字数にきわめて多くの情報が織り込まれています。大岡さんは「折々のうた」について、こんな文章を残しています。(いずれも水内喜久雄選の大岡信詩集『きみはにんげんだから』より)

■できれば自分自身が楽しく読める文章にしたいと思っています。わずか百八十字といっても、僕にとっては広いリンクなんです。山も谷も必要で、力の配分を考えますね。そうしないと、あのスペースでも読者はあきてしまうでしょう。自分の主観の表現は最後の一行か二行、少ない時は五文字ぐらいで済ませます。その方が効果的な場合が多いからです。(『「忙即閑」を生きる』日本経済出版社、1992年)

■『折々のうた』で私が企てているのは「日本の詩歌の常識」づくり。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫。この常識を、わけても若い人々に語りたい。(岩波新書版『折々のうた』の新聞広告)

 「日本の詩歌の常識づくり」。やや大上段に構えた言葉ではありますが、それだけ大岡さんは日本語が大好きで、日本の詩歌への熱い思いがあったことを表しています。芥川の軽妙な俳句もいいけれど、土岐の妻との会話――戦中はおそらく何も語らなかった妻が、戦後に「あなたは勝つと思っていたのですか」と、ぽつりと問う。その冷徹なまなざし。とても好きな歌になりました。このような句歌を紹介することで、それが日本文学の財産になっていく、と大岡さんは意識していたのではと思います。
 さきほどの渡辺さんの追悼文には、こんなくだりもあります。「折々のうた」の話の続きです。

■私にとっては、彼はあくまで抒情詩人であり、『折々のうた』は日常は詩歌を読む嗜好はなかった新聞の読者を遠くまで導いた良きガイドではあったが、大岡信の重厚長大な業績の裾野にすぎない。

 確かに大岡さんと言えば、『万葉集』や『梁塵秘抄』の研究でも知られるし、それ以前に詩人として評価されるべき人でしょう。亡くなってから、あらためて彼の詩を読んでみました。思潮社の現代詩文庫から、初期の抒情詩を紹介します。抒情詩というのは、現代詩の分野にあっては、甘い感情を吐露するだけのもの、いわば過去の文学として忘れ去られている側面がありますが、大岡さんの初期の抒情詩はとてもいい。6月末に、大岡さんを「送る会」がテレビで取り上げられ、女優の白石加代子さんが、あの独特の口調で「ひょうひょうとふえをふこうよ…」と朗読していました。これは「水底吹笛」という作品です。

■ひょうひょうとふえをふこうよ
 くちびるをあおくぬらしてふえをふこうよ
 みなぞこにすわればすなはほろほろくずれ
 ゆきなずむみずにゆれるはきんぎょぐさ
(「水底吹笛」 思潮社・現代詩文庫24『大岡信詩集』)

 これは教科書にも載ったのではなかったでしょうか。萩原朔太郎の影響も感じ取れるけれども、なんと大岡さんの16歳の作品です。早熟さに驚きます。そういえば大岡さんと仲が良かった詩人の谷川俊太郎さんは<前に大岡と話してて、大岡が自分が詩を書き始めたときは、日本の詩の歴史というのはだいたい頭に入っていた。もちろん新体詩以後の詩の歴史も入っていた。自分はその歴史の先端で詩を書き始めなきゃいけないから、過去の詩と同じものは書けないんだという意識で始めたって聞いて、僕はびっくりしたんです。いかに自分はいいかげんに書き始めていたかという感じね>と語っています(『日本の詩101年』「新潮」1990年11月臨時増刊)。さすが、と思いますが、そういうものを知らずにやはり十代で『二十億光年の孤独』を刊行し、デビューした谷川さんにも別種の才能を感じますね。

