2012年6月27日水曜日

【itak】第2回イベント内容告知

俳句集団【itak】事務局です。

来る7月14日(土)の第二回イベント句会の詳細が決定しました。
改めて内容をお知らせしたいと思います。


俳句集団【itak】第二回イベント




今田かをりが

    はんなり語る

       龍之介の俳句







水涕や鼻の先だけ暮れ残る

   芥川龍之介は、千句余りの句を残しているが、この句を短に書き残して
  自死を選んだ。
  そこで、芥川が俳句(彼自「発句」と呼んでいた)を愛した理由を探り
  つ、辞世の句とも言うべき「水涕」の句を中心に考察してみたいと思っている。
   さて「暮れ残」ったのは何だろうか。


講師                     

今田かをり

 奈良生まれ。
 予備校の古文科講師。
 2004年「圭」(主宰・津田
 清子)入会。
 


                                            
 
*日時  2012年7月14日(土)  14時~18時
 
OYOYOまち×アートセンターさっぽろ
   (札幌市中央区南1条西6丁目第2三谷ビル6階 東急ハンズの西隣)

*プログラム
  第一部 講演
  第二部 句会   (当季雑詠2句を出句ください)
  参加料 500円 (今回懇親会はございません)

*会場が前回より狭くなりましたので
        事前申し込みをお願いします。     

メールアドレス
  itakhaiku@gmail.com までお願いします。 

2012年6月23日土曜日

牛後が読む(その6)


~旗揚げイベントの俳句から~


鈴木牛後




わが夜具に花冷という同居人


「花冷」が同居人=伴侶の比喩として使われているのか、それとも、「同居人」が花冷の比喩なのだろうか。
前者として読めば、関係の冷えている同居人と同衾しているという景となる。ただ冷えているというより「花冷」の方が痛々しい感じがするのはなぜだろう。桜の明るさ、温かさの裏側としての「花冷」という側面が強く意識されるからか。若かったころの同居人との思い出。それが楽しかった記憶であればあるほど、今の状況が辛いのかもしれない。
後者だとすれば、布団の中にひとりもぐりこんだとき、ただ花冷の冷たさだけが傍らにある、ということ。これも、ひとりの冷たさが意識されるのは、ふたりですごした時間を追慕するからだろう。
通常の読み方では前者の読み方はかなり無理がありそうだ。しかし、後者のように読みながらも、ほのかに前者の読みがスパイスのように句中に潜ませてあるような気がしてならない。



山笑ひすぎて止まらぬ奇環砲(ガトリング)

奇環砲とは何かをまず調べてみた。 Wikipediaを読んでみると、アメリカの南北戦争や日本の戊辰戦争で使われた兵器とのこと。解説の中には「殺傷」などという言葉が平然と使われていて、何だか重苦しい気分になってしまった。
そんな奇環砲と季語「山笑う」との取り合わせには意表を突かれるものがある。「山笑う」の本意は、「早春の山の明るい色づきのさまをあらわす。(河出文庫「新歳時記」)」ということだが、掲句ではむしろやぶれかぶれの笑いのようなものを感じるのだ。
戦争の狂気。兵士の狂気。それは勝者、敗者にかかわりなく悲劇的だ。そんな悲劇を泰然たる山はどのように見ているのだろう。山から見れば人間などとるにたらないもの。噴火でもすればすべては吹っ飛んでしまう。悠久の歴史を歩んで来た山は、マグマとともに哄笑を吐き出すときを待っているのかもしれない。



春の日を乗せて笹舟覆る


日差しが日々強くなってゆく春。もちろん日差しに重さなどはないのだが、その強さには一種のエネルギーを感じずにはいられない。北海道においてはなおさら。まるで極限まで縮められたバネのように春は弾けるのだ。
掲句は子どものころの記憶だろうか。春の日差しの力。その力に負けてひっくり返ってしまった笹舟だが、春の日はくるんと底面に回り、また笹舟に降り注ぐ。底面が表面になり、また表面が底面に。そのたびに春の日差しは新しく生まれ変わり、どこまでも笹舟を追いかけていた子ども時代の作者も、いつも新しくその瞬間を生きていたに違いない。

今回で【itak】第一回句会『牛後が読む』の連載を終わらせていただきます。お読み下さったみなさま、ありがとうございました。次回のイベントもまた気ままに鑑賞させていただきます。

(終わり)

