2014年9月29日月曜日

みんなして行ってきたんにゃ Haiku Bar 【大歓迎ならいらない 限界だ】  @たきかわホール 20140927 



どうも。野良猫です。
行ってきたんにゃ Haiku Bar 【大歓迎ならいらない 限界だ】 @たきかわホール


本州ではおなじみの俳句イベント「HaikuBar」が今回は滝川で開催されると聞いて、それはもうwktkとはこのことです。この前のwktkは・・・札幌マッハの時だった!開演前に白ワイン飲み干しちゃっててごめんなさいにゃ(´・_・`)今回もワンドリンク付き、ちゃんとおかわりもあるよという事前情報あり(^^金滴ひやおろしと風の森、鶴沼ワインなどなど。美味しくいただきました。


ホストは新感覚青春小説『いるか句会へようこそ!』を先日上梓された堀本裕樹さん。
なんどかお目にかかっておりますが相変わらず凛々しいにゃぅにゃぅにゃぅ。サインくださいにゃぅ(もらいますた)。

当日はスタッフさんも含めて60名ほどおいででしたでしょうか。もちろん野良猫さんたちも事前投句していったのですにゃん。お題は「秋の夜」。歳時記となかなかリンクしない北海道ですが、今年の秋はほぼぴったりの歩みで秋が深まっておりますよ。地元の方々に加えて近郊在住のみなさんが参加しましたからね。そりゃあもう秋たけなわな句会を期待しちゃいます。
 
開場17時半、開演18時。司会の歌人・月岡さんから、呼び捨てされる堀本さん。懐かしい学生時代のエピソードを交えてのご紹介です。そして【itak】幹事の山田さんもご紹介。なんと会場入りに先立って家から途中の新十津川まで歩いて来たとか。すごいなぁ。


入場時に渡された選句表から5句選(うち1句特選)で、18:15までに参加者の選句が回収されました。結果集計までの間は出演者3名の並選を披いていきます。その中から印象的なものをいくつか引いてみましょう。


 秋の夜や死ぬ順番を口にする  堀本・山田選 月岡特選


堀本さんが「妻がゐて夜長を言へりさう思ふ(森澄夫)」を思わせる。共に生きた夫婦のふとした会話を切りだした句といえば、航さんが「黄の青の赤の雨傘誰から死ぬ(林田紀音夫)」のような、死神が死を予言するかのような不穏な句といい、評の方向性の違いが会場に笑いを巻き起こしました。結局月岡さんの特選も入っていたことが後程判明。参加者の人気も集め5位の句となりましたが、作者はなんと当会幹事の橋本喜夫さん!


 一秒の音の深さや秋の夜  堀本・月岡選


堀本さんと月岡さんの並選が入り、最終的には4位の句となりました。秋の夜長にあわせたものが一秒という短い単位であったこと、またそれを音の深さとしたことで世界が大きく広がりました。作者は地元の田中さんというご年配の男性の方でした。


 秋の夜や明日には切る髪を梳く  月岡選 堀本・山田特選


月岡さんの並選だけかと思ったら堀本さんと山田さんの特選までさらっちゃった上、当日人気も3位という高点句。失恋とかじゃなくて、もっとさばさばと、明日は髪を切るんだよねぇ~って思いながら髪を梳いているような軽快感みたいなものを感じさせるのは秋の夜の乾燥した空気感かもしれません。普通のことをさらりと書いたこの句の作者は【itak】ファミリー旭川東高校の木村杏香さんでした!


そしてここに問題句が一句。

 霧つづく信濃の低地切れた縄  無点句


実はなんとなく雰囲気が良くて予選に入れていた野良猫なんですが・・・兼題「秋の夜」が入っていないじゃないですか~ ということで頭のなかが「???」となったひと結構多数。これが実は壮大な挨拶句だったとは!



 那智の滝われ一滴のしづくなり 堀本裕樹 『熊野曼陀羅』より


なちのたきわれいつてきのしづくなり」⇔「きりつづくしなののていちきれたなわ
なんとアナグラムになっていたのです!
作者はもちろん山田航さん。堀本さんの作品をリスペクトしつつ、月岡さんの出身地、信濃まで織り込むという念の入れ様。選句表最終句に置かれ、最後に紹介されるにふさわしい句だったのでした。・・・兼題入ってないけどねw;


最後に表彰式があり、月岡賞を橋本喜夫さん、堀本賞と山田賞を木村杏香さんがゲット。1位から5位までも順に表彰されて、秋の夜の句会は終わったのでした。出演者のみなさん、スタッフのみなさん、楽しい夜をありがとうございました。そして【itak】ファミリーのみなさんもご一緒出来てなにより良い夜でした。
月岡さんがおっしゃるように、滝川が北海道の文芸の中心地のひとつとなりますよう、俳句集団【itak】もいっしょに歩いていきますよ!

そして白木屋もたまに寄るには悪くなかったことを申し添えまして「 Haiku Bar 【大歓迎ならいらない 限界だ】 @たきかわホール」のレポートを終わりたいと思います。にゃー!(←また猫キャラ忘れてたよ!


