2014年4月29日火曜日

瀬戸優理子 『結婚指環』 鑑賞 ~小笠原 かほる~



瀬戸優理子さん、このたびは中北海道現代俳句賞受賞おめでとうございます。
優理子さんの句は日常の優しい時間の流れを感じます。
ご本人の爽やかな笑顔と聡明な印象が句の骨格になっていると思います。


 粉雪のように米舞う中華鍋


自宅では粉雪が舞うようなパラパラのチャーハンを作るのは火力、腕力が足りなくて困難なものですので、この句はきっとお店の厨房で煽られる瞬間をじーっと観察しておられたのではと想像いたしました。中華に限らず厨房の見えるカウンターに座りながら料理を待つ事もまたごちそうの美味しさを引き立たせてくれるのではないだろうか。
 

 さよならをなめらかに言うのどぼとけ

 
「さよなら」にも色々な「さよなら」がある。また明日~のさよなら、また今度~のさよなら、二度と会う事の出来ない永遠の~さよなら。この句の「さよなら」は、どの「さよなら」なのかとふっと思った。!なめらかに言うのだから・・あ!ひょっとしてお子さんと一緒の時でお友達に言う「また明日~」のさよならなのか?!
そう、優理子さんには、このさよならが似合う!っとまた想像の評になってしまいました。


☆小笠原かほる(おがさわら・かほる 俳句集団【itak】幹事)

 

2014年4月27日日曜日

仲寒蝉「巨石文明」を読む ~栗山 麻衣~


巨石文明
 いやあどうもどうも。栗山麻衣でございます。なんかこのところキナ臭いっつうか、威勢良すぎて不気味つうか、あべっちとかもみいっちとか、ワタクシに言われるのもナンダカなーっつうところかもしれませんが、はっきり言ってオバカなんじゃなかろかと思う日々。あ、失礼。思わず口が滑りました。てへ。ちなみに、某ソーリ大臣と某国営放送会長のことでございます。

 というわけで、
仲寒蝉の第二句集
「巨石文明」だ!


  気がつけば頭上に国家雪催ひ


 国家と言えばあーた。摂津幸彦さんの名句「国家よりワタクシ大事さくらんぼ」を思い出しますが、掲句の場合、国家がいつの間にかアタマの上に載っている。摂津さん時代よりさらに切実な感じがいたします。国家より自分が大事とか言ったら、非国民とか言われちゃう日も遠く無い感じ。俳句と時事ネタは相性があまりよろしくないと言われますが、きちんと咀嚼した上でならばグッとくる作品になるのですね。


  夕焼けの原発すでにして遺跡


  3・11で起きた事故がいまだに収束していない福島第1原発。発が既に遺跡のように見えると詠んだ掲句は、あらゆる事柄に対して謙虚さを忘れた人類がいずれ息絶えてしまうことを予言しているようにも受け取れます。句集名にもなっている作品巨石文明滅びてのこる冬青空」や、原発を詠んだ別の作品原発を指して顔なき案山子かな」などと共に、心に苦さと哀しみをもたらします。

  寒蝉さんは1957年、大阪市生まれ。信州大医学部を卒業後、環器系の内科医として働きつつ俳人としても活躍。これまでに登場した新聞記事などによると、39歳のころ、知らない分野にチャレンジしてみたいと俳句を始めたのだとか。
2005年には角川俳句賞を受賞。選考委員を務めた俳人正木ゆう子さんは「観念的な想像の世界の句と実を詠んだ句が両方ある。楽しさ、医師という職業からの深み、古典への造詣、社会詠を兼ね備えた俳人像を期待したい」と評しています。

 ついつい社会派系の作品を紹介してしまいましたが、実は小さな命に目を向けた句もすてきです。蕗の薹空が面白うてならぬ」とか「野分来と猫には猫の情報網」「太陽のうごけばうごく蝸牛」とかとか。いやーん。かわゆか。そういう視点があるからこそ、会派作品も上っ面の標語調にならず、地に足の付いた胸に迫る表現になるのかもしれません。ほら、よく女優さんなんかがどんな役でも、舞台で演ずる時には、自分がそれまでをどう生きてきたかが出る」 と言うじゃないですか。アレと同じです。