≪『ぬばたまの夜』と「連詩」「うたげと孤心」≫
 大岡さんの詩集に『ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる』(1989年)という一冊があります。「ぬばたま」という「夜」や「闇」にかかる枕詞を、私はこの詩集で知ったような気がします。「ぬばたま」の語感と「夜」、そしてなぜか天から迫ってくる巨大な掃除器の存在。何だかよくわからないなりに、怖さを感じた覚えがあります。
 ここには36篇の詩が載っています。このうち<巻の十四 8月6日の小さな出来事>を紹介します。8月6日と聞けば誰もがイメージすることがあります。広島への原爆投下の日ですね。詩は、広島に原爆を落とした爆撃機の愛称「エノラ・ゲイ」を擬人化し、一人称で語らせています。このようなところに、大岡さんの皮肉っぽいまなざしが現れていると思います。と同時に、これは原爆がテーマですが、原子力潜水艦について書かれた詩もある。<巻の四 原子力潜水艦「ヲナガザメの性的な航海と自殺の唄>です。古典の詩歌を研究するなど、文学の志向としては、どちらかと言えば保守的・穏健な方との印象がありましたが、実は体制への批判的な視点も持っていた。
 『現代詩手帖』の追悼企画(6月号の鼎談「大岡信、詩的出発の頃から」)にも、大岡さんの父・博さんが歌人で、<筋金入りの左翼>のようだった、それが大岡信さんにも影響を与えているという趣旨の記述がありました。
 大岡さんのもうひとつの仕事に「連詩」があります。俳諧や連句・連歌はみなさんもご存じと思いますが、それを現代詩で、つまり定型ではない形でやってみようというのが、大岡さんたちの「連詩」の取り組みでした。「たち」というのは、茨木のり子さんが主宰した同人誌『櫂』に集った人々――大岡、谷川、茨木、さらに石垣りん、吉野弘、川崎洋といった詩人の間で、最初に連詩が行われました。

■湯の波も師走か 弘
 店卸ししながらにぎやかな店卸し 俊太郎
 年賀状の絵柄は
 海蛇に決める 洋
 若い二等航海士はカリブ海上 弘
 この王国にも床屋がいた 衿子
 なぞなぞを翻訳するあほらしさ 俊太郎
 西洋事情を殿に講ずる 弘
 (「櫂」連詩 第十一回湯の波の巻より 『日本の詩101年』「新潮」1990年11月号臨時増刊)

 連歌では、厳しい制約があり、この場所(座)には桜を入れるなど、きまりがあるようですが、連詩は制約がさほど厳格ではなく、前の人につけたり、あるいは飛躍したりということのようです。70~80年代には、大岡さんを中心として盛んに試みられました。
 大岡さんの詩論に「うたげと孤心」(『うたげと孤心 大和歌篇』、1978年)というものがあります。長く詩歌の古典を研究した結果、たどりついた見解といえます。「孤心」は、自分の頭の中で、感情や考えを突き詰めるという、ものを作る人にとっては当然の境地だと思います。でも、それだけだと自家中毒的になったり、堂々巡りになってしまったりすることがある。そこに「うたげ」があると自分の目線と違うところで考えられる。その両方がないと詩歌、文芸にはならないんだという趣旨だと思います。
 「うたげ」とは、つまり酒宴のことで、『うたげと孤心』では、このように書かれています。

■「うたげ」という言葉は、掌を拍上(うちあ)げること、酒宴の際に手をたたくことだと辞書は言う。笑いの共有。心の感合。二人以上の人々が団欒して生みだすものが「うたげ」である。

