2012年7月31日火曜日

『葉子が読む』がはじまります!

俳句集団【itak】事務局です。

8月。暦の上では秋を迎えますが北海道では今がまさに盛夏です。

前回ご好評を頂きました『牛後が読む』に続きまして
新企画『葉子が読む』をスタートしたいと思います。

第2回俳句集団【itak】の句会には今回80句が投句されました。
その中から俳人・高畠葉子が各回テーマを決めて選んだ句を読んで参ります。
前回同様、ネット掲載の許可を頂いたもののみを対象といたします。
掲載句に対して、あるいは評に対してのコメントもお待ちしております。
公開は明日8月1日(水)18時です。ご高覧下さい。


☆高畠葉子(たかばたけ・ようこ、「現代俳句協会会員」)



俳句集団【itak】第三回イベントのお知らせ等

◆俳句集団【itak】の第三回イベントのお知らせ

俳句集団【itak】の第三回イベントは9月8日(土)午後1時から
中島公園内の北海道立文学館講堂で開催予定です。
終了は午後5時です。

第一部の企画は、トークショー「俳句って、面白い!」(仮題)
ふたりの俳人とひとりの歌人が、それぞれ好みの俳句を持ち寄り
好き放題に語る45分間です。

出演予定は以下の三名です。

籬朱子(俳人)・高畠葉子(俳人)・山田航(歌人)

14時からは定例の句会を予定しております。
ご参加の方は当季二句を受付時に投句頂きます。
見学だけのご参加もお受けしております。

参加受付等の詳細は改めてお知らせしますので
ご興味のある方は日程の調整などなさってお待ちください。


北海道新聞7月23日の夕刊に
俳句集団【itak】第二回講演会・句会の記事が掲載されました。
先日来小さな運動を取り上げていただき、各種メディアに感謝します。

















◆先日公開した『人気五句』についてツイッターでの評を頂きました。
ご参加のみなさまに深く御礼申し上げます。
頂いた評と一連の会話を「ゆかりんのーと」にまとめておりますので
選句投句一覧橋本喜夫句会評などとと合わせてご覧くださいませ。


◆このあとのブログ企画
前回好評でした『牛後が読む』に続きまして『葉子が読む』をスタートします。
これまでと違ったテイストをお楽しみください。
不定期連載につきツイッターの予告などをお見逃しなく。

2012年7月28日土曜日

俳句集団【itak】第2回句会評 (橋本喜夫)

俳句集団【itak】第2回句会評



2012年7月14日


橋本喜夫(雪華、銀化)




714日、少々手狭な会場ではあったが、第回の句会が第1回以上の熱気を帯びつつ、行われた。今回は高校生男子が参加したせいか、先輩女流たちの目がいつもより輝いていた感じがしたが、気のせいかもしれない。さてさっさと、無責任に、わがままにこの句会評を書いてしまおう。誤解、誤読は「俳句の華」だと思っていますので、どうか俳人諸氏ご寛恕を。それと紹介できない佳句もあったことをお忘れなく。





干梅にひとつひとつの夜空かな  久保田哲子

◆さっそく、今回の代表的秀句のひとつを掲げた。手作りの梅干しを作ったことのあるひとも、ないひとも想像すればわかることがある。それは夜干しの梅の背景にある気持ちの良い夜空だ。丹精こめて作った梅干しひとつひとつに時間、空間としての夜空があり、夜空ひとつには数多くの星がある。気持ちの良い夜空、夜の空気感が伝わる句ではないか。梅干しではなく干梅とした作者の言語感覚も素晴らしい。




星涼し眼持たざる深海魚   今田かをり

◆海底に澄む深海魚のひんやり感を夏の俳句に素材として使用することはよくあるだろう。眼の退化した深海魚を「眼持たざる」という表現もありえるだろう。この句の良さは星涼しの季語の斡旋なのだろうと思う。海底と天空という取り合わせだけではない、気持ちのよい飛躍がある。




団扇からどこ吹く風の生まれけり  栗山麻衣

◆どこ吹く風という措辞を使いたいとまず、思ったのだと思う。言葉派ではよくある作り方だ。そんなときにどんな季語を持ってきて、いかに処理するかは、作者の力量と作者の志向が決めることだ。団扇という俳諧味のある季語を斡旋するところはニヤッとさせられる。そして風で団扇か、つき過ぎでないかと思った諸氏?ためしに他の季語でやってみな。ここまでうまく俳句にならないと思う。




流しさうめん変なおじさん混じりをり 岩本 碇

◆流しさうめんを使った小芝居やコントの場面を想像する。流しそうめんに多くの箸が伸びて、皆でそうめんをすするクローズアップ画面のあと、大写しになる。
するとひとり、変なおじさんが混じっているという景。「人生はクローズアップでは悲劇だが、ロングショットは喜劇である 」といったチャップリンの言葉を思い出す。