 背伸びしがちなワタクシではございますが、まあ地道にこつこつやっていくしかないなあと気を引き締めさせていただいた次第。あ、ちなみに今回の拙文、冒頭はじめもろもろ、ご不快に思われる方もいらっしゃったかもしれませんが、ほら、そこはそれ。オンナコドモ&セミということでひとつよろしく! ではでは、あざした。


☆栗山麻衣(くりやま・まい 俳句集団【itak】幹事 銀化同人)


2014年4月25日金曜日

瀬戸優理子 『結婚指環』 一句鑑賞 ~青山 酔鳴~



 夫いない夜揺れている冷奴


 結婚生活がいいものか悪いものか、ひとそれぞれのものではあるが、そこにはたしかに小さなドラマが五万と眠っているものである。

 誰かと共に暮らすといえば、まずは食事。大方の結婚というものは幸せのうちに始まる場合が多いだろう。二人で、家族でいただく食事というものは毎日の小さな祝祭であることは明らかでである。
 彩りよく。バランスよく。好きなものを。嫌いなものも。美味しく。時には実験的に。食べるという行為を通してひとは学び、食べてもらうことで喜びを知り、成長していく。

 最近は一概には言えないが多くの結婚が若い時分で、料理のレパートリーも少なく、技術も未熟でコスト計算もまだできない、そんな状況で毎日食事を作ることは結構負担だったりする。自分のことを考えてみても、箱入り娘だったわたしは実家では火と包丁が危険だからといわれて台所から遠ざけられ、経験値のほとんどを家庭科の授業に因っている始末。第一次結婚時代においては某テレビの「ひとりでできるもん」などが先生だったようなものである。しあわせのなかの小さなストレス。それが食事を作る者にはあるように思う。

 掲句の「夫いない夜」はそういった厨ごとからの一時的な開放であり、冷奴が実にいい。四角四面の奴ではあるが、ちょっと冷たい奴ではあるが、夫の留守の解放感と寂しさに少し寄り添って、瑞々しく一緒に揺れてくれる。箸を入れたなら崩れ、小さな屈託など一緒に壊してくれる。もしかしたらパックのまま食べているかもしれない。正に自由。缶ビール1本つけてもいいよ。

 こうして得た一夜の自由に生き返り、明日からはまた彩りよく、夕食を準備するのだ。小さな愚痴は冷奴と一緒に飲み込んで。



☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事 群青同人)


2014年4月23日水曜日

随想 『生涯一度の敗戦』 ~橋本喜夫~




生涯一度の敗戦
 
 
橋本喜夫
 
 
 
 子供の頃から相撲だけは強かった。近所に一つ年上の友達がいて、幼稚園の頃は彼と毎日百番以上相撲をとって遊んでいた。私の町は、相撲大会が盛んで、毎年秋祭りには、神社の境内にある当時としてはかなり立派な土俵で、子供から大人まで相撲をとる機会があった。子供の部では、小学校一年生から六年生まで、学年単位で行われ、十人勝ち抜くと、当時としては半年分位の鉛筆、ノートなどの学用品が景品だった。私は、一年生から五年生まで、ずっと景品にありつけた。計五十連勝していたことになる。小学校四年生の時に、父親に勝てるようになり、四年生の秋に近隣市町村の大会で六年生に勝った。五年生の頃は相撲を取ることが楽しく、負けることなど考えなかったし、漠然とプロの相撲取りになりたいと思っていた。

 六年生の秋祭りに、恒例の相撲大会があり、いつものように勝ちつづけた。八人目の相手が同級生のY君だった。今まで何度も試合をして、負けたことがない相手である。私の得意技は、左からの「上手投げ」と「呼び戻し」という技であった。勿論、「寄り切り」などで勝つことは簡単であったが、相手を土俵上に抛ることが快感になり、恐ろしく高慢になっていた。この時も土俵中央で組んだ後、私は左上手からふり、右下手で投げ飛ばす「呼び戻し」をしかけた。その瞬間、Y君の左足が、私の右足にタイミングよく掛かり(外掛け)、私は背中から落ちた。右にうっちゃったが、私の背中が一瞬早く土にまみれた。敗因は弱いから負けたのであるが、セオリーを無視した「逆足」にあった。相撲に詳しい方ならわかると思うが、右下手をとったときは、相手の「ひきつけ」を防ぐために右足を後ろに下げるのがセオリーと思う。しかし、この時私は「呼び戻し」をかけやすくするために、前もって右足を前にして「逆足」やっていた。しかし一番の敗因は「どうやったら勝てるか」ではなく、「どのように勝つか」を考えた慢心にある。

