2018年5月29日火曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(2)」第30回イベント抄録

ルイス・キャロルなくて七癖
――『シルヴィーとブルーノ・完結篇』(Sylvie and Bruno Concluded)
翻訳こぼればなし
                 平 倫子 
(2017年 3月11日 北海道立文学館にて)
長年取り組んできた仕事ではありますが、俳句とは何の関係もないことをお話することに大きな壁を感じています。でも、せっかくルイス・キャロル(1832-98)のことをお話するのですから、タイトルを思い切って「ルイス・キャロルなくて七癖」にしました。



左の肖像写
真は、『シルヴィーとブルーノ』2冊本を執筆していた60代のキャロルです。
冒頭、『不思議の国のアリス』を読まれた方はどのくらいいらっしゃるか、おたずねしました。かなりの方が手をあげられました。『鏡の国のアリス』はずっと少なくなりました。ところが『シルヴィーとブルーノ』を読まれた方が一名いらっしゃったので、大いに励まされました。
ルイス・キャロルなくて七癖」というタイトルの手がかりになるものとして、フロイト(1856-1939)の著作から、不安夢の図を借りることにしました。 晩年のキャロルは、当時の科学がまだ解明できなかった心理学や物理学、脳生理学に強い関心を抱き、フロイトの初期の論文を読んでいたらしいのです。それでこの有名な図に、キャロルの七癖(「ことば狩り」、「夢」、「狂気」、「不気味」、「写真」、「手紙魔」、「数学・論理学」)の立て札を貼りつけ、便宜上のイメージ図を作成しました。  
もともとの狼のいる木の絵は、幼児期神経症の患者(通称「狼男」
)が幼いころに繰り返し見た夢を図に描いたものです。樹上の狼は、『赤ずきん』、『狼と七匹の仔山羊』、『仕立屋と狼』の人喰い狼の恐怖、ロシアの貴族だった父親の領地で飼われていた羊が伝染病で大量死した時の記憶、などが合成されたもので、成人してのちフロイトの患者になってから描いた不安夢の絵です(フロイト「ある幼児期神経症の病歴」より、『フロイト全集』14巻、2010,25-26ページ)。
「不気味」という項目は分かりにくいところかと思いますが、『シルヴィーとブルーノ』二部作に通底する妖気や、スピリチュアリズム、ニンフォレプシー(少女しか愛し得ない異常さ)なども含めています。
「狂気」は、キャロルが狂人だったという意味ではなく、19世紀末の時代の病としての狂気を根底においたものです。子どものための物語として書いたものに病気や死の概念を取り入れたことを、キャロルは『正篇』の序文で断っていますが、『完結篇』16章には死生観を語るシーンも見られます(拙訳、113-4)。
「ことば狩り」は、滑稽詩、パロディ、造語、アクロスティック(行頭、行間、行末の文字を綴ると語や名前になる)、アナグラム(語句の綴り換え、完結篇1章に出てくるLIVE➡EVILなど)、ダブレット(「HEADをTAILに変える」, HEAD➡HEAL➡TEAL➡TELL➡TALL)、回文(Was it a cat I saw? このこネコのこ?)など、キャロルの真骨頂で、言語はキャロルが逃げ込むユートピアでした。また、次の例のように下線の一字だけを置き換えることで、よく知られた諺を換骨奪胎したものもあります。Take care of the pence, and the pounds will take care of themselves. ➡ Take care of the sense, and the sounds will take care of themselves.(『不思議の国のアリス』9章より)。