鰻屋に酒好きそろふ走り梅雨     三国真澄

◆夏の暑いさかり、鰻屋にあつまり昼酒を楽しんでいるおじさんたち。そろいもそろった酔狂なひとたちである。今でも東京の下町などに行くと見かけそうな風景。この句の良さも走り梅雨の季感のよさであろうか。鰻屋との取り合わせも最高である。これを季重なりだとかいう無粋なひとはイタックにはいないであろう。




夕立て音階の風散らばれり      後藤あるま

◆夕立がきて、さっと涼しい風が起こり、屋根をたたく音が聞こえてくる。中七の「音階の風」の措辞が素晴らしい。夕立ての上五の措辞をどう取るか、説明的と思う人もいるだろうし、夕立の とかるい切れのある助詞を使うべきだとか、夕立やで一度切って座五を連体形で締めるという別案もあるだろう。作者はおそらく、切りたくなかったのだと思う。夕立がきて、風が起き、音を立てるといった連続性を重視したのだと思う。




月涼し今日ふたたびの水を買ふ    籬 朱子



◆水の宅急便とどくという句があったが、この句もそんなすがすがしさが伝わる。水を買うというごく日常的な行為が、とても気持ちよく感じられるのは、月涼しの季語のよろしさなのであろう。あわただしく、暑い日盛りが過ぎて、夜になり、涼しい月を仰ぎながら、ふと息をつぐように今日2回目の水を買った。背景にあるその人の繁忙な日常と夜の息遣いが伝わり心地よい。


真空管つてなあに八月十五日     内平あとり



◆おそらくあの玉音放送も全国に真空管ラジオを通じて発信されたものだろう。若者は真空管そのものも言葉では知っていても見たことないと思う。われわれの頃はテレビが壊れたときや、ラジオを壊してむき出しになった真空管をよく見た。当初の頃は鉄腕アトムのおなかのなかにも内臓されていた。この句も八月十五日への展開が見事である。



乳房のひとつは薔薇におきかへる   早川純子


◆今回の最高点句かもしれない。私も頂いた句だ。俳句は「もの」と言われ、具体的なもの、具象的なものが好まれる。この句は医学的な乳がん、乳房切断といった具象を想定しなくても楽しめる句だ。私はむしろ「観念的」に楽しめばよい句だと思っている。具象的に理解したいひとは「にゅうぼう」と読めばよいし、より観念的に捉えたいひとは詩歌の古典的な読みである「ちちぶさ」でもよい。たとえば「胸の薔薇のタットウー」を「おきかへる」と表現したのであれば、好きだったロック歌手を思い出す。薔薇戦争や、薔薇星雲を思う人だっているはずだ。それだけ薔薇は喚起力のある言葉だし、私にとっては不吉の匂いもする。作者は乳がんのことを詠んだかもしれないが・・・私にはそれを詩的昇華する心の準備が出来ていなかった。




沈むこと忘れしくらげ月と居る    高木晃

◆下五の月と居る、がすこぶる良い。すばらしい乳房だ、蚊が居る みたいな。
こういう一点豪華主義的な俳句の場合は、素晴らしい措辞をじゃましない言葉が必要である。「沈むこと忘れしくらげ」がまるで月の枕詞のように私には読める。もちろん、海月と月の詩的相似性も美しい。




薔薇を剪る指は亡びに染まりけり   五十嵐秀彦

◆乳房の句のおかげで同じ薔薇の句でも損をした感が否めない。ただし亡びに染まるという措辞がこの句の美点でもあるが弱点でもある。抽象的なメタファーが薔薇の鮮烈さを弱めている感じだ。ただ亡びに染まるは美しい表現だ、きっとTPOを弁えれば、いつか復活する措辞だと思う。




夕立くるきざしきざはしすでに濡れ  鈴木牛後

◆実際の句会でも頂いた句。夕立は実際にまだ来ていないのに、階段がすでに濡れている感覚、きざし感覚とでも言おうか、この感覚が鋭い。夕立や で安易に切らずに夕立くる という措辞が、まだ来てない感を出している。もちろん、きざしきざはしの 言葉遊び的リフレインも口承性がある。階段がなくてナマコの日暮れかなのような、異界的な異星人的なフレーバーもあり、好きな句であった。




目覚めれば魂重き昼寝かな      高畠葉子

◆たましいの句は一般に難しいといわれる。観念的になりかねないし、暗い、重くれの句になりがちだ。この句は魂が重いと言いながらとても軽妙な句である。魂を使ってこんな軽い句を作った人はあまりいないのではないか。目覚めたときだけ、重い魂にクスッと笑ってしまう。