 この一度の敗戦はその後、自分自身の生き方や考え方に少なからず影響を与えた。一言でいうと「負けることを極端に恐れる性格」になった。否定的にものを考えるようになり、中学校の時、時津風部屋から入門の勧誘があったときも、相撲の世界には飛び込む勇気がなかった。性格も良く言えば慎重、つまりは臆病になった。その後現在まで、何度となく遊びで相撲をとったことはあるが、一度も負けたことはない。これは私が強いからではなく、負けそうな相手とは絶対に相撲をしなかったからである(相撲は組んだ瞬間に相手の強さがわかる)。あれから四十年以上経過して、私の「マイナス思考」は続いている。ただし実生活と違い、俳句だけは「負の思考」がほんの少しプラスに作用しているかもしれない。
 
 

  相撲取りくづれの俺にやませ来る   よしを

 

   

橋本 喜夫(はしもと・よしお 俳句集団【itak】幹事 雪華・銀化同人)



2014年4月21日月曜日

第14回中北海道現代俳句賞に思う ~高畠 葉子~


 
2014年4月6日(日)午後6時

 
大きな花束をかかえた瀬戸優理子さんとコーヒーを飲んでいた。優理子さんはよく笑う。コロコロとよく転がる声で笑う。よく転がる声は雪まろげのように周りを巻き込み大きくなっていくものだ・・・。そんな事を思いながら。
 
この日私たちは第23回中北海道現代俳句大会に参加していた。優理子さんは14回中北海道現代俳句賞を受賞された。
 
受賞作品は「結婚指環」。このタイトルからある人は「あこがれ」を読むかも知れない。ある人は「新しい門出」を読むかも知れない。またある人は「出逢いから別れ」の物語を編むかも知れない。そして優理子さんの「結婚指環」は予想を裏切らない優理子さんワールドだった。

 
20句で構成されているこの作品から数句選びましょう。
 
 
二句目

芹噛んで透きとおる声賢治読む

 
芹の清清しさで賢治を読むという。季節のキンとした緊張感ある空気も伝わる。賢治を詠む人は少なくないはずだが、賢治を詠むには色といい香りといい芹はベストチョイスと思う。
 
 
五句目

朧夜の背中のファスナーひっかかる

 
朧夜と背中という艶かしさも優理子さんテイストで、程よい抜け感がある。「え。ひっかかってどうするの!」と思わずにいられない。艶と笑み。ラブコメディのような朧夜。
 
 
七句目

夏の浜すとんと脱げる服を着て

 
すとんと脱げる服の質感とその後のなぞかけも味わえる。優理子さんの句には度々なぞかけの様な句が登場する(多分すとんと脱いだ後は水着だろうけどね!息子君たちを追いかける姿が想像できる)。

この後秋へと移るが、全体を通してとにかく明るい。眩しいほどだ。これから優理子さんの陰も鑑賞してみたいと思うのだった。

とは言え、私もこの俳句賞に応募している訳で。最終選考にすら残らなかった訳で。優理子さんの受賞はちょっと高めのゴム飛びを軽い足さばきですっと駆け出し飛んでいる女の子みたいな印象だ(「ゴム飛び」が通じる事を願っているが)。しかし、この女の子は仲間だ。私にだって飛べるはずだ!と思わせてくれるし、何よりも語り合える仲間であることが嬉しい。

同時にこの日の俳句大会の第三席である札幌市長賞は深川市の高校生、荒井愛永さんだったことも特筆すべきだろう。娘の様な年齢の荒井愛永さん。友である瀬戸優理子さん。このお二人の受賞。そして90歳代で元気に参加され「この若い作者が誇らしい、それを選んだ私たちが誇らしい」と述べた大先輩俳人。この言葉には胸が熱くなった。あらゆる世代が俳句でつながっているという事を実感できた一日だった。

