2014年10月25日土曜日

夏の光に~「群青」第5号を読む~  五十嵐秀彦


 
「群青」という同人誌がある。

発行人は櫂未知子さんと佐藤郁良さんで、このお二人が代表のような存在なのだろう。開成高校つながり?という印象もあるが、同誌に参加しているメンバーはさまざまだ。
既にこの俳誌については当ブログでも何度か触れられている。というのも、itakつながりの作者が何人も参加しているからだ。
青山酔鳴、安藤由起、栗山麻衣、堀下翔、などの名前はitakでもおなじみの顔ぶれである。
 
 
「群青」第5号(9月)からいくつか作品を見ていきたい。
 
 
 謝れば済むこと多し蝉時雨         青山酔鳴
 
 
ある程度の年齢になるとこれは実感となる。謝ることに抵抗がなくなって、特に何も感じなくなっている自分に気づくこともしばしばだ。

今日も頭を下げて、訪問先から出てきた。そのとき全身を包み込むような蝉時雨に気づいたのだ。

「済んだ」と思いつつ、「さて、何が済んだのだろう?」とも自問する。

かつて心臓を刺すような緊張感の中で頭を下げた若き日のことを、蝉時雨が思い出させてくれているのかもしれない。
 
 
 魚捌くなに裁く夕立の音          青山酔鳴
 
 
今回の「群青」に掲載された酔鳴さんの「魚」十句では、「謝れば済む」とか、「ギルティ・オア・ノット・ギルティ」とか、そしてこの句であるとか、作者は何か罪の意識に追われてでもいるかのようだ。

「捌く」と「裁く」が音の同じであることに気づきながら、作者は魚を捌いている。包丁をたくみにあやつりながら。

前掲の句では蝉時雨だったが、ここでは夕立の音が、家の中にまで侵入してきて、まるで耳鳴りのようにそれは作者を包み込み責めたてている。

だが、「なに裁く」では作者の罪の意識のあり処はわからない。

この句の場合、いづれわからぬものであるのなら「なに」は余計であるのかもしれない。
 
 
 上空に鳥ゐる証拠夏座敷       安藤由起
 
 
「気配」ではなくて「証拠」なのである。「屋根の上」ではなく「上空」なのである。
そんなことってあるのかなぁ・・・と不思議に思う。
ところが、理屈が成立しなければしないほどに説得力の増すこともある。

この句のやや突飛な「事実」が説得力を持って立ち上がってくるのは、季語「夏座敷」にあるのだろう。
この言葉には、窓も戸も開け放たれた座敷の中に読者を連れ込む力があるのだ。

読者は作者と一緒に、庇の深い古民家の薄暗い座敷に座り、夏の光が溢れている庭を見ている。
そして静かに風が通り過ぎてゆく。

その全てが「上空に鳥ゐる証拠」なのである。
 
 
 薔薇ありぬ此の世にかくも落ちぶれて    安藤由起
 
 
薔薇の句として頭抜けて佳句であると思う。すくなくとも私は大好きな句だ。
薔薇という花は豪華・華麗でありながら、その盛りは短い。
一見美しく咲いていても、近くで見ると早くも花弁の縁から萎れて薄汚れてしまっているものだ。

しかし、だからと言って、俳人や詩人はそれを汚いとは思わない。盛りの過ぎた薔薇の容(かたち)に心を尖らせてゆくのでもある。

「此の世にかくも落ちぶれて」、これを俗っぽいアナロジーととらえてはならない。擬人法でもない。ここに薔薇という花の核心があるからだ。
 
 
 軒先に残る雨の香金魚玉          栗山麻衣
 
 
ちかごろは球形の金魚玉を見ることも少なく、普通の金魚鉢を見て、まあ金魚玉で詠んでみるか、なんて思うのは私ばかりではなかろうが、これは文字通り伝統的な金魚玉で、軒先に吊られているのだろう。東京の下町あたりが似合いの光景。

夕立が今しがた通り過ぎていったのだ。水の匂いと埃の匂いが混ざり合った夕立のあとの独特の香が家の中に流れこんでくる。

金魚玉をゆっくりと揺らして。


 夏シャツの片手にありし文庫本       栗山麻衣


思い切って省略した句である。
ここで省略されたのは夏シャツを着ていた人物。その肉体。その片手だ。
そして文庫本もまた眼前にはすでに無い。
無いもの尽くしの中、夏シャツだけがそこにある。

あの文庫本はどこへ行ってしまったのか。
夏シャツさえも現実にはすでに無いのかもしれないが、句の世界の中ではあきらかに存在している。そうでなければならない。

他の全ては消え去った夏の日の輝きなのだ。


 降りだしてきてあめんぼに当たりけり    堀下 翔


若い作者の句なのだが、この句は老成した印象を読者に与える。
八十代になってようやく手にした軽みの境地、と言われればだまされそうだ。
しかしこれはそんな「句境」とか呼ぶべきものではないのだろう。
到達したのではなく、出発点を作者は模索しているのではないか。
そのために、ひたすらにじっとあめんぼだけを見ている。飽かず見つめている。
池のあめんぼを突き抜けて、作者の顔が水面に映っているかのようだ。


 背泳ぎの髪いつぱいにみづ溜まる      堀下 翔


観察するところから発見がある。発見は常に常識の裏側にあるもののようだ。
プールで泳ぐ人の髪を濡らす水に着目。
そこで一句作るのでは底が見えてしまう。
もうひとつ奥まで見る。