 何人かで共同制作をする、あるいは古典詩歌だと『古今集』も『新古今集』も天皇の祝賀ーーお祝いをするということが動機にあるアンソロジーなんですね。「みんなで作る」ことが、日本の詩歌の伝統にはある。それは「うたげ」とも関係があるというので、<日本の古典詩歌の世界では、文芸は文芸、生活は生活という二元論でなく、文芸は生活、生活は文芸という一元論が、久しく原則をなしていた>(『うたげと孤心』)という考えにたどりついた、と書いています。創作はひとりで作るものであると同時に、生活のなかにあって、いろいろな人との関係のなかでできていくんだということかと思います。
 その一方で、こんなことも書いています。<みんなで仲良く手をうちあっているうちにすばらしい作品が続々と誕生するなら、こんなに気楽な話はない>。やはり、孤心に還る必要もある。両方を満たして初めて、詩歌、文芸はできてくるということです。
 思えば70〜80年代は、難しい現代詩ばかりがあふれていました。抒情詩が隆盛だった時代や、「戦後詩」の枠組みで書かれていた時代がある。そのあとに何を書くのか、書けるのかを詩人が考えた結果だと思いますが、実際には読んでもわけわからん、というものが多かったように思います。袋小路に入ってしまったという自覚が現代詩人たちにあったのではないでしょうか。大岡さんに言わせると、孤心の方に寄りすぎているということになるのではないか。
 『現代詩手帖』では当時、毎年のように「詩はどこへ行くのか」とか「読者とは何か」ということが問い直されましたが、結局は出口がない、結論がないままで続いてきているように思えます。私は、「連詩」の試みは、その問いに対するひとつの回答だったのでは、と考えます。ふだんひとりで書いている人たちが、誰かの作品につける、人の作品を読み解いて、その文脈に添った、あるいはそこから飛躍した詩行を導くという作業は、ひとりで書いているときの頭の構造とちょっと違うのではないか。「連詩」を並行してやることで、自分の作品にも違ったものが生まれてくるはず、と考えて本腰を入れて進めていったのではないでしょうか。
 最初は同人誌の仲間で始めたのが、他流試合をして、欧米の詩人たちとも歌合(うたあわせ)的なことをやっています。「国際連詩」という妙な言葉になっていますが、英語で詩を作ったり、翻訳して聞かせてそれにつけてもらったりする、語学堪能な大岡さんが主体的に取り組んでいたことです。
 「連詩」が本当に回答になっているのか、と考えると、90年代、2000年代に入るとそのような試みを見る機会が減ったので、後継者はいないのではと思っていました。でも『現代詩手帖』の最新号、7月号には「連詩」が載っていました。大岡さん追悼の意図もあるのかもしれませんが、いまも現代詩のなかで「連詩」というものが、どこかに効果があるのではと思われている節もありそうです。

≪アンソロジーの難しさ≫
 「連詩」の延長上に、谷川俊太郎さんが、正津勉さんとやった「対詩」があります。文字通り『対詩』(1983年)という本があります。81年から83年にかけて、往復書簡のようにして詩を書き、それに相手の詩をこう読んだ、その読み方は面白い、思ってもみなかったなどのコメントもつけて出したものです。このふたりは、よく一緒に仕事をしていたようでした。それでなのか、『日本の詩101年』(「新潮」1990年11月臨時増刊)という雑誌で対談をしている。この本は、正津勉さんと平出隆さんが編集を担当しています。1890年から1990年までの101年から、1年単位でこの年にどんな詩集が出たかを、それぞれひとりだけ選ぶ(やや無理がある)編集方針で、多くの詩人が紹介されていています。さて谷川・正津の対談は、基本的な構図としては、正津さんが10年以上先輩の谷川さんに「こういうものを作りました。どうですか」と尋ね、谷川さんがそれに対して厳しいというか、どうしてこの詩人を入れないのかなどと、喧嘩を売るような感じで語るので、正津さんが途中でキレそうになるという場面もあり、とても面白いのですが、そこに詩の本質が見え隠れしています。ところどころ紹介します。

■谷川 アンソロジーっていつでもそうだけど。俺なんかもこれ見て、不平満々よ。なんでこの人が落ちてんだみたいのがさ。
 正津 言ってください、どうぞ。
 谷川 正津勉なんて詩がわかってねえんじゃないかって思うよ。
 (略)
 谷川 アンソロジーというのは絶対、選択に文句つけられるものなんだから、諦めて聞いてほしいんだけど、これは僕は、一種ちょっと似た系列に属する人たちだと思うんだけど、茨木のり子、吉野弘、石垣りん、川崎洋、こういう『櫂』のグループの主要メンバーというのが全部落ちてますよね。そういうとこはなぜかということはちょっと訊きたいなと思ってたの。
 正津 ああ、そう。やっぱりそれは答えるべきだと思いますから答えますけど。一年一詩ですから、競いあってもれる場合がありますね。実際、年表をご覧になっていただいても分りますが、年度によっていい詩集が集中している。それと、今『櫂』のメンバーの名前が挙がった人たちというのは、作品のうまさという意味じゃ非常に買えるんですが、あえて昔の政治青年の言葉でいえば、善良な市民主義の詩ですよね。今、読むとそういうタイプの詩、どうしてもその時代のもつアクチュアリティを感じられない。