 

☆高畠 葉子(たかばたけ・ようこ 俳句集団【itak】幹事 弦同人)

 

2014年4月19日土曜日

第14回中北海道現代俳句賞受賞作 『結婚指環』

 
 
去る4月6日、第23回中北海道現代俳句大会に於いて、【itak】参加者である瀬戸優理子(せと・ゆりこ)さんの第14回中北海道現代俳句賞の顕彰が行われました。許可を頂いて、作品を掲載させていただきますのでご高覧くださいませ。
また同日同大会に於いて、旭川東高校の荒井愛永(あらい・まなえ)さんの「手ぶくろをはかずに君を待っている」が札幌市長賞を受賞しました。【itak】からの本大会の案内メールがきっかけで応募されたそうで、両者ともにご縁を強く感じるものです。
瀬戸さん、荒井さん、改めまして受賞おめでとうございます。
 
 
 
 
 
 
 
「結婚指環」  瀬戸 優理子
 
 
 
覚め際に馬の嘶き春の雪

芹噛んで透きとおる声賢治読む

桃の日の少女返事す揺りかごに

皿沈む水のゆらめき春愁い

朧夜の背中のファスナーひっかかる

ラストシーン十秒前の青嵐

夏の浜すとんと脱げる服を着て

夫いない夜揺れている冷奴

夜濯ぎの結婚指環泡立ちぬ

遠花火ぽかんぽかんと舟を漕ぐ

秋暑し瞬きもせず兎の眼

団栗や音階が野に溢れだす

十六夜の光の櫛で髪を梳く

鬼灯や全身染まるまで黙秘

さよならをなめらかに言うのどぼとけ

門限に帰りそびれし寒三日月

手鏡に手で蓋をする去年今年

粉雪のように米舞う中華鍋

如月の受話器に当たる耳の骨

この生傷荒星として輝かす
 
 
 
瀬戸優理子 blog 癒詩空間
 
 
 
 
 

 

2014年4月17日木曜日

俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その3~




『短詩型における「文語」と「口語」~信仰としての二分類~』


講演  
月岡 道晴

2014年3月8日@北海道立文学館


 
俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その3~
 
 
■事例⑦ 擬古文的短
 
 
こんなにも「文語」と「口語」とで違いがないのに、なぜ〈文語〉ばかりを特別扱いして作りたがる人がいっぱいいるのでしょうか。ここからはその淵源を探ってみたいと思います。私が師事した歌人、成瀬有さんがこんなことを書いています。

「現在、文語短歌など誰にも作れない。文語でなく擬古文的短歌と言うのが正しい」(「新考現代短歌」第16回 『白鳥』平成24年1月)
 
俳句でもそうでしょう。ではなぜ、だれにも作れないものを、わざわざ擬古文体で詠作し、またそれが推奨されるのでしょうか。もちろん手ほどきをしてくれた先人や近現代の作品に倣って、誰しもが「文語(らしきもの)」を用い始めるわけです。しかし、その先人たちはなぜ「文語」で作歌していたのだろうか。さらにそのまた先人たちは? 永遠に繰り返しになってしまいます。
その頃には「口語」短歌はまだ存在しなかったからという回答は、既に封じられています。一応現在の短歌では、俵万智がその文体の完成者と言われていますが、これだって口語とは言えないことは先ほどから見てきた通りです。要は、なぜその規範に「文語(らしき)」文章体が志向されるのかということに尽きます。
 次に江戸時代の文体の例として、式亭三馬『浮世風呂』文化9年=1812年刊を引いてきました。銭湯で女性2人がおしゃべりしている場面です。