背泳ぎの人の髪という視点。すでにそのとき一句が出来る。
それだけといえばそれだけの発見である。
それだけで終わらせる書き方もある。しかし、それを発見に化けさせるレトリックもある。

「背泳ぎの髪」ということで、プールの中から上がってきた若い人の髪だけではなく、のびやかな肢体さえ見えてくるような作品に仕上がっているのだ。

 

(以上「群青」第5号より)
 


☆五十嵐 秀彦 ( いがらし・ひでひこ 藍生・雪華 俳句集団【itak】代表 )






※俳句同人誌『群青』(季刊)

 購読お申し込み・お問い合わせは群青俳句会まで

 gunjouhaiku@gmail.com



 


2014年10月21日火曜日

『ムッシュが読む』 ~第15回の句会から~ (その3)


『 ムッシュが読む 』 (その3)
 



~第15回の句会から~
 


恵本 俊文

 


 夜の海月独りの時を持て余し       田口三千代

寄る辺なく海を漂う海月。日があるうちは海中の景色も楽しめようが、暗い夜となると、さぞ所在なかろう。潮に乗って長い旅に出たものの、独りの夜を持て余すことはままあるだろう。気ままな旅は最高の贅沢だと思うが、秋のそれはまた、寂しくもある。
「持て余す」でもいい気がした。

 時間切れのランナー詰めてバス秋暑  佐藤   萌

マラソンは、一定の時間以内で走らないと、途中でもバスで回収されてしまう。完走の願いがかなわなかった人たちの空回りした思いで溢れかえったバスの車内は、心と肉体の限界との狭間で揺れる。さぞ暑かろう。人生にも時間切れはある。回収されないよう過ごしたいものだ。

 立待月かばんの闇をまさぐりぬ      瀬戸優理子

ためらいながらそっと出た月の下で、大きくもないかばんの中の探し物は何だろう。心許ないあかりに、なかなか見つからないのではないか。いや、もしかすると、かばんの中をまさぐっているのは月あかりそのもので、探し物など初めからないのかもしれない。こっそり覗かれたかばんの中には、見られて困るものは…特にないからいいか。
 
 
(最終回に続く)



2014年10月19日日曜日

『ムッシュが読む』 ~第15回の句会から~ (その2)


『 ムッシュが読む 』 (その2)
 



~第15回の句会から~
 


恵本 俊文

 


 土器出土して縄文の鰯雲     久保田哲子


掘り出した土器は縄文式土器だった。その模様はまるで鰯雲のよう。この土器が使われていたころにも今のような四季があったかわからないが、秋にあたるころにはきっと、空一面に鰯雲が広がっていたに違いない。心に、はるか昔の時代へのロマンが広がる。



  去るときも戻るも秋や無人駅    福本東希子



ふだん乗り降りする客はほとんどいない無人駅。周りには何もないが、それでも大切な地だったりする。この秋の風景を目や心に焼き付け、そこから旅立った者は、いつかその風景を求め、同じ季節に戻ってくるのだろう。大切なことは、物の有無ではない。駅員がいない小さな駅にだって、何者にも勝る存在感がある。



  秋深むフォードヰセキの青色に   鈴木 牛後



収穫の秋。トラクターなどの農機が活躍する季節だ。刈り取りを待つ作物が広がる田や畑に往来する青いフォードやヰセキの農機は映える。農業地帯ではありきたりの何気ない光景だろうが、それにしても目に鮮やかだ。秋らしい光景のひとつではないか。通りすがりの人にとってはなおさらのことだろう。
もっとも、個人的には、緑色のジョンディアの農機のほうが好みではあるが。




(その3に続く)


2014年10月17日金曜日

『ムッシュが読む』 ~第15回の句会から~ (その1)


『 ムッシュが読む 』 (その1)
 

~第15回の句会から~
 


恵本 俊文
 


 車椅子日和と妻が言ふ晩夏   橋本 喜夫


足となる車椅子。盛夏なら灼熱の太陽が照りつける地面に近いうえ、タイヤに付いた金属製のハンドリムも熱され、腕で回すのは難儀だろう。
幾分過ごしやすくなった晩夏を「車椅子日和」と言った妻。「お散歩日和」と言いたかったのかもしれないが、わが足は車椅子。外出したい、外気に触れたいという思いは、生きている証の一つでもある。日々いたわってくれる夫を思いやっているようでもあり、夫婦の愛情は切なくも温かだ。


 秋晴れや秒速一歩ずつ歩む   今井  心


清々しい秋晴れの日。クオーツ時計が秒という時を刻むように、一歩が秒を刻む。一見早そうだが、思いのほかゆったりに思える。右、左、右、左と規則正しく歩を進めたくなるような、澄んだ秋空なのだ。「一歩ずつ歩む」と歩を重ねる表現は、大地をしっかり踏みしめている感が伝わるけれど、ややまどろっこしい気もした。


 宿題は鈴虫の餌替へてから   内平あとり


ものごとには順序がある。それは人それぞれだ。実体験からすると、宿題は最もあと…というより、後回しにしたいもの。飼っている生き物の世話は、初めのうちは進んでやっていたが、日が経つにつれ家族任せになってくる。宿題と餌替えの順番は、ぼくにとってはどちらも後回しのカテゴリーで、大差ない。強いて言うなら、宿題がより後か。そんな、遠い小学生だったころを思い出した。
小さないのちを大切に思う素直な心の持ち主が詠んだなら、ごめんなさい。


(その2に続く)


2014年10月16日木曜日

『ムッシュが読む』がはじまります!