 
 
< Haiku Bar 【大歓迎ならいらない 限界だ】 メモ>
■日時 9月27日(土)18時開演20時過ぎ終演

■場所 たきかわホール

■出演

ゲスト 歌人 山田航さん

ホスト 俳人 堀本裕樹さん
司 会  歌人 月岡道晴さん

■兼題 「秋の夜」
一位 「言い訳も嘘も長引く秋の夜」    夏井豊さん
二位 「言い訳をしつつ頬張る秋の夜」  土橋さん
三位 「秋の夜や明日には切る髪を梳く」 木村杏香さん
四位 「一秒の音の深さや秋の夜」     田中さん
五位 「秋の夜や死ぬ順番を口にする」  橋本喜夫さん

■参加総数 約60名(スタッフさん含む) 投句44句
■お酒ライナップ 金滴本醸造ひやおろし(新十津川)
           風の森無濾過生原酒(奈良)
           鶴沼ワイン白・赤(浦臼)


 

2014年9月24日水曜日

第15回句会 投句選句一覧④


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです



 
 
#投句・選句一覧
 
 

第15回句会 投句選句一覧③


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです




 

































#投句・選句一覧
 

第15回句会 投句選句一覧②


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです





 
#投句・選句一覧
 
 

第15回句会 投句選句一覧①


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです


 
#投句・選句一覧
 
 

【第15回人気五句披講】

俳句集団【itak】です。
 
いつもご高覧頂きありがとうございます。
先日公開しました第15回句会【人気五句】の披講をいたします。
三句選で、天=3点、地=2点、人=1点の配点方式、( )内は配点です。
横書きにてご容赦くださいませ。

銀漢や窯場の薪のうづたかし           草刈勢以子 (18)
車椅子日和と妻が言ふ晩夏            橋本 喜夫( 9)
眠草仏わらひの稚児の夢              長谷川忠臣( 9)
夜の海月独りの時を持て余し           田口三千代( 9)
天高くみなそれぞれの旅鞄              三品 吏紀( 9)
雁やユンボ巨腕を地に噛ませ           鈴木 牛後( 9)
 

以上です。ご鑑賞ありがとうございました。



なお、2位、3位は掲載不可、4位は同点句が5句ありましたので
そこまでの上位6句をご紹介いたしました。

当日の参加者数は52名、104句の出句となりました。
引き続き投句選句一覧をご報告します。
ご高覧下さいませ。


 

2014年9月21日日曜日

俳句集団【itak】第15回句会評 (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第15回句会評

  
2014年9月13日


橋本 喜夫(雪華・銀化)
 
 
 今回は参加人数が少ないと聞いていたが、高校生などが集まりいつも通りの人数があつまった。さて今回は公私ともに不調で、元気がないので速攻で終わらせたい。またかなり虫の居所も悪いので辛口になるやもしれず。
 
 
 死に隣る友の着信夜半の秋  小笠原かほる      
 
 
「友」を使うと句が甘くなり、あまり成功例はない。「死に隣る」の措辞がひたすらその甘さを消している。「夜半の秋」の情緒があまりにも付きすぎの感もあるが、事実なので仕方ないであろう。ただし詩として事実だからよいということはない。
 

 貫録の千年杉や天高し     田湯 岬 
 
 
コメントでも言ったが、千年杉、天高しは順当なつながりであろう。選句したひとは「貫録」という擬人化が佳いと思ったであろうし、採らない人は問題だと思ったであろう。千年杉に対する「貫録」という措辞が佳いか悪いかは意見の分かれるところであろう。私はやはり問題かなと思った。
 

 仁王像の乳首に菊が咲いてやがる   山田 航
 
 
せっかく、破調であるならここまで遊んで欲しいし、破天荒であってほしい。乳首に菊が咲いていることを定型で納めても面白くないかもしれない。「咲いてやがる」の措辞がひたすら気に入った。俳句で「遊んでやがる」と思った次第だ。
 

 立待月かばんの闇をまさぐりぬ   瀬戸優理子
 
 
立待月の風情、どうしても闇というのはありうる。宵闇というイメージがあるから。そこを「かばんの闇をまさぐる」というインパクトのあるフレーズで、しかもイメージの湧く「もの」を持ってきたところに掲句の佳さがあるのでしょう。上五を「立待の」「立待や」と俳句らしくまとめるのも手だが、「名詞切れ」にしたのも作者の好みなのであろう。
 

 高階の燈の二つ三つつづれさせ    猿木三九
 
 
高層のビルあるいは高階の建物を下の闇から見つめている景であろう。二つ三つという措辞がとても成功している。つまり、少ない灯りで闇がメインであることがわかり、つづれさせの虫の音を逆にクローズアップさせる作りになっている。「虫の闇」とか、「虫しぐれ」というあざとい止めでなく、「つづれさせ」で止めたのも上手い納めかただと思う。
 