角皿の青きパセリの孤独かな     三品吏紀

◆料理の添え物でパセリの存在の軽さを、中原道夫も詠んだことがあったように思うが、この句はパセリの孤独をおおげさに詠んだところに眼目がある。「角皿の青き」はまさに添え物の措辞である。無内容で、あとくされない面白さがあり、味わったあとに胃がもたれない俳句を櫂未知子は良い意味で「おばか俳句」と名付けたが、まさにこの句のパセリは大真面目に角皿で主役を演じている。




風死して君の匂いがあとづさる    山田美和子


◆気持ちのよい風が吹いて、君あるいは恋人かもしれぬが、そのひとの匂いが遠ざかるのであれば、予定調和であるのだが、この句は風が止まってむせ返るような暑さとともに恋人の匂いが遠ざかっていったというのだ。このアンビバレンスがいいではないか。風死すという季語で、恋人の死をニュアンスとして伝えたいのかもしれない。そうであったとしても、この季語の新しい使い方である。


走り来て蛇口を夏の雲に向け     今田かをり


◆青春映画の一シーンを見るような景である。おそらく運動部の学生が汗を拭きつつ、駆けて来て、蛇口を上に向けて顔にかけているシーンだ。この句いい句なのだが、美しい断片をわれわれに呈示して見せてくれるが、切れがないのがやはり落ち着かない。切れは美しい断片を映像として繋げてくれる残像の役目もあるのだ。切れを求めるのは俳人の悪い癖かもしれんが、たとえば「走り来る」でも「駆けて来る」でもよいのだ、うーん切れが欲しい。




ソーダ水泡の数よりある記憶     小笠原かほる


◆ソーダ水の泡の数と記憶の数、とても具象的な数と抽象的な数を呈示して比較しただけであるが、面白い。いいさしのまま呈示したことで、ソーダ水を飲んでいたころの個人個人の記憶を想起させるよろしさがある。思えばソーダ水の泡も記憶と同じように消え去ってゆく運命を担っている。



昼寝覚ヒトのスイッチ切れしまま   栗山麻衣


◆人間そういえばスイッチ入った状態と、切れた状態ってあるよな、と思う。私などは医者のスイッチと俳人のスイッチをオン、オフしている。みなそうかもしれぬ。妻のスイッチ、母のスイッチ、おばさんのスイッチ、いじわるのスイッチなどもある。そんな面白いことを考える作者がこの発想を俳句にするために選んだ季語が昼寝覚、うーん周密である。しかも季語の選択に俳味がある。




日の暮は声なつかしき韮の花     久保田哲子


◆母の声だろうか、日暮れに声が聞こえるとなにかと懐かしい気持ちにさせられる。万人の感じる印象ではなかろうか。そこに持ってきた季語が韮の花。スキーの回転競技や大回転はポールにぶつかるくらいにぎりぎりを突っ切らないと良いタイムは出せない。もちろんポールに衝突したらおしまいである。名句とはそんなリスクを冒さねば作れない気がする。この句の韮の花の選択は一歩間違うと類句類想といわれるぎりぎりを突きぬける措辞だと思う。




ラジオから母校の名前夏は来ぬ    後藤あるま


◆ラジオそのものが今やノスタルジックなメデイアになりつつある。まさにメデイアとしての存在感すらも「壊れかけのラジオ」である。さて、そのラジオから母校おそらく高校だろうが、母校の名前が聞こえてきた。おりしも甲子園の予選が始まったかもしれない。その名前を聞いて夏が来たんだなーと心から思ったという句だ。そういえば懐かしき高校の名前(漫画の)、青雲高校、明訓高校、青葉高校などなど夏を感じさせる名前だなと思う。実名の湖陵、潮陵、江南、緑陵みなそうだな、とも思ったりする。高校時代は人生の夏だからなあと思ったりもする。そうすると今の私は人生の大寒か?やばい悲しくなってきたので今回はこれにて稿了


2012年7月27日金曜日

俳句集団【itak】第2回句会 投句・選句一覧④

 ※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。










(今回より配点は天=3点、地=2点、人=1点として集計しています)

俳句集団【itak】第2回句会 投句・選句一覧③

※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。








※③-2、③-10、③-17 人気五句@第二回俳句集団【itak】句会・20120714  参照




(今回より配点は天=3点、地=2点、人=1点として集計しています)

俳句集団【itak】第2回句会 投句・選句一覧②


※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。











(今回より配点は天=3点、地=2点、人=1点として集計しています)

俳句集団【itak】 第2回句会 投句・選句一覧①

※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。








※①-12 人気五句@第二回俳句集団【itak】句会・20120714  参照




(今回より配点は天=3点、地=2点、人=1点として集計しています)