キャロルは多くのゲームやパズルを考案して、子どもたちを楽しませました。左の絵は、最晩年に刊行を計画していた『オリジナル ゲームとパズル』の口絵のイメージを、挿絵画家E.G.トムソンのために描いたキャロルのパズル絵で、1897年8月7日にトムソン宛の手紙に添えられたものです(『キャロルと挿絵画家の往復書簡』、310)。『シルヴィーとブルーノ・完結篇』(1893)の巻末に、「『オリジナル ゲームとパズル』は目下準備中」と広告が載っているにもかかわらず、実現しませんでした。
池澤夏樹氏は現在刊行中の「日本文学全集」の第29巻『近現代詩歌』のなかで、英語圏でもっとも短く、形式の制限がつよいものとして、エドワード・リア(1812-88)のリメリックをあげています。リメリックは地名と人物を書き込んだ5行の戯れ歌です。
  リガから来たお嬢さん / 虎に乗ってニコニコお散歩 / 戻ったときには / お嬢さんは虎の中 / ニコニコなのは虎のほう(『近現代詩歌』、457)
キャロルも13歳のとき、『実益と教育のための詩』(1845)という家庭回覧誌をつくり、そのなかにリメリックを数篇書きました。児童文学史では、ノンセンス詩人としてキャロルはリアと肩を並べ称されます。『不思議の国のアリス』にはじまるキャロルのノンセンス詩やパロディには目を見張るものが多いのですが、『シルヴィーとブルーノ』と『シルヴィーとブルーノ・完結篇』にも、二作にまたがった全9連の「狂った庭師のうた」という6行詩があります。「、、、」かと思ったが、もう一度見ると「・・・」だった、というパターンのノンセンス詩です。その第一連目をあげておきます。
  やつの見たのは一頭の巨象 / そやつは横笛吹いていた / 思ったものの、も一度見れば / なんとそやつは女房の手紙 /「やれやれわかった」やつがいう /「これぞ人生の辛さかな   (『シルヴィーとブルーノ』正篇第5章、柳瀬尚紀訳)

ここで「象」かと思ったが、もう一度見ると「女房の手紙」というのは、俳句の「二物衝撃」のテクニックに近いものが感じられないでしょうか。
『正篇』序文には’litterature’ というキャロルの造語が出てきます。literature (文学)とlitter (散らかす)を合成、リッテラチャーというかばん語にしたものです。具体的にキャロルは「ふと心にうかぶ半端な思いつきや会話の断片をリッテラチャー(文学散乱物)と名付けた」と言っています。どんどん溜まる混沌としたリッテラチャーを、なんとか独創的な物語に撚り合わせようと、キャロルは長い間腐心していました。
2015年にドキュメンタリー文学のジャンルでノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシェーヴィッチは、近著『セカンドハンドの時代』のなかで「自分の耳に聞こえるままを書くために、長いあいだ自らの手法をさがしていた、、、、真実はひとつの心、ひとつの頭のなかにおさまらない」(『セカンドハンドの時代』、602)と言っています。彼女は聞き書きの過程で、話し手の沈黙をも記録しました。「ただの日常生活が文学に移行するその瞬間を見逃さないように、、、、、あらゆる会話の中でその瞬間を見張る。『文学のかけら』はいたるところで、あるいは思いもよらないところで、きらりと光る」とも言っています(同、480)。『セカンドハンドの時代』を読んで、「文学のかけら」は「リッテラチャー」と呼応するのではないかと思いました。
「夢」は ”eerie / trance” のところで触れます。「写真」や「手紙魔」についてはパワーポイントで資料にそって説明をしましたが、ここでは割愛して「翻訳こぼればなし」に移ります。
図1

図1は、H. ファーニスによる『シルヴィーとブルーノ』(1889)の口絵、図2は、同じく『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の口絵です。この物語は当初一巻で発表する予定でしたが、あまり長くなったため折半されました。キャロルはそのことを『完結篇』の序文で次のように説明しています。   「1889年3月に物語全体のページ数の見当がついたとき、二冊に分けて出版するほうが良いと考えた。そのために正篇にある種の結末(a sort of conclusion)を書かなければならなくなった。多くの読者がこれで終わりと思えるような結末(the actual conclusion) にして1889年12月に出版した。たくさんよせられた手紙のなかに、この結末は本当の結末(a final conclusion)ではない、といぶかる内容のものが一通だけあった。それは子どもからのもので、最後まで読んで、これでおしまいではない(no ending up)ことがわかり、あなたは続き(sequel)を書こうとしていることが分かった、と書いてあった」(拙訳、7)。