 
 秋晴れや秒速一歩ずつ歩む      今井  心
 
 
コメントでも言ったのだが、「秒速」という言葉は意外にあいまいで、速度が遅いのか早いのかわかりずらい。秒速だけをとりあげるととても速いイメージがあるのだが、「一歩ずつ歩む」 となっている。つまりこの句は「秋晴れ」という気持ちの佳い季語に対して、中七以下は意外にアンビバレンスな感覚が残る句になっている。それが作者の思いとは裏腹にこの句の魅力になっていると思う。気持ちの佳い秋晴れの下、作者がゆっくり歩いているのか、急いで歩いているのか伝わりづらい作りになっている。逆にそれがこの句のフックなのである。
 

 終戦忌色えんぴつの五百色     久保田哲子
 
 
この句の佳さは座五の「五百色」、これが色んなことを思わせる。文字通り「古色蒼然」な感じもするし、逆に「呉越同舟」というか、いわゆる「混沌」な感じもする。まさに終戦のころは12色の色鉛筆すら買ってもらうことが大変だった、それが平成の今は五百色の色鉛筆が手に入る。人種もひとの考えも、多種多彩であるが、「終戦忌」の句の割に明るさが残るのは、多彩であること、多種多様であることを作者自身が肯っているからであろう。
 
 
 供物なき名月よ闇汲む水よ     五十嵐秀彦
 

句またがりのつくりで、何か意味ありげに詠みこんでいるが、内実なにも言っていない、逆にそれがこの句の佳さなのである。しいてあげればせっかくの名月なのに何も供物を置いていない現代人あるいは自らに対する自虐とでもいおうか。とにかく意味ありげな言葉がならぶが、これがこの句のフックであり罠である。
 

 氾濫は今宵とまらず天の川     酒井おかわり
 

「氾濫が止まらない」という措辞。天の川の斡旋、現在の時事状況を踏まえてとてもよくできている。問題は「今宵」おそらく、この3文字を使って、中七をもっとインパクトのある表現にできるような気がする。そこが少し残念だった。
 

 ティンパニの在庫あります秋の雷   青山 酔鳴
 

テインパニの楽器としての性格、金属的な音、打楽器で、突然入ってくる感じなどなど。秋の雷という季語にかなっているが、それだけにネタバレ感があること。しかし、中七の「在庫あります」がこの句を格上げしているように思う。「ティンパニ=秋の雷」の単なる見立ての句と思われても仕方がない。
 

 眠草仏わらひの稚児の夢       長谷川忠臣
 

「赤ちゃんの虫笑ひ」を詠むことはあまたある「孫俳句」などによくあるのであるが、この句の成功はやはり「仏笑い」としたことに尽きる。あとは眠草の斡旋の佳さ悪さ、好みによるかもしれない。近すぎるというひともあると思うが、私は佳いと思う。むしろ「稚児の夢」が言い過ぎなのかもしれない。
 

 雁やユンボ巨腕を地に噛ませ     鈴木 牛後
 

「巨腕を地に噛ませ」のフレーズはとても良い。あとは空、秋天、という対照物の季語を何にするか。「雁」がベストかどうかはわからない。たまたま雁が飛んでいたではすまされない。詩として何がベストか?である。 
 

 銀漢や窯場の薪のうづたかし    草刈勢以子
 
 
 コメントの時も言ったが、窯場のしづけさを詠むために、大自然の大きなもの、たとえば銀漢を持ってくるというのは在り得るであろうし、逆に予定調和なのかもしれない。しかし、なかなか「薪のうづたかし」という格調の高い止めの措辞は出てこないと思う。最後の八文字の止めは大変非凡だと思う。
 

 宿題は鈴虫の餌替へてから     内平あとり
 

宿題という題材、高校生が作者と思ったが。この方であった。「宿題や」で切らないのも、「餌替えてより」 としないのも句の内容の若さ、青春性みたいものを出したかったのだと推察する。俳句は無名がいいと、龍太は言ったが、句会ではこういう「なりすまし」のやり方も面白い。
 

 草の花名を問い質す鎖塚      藤原 文珍
 

「鎖塚」の由来を知っていれば中七の措辞がありがちであることはいなめないし、予定調和感がある。しかし開拓のために死んでいった名もなきひとたちへの思いが「草の花」に集約されている。この季語が救ってくれている。
 

 天高くみなそれぞれの旅鞄      三品 吏紀
 

みなそれぞれに家があり、鍵があり、靴があり。そういう意味では中七以下は在り得るし、順当なつくりであるが、そこに「天高く」とくると、一挙に秋天の下で旅をつづけるひとびとの生き様が見えてくるようで、気持ちの佳い作りになった。「天高し」でなくて、天高くと連用形で繋げたのも佳い。
 

 六十九回目の弔文虫が読む      村上 海斗
 

終戦の句としてとても変わった切り口をしたと思う。69回年を重ねたことをわざわざ詠むということを普通の俳人はしない。それを「弔文を虫に読ませた」ところが面白い切り口だし、それで作者もいいたいことが言えたのだと思う。
 

 鶏頭のむかうに家のありにけり     堀下  翔
 

なんの工夫も、修辞もないように見えるがかなり、新しい読み方だと思う。特に「鶏頭」の句は子規をはじめとして有名句があるので、そのイメージを払拭する意気込みが感じられる。
 