2012年6月16日土曜日

俳句集団【itak】第二回 講演会・句会のご案内


第二回俳句集団【i t a k】イベントのご案内です。

早いもので旗上げイベントからひと月がたちました。
下記内容にて【itak】の第二回 講演会・句会を開催いたします。
どなたでもご参加いただけます。



◆日時
平成24年7月14日(土)14時~18時
 

◆会場
「OYOYOまち×アートセンターさっぽろ」

   (南1条西6丁目第2三谷ビル6階)

    東急ハンズの西隣です。


◆参加費 500円


■プログラム■

第一部 講演「今田かをりがはんなり語る龍之介の俳句」 

第二部 句会(当季雑詠2句出句)

参加料 500円
(今回は懇親会はございません)


■参加方法のお願い■

今回、会場が前回よりも狭くなりましたので
事前の参加申込みをして頂くことになりました。

参加希望の方は下記問い合わせ先アドレスに
「第2回イベント参加希望」のタイトルで

月12日(木)までにお申込み下さい。

※席数に達した場合は予定より早く〆切る場合があります。
※当日は会場の設営状況と人数により暑くなると予想されます。
 お飲み物やお扇子などご準備されることをお勧めいたします。


◆お問い合わせ先
俳句集団【itak】事務局
itakhaiku@gmail.com

2012年6月15日金曜日

牛後が読む(その5)

~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後



夜桜をユーリファリンクス泳ぎゆく


梶井基次郎の「桜の樹の下には」を思い出した。桜の樹の下に屍体が埋まっているなら、夜桜の下をユーリファリンクスが泳いでも不思議なことではない。不思議なことではない、という言い方はちょっと変かもしれない。何しろ不思議なことなのだから。
私はユーリファリンクスを知らなかったので、ネットで調べてみた。日本語でフクロウナギという深海魚で、ユーモラスともグロテスクともいえる形をしている。一目みてぎょっとしたというのが正直なところだ。この世のものとは思えぬ体つき。冥界から来たと言われればそうかと思う。
私は花篝を見たことはないが、あの大きな炎は上方の花は明るく照らしても、足もとはよく見えないのではないか。ゆらゆらと絶えずゆらぐ炎の陰にたゆたう闇。鮮烈な夜桜とその対極としての暗がり。
夜桜の宴は人々のエネルギーに満ちている。だがそのエネルギーはどこにも行かず、何かを産み出したいという欲望を抱いて、宴の内部に留まっているようだ。女性の体内の熟し切った卵子のように。そこに、暗い足もとを精子のように泳いでくるユーリファリンクス。やがて両者は…。
「桜の樹の下には」の幻影に引きずられて、あらぬ方向に読みが行ってしまったが、それもまた、この句の持つ妖しい魅力の所産だと思う。



ひとひらは山へと還る夏桜


北海道では「夏桜」という季語は微妙だ。夏桜は、立夏を過ぎて咲く桜のことだが、道北に位置する当地では立夏の前に桜が咲くことは非常に稀だからだ。角川俳句大歳時記には、「北海道のような北国では立夏を過ぎて咲きはじめる桜もある」とわざわざ書いてあるが、道北、道東の桜はすべて夏桜なのか。このあたりは、「内地」の感覚の押しつけのような気がどうしてもしてしまう。
季語の公式な季感に厳密に従うなら、この句を詠んだのは函館あたりの方ではないかという気がする。道南では立夏の頃にはもう桜は散っており、それから咲く花は「夏桜」という季語に相応しいからだ。
おおかた散ってしまった函館や松前の桜の名所でも、遅れて咲くものもあるのだろう。そんな夏桜もやがて散りどきを迎える。落花のときも、たくさんの桜が散るのとは違って、誰にも惜しまれもせずひっそりと散るはずだ。花びらは風に流れて風下の広い範囲に散ってゆく。そんな花びらのひとつが、遠く離れた山まで届いているだろうというのだ。
花の散りゆく方向に遠く置かれている薄青の山。実際には、そこに花が降りかかるように見えるという景なのだろうが、「山へと還る」という表現でほのかな郷愁を織り込み、叙情的な美しさを作り出している。


(つづく)

2012年6月13日水曜日

牛後が読む(その4)