図2

翻訳を終えて気になった疑問と課題はつぎの二つでした。
1)なぜタイトルがSequel ではなくConcluded なのか。
2)物語に通底するeerie / trance 理解のための新しいアプロ 
ーチはないか。
『完結篇』の序文からもうかがえることですが、『正篇』の評判があまり良くなかったため、キャロルは続篇に相当のこだわりを見せました。それがタイトルにも表れたものと思われます。
“Concluded” 考のために、D.デフォー(1660-1731)の『ロビンソン・クルーソー』1部、2部(ともに1719)と3部『反省 録』(1720)を拠り所にしました。
その理由は、第一に『正篇』5章で、セルカーク(デフォーが『ロビンソン・クルーソ-』の種本にした世界周航の体験者の名前)に言及していること。第二に同22章で、「ブルーノの腹心の奴隷になりたい、、、」は、ロビンソン・クルーソーの従僕「フライデー」のイメージと重なること。第三に『ロビンソン・クルーソー』の主人公は時代に応じた宗教論(一例は『シルヴィーとブルーノ』25章に反映)や、経済論(一例は『シルヴィーとブルーノ・完結篇』3章に反映)を述べますが、キャロルも登場人物に当時の社会観、歴史観、宗教観を反映させていること。第4にキャロル(ドッドゥスン家)の先祖に北極探検家がおり、海洋探検記などに親しんでいたふしがあること、などがあげられます。
ちなみに『ロビンソン・クルーソー』の第1部の原題は、『ヨークの水夫、28年間オルノコ川河口に近いアメリカ沿岸の無人島に暮らしたロビンソン・クルーソーの生活と不思議な驚くべき冒険』です。第2部は『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』で、第3部は『ロビンソン・クルーソーの生活と驚くべき冒険のあいだの真摯な反省』です。キャロルは『ロビンソン・クルーソー』の第1部、第2部、そしてあまり読まれていないといわれる第3部までも読み、物語の構成や序文などを参考にしたことが考えられます。
興味深いことに、『ロビンソン・クルーソー』の第2部の結末は、”To conclude, having syayed near four months in Humburg,,,,, And here,,,,,” で、「長い物語をいま、ここで終わるにあたり、これまでよりもずっと長い死出の旅へ赴く用意をしている」で終わります。
『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の物語と、献詩(翻訳5ページ参照)とを合わせ読むとき、“Concluded”というタイトルには、晩年のキャロルの思い入れが重なってくるように思いました。
もう一つの“eerie / trance” 考については、拙訳にざっと目を通してくださったある方が「eerie / tranceの異常感覚は、LSD のそれに比肩できる」と感想を寄せてくださったことがきっかけになりました。そこで、新しいアプローチの拠り所として、ド・クインシー(1785-1859)の『阿片常用者の告白』(1822,1845)とその続篇『深き淵よりの嘆息』(1845)を読んでみました。あとで分かったことですが、キャロルは25歳のときにド・クインシーを読み、日記に『阿片常用者の告白』を読んだ感銘をつぎのように書いていたのです。「この本にはあらゆる情報が詰まっていて、まるで人体が養分を吸収する導管が張り巡らされているようだ。今後のために索引を作っておこう、、、、、作者が意識していない同時代の作家にとって大事なものが秘められている」(1857年11月24日の日記)と。彼は1853年にエディンバラから出版された『ド・クインシー全集』全14巻を所有しており、つぎつぎに読破していったようです。ド・クインシーの著作はその後のキャロルの文学の淵源となったと考えることが出来ます。
ド・クインシーは、 子ども時代の経験や苦悩が夢の中に結晶して、夢見るものの人間性を形づくり、育て、文学を生み出しうること確信していました。『深き淵よりの嘆息』には“eerie / trance” 理解のためのヒントが多く含まれていました。
「人間の頭脳に埋め込まれた夢見る仕掛けは…..闇の神秘と手を結んで、人間が妖しい影と密会する一つの偉大な反射望遠鏡となる」(『深き淵よりの嘆息』、p. 11)。
「夢見る器官は、心臓、目、耳と結びあって無限のものを人間の脳細胞の中に押し入れ、、、、眠る心の鏡面に投げかける見事な装置である」(同、139)。
「人間の頭脳とは、自然の偉大な重ね書きした羊皮紙写本でなくてなんであろう」(同、217)。
キャロル自身も1856年2月9日の日記に「夢」について書いています。「夢から覚めようとするとき、目ざめているときなら狂っているとしか言いようのないことを言ったり、したりすることはないだろうか。そうだとすると、狂気を、夢と現実が区別できなくなった状態と定義してはいけないだろうか。眠りはもう一つの世界をもっており、現実と似た一面さえ持っているようだ」。ここには彼が愛読していたサー・トマス・ブラウン(1605-82)の影響があったことも考えられます。ブラウンは『医師の信仰』(Religio Medici, 1643)のなかで「睡眠中に人は自らをいくぶん超えた存在になるからには、肉体のまどろみは魂の覚醒でもあるのではないか。眠りは感覚を結紮する反面、理性を開放する。したがって、目覚めているおりの思考は眠っている間の空想には及ぶべくもない、、、、、夢の中で私は一篇の喜劇を書き上げることが出来るばかりか、それが上演されるのを眺め、その滑稽さを理解し、笑ってしまい、目を覚ますこともある」と言っているのです(180-1)。
多くの先達からのリッテラチャーもあってこそ『シルヴィーとブルーノ』が書けたことが分かります。ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は、1896年から東大在任中におこなった英文学講義の中で、キャロルの二冊の『アリス』、『スナーク狩り』、『シルヴィーとブルーノ』について触れ、キャロルの夢の論理の叙述が「子どもがどういう夢を見るか、なぜそんな夢になるのかを知っており、夢のヴィジョンとそれに伴って生ずるあらゆる異常感覚の、動揺、歪曲、矛盾、不条理を、読者に、これこそ夢の感覚だと思わせるようなかたちで書いた」(『L.ハーン著作集6』、322)と言って高く評価していました。
         