 たしかに『櫂』のメンバーたちの詩は分かりやすい。教科書に載った作品も多いし、生活のなかから出てきたような詩ですね。これに対して谷川さん。

■谷川 ああ。そこが現代詩の最大の欠陥だね。つまりこういうものを評価出来ないというところに、俺はすごい問題があるということを、こないだ高橋源一郎なんかと話したんだけれども。(略)要するに、茨木、吉野、石垣というのは、少なくとも、現実生活に根を下ろした詩を書いているんですよね。普通の人に通じる言葉で詩を書いてきている。つまり、一番、詩に無縁な人たちが読んでわかる詩だと思うのね。それゆえの不満というのは、もちろんないことはないよ。つまり言語的実験に乏しいとか、方法論がなんとかとかということはあるんだけれども、でも、こういう面を無視して来たということが、今の現代詩の堕落を招いているというのが僕の説なんですよ、簡単に言うと。現代詩の凋落の元でもあった。

 この剣幕にたじたじとなってか、正津さんが答え、谷川さんにどやしつけられます。

■正津 僕のそれに諾(うべな)うことには吝(やぶさ)かじゃないですよ。
 谷川 政治家みたいなこと言うな(笑)。「諾うことには吝かじゃない」って何だ。それが詩人の言葉かよ(笑)。

 こんなやりとりの後には、谷川さんも<編者の嗜好ということで言えば、アンソロジーは全部そういうことになっちゃうから、それはそれでいいんですけどね>と一応の理解を示しています。
 これを読んで何を言いたいかというと、アンソロジーというのは難しいものだ、ということです。ここでやっと最初のテーマに戻ってきました。つまり「折々のうた」も「新・北のうた暦」も同じで、歴史上にたくさんある作品から、何を選んで、何を載せないかは、アンソロジーを作る人、選者の目利きであり、紹介の仕方であり、それが大事なことだと考えるのです。
 「新・北のうた暦」にも、北海道の多くの俳人・歌人がたくさん出てくるので、「なんで俺のを取り上げないんだ」という人が出てくるかもしれない。そこで筆者が「バランスを取るため入れなきゃ」とか、「作品はこうだけど、あの結社の先生だし…」ということを考え始めると、アンソロジーは面白くなくなるんじゃないかと思うのです。歴史の海にあまたある作品から、筆者に丁寧に選んでいただき、また発掘していただいて紹介する作業とは、つまりはアンソロジーを作る作業なのかもしれません。大岡さんの仕事や、谷川さん・正津さんのやりとりを見て、こう思いました。そのような、ある意味厳粛な気持ちで「新・北のうた暦」を続けていきたいと思っています。


*当日の講演を編集・加筆しました(文責・古家)。

2018年5月29日火曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(2)」第30回イベント抄録

ルイス・キャロルなくて七癖
――『シルヴィーとブルーノ・完結篇』(Sylvie and Bruno Concluded)
翻訳こぼればなし
                 平 倫子 
(2017年 3月11日 北海道立文学館にて)
長年取り組んできた仕事ではありますが、俳句とは何の関係もないことをお話することに大きな壁を感じています。でも、せっかくルイス・キャロル(1832-98)のことをお話するのですから、タイトルを思い切って「ルイス・キャロルなくて七癖」にしました。