俳句集団【itak】事務局です。


ご好評の『読む』シリーズです。
今回は『りっきーが読む』に続きまして
『ムッシュが読む』をスタートしたいと思います。

第15回俳句集団【itak】の句会には今回104句が投句されました。
その中から当会幹事・恵本俊文が毎回心の赴くままに選んだ句を読んで参ります。

前回同様、ネット掲載の許可を頂いたもののみを対象といたします。
掲載句に対して、あるいは評に対してのコメントもお待ちしております。
公開は明日10月17日(金)18時からです。ご高覧下さい。

☆恵本俊文(えもと・としふみ 俳句集団【tak】幹事 北舟句会

2014年10月12日日曜日

俳句集団【itak】第15回イベント抄録

 俳句集団【itak】は9月13日(土)に道立文学館(札幌市中央区中島公園)で第15回イベント・句会を行いました。
 今回のイベントではitak幹事の平 倫子さんによる「ラフカディオ・ハーンの真面目」という講演が行われ、没後110年目にあたり今一度改めて小泉八雲、ラフカディオ・ハーンという作家は一体どんな人物だったのか?その背景と人物像を探る講演となりました。
 
『ラフカディオ・ハーンの真面目(しんめんもく
 
~「一つの民族の経験の総和よりも大きな記憶」をキーワードに~
英文学者・俳人  平 倫子
 

 
 
 I.なぜいまハーンか?
 
 ことしはラフカディオ・ハーン(1850-1904、1896年日本に帰化、日本名を小泉八雲に)
没後110年目にあたる。
 ひろく知られ、「小泉八雲学」研究も多いが、どこかわかりにくい作家でもある。英文学史上も日本文学史上も定位置をもたないラフカディオ・ハーン。わかりにくい作家はその子ども時代に謎がある、というこれまでのわたしの経験から、ハーンの幼少期、青年期に焦点をあて、彼のいう「未生以前の記憶」を援用しながら、作品のいくつかを読み直し、もう一人のハーン像を探ってみようと思う。なおハーンの作品はすべて英語で書かれ、英語圏に発信された。そのため、英語圏で評価が高まっても、一部の読者をのぞいては日本での評価が遅れた経緯がある。
 サブタイトルに用いた「一つの民族の経験の総和よりも大きな記憶」というのは、ハーンの「門つけ」(1896)からの引用である。
 「門付け」から、その部分をみてみよう(なお、作品の特徴を出すため、引用が長くなったことをお断りしておく)。
 

三味線を抱えて、七つか八つの男の子をつれた女が、わたしの家へ唄をうたいにやって来た。百姓のような身なりをして頭に青い手ぬぐいを巻きつけている。不器量な女だったが、その生まれつきの不器量が、酷い疱瘡にかかったために、いっそうひどくなっている。子供は刷りものにした流行歌の束を持っていた(筆者注:当時の心中事件を小唄にしたもの)。
女は玄関のあがり段に腰を下ろして三味線の調子をあわせ、合いの手を一節ひいた。 すると、みんな魔法にでもかけられたように心をうばわれてしまい、ひどく感じいって目を細めながら、たがいに顔を見あわせた。
というのは、女の醜くゆがんだ唇から、じつに霊妙な声――若々しくて底力があって、それに人の心に沁みとおるような美しい調子の、なんとも言えずほろりとさせられるような声が、波うちながら湧きだしてきたからである。  (中略) 
こうして、女が歌っているうち、耳をかたむけていた人たちは、黙ってしくしく泣き出した。わたしには歌の文句はよくわからなかったけれど、日本の生活の悲しさや楽しさや、またその苦しさを忍ぶ強さというようなものが、そこにはないものを悲しげに追いもとめるように、女の歌う声といっしょに、わたしの心に通ってくるような気がした。なんだか目に見えない優しいものが、わたしたちの周りに集まってきて、震えているように思われた。そして、もう忘れてしまった所や時の感覚が、もっと霊的な感情――つまり人の記憶にはっきり残っている所や時にたいする感じとは違った感情――と混じって、しずかに甦ってきた。  (中略) 
そこで、わたしは次に書き付けるようなことを考えたのである。 
すべての歌、すべての調べ、すべての音楽というものは、感情が素朴な形で自然にあらわれたのが、ただいくぶん進化したものにすぎない。つまり、悲しみや喜びや怒りの情がべつに教えられずに自然に話し言葉となったのが進化したもので、その言葉が取りもなおさず楽音なのである・・・・・それにしても、わたしなどには決して判りもしないこの東洋の歌――庶民階級の一盲女がうたったこのありふれた歌が、異邦人であるわたしの心に、これほど深い感情をよびおこしたというのは、どういう理由であろうか。これはきっと、あの歌い手の声のなかに、一つの民族の経験の総和よりも大きなあるもの――人間生活ほども大きく、善悪の知識ほども古い或るものに訴えることのできる素質があったからであろう。  (中略)
そういうわけで、極東のこの都市で聞いた一人の盲目の女の歌が、一西欧人の心のなかにすら、個人的なものよりももっと深い感情、思い出せない遠いむかしのおぼろげな愛情の衝動をもう一度よみがえらせたものであろう。死んだ者がぜんぜん滅びてしまうということはない。死んだ者は、疲れた心臓と多忙な頭脳の真暗な部屋に眠っているのだ。そして、ごくまれに彼らの過去を呼びおこす何かの声がこだまするときに、はじめて目を覚ますのである(『日本の面影』、田代三千稔訳、角川文庫、1958、より)。
 