2012年7月22日日曜日

人気五句@第二回俳句集団【itak】句会・20120714

 #itakhaiku #人気五句

新企画【人気五句】公開を始めます。

第二回の句会を終え句会報告の方法をいろいろ模索しておりますが

今回より当日人気の集まった五句を公開していくことになりました。

ひとまずは作者の名を伏せての公開です。

誰が詠んだものか想像して頂くのはもちろんのこと

コメントやツイッターなどでの選評もお受けできたら幸いと思います。

人気の企画となるようでしたら継続していきたいと思います。

ご来場いただけなかった方々にも、【itak】句会の雰囲気を

共有し、お楽しみいただけたらと思います。

公開は今夜18時です。

(ツイッターのタグは #itakhaiku #人気五句)

2012年7月21日土曜日

【itak】スタッフ りっきーリポート  高校生が来た!の巻


 7月14日。晴れ。
俳句集団【itak】「第二回講演会・句会」も40名以上の参加により、大盛況で無事終えることが出来ました。
ゲストの皆さんの案内状には「暑くなると思われますので団扇や飲み物など、涼のとれるものをご持参ください」と書いていたにもかかわらず、肝心の自分自身が飲み物など忘れる始末。
…まぁ、事前にビール飲んで水分とってたからよかったけどネ(笑)

さて、今回のイベントの目玉は、やっぱりこれでしょう。

琴似工業高校の文芸部のみんな。今回は3名の生徒さんが参加してくれました。

 琴似工業高校は先月行われた「俳句甲子園 北海道大会」にも出場した高校で、今回三名の生徒さんが参加。
中には俳句を学び始めて2ヶ月という生徒も。
だけど句歴以上に才能あふれる投句・講評で会場を大いに沸き上がらせました。(特に女性陣をネ)

彼らは講演途中に会場に着いたので、受付のオネエサマ方(←ここ大事)から「席にお通ししてね♪」とブロックサインを受ける。
やはり慣れない雰囲気のせいか、どことなく緊張気味の彼ら。そこでワタクシ、小声ながらも今年一番の満面の笑みで「こちらの席どうぞ!」とご案内するも、イマイチ反応鈍し。
そりゃそうだ、野郎から満面のスマイル受けてもあんま嬉しくないよなぁ、と軽く自己反省。



選句時の様子。眼差しが鋭くなる。
句会途中、我らがBOSS(代表の五十嵐さん)から、彼ら3名の紹介がされる。
そしてはにかみながらも選句・講評する若者達。ハキハキとしゃべる姿には好感が持てました。あとはもう少し声が大きければ尚グッド。やっぱり男は声が大きくなくちゃね。きっと女子からモテるようになるよ(ニヤリ)

ちなみに彼らから選を頂いたオネエサマ方(←ここも大事)は、キャッキャッウフフと大変ご満悦のご様子でした(笑) 



 今回こうやって彼らと俳句を通して縁が繋がったけど、他にももっともっと若い俳句好きの人たちと縁をつなげていきたいなぁ。
【itak】は世代や結社とか関係なく、「俳句を楽しむ場」。学生さんも遠慮無くどんどん飛び込んできてほしいなぁ。
というか、こっちから引っ張り込むかもしれないけど(笑)


ともあれ琴似工業高校の皆さん、今回の御参加本当に有難うございました!
次回9月8日(土)も楽しみに待ってるよ!

2012年7月20日金曜日

【itak】第2回イベントを終えて


【itak】第2回イベントを終えて         五十嵐 秀彦



第2回イベントは46名参加で、前回と同様に盛況でした。
実は同日に道内有力俳人の句碑除幕式とぶつかり、かなりの人数がそちらに流れた様子でしたが、入れ替わりに初参加の人たちも来てくださって会場満員といううれしい状態となりました。

「龍之介俳句を語る」
はっきりと決めてしまっているわけではないのですが、第1部を講演会など企画ものとし、第2部を句会とする形で今回も進行いたしました。
講演会は、今田かをりさんの「芥川龍之介の俳句を語る」で、これが大変面白い内容で皆さんぐいぐいとひきつけられました。
なぜ龍之介が過去の句であった「水洟や鼻の先だけ暮れ残る」の句をあえて辞世の句としたのか。それをいくつかの角度から論理的に詰めていって、最後には「な~るほど!」とすっかり感心してしまう非常にスリリングな講演だったと思います。

「句会」
句会のほうもスタッフの尽力で、40名という参加者の多さを感じさせないスムーズな進行でした。
ここでなんといっても特筆したいことは、高校生の参加です。
札幌琴似工業高校文芸部の顧問の先生と3人の生徒さんが参加してくださいました。
生徒さんも他の参加者とまったく同じく2句出句し、3句選句して、マイクが回ってくればしっかりと講評を話してくれました。
不思議なものですね。十代の青年がいるだけで、場は生き生きとして参加者全員がそれだけで楽しくなってしまうようでした。
高校生参加のレポートは別稿で発表される予定です。

ここであらためて【itak】とは何なのか、高校生の姿を見ながら私はもう一度考えていました。
①誰でも参加できる自由な場とする
②実際に顔を合わせての「座」というものを重視する
③句会だけではなくプラスアルファのイベントを行う
④成果はインターネットを利用して広く発信する
基本的な枠組みはこういうことになるでしょう。
それはそれでいいのですが、では「何のために?」ということがあります。