左の肖像写
真は、『シルヴィーとブルーノ』2冊本を執筆していた60代のキャロルです。
冒頭、『不思議の国のアリス』を読まれた方はどのくらいいらっしゃるか、おたずねしました。かなりの方が手をあげられました。『鏡の国のアリス』はずっと少なくなりました。ところが『シルヴィーとブルーノ』を読まれた方が一名いらっしゃったので、大いに励まされました。
ルイス・キャロルなくて七癖」というタイトルの手がかりになるものとして、フロイト(1856-1939)の著作から、不安夢の図を借りることにしました。 晩年のキャロルは、当時の科学がまだ解明できなかった心理学や物理学、脳生理学に強い関心を抱き、フロイトの初期の論文を読んでいたらしいのです。それでこの有名な図に、キャロルの七癖(「ことば狩り」、「夢」、「狂気」、「不気味」、「写真」、「手紙魔」、「数学・論理学」)の立て札を貼りつけ、便宜上のイメージ図を作成しました。  
もともとの狼のいる木の絵は、幼児期神経症の患者(通称「狼男」
)が幼いころに繰り返し見た夢を図に描いたものです。樹上の狼は、『赤ずきん』、『狼と七匹の仔山羊』、『仕立屋と狼』の人喰い狼の恐怖、ロシアの貴族だった父親の領地で飼われていた羊が伝染病で大量死した時の記憶、などが合成されたもので、成人してのちフロイトの患者になってから描いた不安夢の絵です(フロイト「ある幼児期神経症の病歴」より、『フロイト全集』14巻、2010,25-26ページ)。
「不気味」という項目は分かりにくいところかと思いますが、『シルヴィーとブルーノ』二部作に通底する妖気や、スピリチュアリズム、ニンフォレプシー(少女しか愛し得ない異常さ)なども含めています。
「狂気」は、キャロルが狂人だったという意味ではなく、19世紀末の時代の病としての狂気を根底においたものです。子どものための物語として書いたものに病気や死の概念を取り入れたことを、キャロルは『正篇』の序文で断っていますが、『完結篇』16章には死生観を語るシーンも見られます(拙訳、113-4)。
「ことば狩り」は、滑稽詩、パロディ、造語、アクロスティック(行頭、行間、行末の文字を綴ると語や名前になる)、アナグラム(語句の綴り換え、完結篇1章に出てくるLIVE➡EVILなど)、ダブレット(「HEADをTAILに変える」, HEAD➡HEAL➡TEAL➡TELL➡TALL)、回文(Was it a cat I saw? このこネコのこ?)など、キャロルの真骨頂で、言語はキャロルが逃げ込むユートピアでした。また、次の例のように下線の一字だけを置き換えることで、よく知られた諺を換骨奪胎したものもあります。Take care of the pence, and the pounds will take care of themselves. ➡ Take care of the sense, and the sounds will take care of themselves.(『不思議の国のアリス』9章より)。

キャロルは多くのゲームやパズルを考案して、子どもたちを楽しませました。左の絵は、最晩年に刊行を計画していた『オリジナル ゲームとパズル』の口絵のイメージを、挿絵画家E.G.トムソンのために描いたキャロルのパズル絵で、1897年8月7日にトムソン宛の手紙に添えられたものです(『キャロルと挿絵画家の往復書簡』、310)。『シルヴィーとブルーノ・完結篇』(1893)の巻末に、「『オリジナル ゲームとパズル』は目下準備中」と広告が載っているにもかかわらず、実現しませんでした。
池澤夏樹氏は現在刊行中の「日本文学全集」の第29巻『近現代詩歌』のなかで、英語圏でもっとも短く、形式の制限がつよいものとして、エドワード・リア(1812-88)のリメリックをあげています。リメリックは地名と人物を書き込んだ5行の戯れ歌です。
  リガから来たお嬢さん / 虎に乗ってニコニコお散歩 / 戻ったときには / お嬢さんは虎の中 / ニコニコなのは虎のほう(『近現代詩歌』、457)
キャロルも13歳のとき、『実益と教育のための詩』(1845)という家庭回覧誌をつくり、そのなかにリメリックを数篇書きました。児童文学史では、ノンセンス詩人としてキャロルはリアと肩を並べ称されます。『不思議の国のアリス』にはじまるキャロルのノンセンス詩やパロディには目を見張るものが多いのですが、『シルヴィーとブルーノ』と『シルヴィーとブルーノ・完結篇』にも、二作にまたがった全9連の「狂った庭師のうた」という6行詩があります。「、、、」かと思ったが、もう一度見ると「・・・」だった、というパターンのノンセンス詩です。その第一連目をあげておきます。
  やつの見たのは一頭の巨象 / そやつは横笛吹いていた / 思ったものの、も一度見れば / なんとそやつは女房の手紙 /「やれやれわかった」やつがいう /「これぞ人生の辛さかな   (『シルヴィーとブルーノ』正篇第5章、柳瀬尚紀訳)