~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後




まじり気のなき五月雨を待ちにけり


「まじり気のなき五月雨」とはどういうものだろうか。この「まじり気」というのは、もしかしたら放射性物質のことかもしれないが、ここでは心象風景と読みたい。

日常生活を送っていて、否応無しに心の底にたまってくる夾雑物。それを洗い流すには、単なる五月雨では足りない。泉からこんこんと湧き出るような、まさに「まじり気」のない五月雨でなくては。そんな五月雨の日は、両手を広げて空を仰ぎ、全身に浴びるのだ。「まじり気」のない子どもの頃に還ったように。

と、ここまで書いて、やっぱり気になるのは放射性物質のこと。作者は道内在住だからたぶんそのような意図はないと思うが、そんな読みを排除することができない心理もまた、夾雑物のひとつかもしれない。



葉桜となりて切り出す話しかな




葉桜には二つの気持ちがこもるという。「もはや葉桜になってしまったと花を惜しむ思いと、桜若葉のすがすがしさを愛でる思い」(角川俳句大歳時記)。掲句は、そんな二つの思いを十全に表現した巧みさが光る。

「切り出す話」としてまず想像するのは別れ話だろう。なぜ葉桜となって切り出したのか。桜が眼前にあったときには高揚していた気分が落ち着き、冷静になって考えて別離という結論を出すに至ったのだろうか。はたまた、桜が散ってゆく哀れさに、相手を支えていくという熱意を失ったのか。

理由はどうあれ、作者は別れを切り出し、そして、桜若葉のような新しい人生を始める決意をしたのだ。



蒲公英の絮や母には母の夢



歳時記では「蒲公英の絮」は「蒲公英」の傍題で、独立して解説はされていないが、この季語もふたつの意味を持っていると思う。ひとつは、ふわふわと風に流される儚い存在として。もうひとつは、どこにでも定着して根を張る強さとして。

掲句は後者を詠んだものと解釈したい。そうでなければ、ちょっと悲しすぎるからだ。

年老いた母親。若い頃には若い頃の夢。デパートガールにでもなりたいと思っていただろうか。子育てをしている時期には、息子の成長が夢だったのかもしれない。そして老境に入って今の夢は何だろう。いつまでも孫が会いにきてくれることか。同じように年老いた伴侶といつまでも仲良く暮らすことか。

そう。年をとっても、きっと夢はいくらでもあるのだろう。母親をそんな優しい目で見ている作者の気持ちに、幸せな気分にさせてもらった。


(つづく)

2012年6月11日月曜日

俳句集団【itak】第一回句会 投句・選句一覧④

※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。

※④-14、④-21 俳句集団【itak】第1回句会評 参照



俳句集団【itak】第一回句会 投句・選句一覧③

※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。

※③-10、③-11、③-13、③-17 俳句集団【itak】第1回句会評 参照


※③-11 『牛後が読む』(その1) 参照
※③-8、③-17 『牛後が読む』(その6)参照

俳句集団【itak】第一回句会 投句・選句一覧②

※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。
※②-1、②-3、②-9、②-12、②-14 俳句集団【itak】第1回句会評 参照


※②-3 『牛後が読む』(その4) 参照
※②-5、②-13 『牛後が読む』(その5) 参照

俳句集団【itak】第一回句会 投句・選句一覧①

※番号があり作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。


※①-1、①-5、①-8、①-10、①-17、①-27 俳句集団【itak】第1回句会評 参照


※①-4、①-8、①-16 『牛後が読む』(その1) 参照
※①-4、①-8 『牛後が読む』(その2) 参照
※①-9、①-10 『牛後が読む』(その3) 参照
※①-20、①-21 『牛後が読む』(その4) 参照

2012年6月9日土曜日

牛後が読む(その3)

~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後


葎ゆくやがて角もつわが身かな


葎とは、つる性植物のカナムグラのことだが、私はこの植物を見たことはない。
でも、棘のある植物ということで想像することはできる。名前はわからないが、
そのような植物はうちの周りにもたくさん生えているからだ。


葎を行くなら、必要なのは角ではなくて鎧だろう。角などあっても、棘から身
を守れないからだ。しかし作者は、「やがて角もつ」と言う。これは確信では
なくて願望なのかもしれない。角など持たずに生きてきた人生、たまには角を
振りかざして生きてみたいよね、ということか。


社会生活を送っていると、なかなか自己主張するのは難しい。日本人は自己主
張が下手だという話はよく聞くが、それゆえこの極東の地まで辿り着くことが
できたのだろう。自己主張ばかりしていたのではとうに死に絶えていたに違い
ない。それでも、何か言いたいことは誰しもある。世間という葎はあまりにも
強く絡まりすぎていて、そこを突き抜けるにはやはり角が必要なのだ。