本居信仰(モトヲリシンカウ)にて、いにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかに人がらよき婦人二人。…(中略)…
けり子「(カモ)()さん。此間は何を御覧(ゴロウ)じます」
かも子「ハイ、『うつぼ』を読返へさうと存じてをる所へ、活字本(ウヱジボン)を求めましたから、幸ひに異同を(タダ)してをります。さりながら旧冬は何角(ナニカト)用事にさへられまして、俊蔭(トシカゲ)の巻を半過(ナカバスギ)るほどで捨置(ステオキ)ました」
けり子「それはよい物がお手に(イリ)ましたネ」
かも子「鳧子(ケリコ)さん。あなたはやはり源氏でござりますか」
けり子「さやうでござります。加茂翁の新(シヤク)本居(モトヲリ)大人(ウシ)の玉の小櫛(ヲグシ)(モト)にいたして、書入(カキイレ)をいたしかけましたが、(サトビ)た事にさへられまして筆を()(イトマ)がござりませぬ」
かも子「先達(センダツ)てお(ウハサ)申た『庚子道(カウシミチ)の記』は御覧(ゴロウ)じましたか」
けり子「ハイ見ました。中々手際(テギハ)な事でござります。しかし(ウタガハ)しい事は、あの頃にはまだひらけぬ古言(コゲン)などが今の(ゴト)ひらけて、つかひざまに(アヤマリ)のない所を見ましては、校合(キヤウガフ)者の添削なども少しは(アツ)たかと存ぜられますよ」
かも子「何にいたせ、女子(ヲナゴ)であの(クラヰ)文者(ブンシャ)は珍らしうござります。先日も(ホカ)消息文(セウソコブミ)を見ましたが、いにしへぶりのかきざまは、手に(イツ)た物でござります」
けり子「さやうでござります。何ぞ著述があつたでござりませうネ。世に残らぬは(ヲシ)いことでござります。ホンニ『怜野(レイヤ)(シフ)』をお返し申すであつた。(ナガ)々御恩借いたしました。(アリ)がたうござります」

 
まるで時代劇のおしゃべりのようです。これが江戸時代の普通の文体だったのですが、われわれは江戸時代も「文語」の文体は変わらなかったと思いこまされている。
さて、この2人の名はもちろん和歌の助辞「かも」と「けり」に由来するパロディーです。鴨子と鳧子は極端な国学崇拝者として設定されており、『宇津保物語』や『源氏物語』を読むのにも、何と本文校訂から始めるという念の入りようです。
ここで注意したいのは、この2人の関心が「いにしへぶりのかきざま」――つまり擬古文を書く点にあることです。『庚子道の記』というのは、 紀行文の手本です。国学者たちが序文をつけて、書かれてから80年、90年くらい経ってから出版されました。文章語のテキストのような本です。また『怜野集』も和歌を作るお手本となる、いわゆる虎の巻のような本です。お手本に従いながら彼らは文語文を書いていこうとしている。すでに、われわれと同じ事をする人たちが江戸時代にいたということです。2人は極端な国学崇拝者として設定されていますから、知識として体得した「いにしへぶり」を自らの創作に活かすことが要求されました。国学者は語や文に表われている思考形態を通じて物を見、その思考の体系に則って表現することで、初めて古典に対する充分な理解が得られると考えたわけです。例えば彼らはどういうことをするか。ここに『徒然草』と『日本書紀』を持ってきました。ここにはともに「たしなむ」と言う言葉があります。現在では「茶をたしなむ」のように趣味程度に楽しむ意味で使いますが、かつては違いました。

『徒然草』第百五十段=秋本守英・木村雅則編『龍谷大学本 徒然草 本文篇』平9年、勉誠出版より引用
 
(いま)堅固(けんご)かたほなるより、上手(じやうず)の中に交りて、(そし)り笑はるゝにも()ぢず、つれなく過ぎて(たしな)む人、天性(てんぜい)、その(こつ)なけれども、(みち)になづまず、(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、(つひ)に上手の(くらゐ)に至り徳たけ、人に許されて、(ならび)なき名を()る事なり」

これは要するに、「劣っている人が上手な人に交じって笑われながらも、苦労して、だんだんうまくなっていく。最初から上手だとうたわれて苦労をしない者よりも、そうした人のほうがずっと高いところまで到達することができる」という努力のすすめの文章。「たしなむ」はここでは努力する、苦労するの意味で使われていることが明確です。