 夜の海月独りの時を持て余し      田口三千代
 

中七以下の表白というか措辞はこれも独居老人であればよくあることかもしれないが、「夜の海月」という季語を置くと、にわかに味が出てくる。死にかけた艶っぽさと、危うさもあるし、俳諧味も出てくる。今水族館で、海月がブームらしいが、その怪しい美しさと、頽廃さがいいのかもしれない。昼の海月ではなく、夜の海月だからいいのであろう。
 

 純真をどこかで失くす賢治の忌     大原 智也
 

賢治の生き様を考えるとべたべた感もあるのだが、「純真」という措辞をまっすぐ使った作者の「純真さ」に魅かれる。まずもって俳句になりずらい措辞でよく考えてみると純真という措辞を使って俳句になるとすれば、詩になるとすれば、「賢治の忌」しかないような気もしてきた。
 

 時間切れのランナー詰めてバス秋暑   佐藤  萌
 

まず札幌マラソンかなにかのスナップショットとしての切り込みの佳さ。そして時間切れランナーの悲哀と、悲壮感。そして疲労感。しかも「バスの句」。バスという措辞、俳句にしずらい乗り物の一二を争うのではなかろうか。「バス秋暑」で座五をまとめた力技も素晴らしいと思う。「詰めて」 の措辞もランナーの徒労感が伝わる。
 

 虫が鳴く和式トイレの窓の外        ともやっクス
 

「和式トイレ」がとてもよい。場所設定もしっかりしている。洋式トイレだと俳諧味も詩も生まれないであろう。「厠」という古臭い言葉を使わなかったことも佳い。
 

 新涼の手のひらにのる嬰の靴     草刈勢以子
 

私のように爺ルーキーにはたまらない句材だ。実際に、購入したり手にするとわかるが、あの靴はほんとうに可愛らしい。いろんな形や色があって楽しめる。ほんとうに嬰は一生楽しめるし、一生飽きることのない玩具だ。なんてことを言うのか。多数の苦情や御批判待ってます。
 

 玉葱を投げる祭りは痛いので中止     山田 航
 

究極のナンセンス俳句であるが。とても喚起力がある言葉でできている。まっすぐ、まじめな俳人であれば「玉葱を投げる祭り」なんてあるのかしら?とか、玉葱が当たると痛いのかしら?とか中止したら来年は行われるのかしら?とか疑問が次々とわくであろう。すべて言葉のトラップである。俳人協会のひとであれば、季語に季感がないとか言うのであろうか。季語の使い方が雑とか言うのかな?考えただけでわくわくする。
 
 
 
やっと終わった一時間以上もかかってしまった。
最後に毒を吐かしてもらうが、「どこそこで、このような景を見て、そのときたまたま鳥が飛んでいたのを詠んだ」というのは自句自解とは言わない。状況説明である。聴くだけやぼだし、時間の無駄なのでやめた方がいいと思う。それなら問題句や話題提供句に時間を割いた方が建設的だ。来てくれている高校生の勉強にもならない。それではまた。またはないかもしれないが。
 

※喜夫さんありがとうございました。
 みなさんに人気のある企画なので是非とも「また」おねがいいたします♪
 そしてみなさまのコメントもお待ちしております(^^by事務局(J)


 

2014年9月15日月曜日

俳句集団【itak】第15回イベントを終えて


俳句集団【itak】第15回イベントを終えて

「 経験の総和より大きな・・・ 」
 
五十嵐秀彦


 


今回も57名の方々が参加しにぎやかなイベントとなりました。

もう15回…。まだ15回…。さまざまな思いが浮かびます。

前回学校のスケジュールの都合で参加できなかった琴似工業高校の生徒さんたちも今回は1年生が6名も参加。そして旭川東高のOB2名、琴似工業のOB1名、そうそう忘れてはいけない、小学生が2名と、次へ繋がってゆく世代の顔ぶれがありがたく、そして頼もしかったです。

 

第1部の講演、平倫子さん(俳人、北星学園大学名誉教授、itak幹事)の『ラフカディオ・ハーンの真面目(しんめんもく)~「一つの民族の経験の総和よりも大きな記憶」をキーワードに~』では、ハーン没後110年の今年という時機を得た発表であり、とても内容豊かなお話を聴くことができました。

ハーンの短編「門つけ」で、盲目の女の門つけ歌(瞽女歌でしょうか)を聴く人々の様子から、経験の総和より大きな記憶がこだまのように目をさますのに気づいたということが書かれているところから始まり、それが竪琴弾きのジプシーの門つけを見たハーン自身の幼い日の記憶にも通じるものであったこと。それが長じてしだいに異教思想に傾斜していったハーンの資質のようなものでもあったことを今回の講演で初めて知ることができました。

それは文芸の奥底にひそむ大事なものを教えていただいたようにも思うのでした。

後日抄録が当ブログに掲載されますのでお楽しみに。

 

第2部の句会もにぎやかに行われました。

小学生から80代のベテランまでの幅広い世代が対等に座の愉しみを共有できる。これこそ句会の醍醐味、相聞のうたとしての俳句文芸の原点だと思います。


交流に多くの言葉は必要ありません。投句し選句をする、その行為そのものがいのちの交感であり相聞なのでしょう。

俳句や短歌のような伝統短詩は、この国の言葉の歴史をどこまで遡っても源流を見つけられないほど長い時間の流れの中に、民族と個人の経験を積み上げてきており、そしていまこのときに現代の生き生きとした創作として存在し続けています。