ここで「象」かと思ったが、もう一度見ると「女房の手紙」というのは、俳句の「二物衝撃」のテクニックに近いものが感じられないでしょうか。
『正篇』序文には’litterature’ というキャロルの造語が出てきます。literature (文学)とlitter (散らかす)を合成、リッテラチャーというかばん語にしたものです。具体的にキャロルは「ふと心にうかぶ半端な思いつきや会話の断片をリッテラチャー(文学散乱物)と名付けた」と言っています。どんどん溜まる混沌としたリッテラチャーを、なんとか独創的な物語に撚り合わせようと、キャロルは長い間腐心していました。
2015年にドキュメンタリー文学のジャンルでノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシェーヴィッチは、近著『セカンドハンドの時代』のなかで「自分の耳に聞こえるままを書くために、長いあいだ自らの手法をさがしていた、、、、真実はひとつの心、ひとつの頭のなかにおさまらない」(『セカンドハンドの時代』、602)と言っています。彼女は聞き書きの過程で、話し手の沈黙をも記録しました。「ただの日常生活が文学に移行するその瞬間を見逃さないように、、、、、あらゆる会話の中でその瞬間を見張る。『文学のかけら』はいたるところで、あるいは思いもよらないところで、きらりと光る」とも言っています(同、480)。『セカンドハンドの時代』を読んで、「文学のかけら」は「リッテラチャー」と呼応するのではないかと思いました。
「夢」は ”eerie / trance” のところで触れます。「写真」や「手紙魔」についてはパワーポイントで資料にそって説明をしましたが、ここでは割愛して「翻訳こぼればなし」に移ります。
図1

図1は、H. ファーニスによる『シルヴィーとブルーノ』(1889)の口絵、図2は、同じく『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の口絵です。この物語は当初一巻で発表する予定でしたが、あまり長くなったため折半されました。キャロルはそのことを『完結篇』の序文で次のように説明しています。   「1889年3月に物語全体のページ数の見当がついたとき、二冊に分けて出版するほうが良いと考えた。そのために正篇にある種の結末(a sort of conclusion)を書かなければならなくなった。多くの読者がこれで終わりと思えるような結末(the actual conclusion) にして1889年12月に出版した。たくさんよせられた手紙のなかに、この結末は本当の結末(a final conclusion)ではない、といぶかる内容のものが一通だけあった。それは子どもからのもので、最後まで読んで、これでおしまいではない(no ending up)ことがわかり、あなたは続き(sequel)を書こうとしていることが分かった、と書いてあった」(拙訳、7)。