『日本書紀』巻第一神代上第七段一書第三引用は岩波古典文学大系版昭四二に拠る)
時に、(ながめ)ふる。素戔嗚尊、青草を結束()ひて、笠蓑として、宿を衆神(もろかみたち)に乞ふ。衆神の曰はく、「汝は(これ)()(しわざ)濁惡(けがらは)しくして、(やら)()めらるる者なり。如何(いかに)ぞ宿を我に乞ふ」といひて、遂に(とも)(ふせ)く。(ここ)を以て、風雨甚だふきふると雖も、留り休むこと得ずして、辛苦(たしな)みつつ降りき。

ここは日神の天岩窟籠りを引き起こした素戔嗚尊が天上世界から追放されて、苦労しながら地上におりてきたという場面で、「たしなむ」という語に「辛苦」という字が当てられています。そのように現代とは違う意味に使われる言葉があり、こういうものを学びながら自分の文章に活かしていこうと彼ら国学者たちはしていたわけです。
 
現代のわれわれがあえて文語を使って作ることに意味があるのかということは、やはり江戸時代の関わり方に学ばなくてはなりません。現代に敢えて〈文語〉で詠作することにどんな意義があるのか。可能かどうかはわからないが、〈文語〉と一括りにされる長い歴史の中で生滅を繰り返してきた表現の背景に存在した過去の思考形態を、一首一首の詠作のかたちで、たとえ断片的でしかないにせよ、この世に甦らせることだと私は考えたい。
 
今の言葉だけで発想するよりも豊かな部分、かつてあったけれど現代の思考の物差しには入っていない発想のかたち――それが新鮮だから古典から習っていく。だから文語を学ぶのなら、そのことばだけではなく、その背景にある豊かさにこそ目を開いてゆくべきだと言いたいのです。このように言語とその背景にある生活意識が、世代間で受け渡されてゆかなければならないと推奨したのが柳田國男でした。柳田は戦後、民俗学から一時引退し、熱心に教科書を作ります。その中で「言語生活」ということばを盛んに唱えまして、これが国語教育には最も大事なのだとしました(柳田國男「昔の国語教育」=『岩波講座国語教育 国語教育の学的機構』昭和12年、岩波書店、後に柳田『国語の将来』、昭和14年、創元社に収録)
 
俳句の歳時記などは、まさにこうした「言語生活」のテキストと言えます。歳時記は俳句でかつて使われてきた言葉とその背景にある生活の索引だということができますが、それに倣いながら、各自が1句1句の詠作に活かしていくことは、非常に意義のあることだと思います。
 

■事例⑧ 擬古文的短歌
 

現代でも国学者のように、古えの言葉に倣いながら創作しているという極端な例を引いてきました。

「東野炎立所見而反見為者月西渡」(『萬葉集』巻一・四八歌)。

この歌は現在では、「ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ」と読まれることの多い歌ですが、斎藤茂吉は『万葉秀歌』上(昭和13年、岩波新書でこう言っています。
 
「契沖、真淵等の力で此處まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである」
この漢字列を最初にそう読んだのは、賀茂真淵の『万葉考』です。それまでの古写本ではすべて「あづまののけぶりのたてるところみて」と読んでいました。江戸時代になって、国学者の研究によって初めて「ひむがし」という読み方が発明されたのです。この語は平安時代以後には歌に用いられず、わずか4首を除いて散文専用でした。これが真淵以降に急にたくさん用いられるようになります。


ひむがしにむかへる家はあさあけに明行く空を見つつたのしき (田安宗武

 
田安宗武は暴れん坊将軍吉宗の子で、御三卿田安家の初代になった人です。その次男が寛政の改革で有名な老中松平定信と言ったらイメージがしやすいでしょうか。この宗武は真淵に師事して国学を学びましたから、まず最初に田安宗武がこの語を用います。
 また有名な「松坂の一夜」で真淵に弟子入りした本居宣長も、


見るが君ひむがし山の花の春月の秋をもやどのものにて 本居宣長


と歌いますし、面白いことに国学者たちと対立した学者や歌人たちも同じように「ひむがし」と詠んでいるのです。

ひんがしの野に出でて見ればにしごりの近き里からけさはかすめる 上田秋成
 
朝づく日いでぬさきにとひんがしの市にあきなふはたのひろもの  (香川景樹)
 