それを共有するのに、かならずしも長い修練を必要とするわけではなく、日本語の海を泳ぐ者は誰もが平等に句座をともにできるのです。

無記名の投句一覧を見てもその中から小学生や高校生の句を正確に言い当てることはむずかしいものです。誰もが平等に参加できてすぐに俳句を通して交流しあえる句座というのは、とても大切なものだとあらためて感じました。

 

今回、初めての試みとして司会とともにコメンテーターが句会進行に合わせて作品へのコメントを適時出していくということをやってみました。

そのコメンテーターを橋本喜夫さんがつとめてくれて、句会を一層盛り上げる効果があったと思います。これからもできれば交代制でコメンテーターを入れていこうと考えています。

 

今回はイベント冒頭で、北海道俳句協会事務局長の田湯岬さんから、同協会に関する説明と9月末に迫った投句および入会をお薦めするお話をしていただきました。

北海道俳句協会もitakと同様「超党派」の組織です。itakと同協会は「運動」と「組織」の違いはあるかもしれませんが、しかし互いに協力し合うことで北海道の俳句の世界を活気づけていけるのではないかと思います。

itakの事務局に申し込み用紙がまだ少し残っておりますので、関心のある方はitak事務局メールアドレス(itakhaiku@gmail.com)までお問い合わせください。

 

次回第16回イベントは、11月8日(土)午後1時~4時50分、北海道立文学館講堂。
第1部講演は、十勝在住の獣医師・俳人、安田豆作さんの「重種馬の生産の現状と、馬の俳句」が予定されております。ご期待下さい。

 

もうひとつうれしい情報があります。

今回のitakの翌日日曜日に、俳句甲子園OBの呼びかけで現役高校生(琴似工業高校と石狩南高校)たちが集まり新しい句会が始まりました。

名前は「氷菓句会」だそうです。

これからも不定期ながら継続されるようで、その句会の様子もこのitakのブログで紹介してまいります。
 

ご参加の皆様、お疲れ様でした。
11月に再びお会いいたしましょう。

 

 

2014年9月14日日曜日

第15回俳句集団【itak】イベントは無事終了しました。



昨日は俳句集団【itak】の第15回イベント 講演会・句会にお越しいただきまして誠にありがとうございました。
平 倫子氏による講演会『ラフカディオ・ハーンの真面目(しんめんもく)』~「一つの民族の経験の総和よりも大きな記憶」をキーワードに~はいかがでしたでしょうか。どうぞご感想などをお寄せ下さいませ。
今回も57名のみなさんにご参加いただき、大盛会となりました。
懇親会にも多数のご参加をいただき、心より感謝いたします。
前回から句会の進行方法の改善を行っておりますが、皆さんのご協力でスムーズに進めることができました。ありがとうございました。

第一部の抄録については改めてこのブログにてご報告させていただきたいと思います。
また、「句会評」「人気五句」「読む」企画などを随時アップの予定です。只今皆さんの原稿を鋭意募集中です(ごめんなさい、原稿料はありません)。 

itak】のブログは参加されたみなさんの発表の場でもあります。記事についてのコメントやツイッター等での評を頂けますと大変に励みになります。また、みなさまの作品もお寄せください。既発表作でも構いません。エッセイ、回文、短歌、どんなジャンルでも結構です。どうぞよろしくお願いします。

次回は9月8日(土)13:00から、北海道立文学館・地下講堂にて開催の予定となっております。
第一部は獣医師・俳人の安田豆作氏による講演会『重種馬の生産の現状と、馬の俳句』を予定しております。みなさまお誘いあわせのうえ、イベント・句会にご参加くださいませ。

詳細は改めてご案内いたします。
以下のメールアドレスに随時お問合せくださいませ。 


本日のところは取り急ぎの御礼まで。
今後とも俳句集団【itak】をどうぞよろしくお願いいたします。


俳句集団【itak】幹事一同

2014年9月12日金曜日

俳句集団【itak】第15回イベント 講演会・句会は明日です!



俳句集団【itak】事務局です。
仲秋の名月、白露、重陽の節句と、季語と共に始まった今週ですが
続く大雨には肝を冷やしました。雨もそろそろ上がるようです。

第15回イベント、講演会・句会はいよいよ明日となりました。
どなたでもご参加いただけます。

当日参加も歓迎です。
お誘いあわせの上、どうぞお気軽にお越しくださいませ。

天気予報は曇。風が少し強いかもしれません。
みなさまどうぞお気をつけてお運びください。


◆日時:平成26年9月13日(土)13時00分~16時50分


◆場所:「北海道立文学館」 講堂
     札幌市中央区中島公園1番4号
     TEL:011-511-7655


■プログラム■

◎第一部 講演会
    『ラフカディオ・ハーンの真面目(しんめんもく)』
     ~「一つの民族の経験の総和よりも大きな記憶」をキーワードに~

 講 演 英文学者・俳人 俳句集団【itak】幹事 平 倫子 

◎第二部 句会(当季雑詠2句出句)