図2

翻訳を終えて気になった疑問と課題はつぎの二つでした。
1)なぜタイトルがSequel ではなくConcluded なのか。
2)物語に通底するeerie / trance 理解のための新しいアプロ 
ーチはないか。
『完結篇』の序文からもうかがえることですが、『正篇』の評判があまり良くなかったため、キャロルは続篇に相当のこだわりを見せました。それがタイトルにも表れたものと思われます。
“Concluded” 考のために、D.デフォー(1660-1731)の『ロビンソン・クルーソー』1部、2部(ともに1719)と3部『反省 録』(1720)を拠り所にしました。
その理由は、第一に『正篇』5章で、セルカーク(デフォーが『ロビンソン・クルーソ-』の種本にした世界周航の体験者の名前)に言及していること。第二に同22章で、「ブルーノの腹心の奴隷になりたい、、、」は、ロビンソン・クルーソーの従僕「フライデー」のイメージと重なること。第三に『ロビンソン・クルーソー』の主人公は時代に応じた宗教論(一例は『シルヴィーとブルーノ』25章に反映)や、経済論(一例は『シルヴィーとブルーノ・完結篇』3章に反映)を述べますが、キャロルも登場人物に当時の社会観、歴史観、宗教観を反映させていること。第4にキャロル(ドッドゥスン家)の先祖に北極探検家がおり、海洋探検記などに親しんでいたふしがあること、などがあげられます。
ちなみに『ロビンソン・クルーソー』の第1部の原題は、『ヨークの水夫、28年間オルノコ川河口に近いアメリカ沿岸の無人島に暮らしたロビンソン・クルーソーの生活と不思議な驚くべき冒険』です。第2部は『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』で、第3部は『ロビンソン・クルーソーの生活と驚くべき冒険のあいだの真摯な反省』です。キャロルは『ロビンソン・クルーソー』の第1部、第2部、そしてあまり読まれていないといわれる第3部までも読み、物語の構成や序文などを参考にしたことが考えられます。
興味深いことに、『ロビンソン・クルーソー』の第2部の結末は、”To conclude, having syayed near four months in Humburg,,,,, And here,,,,,” で、「長い物語をいま、ここで終わるにあたり、これまでよりもずっと長い死出の旅へ赴く用意をしている」で終わります。
『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の物語と、献詩(翻訳5ページ参照)とを合わせ読むとき、“Concluded”というタイトルには、晩年のキャロルの思い入れが重なってくるように思いました。
もう一つの“eerie / trance” 考については、拙訳にざっと目を通してくださったある方が「eerie / tranceの異常感覚は、LSD のそれに比肩できる」と感想を寄せてくださったことがきっかけになりました。そこで、新しいアプローチの拠り所として、ド・クインシー(1785-1859)の『阿片常用者の告白』(1822,1845)とその続篇『深き淵よりの嘆息』(1845)を読んでみました。あとで分かったことですが、キャロルは25歳のときにド・クインシーを読み、日記に『阿片常用者の告白』を読んだ感銘をつぎのように書いていたのです。「この本にはあらゆる情報が詰まっていて、まるで人体が養分を吸収する導管が張り巡らされているようだ。今後のために索引を作っておこう、、、、、作者が意識していない同時代の作家にとって大事なものが秘められている」(1857年11月24日の日記)と。彼は1853年にエディンバラから出版された『ド・クインシー全集』全14巻を所有しており、つぎつぎに読破していったようです。ド・クインシーの著作はその後のキャロルの文学の淵源となったと考えることが出来ます。
ド・クインシーは、 子ども時代の経験や苦悩が夢の中に結晶して、夢見るものの人間性を形づくり、育て、文学を生み出しうること確信していました。『深き淵よりの嘆息』には“eerie / trance” 理解のためのヒントが多く含まれていました。
「人間の頭脳に埋め込まれた夢見る仕掛けは…..闇の神秘と手を結んで、人間が妖しい影と密会する一つの偉大な反射望遠鏡となる」(『深き淵よりの嘆息』、p. 11)。
「夢見る器官は、心臓、目、耳と結びあって無限のものを人間の脳細胞の中に押し入れ、、、、眠る心の鏡面に投げかける見事な装置である」(同、139)。
「人間の頭脳とは、自然の偉大な重ね書きした羊皮紙写本でなくてなんであろう」(同、217)。
キャロル自身も1856年2月9日の日記に「夢」について書いています。「夢から覚めようとするとき、目ざめているときなら狂っているとしか言いようのないことを言ったり、したりすることはないだろうか。そうだとすると、狂気を、夢と現実が区別できなくなった状態と定義してはいけないだろうか。眠りはもう一つの世界をもっており、現実と似た一面さえ持っているようだ」。ここには彼が愛読していたサー・トマス・ブラウン(1605-82)の影響があったことも考えられます。ブラウンは『医師の信仰』(Religio Medici, 1643)のなかで「睡眠中に人は自らをいくぶん超えた存在になるからには、肉体のまどろみは魂の覚醒でもあるのではないか。眠りは感覚を結紮する反面、理性を開放する。したがって、目覚めているおりの思考は眠っている間の空想には及ぶべくもない、、、、、夢の中で私は一篇の喜劇を書き上げることが出来るばかりか、それが上演されるのを眺め、その滑稽さを理解し、笑ってしまい、目を覚ますこともある」と言っているのです(180-1)。
多くの先達からのリッテラチャーもあってこそ『シルヴィーとブルーノ』が書けたことが分かります。ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は、1896年から東大在任中におこなった英文学講義の中で、キャロルの二冊の『アリス』、『スナーク狩り』、『シルヴィーとブルーノ』について触れ、キャロルの夢の論理の叙述が「子どもがどういう夢を見るか、なぜそんな夢になるのかを知っており、夢のヴィジョンとそれに伴って生ずるあらゆる異常感覚の、動揺、歪曲、矛盾、不条理を、読者に、これこそ夢の感覚だと思わせるようなかたちで書いた」(『L.ハーン著作集6』、322)と言って高く評価していました。
         