近現代の作品も並べました。「ひむがし」の歌は現在も陸続と作られています。
 
ひんがしに月の出づれば一人の秋の男は帆柱を()づ  (与謝野晶子
 
ひんかしに陽炎立ちて楽しみのけふの入日ぞはや明けにける  伊藤左千夫
 
ひむがしの天の八重垣しろがねと笹へり輝く(わた)()()の雲   茂吉
 
みじか夜の有明の月のかすかにてひんがしの空に雲焼くるなり  若山牧水
 
ひむがしに()()はかがよひみむなみに真日ぞかがよふ西に真北に  前田夕暮
 
ひんがしに(やま)(ひだ)白し静まりて夜明けんとする恵那山仰ぐ    宮柊二
 
海を見ず過ぎてゆく夏ひんがしの社会政権崩えてゆく夏  道浦母都子

例えば終りに引用した道浦さんの歌なんかでは、東側諸国のことまでを「ひんがし」と言っていて、現代歌人は文語だと〝東〟は「ひんがし」と読むものだと思っていることがわかります。それまで流通していた語の「あづま」なんかには見向きもしません。「文語」では「ひむがし」と詠むものだと現代短歌では既に制度化され、これが伝統的な歌語でないことさえ、忘却の彼方へ追いやってしまっています。現在流通する「文語」らしき擬古文の文体が志向される背景には、こうした国学以来の「学習」成果の伝統の、無限に積み重ねてきた蓄積が存在しています。このすべてを「いにしへぶり」と一括りにまとめて仰ぐ際に、初めて〈文語〉なる規範的な文体が出現するとみてよいでしょう。


■事例⑨ 文語・口語に差異はない


以上見てきたように、〈文語/口語〉に明確な差異はありません。にもかかわらず、なぜこんな二分法が流通しているのかを最後にお話します。与謝野晶子『草の夢』(大正11年、日本評論社出版部)にこんな歌があります。

 
  (ごふ)(しよ)よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金(こがね)の釘一つ打つ
 

和歌、俳句を〈文語〉で作ることは、どういう意味がある営みだと認識されているのでしょうか。ここでは「劫初」と意識されるほど長大な歴史を通じて用いられてきた総ての文体を――様々な難も矛盾も敢えて無いものとして――統合した存在だと意識され、それを晶子は〈殿堂〉と呼んでいます。ありとあらゆる歌人・俳人とその作がこの文体の中で、一堂に会しているということなのでしょう。それゆえ、この文体によって詠む者は、人麻呂にも貫之にも和泉式部にも西行にも連なることができると信じられています。その長大な歴史のうねりの中に身を委ね、自らもまたそれに連なる者だと位置付けることが、〈文語〉で詠作する者の営為の意味だろうと思われます。
 
見てきたように、「文語」の作も「口語」の作も、現代日本語による発想を、ある規範的な文章語のスタイルに翻訳して成立しているわけです。自分の心に思った心の中の声を、ある人は文語に置き換える。またある人は口語に置き換える。この作業に本質的な差は存在しない。そういう意味でここまでは「同一」だと説いてきたのですが、晶子の歌に基いて改めて考えてみると、所謂「文語/口語」の相違は、文体それ自体にあるのではなく、〈文語〉として規範的に捉えられる歴史性を自身が引き受けて詠作するのか否かという、作歌態度の側にその本質があると言えます。
 
 
それを裏付けるために、『ユリイカ』平23年10月号の特集「現代俳句の新しい波」の中の、川上弘美・千野帽子・堀本裕樹による鼎談「読むところから俳句ははじまる――〈世界〉に惹かれるための技芸」を引いてみます。

川上 旧かなっていうのは、不思議な光をまとっている。...中略...実際、十七文字しかない中で、いまの口語よりはるかに強い喚起力が出せる。
 
千野 なんということのない題材を句にするときにすごい力を発揮しますよ。口語だと逆に、変わったこと言わなきゃいけないと思っちゃう。
 
川上 だから反対に、池田澄子さんは本当にすごいと思う。あえて口語で新かなであれだけひとを立ち止まらせる句を作っちゃうんだもの。
 
千野 「よし分った君はつくつく法師である」ってすごい句ですよ。たしかにそうだもの笑)。...(中略...
 