 


最近いろいろな事を考えるときに、こういった記憶と結びつくことが多い。茂木健一郎の『脳と仮想』(2004年)を読んだときに、ハーンのいう記憶は、茂木が「クオリア」と名付けた「ハッと驚く脳の働き」ともむすびつくのではないかと思った。最近茂木は「生命記憶」ということばを使っておられるが、脳科学者がそういう言葉で表す意味と、いわゆるハーンの「記憶」は重なるような気がしている。
 ルイス・キャロル(1832-98)の作品の翻訳史上、日本での受容はハーンの弟子たちによって始まり、受け継がれてきた、という事実を知って以来、わたしはハーンに関心を抱くようになった。
キャロルの日本受容の直接の背景には、1896年秋から始まったハーンによる東京帝国大学での英文学講義があった。ここではとくに、「19世紀のイギリス小説」の講義に注目しておく。
ハーンはイギリス文学史とイギリス児童文学史の間に垣根を設けなかった。イギリスでは、児童文学は一段低いもの、と考えられる風潮が強いなか、ハーンにはその偏見がない。
独学で身を立て、ジャーナリストになり、紀行作家として世界を渡り歩き、作家になり、評論家になり、大学教師になったハーンの自信のなせる技である。

「19世紀のイギリス小説」の講義のなかで、ハーンは『不思議の国のアリス』(1866)、『鏡の国のアリス』(1872)『スナーク狩り』(1876)、『シルヴィーとブルーノ』正、続篇(1889,1893)をとりあげ、キャロルを文学史上特筆すべき作家とした。ちなみに『シルヴィーとブルーノ』は、晩年の長編で、出版当初は、世紀をまたいで売れ残るだろう、と揶揄されもしたが、現在では新しい視点から読み直しがさかんに行われている。
同時代人の作品を、とらわれることなく認めるハーンの慧眼に注目すべきである。
「18,9世紀英文学上の畸人たち」の講義では、子どもの気持ちがわかる詩人としてワーズワースの詩をとりあげている。ここで、ハーンが選んだワーズワースの詩をひとつだけあげておく(1連は4行詩、全体は15連あるが、行分けせずにすべてを引用する)。




 「父親たちに聞かせる小さい話」――嘘のつき方をつい教えてしまうこと――

 

 わたしには五歳の男の子がいる、/可愛くて元気な顔つきの子だ。/身体つきは
すらりと美しく、/ わたしによくなついている。


ある朝二人で散歩をした、 静かなわが家がよく見えて、/ いつものようにぽつりぽつりと/ふたりは口をきき合った。


わたしはかつての喜びを思い出した、まる一年前の春浅い頃の キルヴの気持よい浜辺のことと 楽しかったわが家のことを。

それはいくたび思い出しても 飽きることのない朝で、 苦痛は全く感じられず、 幸福感にあふれていた。

子供はわたしのそばにいた、 ひなびた身なりだが気品があった。 ときどきわたしはつれづれに 彼に話しかけてみた。

子羊らがかけっこをしていた。 朝日が暖かく輝いていた。 わたしは言った、「キルヴでは楽しかったが、 今のリズウィン農園もいいよ」

「ねえ、君はどっちが好きだい」 子供の腕を取ってわたしは聞いた、 「キルヴの気持ちよい浜辺のお家と このリズウィン農園を比べたら」

「言ってくれ、君はどっちに住みたいか」 子供の腕を握ってわたしは言った、 「青い海の見えるキルヴの浜辺か、 このリズウィンの農園か」

子供はのんきにわたしを見上げ、 腕をまかしたまま言った、 「ぼくはキルヴに住みたいよ このリズウィンの農園よりも」

「エドワード、それはなぜだい、/ そのわけを聞かしてくれないか」/ 「わけは言えないよ、知らないもの」/ 「でもそれはおかしいよ」わたしは言った。

「ここには森も暖かい丘もあるのに、/ すてきなリズウィン農園よりも/ 青い海辺のキルヴが好きなのは/ 何かわけがあるにちがいない」

この時、可愛いすらりとした子供は、/ 首をうなだれ、答えなかった。/ 五つ度もわたしは彼に聞いた、/ 「なぜだい、エドワード、教えておくれ」

彼は顔を上げた――その前方に/ はっきり彼の眼に見えたものがあった――/ 家の屋根の上に、きらきら光る/ 大きな 、金色の風見だった。

すると子供は口をほころばせ、 わたしに向かってこう答えた、 「キルヴには風見はなかったよ、 それが好きなわけなんだ」

可愛い、可愛い少年よ 君から教わったことの百分の一も ひとに教えることができたなら、 それ以上の知識などほしくない。 

ワーズワース&コールリッジ著、宮下忠二訳、『叙情歌謡集』、大修館書店、1984、より)

 