鼻唄をとくと聞かせて草を引く


角川俳句大歳時記には「夏は雑草が茂りやすい。畑作は雑草との戦いである。
(中略)畑のところどころから草取女の鼻唄が流れる。」とあり、季語「草取
り」と鼻唄は常套的な取り合わせではないのかなという気がしていた。


それでは、草取りのときに聞かせるのはどんな歌がいいのか、考えて見た。
「ビートルズ」などはどうだろう。団塊の世代が定年帰農して聞かせるならい
いかもしれない。リズムに乗って草取りも捗りそうだ。もっと年配なら、「さ
ぶちゃん」あたりがいいかもしれない。「与作」が定番になりそう。若い世代
なら「AKB」のようなリズムの早い曲を口ずさみながら、草取りも楽しくできそ
うだ。


そんなことを考えながらもう一度掲句を読むと、やはり鼻歌が一番という気が
してくる。草取りなどの単純作業をしていると、頭が空っぽになるというのは
誰しも経験することだが、そんなときに無意識に流れ出てくるのが鼻唄だ。草
取りという行為をいつまでも続けるには、頭は半分無意識の領域に突っこんで
いるくらいがちょうどいいのかもしれない。そう思ったら、「とくと」という
措辞はとても効果的だ。



(つづく)

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俳句集団【itak】からのお知らせ

第一回イベントから4週間が過ぎました。
句評『牛後が読む』の好評連載中ではありますが
当日の投句で掲載の許可を頂いたものの一覧と
選句状況のまとめを、来週にも公開したいと思います。
紙の俳誌を持たない俳句会の事実上の俳誌となります。
ご参加のみなさま、ご高覧のみなさまの
お目に留まれば幸いです。
ラベルは「投句・選句一覧」といたします。

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2012年6月4日月曜日

牛後が読む(その2)

 
~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後


今回の句会では、選は「天」と「地」だけだったので、今回からは好きな句、気になった句について書いていきたいと思います。


ハーモニカ春風すこし入れて吹く

ハーモニカといえば、小学校に入っていちばん初めに手にする楽器だ。少なくとも私にとっては音楽との出会いの楽器だったと思う。

しかし、実は私はハーモニカにはいい思い出はない。1年生の頃の私は、音楽、図工、体育が大の苦手で、勉強だけがよくできるというまったく可愛げのない子どもだった。担任の先生からもあまり好かれていなかったようで、先生の顔といえば怒った顔を思い出すほどだ。そのときのクラスにはハーモニカの級というのがあって、先生のところに行って吹いてみせて、合格をもらえば昇級できるという制度になっていた。

ハーモニカの苦手な私はひどく緊張して先生のところへ行き、うまく吹けなくて不合格になったことだけを覚えている。ほんとうは合格したこともたくさんあったのだろうが、子どもの頃の記憶というのはそんなものなのだろう。

今ならそのころの私に言いたい。ハーモニカなんか吹けなくたって、どうってことないんだよ。先生のところへ行く前に、一度外に出て春風を胸一杯に吸い込んで、それをすこしだけハーモニカに吹き込むんだよ、そうすればきっとうまく吹けるはずだ。
そんな思いとともに、この句は私の胸に吸い込まれるように入ってきた。


マンモスの玻璃の瞳に夏来る

マンモスの剥製というのはどこかで見ることができるのだろうか? シベリアの永久凍土からマンモスの氷漬けが発見されたというニュースは聞いたことがあるが、展示されているのかどうかは寡聞にして知らない。

しかしマンモスの硝子の眼に夏が来る、と言われてしまえば、そうだよなあと思う。それは、数万年ものあいだ永久凍土に閉じこめられていたマンモスが、とつぜん陽光の降り注ぐこの世に引き出されたときの輝きを思うからかもしれない。その身の内に塗り込められた暗黒が長ければ長いほど、明るいところに出たときには明るく輝くのだ。

それとともに、マンモスの発掘に一生を賭けた人々もいたにちがいない。そんな人々の夢や希望も、マンモスの剥製には宿っている。マンモスを発見したときの一瞬の心の躍動、それはシベリアの凍土が融ける初夏の風景によく似合う。もちろん、剥製のマンモスの瞳がそのことを記憶に留めているわけはないのだが、その光景はマンモスの皮膚に取り込まれ、ガラスの瞳の中に収斂しているような気がするのである。