ところで、『深き淵よりの嘆息』の原題は、Suspiria De Profunds: Being a Sequel to the Confessions on English Opium Eater です。そしてラテン語の‘suspirio’ には‘to breathe ’の意味があります。キャロルは『シルヴィーとブルーノ』2部作で、「ささやく」という動詞を多用していますが、多くは‘whisper’を用いました。最後になって‘breath’を用いたのには彼なりのこだわりがあったに違いありません。『鏡の国のアリス』6章でハンプティ・ダンプティが、「動詞がいちばん気難しいので、たくさんの意味を込めたときには特別手当を支払う」と言うくだりがありますが、‘breathe’や‘concluded’などの使い方にも、キャロルのことばへの強いこだわりを感じます。
続篇執筆中の1891年2月、キャロルはクライストチャーチ・カレッジの礼拝堂で発作を起こし倒れ、その時の体験をのちに「病める人のための手紙」に次のように書きました。
   疑いもなくわたしのさい先は長くはありません。先だっての発作は容易にわたしの心臓の働きを止めた可能性がありました。発作のあと目覚めたときの不思議な情景は誰でもが見られるわけではないと思いますが、死は終わった(Death is Over!)というような幸福感に満ちていました。病気から解放され、甦ったような身体になれる、あんな体験がこの世でも出来ればいいのにとしみじみ思います(1891年8月の書簡)。
『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の献詩に“My Tale here ended” と書き、19章で「語り手」が「ダブル・ライフを生きてきた」と、自分の秘密をミュリエルに告げる(breathe) 場面を経て、かねて挿絵画家ファーニスに「自伝的なもの」と告げていたこの物語を閉じたのでした(concluded)。わたしはここに、キャロル自身の文学の完結という意味合いも込められていたのではないかと考えています。
『完結篇』24章で、リュウマチを病んで自室にこもった教授が言った「まだ二つ、三つ科学的な難題がある」(拙訳、165)というのは、暗にアインシュタインの量子力学や、フロイトの精神医学のことを示唆していると考えることが出来ますが、キャロルの作品が今日につながる開かれた終わり方をしているところを再確認しておきたいと思います。
このところテレビでモーガン・フリーマンの「時空を超えて」というシリーズを見ていますが、先日は「パラレルワールドは存在するか」という題で、「宇宙の中心はパラレルワールドの入り口である」という説をとりあげて、「パラレルワールドはもはやファンタジーではない」と言っていたのが印象に残りました。

(了)