川上 だから、むしろ私は文語で書くほうが文語のオーラを借りていい句ができるかなと思いますね。純粋に口語でやれと言われたら、できないなあ。 傍線・傍点引用者

なかなか興味深い鼎談です。傍線部に「オーラ」や「不思議な光をまとっている」と表現されているのが、即ち先ほど私が述べました、〈文語〉として把握される歴史性と同一のものを指していると見ることができます。俳句は短いということもあってか、ここではそうした歴史性は重みの面よりも、むしろ季語と同様の仕組みとして積極的に活用すべきものと捉えられています。
 
その一方で、「口語で新かなで」句作する側にはそうした面ではハンディがあり、それを補うには個人の発想力、努力による他ないとも知覚されています。ここでは誰がというよりも、小説家も大学教員のエッセイストも、つまり俳人でなくても同じように「文語/口語」の相違について共通の観念をもっていることがたいへん興味深い。
 
しかし「産声の途方に暮れていたるなり」(『いつしか人に生まれて』)などの秀句がある池田さんを「口語俳句の俳人」と位置づけるには実際無理があるでしょう。掲出句の「つくつく法師である」も、「である」というところは明らかに文章語です。だから正確には「口語的な語の表現力を積極的に句作に利用する俳人」とするのが適当だと思います。池田さんの句作もその意味では「文語」です。
 
短歌の場合では、「口語」の歌人の作品に特徴的な現象があらわれています。
枡野浩一さんは、「かんたん短歌」を標榜しておりまして、口語でつくれ、文語で作ってはダメといっている人ですが、その作品に

あの夏の数限りない君になら殺されたっていいと思った
                          (枡野浩一『枡野浩一短歌集 ますの。』
 
 
という歌があります。これは盗作と騒がれたこともあって有名な歌なのですが、元ネタとなっている歌を参照すれば、これは本歌取りの歌とするのが適当な作です。その元ネタとなったのが、

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹『羊雲離散』

という歌です。このように自らを「口語」短歌の歌人と位置付けている人が本歌取りをする場合に特徴的なのは、ほとんどの場合、近代以降の歌人からしか本歌取りをしていないことです。
もちろん「ゴアという街の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国ぞ」俵万智『サラダ記念日』なんていう古典和歌を取り込んだ例はあるのですが、ここでも、「知りたけれど」のように、本歌になじみやすい〈文語〉的な表現を同時に織り込む工夫をしないと、本歌取りができないことは見逃すべきではありません。
〈文語〉の範疇にある歌は、〈文語〉の工夫をしないと口語の中で抱え切れない。全部口語で作る人は文語を抱えきることができないという観念がその背景に看て取られる。その観念の域内にあって「口語」の詠作を選択する営為は、即ち近代より前の作品とは基本的に切れた位置に自作を定める姿勢だととらえられます。〈文語/口語〉の問題は、ここでまさに信条そのものだと言えるでしょう。
それでは以上を簡単にまとめて締めくくりにしたいと思います。現代の短詩形文学では、同じ音数律の定型を明確に差異の見出し難い方法で運用しながらも、それを口語、文語となぜか呼び分けている。それは「信仰」としか呼びようがない非本質的な区別であり、現代の短詩形文学の詠作信条には、このように文語、口語の二種類の信仰のもちかたが存在しているということを本日はお話ししました。

=終わり=
 
 

 

 

 つきおか・みちはる

長野県出身。國學院大學北海道短期大学部准教授・歌人。
上代文学会、萬葉学会、美夫君志会、古代文学会、日本文学協会の各学会に所属。
また、歌人としてさまざまな雑誌・新聞等に寄稿(『歌壇』『短歌現代』『短歌新聞』など)。
著書(共著)に『古事記がわかる事典』、『万葉集神事語辞典』、『太陽の舟 新世紀青春歌人アンソロジー』。
朝日カルチャーセンター札幌教室「人麻呂恋歌拾い読み」を開講中。








 


※次回のitakは5月10日(土)午後1時から、道立文学館で開催。第一部は『読(詠)まずに死ねるか!~短詩型文芸の可能性~』と題して、当会幹事・五十嵐秀彦&山田航による【itak】旗揚2周年記念トークショーを予定しています。詳しくは追ってホームページなどで告知いたします。