(つづく)

2012年6月2日土曜日


牛後が読む(その1)

~旗揚げイベントの俳句から~

鈴木牛後
 

今回の旗揚げイベントに、幹事の中でただ一人参加できなかったので、選を書かなければならない羽目になってしまいました。並み居る諸先輩方が参加されている句会の選を、このような公開の場に披露するのはもとより荷が重いのですが、「やりすぎくらいがちょうどいい」というのが【itak】のモットーということで、書かせて頂くことにしました。ご意見、ご批判をお待ちしています。なお選は、アンケートにおいて、ネットでの公開に同意いただいた句のみを対象としています。




【天】 

ブラキストン線の北にて青葉爆ず

私は北海道で生まれ育って50年、道外に出たことはたぶん10回もないと思う。それも、正月に妻の実家のある大阪に帰省したことが大半で、花も咲いていない木枯の中を歩いてきただけだ。

俳句をするようになって悔しいと思うことがときどきある。それは、季語のかなりの部分が実感としてわからないこと。「炎暑」とか「梅雨」などの時候や天文の季語にももちろんそれはあるのだが、一番大きいのはやはり植物の季語だろう。当地には椿も梅も木犀もない。竹もないし、檜や欅もない。これらを詠んだ名句は山のようにあるのに、どうにも理解しようがない。

厳密には、ブラキストン線によって分けられるのは動物が主で、植物はそれほどないようだが(実際、梅は札幌にはある)、私にはこの「ブラキストン線」という言葉の語感自体が、北海道民としての矜持と疎外感の象徴という感覚がある。 そう、矜持と疎外感は表裏一体なのだ。その屈折した感情。東京で桜が咲いているのに、まだ雪掻きをしているという現実を思うとき、身体の奥深く積み重なってゆくものを自覚せざるを得ない。
そして春。北海道民にカタルシスが訪れる。花が次々に開き、瞬く間に新緑の世界に変わってゆく。この時間感覚は人によってさまざまだろうが、作者はこれを「青葉爆ず」と表現した。これは作者ならではの身体的な把握だろう。冬の間極限まで縮められたバネが、一気に弾けるという皮膚感覚。北海道に住む者でなければ詠めない句として、この句に大いに感銘した。


【地】

ひたすらの帰雁の胸の硬からむ


冬は日本で過ごし、春になるとシベリアに帰ってゆく雁。蕪村が「きのふ去にけふいに雁のなき夜かな」と詠んだように、人間からみた寂しさとして詠まれることが多い。

掲句は、寂しさと同時に帰雁の強さを詠んだ句として新鮮に感じた。雁などの渡り鳥が正確に渡りをすることのできるメカニズムについてはよく知らないが、人間からみるとかなり神秘的な営為であることは間違いない。脇目もふらず一直線に目的地を目指す雁。その編隊の整然さとも相俟って、硬質とも言える美がそこにはある。

作者はその帰雁の胸に注目した。強靱な羽を動かす筋肉を包む胸。その硬さこそが、長い渡りの旅路を可能にしているのだ。一方で作者は、自分の胸のやわらかさに目を向けているのかもしれない。物理的なやわらかさではなく、むしろ精神的なものとして。それは、自分には、もはやなくなってしまったひたむきさかもしれないし、追い続けられなくなった夢であるのかもしれない。次々に飛び立ってゆく雁の群れを思い描きながら、作者のやわらかな胸に去来するものを想像せずにはいられない。


(つづく)

2012年6月1日金曜日

『牛後が読む』がはじまります!



俳句集団【itak】事務局です。

旗揚げイベントからあっという間に3週間が経ちました。
本日より6月。心地よい北海道の初夏を迎えます。

先日よりパネリスト評論、句会評、五句競詠などをアップして参りました。
明日からは新企画『牛後が読む』をスタートしたいと思います。

俳句集団【itak】の句会には今回86句が投句されました。
時間の限られた句会では選に漏れる句も多くありますが
そういったものについても触れてみようじゃないかというのがこの企画です。

掲載の同意を頂いたものの中からいくつかを俳人・鈴木牛後の目で読んでまいります。
不定期ではありますがシリーズとして続けたいと思います。

その多くは結社に属さない参加者の俳句がみなさんのお目に留まる機会です。
句に対して、あるいは評に対してのコメントもお待ちしております。


☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご、「いつき組」「藍生」)
週刊俳句に「牛の歳時記」を不定期連載中