 
 講義でハーンは、「子どもが考えるように書く、子どもが感じるように書くためには、生まれつき驚異的な直感力に恵まれていなければならない」と述べている。
 さらに、先にあげたキャロルの作品については、「表向きは子どもが読んで楽しい物語であるが、じつは超一級の心理学研究である。キャロルは利発な子どもの頭の中で起こる、夢の論理の叙述が出来た。子どもがどういう夢を見るか、なぜそんな夢になるのかをよく知っていた。夢のヴィジョンとそれに伴って生ずる異常感覚の、動揺、歪曲、矛盾、不条理を書いた作家として、注目に値する」と評価している。
キャロルは、24歳のときの日記に「(夢のなかでは)目覚めているときなら、狂っているとしかいいようがないことを言ったり、したりすることがないだろうか。だとすれば狂気を、夢と現実を区別出来なくなった状態、と定義してはいけないだろうか。眠りはもうひとつの世界をもっているのであり、現実と似た一面さえ持っているのだ。」と書いている。
一方ハーンは、『明暗』(あるいは『影』、1900)のなかで、「夢魔の感触」について触れている。
 五歳の頃の、お仕置きの部屋の暗闇と、その部屋の煙突にお化けが住んでいると信じていた自身の記憶と、幽霊の空想にいたった経験を振り返ったあとで、「夢のなかでつかまえられる知覚は、覚醒時の知覚とはまったく違ったものがある夢を見る人のあの恐怖は、おそらく恐怖の経験の反映ではなく、遠い祖先からの夢の恐怖の経験の量り知れない総和をあらわすものらしい」と言っている。これらのことからキャロルとハーンには共振点がある、ということがわかる。


 わたしがハーンにこだわるもう一つの個人的な足がかりがある。
2005年に道立文学館主宰の「ウィークエンド・カレッジ」でキャロル論を担当した時に、「ハーンとキャロル」という一項を設け、翻訳受容史について話した。2004年はハーンの没後100年の年で、多くの研究書が出た年でもあり、わたしも日本でのハーンの動向に関心が向いていた。
その余韻もあって、ある句会に「秋草や八雲を継ぎし金之助」という句を投句したところ、「漱石は八雲の跡を継いだのか、という疑問が残る。漱石は赴任にあたってハーンにそれなりの敬意を表したのだろうか。おそらく挨拶もしていないだろう」という句評があり、心に残った。
<ハーン派>があり、<反ハーン派>があり、どこにでも閥はある。
イギリスの言語学者で、1873年に来日し1886年から90年まで東京帝大の教授をしたB.H.チェンバレンは、1890年ハーンの来日直後から全面的にハーンに協力を惜しまず、親しい間柄であった。しかしチェンバレン研究家は、ハーンがあまりにも日本で文豪と崇められるのに反撥した。ハーン没後90年頃から日本ではそのような動きがあり、それぞれの研究者同士が張りあうという経緯があった(1995年4月発行の雑誌「ユリイカ」の<ラフカディオ・ハーン特集号>に、その間のことを見ることが出来る)。
                        
漱石とハーンにも同じようなことがなかったとは言えない。
1903年1月漱石はロンドンでの神経衰弱を引きずって留学から帰国、4月から東京帝大文科大学講師に着任した。一方ハーンは、1903年3月に東大から契約終了の通告を受け、一年間著作活動に専念、1904年4月に早稲田大学文学部に出講することになるが、9月26日に病没した。
たしかに、おたがいに挨拶も無理なような状況にあった。
しかし、漱石の書簡集を読むと、漱石は、ハーンに学んだ卒業生に沢山手紙を書いており、それらの手紙からは、ハーンの評判、言動、などをとても気にしていた様子がうかがえる。
 例えば、1903年7月には、同年英文科卒業の野間真綱(熊本五高時代の漱石の教え子で、のち東大でハーンに学んだ人)の就職の斡旋の手紙がある。1904年12月19日彼にあてた手紙のなかで漱石は「(野間が送った雑誌に漱石の批評が出ていたことで)批評は当たっているのか間違ってるのか分からない、、、とにかく二代目小泉にもなれそうもない」と弱音を吐いている。また1905年1月1日には、「皆川(筆者注:皆川正禮、1903年卒業)が来て洋書を二冊僕に托して君にやってくれろといひ置いて行った一冊はハーンの怪談で御陰でこれを通読した」とある。
『怪談』Kwaidan、1904)は英語で書かれ、漱石はそれを読んだ。そのことがこの手紙からわかり、興味深かった。
どういうふうに読んだのか気になるところだが、『怪談』のなかの作品から、漱石がのちに『夢十夜』を書く際、影響を受けたと思われる点は少なくない。さらに『吾輩は猫である』『三四郎』にも沢山ハーンの事が出てくる。『三四郎』に出てくる「ハイドリオタフィア」(壷葬論)なども、サー・トマス・ブラウンの有名なその作品を、ハーンが講義のなかで話していたのだった。それを話題にして、三四郎に語らせている。漱石作品の背景にハーンの講義や作品があったという事実を知ると、漱石が一層面白くなるし、ハーンが一層輝いてくる。
 

 II.パトリック・ラフカディオ・ハーンの子ども時代
 
 父チャールズ・ハーンはアイルランド出身のイギリス軍医。1848年から英領イオニア海の島に駐留していた。母ローザ・カシマチはギリシャのチェリゴー島の名家の出身のギリシャ人。ギリシャ正教の熱心な信者だった。ラフカディオはレフカダ島生まれ。パトリックという名はアイルランドの守護聖人の名前。