「何のために」
これは【itak】を準備しているときから何度か繰り返し言ってきて、確認してきたことですが、私たちは組織や結社を作ることを目的としているのではありません。
停滞してしまった北海道の俳句の状況を動かすためのきっかけとしての運動を作ることが目的です。
もちろんそれを【itak】だけでできるとは思っていません。
しかし誰かがまず始めなければ状況は変わらないのです。
そして運動によって状況を変えていくためには、なんといっても新しい力が必要です。
「既存の組織、固定的なメンバー、閉鎖的な活動」
【itak】はそのすべての逆をやろうとしています。
そのことで、新しい人たち、若い人たちが活動できる場を作ろうとしています。
そしてその場は若い人たちだけではできません。
趣旨に賛同していただいた中堅、ベテランの俳人たちの協力は不可欠です。
そして相互に影響しあい、互いに研鑽していける場を作っていきたいと思っています。
ですから、今回の高校生の参加には2回目にして早くも【itak】の目指すべき道がはっきりと見えてきたように思え、また、私たちの考えた方向性が間違っていないことを確認できることでもありました。

「楽しいということ」
目的を持って、と言いながらも、句会は楽しくなければなりません。
俳句を通して互いに挨拶を交わし、心を通わせ、共感し、笑いあう。そこに座の原形があるのではないでしょうか。
まなじりをけっして、深刻なことを言い合っているようでは、新しいことは生まれてこないでしょう。
【itak】の句会には笑いがあります。
悪ふざけの笑いではありません。さわやかな笑いです。
ここに来て楽しかった。また次も遊びに来よう。
そんなイベントをこれからも続けていきたいものです。

「会場について」
第1回、第2回と会場が変わり、参加者の皆さまにはご迷惑をかけています。
キャパや料金、利便性など、模索しながらの会場選定でした。
今回のOYOYOアートセンターは大変雰囲気の良い会場で、【itak】にふさわしいところであり、今回参加の皆さまにも好評だったようです。
ただ、キャパがギリギリで今後のことを考えるとかなり厳しいことなどから、残念ながら次回はまた別会場となります。
ただ、次回会場は中島公園の北海道立文学館講堂を予定しておりまして、キャパや設備的にも余裕があることから、今後は文学館のイベントとぶつからない限りこちらを会場とする予定でおります。
つまり今後は、道立文学館が【itak】の拠点ということになります。
これは私たちにとってある意味「地の利」になりそうな予感もいたしますので、今後の活動にご注目いただきたくお願いします。
第3回イベントは詳細決まりしだいブログにアップし、またこれまでの参加者の皆さまには個別にご案内いたします。

第2回イベントの様子は、今後このブログで順次紹介してまいります。ご期待ください。

では9月8日(予定日は決まっております)第3回イベントでお会いしましょう。

2012年7月15日日曜日

俳句集団【itak】の第二回講演会・句会御礼

昨日は俳句集団【itak】の第二回シンポジウム・句会にお越しくださいまして
誠にありがとうございました。
至らぬことは多々有ったことと思いますが
おかげ様でなんとか無事にまとめることができました。

講演会・句会の概略については改めてこのブログと
フェイスブックページにてご報告させていただきたいと思います。
また、前回同様に五句競詠や選評の企画も準備しております。
発表したものについてコメントやツイッター等での選評を頂けますと
大変に励みになります。どうぞよろしくお願いします。


今後も奇数月第二土曜日を定例として会を重ねてまいりたいと思います。
一堂に会して行う句会と云うものに益々の力を持たせたく、多くの方々の
ご賛同・ご参加をいただければ幸甚であります。


ただいまのところは取り急ぎの御礼まで。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

2012年7月13日金曜日

道民の雑誌・財界さっぽろに記事が載りました。

俳句集団【itak】第二回講演会・句会は7/14(土)、いよいよ明日となりました。

旗上げイベントからあっという間の2カ月でした。

今回はどんな句会になるのか、今からわくわくしております。

このたび俳句集団【itak】についての記事が

道民の雑誌・財界さっぽろに載りました。

このふた月の間に新聞やみなさんのブログ、俳誌の編集後記など

少しずつ取り上げていただくことができました。

小さな動きを重ねていつか大きな運動にできるよう

ゆっくりあわてず丁寧に育っていきたいと思います。

2012年7月7日土曜日

俳句集団【itak】 五句競詠・第四弾予告!

俳句集団【itak】です。 7月8日(日)の夕方6時に五句競詠第四弾がアップされます!
幹事16名のラスト4名分15句5首です。
句評等ございましたら、どしどし書き込んでください!
お待ちしています!