ところで、『深き淵よりの嘆息』の原題は、Suspiria De Profunds: Being a Sequel to the Confessions on English Opium Eater です。そしてラテン語の‘suspirio’ には‘to breathe ’の意味があります。キャロルは『シルヴィーとブルーノ』2部作で、「ささやく」という動詞を多用していますが、多くは‘whisper’を用いました。最後になって‘breath’を用いたのには彼なりのこだわりがあったに違いありません。『鏡の国のアリス』6章でハンプティ・ダンプティが、「動詞がいちばん気難しいので、たくさんの意味を込めたときには特別手当を支払う」と言うくだりがありますが、‘breathe’や‘concluded’などの使い方にも、キャロルのことばへの強いこだわりを感じます。
続篇執筆中の1891年2月、キャロルはクライストチャーチ・カレッジの礼拝堂で発作を起こし倒れ、その時の体験をのちに「病める人のための手紙」に次のように書きました。
   疑いもなくわたしのさい先は長くはありません。先だっての発作は容易にわたしの心臓の働きを止めた可能性がありました。発作のあと目覚めたときの不思議な情景は誰でもが見られるわけではないと思いますが、死は終わった(Death is Over!)というような幸福感に満ちていました。病気から解放され、甦ったような身体になれる、あんな体験がこの世でも出来ればいいのにとしみじみ思います(1891年8月の書簡)。
『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の献詩に“My Tale here ended” と書き、19章で「語り手」が「ダブル・ライフを生きてきた」と、自分の秘密をミュリエルに告げる(breathe) 場面を経て、かねて挿絵画家ファーニスに「自伝的なもの」と告げていたこの物語を閉じたのでした(concluded)。わたしはここに、キャロル自身の文学の完結という意味合いも込められていたのではないかと考えています。
『完結篇』24章で、リュウマチを病んで自室にこもった教授が言った「まだ二つ、三つ科学的な難題がある」(拙訳、165)というのは、暗にアインシュタインの量子力学や、フロイトの精神医学のことを示唆していると考えることが出来ますが、キャロルの作品が今日につながる開かれた終わり方をしているところを再確認しておきたいと思います。
このところテレビでモーガン・フリーマンの「時空を超えて」というシリーズを見ていますが、先日は「パラレルワールドは存在するか」という題で、「宇宙の中心はパラレルワールドの入り口である」という説をとりあげて、「パラレルワールドはもはやファンタジーではない」と言っていたのが印象に残りました。

(了)

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