<ここでレフカダ島の風景の写真を見た>

 ハーン没後110年の今年7月、ギリシャのレフカダ島で「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン 西洋から東洋へ」という記念の催しがあった。
日本から、俳優の佐野史郎とギタリストの山本泰司による「小泉八雲 朗読の夕べ」と、熊本県の人形芝居・清和文楽による「雪おんな」の公演があった。写真はその宣伝パンフレットからのものである。
ハーンは二歳までギリシャで過ごし、1852年にアイルランドのダブリンの父親の故郷に移った。父親は当時、西インド諸島の任地に勤務。ギリシャの明るい陽光の中で育った母親は、ギリシャ語まじりのイタリア語しか話せず、夫の実家のあるダブリンでの生活、アイルランドの気候、風土に馴染めず、身体をこわし、1854年に単身ギリシャに戻る。 そこで弟のジェームズが生また。しかし、この兄弟が連絡を取り合うのは1889年の暮になってからであった。ハーンが新聞記者として名を上げ、その署名記事で兄の名前を見つけた弟(当時アメリカで農場を経営していた)が、新聞社をとおして連絡してきた。そして文通が始まった。 
 1890年は、ラフカディオが特派員として日本に来る計画があり、アメリカで弟と会うことはなかった。ハーンが弟に宛てた、母のこと、父のこと、係累のことなどを尋ねる手紙が6通残っている。
 1855年、父親は叔母セーラ・ブレネーンをラフカディオの正式な後見人として養育を依頼する。
叔母は裕福なブレネーン海軍主計官と結婚するが、夫が病死、未亡人であった。ハーンから見れば大叔母にあたる。 1858年,ハーンの父母は離婚、父親はハーンの母親を捨て、昔からの恋人が夫を亡くしたのを契機に再婚してしまう。そしてハーンは大叔母セーラに引き取られる。
ハーンはダブリンの大叔母の家で、熱心なカトリック信者である大叔母と乳母のもとで育ち、さらに家庭教師に学んだ。 大叔母の屋敷は古い大邸宅で、ハーンはお化けが出る、といって怖がった。しかし邸宅の図書室には自由に手に取れる本が詰まっていた。そこには、ギリシャ神話の神々の美しい彫刻の絵や写真があり、それを眺めるのを悦びとしていた。 知らない、楽しくない大人ばっかりの中にポツンと連れて来られた環境だったため、ひとりぼっちの日々だったが、屋敷の図書室で自由な時を過ごすのはとても楽しかった。ギリシャ神話の神々や人物の裸体像を見て感動、ギリシャの美の真髄に出会う。ところが大人たちはそれらを取り上げ、裸の部分を隠してしまった。このギリシャの裸像に対する大人の反応を一つのきっかけに、ギリシャの美に対する憧れ、それは母親に対する憧れとも重なるのだが、自分のよりどころを見つけようと想像力をふくらませる時期でもあった。
  幼少期の楽しい思い出として、アイルランドの夏の海で従兄たちとすごした休暇があった。乳母の語るウエールズやアイルランドの怪談、妖精譚にも魅せられていた。
 ハーンは晩年になって、七歳の夏の記憶を「ひまわり」という短編に結実させ、1904年4月に刊行された『怪談』に収めた。
『怪談』はハーンの代表作としてよく知られている。しかし「ひまわり」はあまり読まれていないように思うので、ここで触れておこうと思う。小品だが、アイルランド民謡や聖書の引用なども含め、奥の深い名作である。「ひまわり」は『怪談』の中に含まれており簡単に本文を読めるので、ここではポイントとなる部分のみ引用する。
 
ストーリーは、一歳年上の従兄弟のロバートと、七歳のぼくが、ウェールズの夏の海辺で遊んだ記憶に始まる(実際はアイルランドの海。しかし舞台をウェールズに変えている)。


 ぼくらは妖精が夜、輪になって踊るので、草原の上にその跡がつくという妖精の輪をさがしたけれど、一つも見つからなかった。しかし丈の高い草が茂った中に大きな松かさをいくつも見つけた。ぼくはロバートにウェールズの昔話をして聞かせる。それは、自分でもそれと気づかず妖精の輪の中で眠りこんでしまった男の話で、男はそれで七年間姿を消してしまった。仲間が魔法の呪縛を解いて男を救い出してくれたけれど、その男はもう二度と口も利かず、何もたべようとしなかった。


 ここまでが「序」になっている。そこにハープ弾きがやってきてロバートの家に向かってゆく。二人も走って後ろについて行く。しかし、そのハープ弾きは、白髪の吟遊詩人ふうではなく、目を光らせて、レンガ積み職人のようななりをしていた。    



ハープ弾きはハープをうちの玄関の石段に立てかけ、汚い指先で弦をぽろ、ぽろんと掻き鳴らすと、なにか怒ったように喉の奥で咳払いして、歌いはじめる、


    信じてくれ、もしあの慕わしい若い魅力が・・・

         私が今日惚れぼれと見つめるあのすばらしい魅力が・・・


       (中略)

「なんだ、おまえみたいな奴に、あの歌を歌う資格はないぞ!」と大声で叫びたくなる。というのも、前にその同じ歌を、ぼくの小さな世界でいちばんしたわしい、いちばん美しい人がその口で歌うのを聞いたことがあるからだ。それだけに、この荒くれた、がさつな男がその歌を口にするのが、なにか馬鹿にされたみたいでいらいらする――侮辱されたみたいで腹が立つ。しかしそれも一瞬のこと・・・「今日」という言葉を口にしたときから、あの男の、深い、気味悪い声が突然、名状しがたい優しいふるえる声となる。 (中略)  それとともに、いままで感じたこともないような感情に襲われて、ぼくは喉がつまる・・・。なんという魔法の持主だろう。この恐い顔をした路傍の男はなんという秘法を心得ているのだろう・・・。
       (中略) 