五句競詠(十三) 山田美和子
五句競詠(十四) 岩本 碇
五句競詠(十五) 山田 航
五句競詠(十六) 籬 朱子


※歌人・山田 航は短歌を五首公開します。

2012年7月6日金曜日

俳句集団【itak】 五句競詠(十二) 五線紙 恵本俊文


俳句集団【itak】 五句競詠(十一) 原色図鑑 久才秀樹


俳句集団【itak】 五句競詠(十) 空っぽ 中道恵子


俳句集団【itak】 五句競詠(九) 夏の雲 平倫子


俳句集団【itak】 五句競詠・第三弾予告!

俳句集団【itak】です。 
7月6日(金)の夕方6時に五句競詠第三弾がアップされます!
先日の三名に続き、今回は四名の句が発表です。
句評等ございましたら、どしどし書き込んでください!
お待ちしています!

五句競詠(九)  平 倫子
五句競詠(十)  中道恵子
五句競詠(十一) 久才秀樹
五句競詠(十二) 恵本俊文


2012年7月2日月曜日

俳句集団【itak】 五句競詠(八) 闇討ち 三品吏紀


俳句集団【itak】 五句競詠(七) 千疋屋 早川純子


俳句集団【itak】 五句競詠(六) ナイター 橋本喜夫


俳句集団【itak】五句競詠・第二弾!

俳句集団【itak】第二回講演会・句会まで2週間を切りました!
心とからだを少しずつ、浮世から俳句の世界へと遷していきましょう。
人気企画『牛後が読む』第一回分も終了したところで
先日公開してご好評だった五句競詠、ビシバシ参りましょう。
句会までの間、程よい間隔で公開します。

サクサクとアップしますのでどうぞご高覧下さい。
コメントやメールでの句評など、心よりお待ちしております。

五句競詠(六)橋本喜夫
五句競詠(七)早川純子
五句競詠(八)三品吏紀

2012年7月1日日曜日

<緊急追加>俳句集団【itak】第一回シンポジウム評論③の2

.トマス・ビュイック(1753-1828)は、W.ホガース(1697-1764)やブレイクとならぶイギリスの版画家で、それまでの板絵木版に代わる木口木版の技法を開拓した。『イギリス鳥類誌』に代表される自然博物誌の挿絵に貢献すると同時に、小説や詩集などでは挿絵と本文が同じページに印刷出来るようにするなど、本の普及に尽力した。
 ここでは『イギリス鳥類誌』から、「ひばり」の水彩による下絵(上図参照 William Wordsworth and the Age of English Romanticism, Great Britain, 1988)と、木口木版による白黒の挿絵を見た。





ロマン派の詩人P. B. シェリー (1792-1822)の「ひばりに寄せて」(1820)
  「西風に寄せる歌」(1819)について。
思想活動家でもあったシェリーは、五行詩21連(スタンザ)からなる「ひばりに寄せて」で、「陽気な精よ、おまえは鳥なのか、精なのか・・・」(1連)と問いかけ、「どんな美しい思い出を持っているのか」(13連)、「目ざめても眠っていても、死について人間が夢みるよりも真実な深いものを考えているに違いない」(17連)、「人間は、前を見、うしろを見て、ないものにあこがれる・・・もっとも楽しい歌は、悲しい思いをうたうもの」(18連)と、揚げひばりに霊性を見て、美しい歌声の背後に目に見えない深い真実があることに思いを致している。
なお、夏目漱石は『草枕』(1906、明治39年)のなかで、「落ちる雲雀と、上る雲雀が十文字にすれ違ふのかと思った」とひばりの動きを描写したあと、「(雲雀は)魂全体が鳴くのだ・・・魂の活動が声にあらはれたもののうちで、あれ程元気のあるものはない」と言ってシェリーのひばりの詩の第185行を原文で引用した。

We look before and after/ And pine for what is not:/ Our sincerest laughter/ With some pain is fraught;/ Our sweetest songs are those that tell of saddest thought.

「前を見ては、((しり))へを見ては、物欲しと、あこがるるかなわれ。腹からの、わらいといへど、苦しみの、そこにあるべし。うつくしき、極みの歌に、悲しさの、極みの想、籠るとぞ知れ」(『全集』第3巻、7


さらに10年前の明治29年には、「落つるなり天に向かって揚雲雀」という句を作って正岡子規に送っている。漱石のひばりへの思い入れが感じられる。その年は、松山から熊本に移る前の年であり、「ホトトギス」創刊の前の年でもあった。

シェリーが1819年秋、イタリア滞在中遭遇した嵐に着想を得たという「西風に寄せる歌」では、「いずこにも吹きゆく力強い<精>よ / 破壊者にして保護者なる西風よ」といって、秋には木々を枯らし、春には芽吹きを促す西風の両義性に季節の循環を重ね、さらに反体制の立場をとる自分自身の姿をも重ねて、「・・・わたしの言葉を /(新生をうながすために) 人類のあいだにまき散らせ!/わたしの口をとおして 目ざめぬ大地に/予言のラッパを吹きならせ!おう 風よ/冬来たりなば、春は遠からずや」と、その後よく知られるようになった成句で終る(上田訳『シェリー詩集』、75-80)。