 <参加料>

 一   般  500円
 高校生以下  無  料(但し引率の大人の方は500円を頂きます)



☆また、翌日の午後から同じく文学館講堂で主に高校生を対象とした小句会を開催します。
 大学生・院生、中学生あるいはその年代のみなさんも自由にご参加いただけます。

◆日時:平成26年9月14日(土)13時00分~16時30分ころ

◆場所:「北海道立文学館」 講堂
     札幌市中央区中島公園1番4号
     TEL:011-511-7655

◆句会(当季雑詠3句+当日席題2句出句)

★参加無料・お茶菓子付、当日参加歓迎です。見学自由。

 どちらも詳細お問い合わせはEメール(itakhaiku@gmail.com)へ。






2014年9月10日水曜日

「俳句甲子園ぶらぶら」 ~俳句甲子園観戦記 ・ 堀下 翔~



 俳句甲子園。面白い話だと思う。松山のふつうの商店街に、全国あっちこっちから高校生がやってきて、真剣な顔で俳句のことを喋る。そこにいる人はほとんど俳人。高校生、審査員、観客、ほとんど。そりゃ「なんだこのイベント邪魔くせえな」と思ってる松山市民も大勢いるのだろうけど、それでもこの光景はちょっと感動的である。石を投げたら俳人に当たる。この光景を見たくて筆者も松山に行った。いちおう母校・旭川東高校につきっきりだったのだけれど、旭川東の奮闘は現役生がすでに書いているので、こっちは思ったことをぼちぼち述べてみる。ほとんど雑談である。詳細は公式ホームページに出ているのでそちらをご覧いただきたい。優勝は開成高校、準優勝は洛南高校だ。
 
 まったく関係のないことから始める。
 
 高校生俳句には、ある種の類想が頻出する。おじいちゃんがどうである、とか、告白がどうである、とか、帰り道がどうである、とか。これは単に思い出だけれども、ある高校文芸コンクールの俳句部門で全国の高校生俳人が作品を持ちよったとき、下五に「帰り道」を据えた句がたしか3句もあった。そりゃ高校生、一日でいちばん楽しいのは帰り道かもしれないけれど。こんなふうに、高校生俳句を集めたら似たり寄ったりの句が必ず出てくる。

 これらを生み出すのはおそらく俳句にほとんど触れていない作者である。高校生俳句(というより子供俳句全般と言った方が正しいが)の多くが学校の宿題であるという実情がある。俳句甲子園組にしても、彼らのなかで純粋な「俳句部」に属している者はさほど多くない。大多数は「文芸部」としてふだんは小説や詩を書いていて、部活動の一環として俳句甲子園に来る。5人1チームという大会のルール上、俳句をほとんど作ったことのないままチーム入りする生徒もいる。だから彼らは、俳句で何を表現できるのか、よく知らない。彼らの手にあるのは「どうやら自分はこれから5・7・5で何かを書かねばならないらしい」という状況だけである。虚子も草田男も兜太も軽舟も彼らの知識の範疇ではない。結果として彼らが5・・5に詠むのは目の前にあるごく身近なことがらとなる。 

 それでいいと思う。目の前にあるものを詠む。間違いなく、俳句との正しい付き合い方である。だからこそ類想の塊のような句が毎年あちこちのコンクールで入賞している。そんなところから出発した一部のがきんちょたちが「褒められたし、俳句、おもろいかもな」なんて思って、おもむろに句集を手に取ったりNHK俳句を見はじめたりするのだろう。
 

 えーと、俳句甲子園の話。とにかく、高校生たちは、俳句甲子園に来る。スタンスはそれぞれである。「あの中原とかいう風流なおっさん、審査員だったんか!」「きゃー、あの高柳っていう先生、超イケメン~~」みたいなのから、「やっぱあたしたちの教科書は『新撰21』だよね」「神野さんのサインもらっちゃった」みたいなのまで、まあいろいろである。もっとすごいのになると「なんでみんな阿部青鞋読まないのかな・・・・・・」「私、富安風生が好きです」「卒業したら〇〇に入会する!」「おいらは□□!」「先輩、今月の『俳句』の中沢新一と小澤實の対談どう思う?」なんてのもいて、まあいろいろである。 

 で、彼らが俳句を作って、大人に見せる。するとたいていこう言われる。「高校生らしさがあっていいね」(OR「もっと高校生らしくなくちゃ」)。俳句甲子園に限らず高校生俳人の通過儀礼である。言われてない高校生はモグリ。今年の松山でも何回か聞いた。 

 高校生らしさ。なんだそれは。褒められた方はとりあえずうれしいけれど、他方「もっと高校生らしさがほしいね」なんて言われた側にしてみればこんな災難はない。こちとら虚子を目指してるんだぞ・・・・・・ってのは少数派だけれど、そうでなくても大人から「高校生らしさ」を押し付けられていい気分はしない。 

 でも大人が求める高校生らしさってそんなに変な価値観なのかしら。ちょっと立ち止まってみたい。今年の俳句甲子園の句を思い出しながら。


 炎天を来て美しき祖母見舞う   小場佐 名優(熊本信愛女学院高校)