  ハープ弾きは六ペンスを貰うと、礼も言わず、大股に立ち去る。 

    「あれはジプシーだ」とロバート。「あいつはきっと正体は鬼か、妖精だと思うよ」とぼくも思い切って言ってみるが、「ただのジプシーさ。ジプシーは子どもを攫うんだ」とロバートがたたみかける。

    「もしここへやってきたらどうしよう?」とぼくがおびえると、「日のあるうちは大丈夫だよ」とロバートが答える。

(ここに場面転換のじるしが入る)
 
[昨日になってはじめて、高田の村の近所で、日本人もsunflower と同じような呼び方をする花、ひまわり、を一輪、目にした。――すると四十年の間をおいて、あのさまよえるハープ弾きの声が突然、鮮やかに私の耳によみがえった。 
お日様が沈むとき、ひまわりの花は彼女が神とも慕うお日様に顔を向ける、
それはお日様が昇ったとき,彼女が向けたと同じ顔つきだった・・・。
 
そしてふたたびあのはるか彼方のウェールズの丘の上の、お日様の光が斑に当たっている樹の下陰が私の目の前に浮かんだ。ロバートが一瞬私の脇に立っているよう気がした。(中略)ぼくらは妖精の輪を探していた・・・・。だが本当のロバートはもうとっくの昔に海難に遭って、尊い異域の人と化してしまった・・・。
 「人、その友の為に己の命を損(す)つるは、愛のこれより大いなるはなし・・・」。]

 
 ハーンが引用している詩はどちらも、アイルランドの詩人トマス・ムーアによるもので、アイルランド民謡として親しまれているものである。 「人、その友の為に己の命を捨つるは、愛のこれより大いなるはなし」は聖書のヨハネ伝15章13節からの引用である。 ロバートは長じて海軍に入るが、溺れかけた友人を助けようとして逆に溺れ死ぬ。そういう死に方をした従兄弟のことを思い出し、7歳の頃を思い出し、母を思い出し、記憶を沢山織り込んだ小品が「ひまわり」である。ハーンの生前に刊行された最後の作品となった『怪談』に、この「ひまわり」が入っていることに感慨をおぼえる。


つぎにハーンの学校時代を見てみよう。

1863年、13歳の時に北イングランドのダラム州アショーの聖カスバート校に入学する。16歳の時、学友と遊んでいて左目に網の結び目が当たり、左目を失明する不幸に見舞われる。

そのころ告解僧に信仰について自分の疑念を告げたとき、告解僧は動揺し、怒鳴り、怒り出した。その経験でハーンは、大人は子どもの本当の思いを分かってくれないことに気付き、それを契機に異教思想に傾いてゆく。大人と接し、観察しながら、自信に満ちた柔らかい心を作っていった。

 

 しかし、そのころ大叔母の縁戚にあたるH.H.モリヌークスという人が、大叔母の財産を管理、破産したため、大叔母はハーンの後見人としての財力を失い、ハーンは退学を余儀なくされる。
 その後1867年にフランスのイヴトーの神学校へ行ったといわれている。そこでの厳格な教育を嫌い、暗い体験だったが、ここでフランス語を習得した。それが後にハーンが、アメリカからフランス文学を英訳して世界に発信することを可能にし、ピエール・ロチなどフランスの第一線で活躍していた作家の作品を世界に紹介する先鞭となった。


 III.ハーンのアメリカ


ハーンのなかでギリシャ文化への憧憬(母につながる)と、異教思想への傾倒(アイルランドおよび父への反撥)が強くなってゆく。

1869年、モリヌークスの縁者を頼ってアメリカのオハイオ州シンシナティへゆくよう、ハーンはなかば厄介払いされる。 彼は英国を出るにあたり、パトリックという名を捨てた。

シンシナティに着いたハーンは、モリヌークスの縁者は頼れないことを知り、自活し、公共図書館に入り浸る。そこで印刷所を経営するヘンリー・ワトキンに出会う。ワトキンはハーンがものを書く事に野心を持っているのを見抜き、将来を見込んで働き口を与える。以後ハーンはワトキンを「親父さん」と慕い、生涯を通じて父親のような存在になった。

 

ワトキンは自由思想の持ち主で、ハーンは心から気に入る。当時、自由思想は世界中で知識人の間で広まっていて、キャロルも傾倒しており、ロンドン、アメリカ、ロシアなどで心霊研究会(SPR)が盛んだった。あるときハーンは、著名な霊媒による交霊会の取材を行った。すると父チャールズの霊が出てきて驚愕したハーンは、ありのままを「霊に交わりて――インクワイアラー紙の記者、その父と霊の交信をする」という記事にして発表した(『ラフカディオ・ハーン著作集』第四巻所収)。
 

 ハーンは1874(?)年に黒人女性と結婚するが、当時オハイオ州では違法だった。その事がばれ、「インクワイラー」紙をクビになる。しかし彼の手腕がものを言って「シンシナティ・コマーシャル」紙の記者になる。

 やがてハーンはシンシナティに見切りをつけ、1877年10月に、ルイジアナ州のニューオーリンズに向かう。そこは、カリブ海に面しており、合衆国で唯一クレオール文化が広まった地であった。フランスやスペインからの移民が土地の黒人奴隷と混合して、2分の1、分の分のの混合人種となる。それがクレオール人である。独特の言語、文化、人種の特徴を持った、ハーンにとっては魅力的な人種に写った。