.ラファエル前派の運動とジャポニズムについて。

当時の英国画壇のアカデミズム中心主義に反旗をひるがえしたW. H. ハント(1827-1910)J. E. ミレイ(1829-96)、ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ(1828-82)らが、自分たちの理想をラファエル以前のイタリア壁画に見出して、1848年ロンドンで結成したのがラファエル前派の運動だった。当初は批判も多かったが、美術批評家のジョン・ラスキン(1819-1900)の擁護を得て、ロセッティを中心に活動の場をひろげ、英国でのジャポニズムの流れとも連動してゆく。

ここでは、ロセッティの「受胎告知」(1849-50)と「浄福の乙女」(1875-9)に描かれた百合の絵(上図参照。The Lady Lever Art Gallery1996)をみた。後者はロセッティが1850年に書いた同名の詩のために描いた絵である。詩は次のように始まる(6行詩、全24スタンザ)。

天上の紫磨黄金の手欄より/浄福の乙女は外へ身を凭せ。/眼は深く、夕まぐれ、しづやかに/凪ぎわたる海の深みにまさりけり。/その手には三つの百合の花をもち、/髪の中、星は七つを数へたり。(竹友藻風訳)

この詩は、中世ロマンス風の流れを汲んでおり、恋人の死、百合の花、天上と地上の「時」の違いなどを鍵にしている。漱石はこの詩から『夢十夜』(1908)の「第一夜」を構想した。「こんな夢をみた」で始まる「第一夜」は、恋人が「(また逢いにくるから)百年、私の墓の傍に座って待っていてください」と言い残して死ぬ。待つ約束をした男は、待っても待っても何も起こらないので、女にだまされたのではないかと疑い始める。すると、墓から青い茎が伸び、その頂に「真っ白な百合が鼻の先で骨にこたえるほど匂った」ので、「百年はもう来ていたんだな」と気づく(『夢十夜』9-11)、という夢の話である。

.風の表象と クリスティーナ・ロセッティ(1830-1894)の「風のうた」について。

西欧の風の表象の一例として、岩波新書のタイトルページの四隅に見られる東西南北の風の図像(岩波新書1000号までがわかりやすい。1001号以後は装幀が変わる)を見る。
ダンテ・ゲイブリエルの妹クリスティーナ・ロセッテイは、詩人で「ラファエル前派」の運動にもかかわっていた。詩集Sing-Song1872 には、よく知られた「風」のうたがある。クリスティーナの詩には、母性的、かつ教え諭すような特徴がみられる。日本では西条八十訳(1921年「赤い鳥」に発表)、草川 信作曲の唱歌でよく知られている。

  誰が風を見たでしょう/僕もあなたも見やしない/けれど木の葉をふるわせて/風は通り過ぎてゆく(『日本唱歌集』、209)。

英国伝承童謡(マザー・グース)の「月に棲む男」の月の寓意について。

英語で月を表すlunaという言葉は、月の満ち欠けに影響されると考えられた狂気(lunacy あるいはmad)の意味を含んでいる。17世紀後半からは、ロンドンのベドラム精神病院の歴史をふまえて、”New Mad Tom of Bedlam or The Man in the Moon” とも呼ばれた。


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  The man in the moon/ Came down too soon/ And asked his way to Norwich;

  He went by the south, And burnt his mouth/ With supping cold plum porridge.

The Oxford Dictionary of Nursery Rhymes, 294

 この、よく知られている「月の男」は、「月から逃げてきた男がノリッジへゆく道をたずねた、南へ行って冷たいプラムのおかゆでやけどした」というナンセンス詩である。

日本では月に「杵を振り上げた兎」を見るが、西洋では「野茨の束をもった農夫」を見る。より古いものでは、野茨の束で破れた垣根を直そうとするが、盗んだ野茨の束だったため、仕事が進められず、「突っ立って大股にすすむ」という矛盾した姿勢、つまり静止状態に陥る、という内容のものもある。

.イェイツの「詩と象徴主義」
 W. B. イェイツ(1865-1939)は、「詩と象徴主義」(1900)のなかで、バーンズの「私に戸をあけてくれ、おお!」(1793)の詩を引き合いに出してシンボリズムを説明している。

  白い月が白い波のかなたに沈んでゆく、/そして時は私とともに沈んでゆく、おお!