 
 小学校の道徳の授業で、お婆ちゃんを「きたない」と思ってしまう子の話を読んだ覚えがある。子供にとって年寄は、ときに、ものすごく理解しがたい。体も顔も自分と全然違うし、手ぇ洗わないし、唾とばすし。年寄に苦手意識を持つ子供は多い。そんな彼らが少しだけ成長して、あるとき祖母を美しいと思う。そういう時期がある。老いた人への理解かあるいは自分の感受性の変化か。炎天の道を来た作者の引き締まった顔が見える。


 炎天や勝って干される柔道着   野嵜 大也(愛光高校)


 柔道着のごわごわ感が、炎天の下にリアリティをもって立ち上がる。干す、じゃなくて、干される、なのが即物的。その即物性に「勝って」という経緯を付与した面白さがある。高校生、どう客観的に見ても、頭の半分は恋か部活だ。一戦一戦が自分そのもの。そうして手にした勝利の実感を柔道着に託す。実感とリアリティが互いを支えている。 

 美しいという実感、勝ったという実感。いきいきとした実感にはタイミングがある。ああ、ほんとうにこんなことがあるんだろうな、とため息の出る句を見たい。おそらくそんな句のことを誰かが「高校生らしい句」と呼んだのだ。これは言葉が悪い。大人が「高校生らしく」なんて言ったらまるで枠組みを押し付けているようだ。そうではない。90歳には90歳の、40歳には40歳の、17歳には17歳の実感がある。それを無視して背伸びをした句が「高校生らしくない」と呼ばれるだけである。


 生まれたる病院失せて大文字   渡邉 玉貴(洛南高校B


 ノスタルジーは大人の特権ではない。追憶はおとなだけの遊びではない。自分の生まれた病院が、十数年経ってなくなってしまった。自分はまだ若い気でいたけれど、時間は確実に流れていた。そんなところから、人間に流れる時間の理不尽をはっきりと意識する。それまで単に壮麗なイベントとしか思わなかった大文字が意味を持って見え始める。土佐高校の宮﨑玲奈の句「昭和を映す鏡を売っている夜店」もまた高校生のノスタルジーか。夜店のおもちゃを見ていると、ときどき大昔のテレビ番組のキャラクターが混じっている。掲句の「鏡」はそれらの比喩である。あるいはもっと実際的にキャラクターのプリントされた鏡でもいいが。・・・・・・と書いて気づいたけれど、だとしたらこの句の原型はひみつのアッコちゃんのコンパクト――女の子の鏡の王様だろう――そのものかもしれない。とにかくこの鏡と出会うことで、作者の眼前に昭和という時代が立ち上がる。自分の知らない時間に対する興味と憧憬。昭和って何だ。その気持ちをノスタルジーと呼ぶのが正しいかどうか知らないが、高校生ならだれしもが持ち合わせている感情なのは間違いではあるまい。


 額に汗俺のカルビを裏返す     石丸 雄大(愛光高校)


 俺のカルビを裏返すッ。自分のカルビは自分で裏返すのだという強い意志。かっけー。高校生、焼肉が楽しくて楽しくて仕方のない年頃である。友達と一緒に焼肉に行く。俺のカルビの隣にはあいつのカルビがある。もちろん、だれのものでもないカルビはすべて俺のカルビである。


 留学を決めたる友と夜店ゆく   田村 明日香(慶應義塾湘南藤沢高等部)


 高校生の間でも長期留学はよくある話。一年、たった一年であってさえ、高校時代が三年しかないことを思えば、欠落は三分の一に亘る。このさみしさはちょっと言いようがない。非日常の遊び場である夜店を歩きながら、だんだんと友が日常から切り離されてゆく。詠者はその揺らぎを捉えた。

 
 実感はむろん年齢によってのみ導かれるものではない。物をじっくりと見る。吟行へ出ようぜ、高校生。夜店を詠みにいこうと誘えば、女の子とデートできるし(と言っていたのは、OBの小鳥遊栄樹だ)。


 わたあめを抜ける夜店の明かりかな  岸野 桃子(広島高校)


 重さがなくて繊細で、わたあめはほんとうに魅力的な姿をしている。砂糖を熱して飛ばすだけでかくも心の騒ぐものが生まれるとは俄かには信じがたい。袋から取り出したわたあめを顔の前に運ぶ満足感。そのわたあめに透ける夜店の灯。甘そうな光である。夜店という場の気分のよさがこのあわあわとした光に集中する。


 プラカードガールや汗を拭かぬまま   木村 杏香(旭川東高校)


 甲子園か何かの試合。プラカードガールにはプラカードガールの本分がある。学校を背負っていちばん熱く戦うのは自分ではなく選手たち。彼女はただじっと立つだけ。そんな彼女の姿を、プラカードガールや、と大きく提示して、あとは、その汗のみを言う。拭かれない汗が彼女そのものである。