南洋風の気候のニューオーリンズが気に入って、1878年に「アイテム」紙記者、1881年には「タイムズ・デモクラット」紙の文芸部長も務めた。そして1882年に生涯の心の友となるエリザベス・ビスランド(のちのウェットモア夫人)に出会う。彼女は南部の富豪の娘で、編集者希望の活動的な女性で、ハーンの死後いちはやく彼の伝記を著した。 

1884年にニューオーリンズであった世界博覧会で、日本から来た服部一三に出会い、この博覧会について日本の記事を書く。 それが、「ハーパーズ・マガジン」の目にとまった。

1887年ハーンは、新聞記者として見聞をまとめて発信するだけでは飽き足らなくなり、小説を書いてみたくなり、仏領西インド諸島のマルティニーク島に行く。そこで、クレオール文化圏の実話を題材にした『チタ』(1889年)という小説を書き、続いて『ユーマ』(1890年)を書き、さらに1890年にマルティニーク紀行集である『仏領西インドの二年間』上、下刊を書き上げた。この成功が決定打となってハーンは日本に派遣される事になった。
 
 
IV.ハーンの日本
 
  <ここでアメリカを発つハーンの後ろ姿の挿絵を紹介>
 
 1890年ハーパー社はハーンと画家ウェルドンを特派員として日本に派遣した。この挿絵はハーンの書いた記事『日本への冬の旅』(1890年)のために画家ウェルドンが描いたスケッチである。
1994年、ちょうどハーン生誕90年の年に、それまで行方不明になっていたハーンの旅行鞄が北海道でみつかった。ここで八雲会発行の会誌「へるん」31号(1994年6月)の記事を紹介>他に「北海道新聞」同年3月7日夕刊、「松山中央新報」3月8日などでも報じられた。
 1890年4月横浜に着いたハーンは、アメリカを発つ前、ビスランドから紹介状をもらっていた、日本に住むアメリカ海軍の主計官ミッチェル・マクドナルドに会い、彼や服部一三を通してチェンバレンに会う。チェンバレンは直前まで東大教授だった。著名な言語学者で日本の事柄についての『日本事物誌』上、下巻の著者、そして『古事記』の英訳者でもあった(その後ハーンとチェンバレンは往復書簡を密に交わす)。そしてチェンバレンや服部一三の力添えで、同年8月に松江中学の英語教師になる。その年の暮、小泉セツと結婚する。
松江の人々、文化、風物、などをこよなく愛したハーンだったが、冬の寒さには勝てず、189111月に熊本第五高等学校に移る(のちに漱石も1896年から熊本第五高等学校に奉職)。
 しかし、熊本の気風・気質がハーンには荒すぎたこともあって、三年の契約終了を待って熊本を発ち、神戸へ向かう。1894年11月に「神戸クロニクル」という、英字新聞社の論説記者になる。その翌年1895年秋に、日本に帰化して小泉八雲になった。
 そして1896年8月に東京帝国大学文学部講師に就き、1903年3月に退職する。
話はやや飛ぶが、ハーンがどうして日本に帰化したかについては、子どもの頃ハーンの後見人
になった大叔母が、縁戚のものに資産をとら不利な立場になったのを知っていた経験を妻や子供
たちに経験させたくないという強い信念からだった。自分が英国人のままでは遺産の事で家族が
不利になるという深謀から日本に帰化した。つまり、家族を守るための帰化だった。
 1904年5月から早稲田大学文学部に出講するが、同年9月26日、狭心症のため亡くなる。
 
 作家ハーンの真面目を語るうえで取り上げたい作品の一つに「生神」『仏の畑の落穂』、1897)がある。1896年和歌山で地震があった。その新聞記事を見て、昔の地震で浜口梧稜という人が自分の畑の稲藁に火をつけ、村人を津波から守った、それで村人から尊敬され、生きながら神様とあがめられたという故事を思い出し、ハーンは『生神』を書いた。そのなかでハーンは津波をハーバー・ウェイブと英訳せず”Tsunami!”をそのまま用いて、アメリカの新聞「アトランティック・マンスリー」に送った。それがOEDに採用された。tsumamiを引くと、「1896年の地震に際し、ハーバー・ウェーブの代わりにラフカディオ・ハーンが「グリーニング・イン・ブッダフィールズ(仏の土の落穂)」という作品の中で使用したのが初出」と書かれている。ジャーナリストとしてのハーンの速報力の面目躍如である。
ハーンの作品は全て英語圏の出版社刊行なので、日本での受容に時間がかかった。彼は新聞記者の経験を生かし、現場主義だった。「いま、ここ」をいちばん大事にし、自信をもって発信した。
また核になるものに多層な時空を重ね、体験を記憶と呼応させて作品化した。作家として、批評家として、日本文化の発信者として世界に名を馳せた。その後の日本文壇、英文学世界に与えた影響は計り知れないものがある。

<終>
 

平 倫子 (たいら・くみこ 英文学者・俳人)
1937年 東京生まれ。
英文学専攻、英米児童文学研究者、北星学園大学名誉教授。
日本イギリス児童文学会、日本ルイス・キャロル協会会員。
1998年 俳句結社「藍生」入会。俳句集団【itak】幹事。


☆抄録:三品吏紀 (みしな・りき 北舟句会 俳句集団【itak】幹事)