  偽りの友よ、偽りの恋人よ、さようなら!/みんなの心を煩わすことはもうない、おお。

           (’Open The Door To Me Oh’ The Complete Poetical Works, 485

 この詩は、寒さに苦しむ男が、わたしを哀れんで戸を開けてください!と頼むが果たされず、偽りの友や偽りの恋人にむかって「もうみんなの心を煩わすことはない、さようなら」と告げて立ち去る。彼女が戸を開けたときには、野原で彼が冷たい屍になっており、かたわらにうずくまった真の恋人は二度と立ち上がらなかった、という物語性のある詩である。イェイツは、月と、波と、白さと、沈みゆく時と、最後の憂愁の叫びの組み合わせが、ひたすら感情の喚起をうながしているとして、シンボリズムの手法の好例と見ている(『筑摩世界文学大系』71巻、59)。

 イェイツのこの象徴主義の考え方は、岡崎義恵が中世象徴詩人、正徹の短歌の様式を論じた「日本詩歌に現はれたる気分象徴」のなかで用いた「気分象徴」(岡崎、『日本文芸学』646-8)に通じるように思う。

なお岡崎は『近代の抒情』の中で、俳句はもともと一行詩であるのに、フランスなどで三行詩と解しているのはどうか、と疑念を示している。(『近代の抒情』、203)。

10 イマジズム運動とエズラ・パウンド(1885-1972

1908F.R. フリント(1885-1960)が、『刀と花の歌』の書評を書き、荒木田守武(1473-1549)の発句「落花枝にかへると見れば胡蝶かな」の英訳 ” A fallen petal / Flies back to its branch: / Ah! A butterfly” を紹介した(『エズラ・パウンド詩集』、385-6)。

パウンド は、1908年ヨーロッパに渡り、フリント、オールディントン夫妻、T.E. ヒュームらとイマジズム運動に加わり、次のようなイマジズムの原則を発表した。1)日常語の的確な使用。2)新しいリズムの創造。3)題材選択の完全な自由。4)明確な映像の写出。5)輪郭の鮮明さ。6)集中法の重要性(斉藤 勇『アメリカ文学史』、p.177)。

パウンドの「地下鉄の駅で」(1912)は、イマジズムを代表する詩と言われている。

「地下鉄の駅で」

人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし/濡れた黒い枝の花びら(新倉俊一訳)

1911年、W.B.イエーツ(1865-1939)とパリ観光をしていたパウンドが、地下鉄の駅を出たところで、美しい女性と子どもの顔に出会った。その一瞬の強烈な印象を表現しようと30行の詩にするが破棄、半年後に15行の詩を書くがそれも破棄、一年後荒木田の発句を念頭におきながら2行の詩にした。パウンド自身「hokku(発句)のような詩」と言っていた。

11 小西甚一の『日本文芸の詩学』
小西は、芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」の「声・・・白し」のような描写に蕉風の新しさを見て、これは欧米の批評用語で共感覚(synaesthesia)と呼ばれるもので、芭蕉発句の特筆すべき点であると言う(小西、『日本文芸の詩学』、109)。ここでは作者の心情は直接には言い表されない。

12 ドナルド・キーン
キーンは、主題を表示しない日本の詩の特性を、「総体的には曖昧ながら、イメージにおいては、まざまざと具象的である」と言い、芭蕉の「雲の峯幾つ崩れて月の山」についても、「西欧の詩人はここに自分の意見を必ず付け加える」と言っている(小西、86)。

ここまで大まかに詩を中心に見てきた。そうして見えてきたことは、西欧の詩はスタンザをかさねて構築してゆくのに対し、俳句は素材を削ぎ落として究極の十七文字にしてゆく。それゆえ俳句は、西欧の詩人のように自分の意見を添えることなく「花鳥風月」に仮託して表現するのではないだろうか。


引用&参考文献
上田敏、『上田敏全訳詩集』、「花くらべ」、岩波文庫、1975, p.80.
小田島雄志訳、『冬物語』、「シェイクスピア全集」V、白水社、1978p.398.
ブレイク、W.,『ブレイク詩集』、「イギリス詩人選」(4)、松島正一編、岩波文庫、pp.107-8.
バーンズ、R.,『バーンズ詩集』、中村為治訳、岩波文庫、復刻版、2007, p.159.
シェリー、P. B.,『シェリー詩集』、p.75, 96.
ロセッティ、D.G.,『竹友藻風選集』第2巻、訳詩「浄福の乙女」、南雲堂、1982, pp.504-8.
夏目漱石、『夢十夜』、「第一夜」、岩波文庫、1986p.7-11.
パウンド、E.,『エズラ・パウンド詩集』、新倉俊一訳、角川書店、1976p.385-6.
イェイツ、W.B., 「詩の象徴主義」、『イェイツ・・・』、筑摩世界文学大系71、筑摩書房、1975.
岡崎義恵、『日本文芸学』、岩波書店、1935;『近代の抒情』、宝文館、1969.
小西甚一、『日本文芸の詩学』、みすず書房、1998. (2012/6/20, CKumiko Taira)