 流星は象の余生のしづかさへ      森 優希乃(松山東高校A


 老象へと流れる星の、画的な強さ。ほんとうはこの文脈で引用する句ではないかもしれないけれど、それでも持ってきたのには理由がある。同世代の俳人として森の句に触れてきた筆者として言えば、彼女は動物を見るのが好きな俳人である。たとえば昨年度の俳句甲子園の優秀賞句に「背に水を撒けり大夕焼の象」、同じく昨年度の神奈川大学全国高校生俳句大賞の最優秀賞句に「鰐の背にたまつてをりし冬の水」がある。松山東高校は吟行を大事にしていると聞く。これらの句も動物園に通ったうえでの産物ではないか。一見頭で作ったように見える掲句も、吟行を通じて手にした「象の余生」の実感であるにちがいないと、これは鑑賞でもなんでもないただの傍白だけれど、そう思うのである。


 「あ」「見えた?」「見えた」「私も」流れ星  徳山高校(敗者復活戦)


 敗者復活戦の句(チームで一句のため作者は明らかにはされず、合作の可能性もある)。鍵括弧の使用自体はさほど目新しい趣向ではないが、その使用は効果的であり、よく見ている句だなと思わされる。上五「あ」の字足らずが「あっ」と書くよりもよりリアルな呼吸を生み出している。この会話が二人のものか四人のものか定かではないが、星を見る二人――恋人かもしれない――というまるでありふれた景よりも、友人四人で歩いている夜と見たほうが面白い。A「あ」B「見えた?」C「見えた」D「私も」。おしゃべりな女子高生の仲のよさが、会話そのもののデッサンによって立ち上がっている。


 ああ、喋りすぎたかもしれない。そう思ったところで試合のことをほとんど書いていないことに気が付いた。といっても先に記した事情で、旭川東がベスト6で惜敗する前の試合を知らないので書けることは限られている。あえて記憶に残る一試合を挙げるならば、準決勝、愛光高校VS洛南高校の第4試合である。洛南高校Bに二勝を許してあとのない愛光高校が出した句に会場はどよめいた。


 活動写真の家族の正座百日紅    野嵜 大也(愛光高校)


 高校生が活動写真を持ってきたか、と思った。審査員の中原道夫や正木ゆう子も試合後に揃って「自分たちも活動写真は知らないのに」という旨をコメントしている。というか現役高校生のなかには活動写真が何なのか知らない者も多くいた筈である。そう断定せんとする根拠がある。試合を聞いていくうちに判明したが、両高校の選手たち自身が活動写真をよく分かっていなかった。洛南高校Bの「活動写真ってトーキーのことだと思いますが・・・・・・」という正確ではない発言から試合は始まる。愛光高校は「むしろ一般的には無声映画を指す言葉だ」と指摘はしたものの、ディベートが進むにつれ「家族のようすを撮ったもので、めったに撮るものではないから緊張して正座している」「作者はyoutubeで芥川龍之介の生前の映像を見たりするのが趣味」という説明を展開する。誰も指摘しなかったけれど、愛光高校の言いたかったのは活動写真ではなく家庭用8ミリのことではなかったか。NHK『探検バクモン』第6回「究極のお宝映像を発掘せよ!!~NHKアーカイブス」(2012年6月6日放送)に久米正雄が個人的に撮影した「芥川龍之介の木登り」の8ミリが出てきたのを思い出す。果たして愛光高校の選手が趣味で見た動画が久米の8ミリと同一かは知らないが、youtubeで見た芥川が掲句の原点だとしたらやはり「活動写真」の語は的確ではない。
 
 それでも、この句は勝利した。洛南高校Bの句は「遠雷やはたと倒れる写真立て」(千貫幹生)で、審査員の旗は愛光高校に10本、洛南高校Bに3本揚がった。その理由は作品点そのものの高さにある。愛光高校の作品点の合計は130点中96点、洛南は90点(鑑賞点も愛光高校が高いが1点差であった)。試合後の評において高野ムツオは「正座」は活動写真を見ている家族のものだとする鑑賞を述べている。それならば一つ目の助詞は「の」ではないのではないかとも思うが、活動写真にもっとも近い世代の高野(と本人が言っていた)の言葉だからその方が景としては強いかもしれない。筆者は言葉通り活動写真に登場する家族を思い浮かべたい。活動写真は虚構上にあるけれど、映像であるゆえにそこには現実の空気感がうつりこんでしまっている。ある家族の姿に垣間見る戦前。詠者がyoutubeで古い映像を探すのはきっと、過去をのぞき見する快楽を知っているからであろう。だからこの映像が活動写真であろうと8ミリであろうとそれは問題ではない。詠者は実感を書ききっている。掲句がいきいきとして我々の目に映るのはそんなところに理由がある。



 毎年、俳句甲子園の季節となるたびにOBOGたちはこんな言い方をする。「今年はどんな句に出会えるだろう」。次から次へと俳句が語られるこのイベントの楽しさを言い得ている。そして俳句甲子園は幕を閉じ、こうつぶやかずにはいられなくなる。来年はどんな句に出会えるだろう。また、行きたい。 


☆堀下翔(ほりした・かける)
1995年生まれ。旭川東高等学校文芸部OB。「里」「群青」同人。現在、筑波大学に在籍。