2014年3月30日日曜日

『おヨネが読む』 ~第12回の句会から~ (その3)


『 おヨネが読む 』 (その3)

 ~第12回の句会から~

栗山 麻衣



 空は濡れ樹幹をのぼる春の水

 
 「春の水とは濡れてゐるみづのこと」(長谷川櫂)「水の地球すこしはなれて春の月」(正木ゆう子)「春の夢みてゐて瞼ぬれにけり」(三橋鷹女)。春と水はとかく相性のいい組み合わせで、佳句がたくさんあります。この句は無謀にも(!)そこにチャレンジ、見事に成功しました。樹幹をのぼる春の水というイメージは頑張れば浮かべられそうですが、この上五はなかなか出てこないのでは。ワタクシは雨上がりのきらきらした空を思いました。濡れた空などとせず、空は濡れという連用形のままにしたことで、今の今なのだという瞬間をうまく描いているような気がします。出来そうで出来ない一句。


 かたくりの花おそらくは人嫌ひ

 
 うひょっ。片栗の花のイメージを覆されました。というのも「かたくりの花の韋駄天走りかな」(綾部仁喜)を歳時記で目にした時から、その印象にすっかりやられていたからです。一輪一輪が「あーらよっと」と尻っ端折りで走っているような庶民的なイメージ。しかし、思い起こせば「かたくりは耳の後ろを見せる花」(川崎展宏)と、奥床しさを詠んだ作品もあります。同じ花でも、見る人の視点や感情によって、さまざまに変化するのですね。あらためて俳句って楽しいなあと感じておりマス。


 ユーラシアプレートの上つばくらめ

 
 さまざまなお考えの方がいらっしゃるでしょうし、御不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ワタクシ、季語保護→文化保護→人間的な暮らし保護的観点からも原発再稼働とかもってのほかだと思っておりマス。しかし、みなさま、この世の中の風潮はどうなんざんしょ、よろしいんざんしょか。ゴ、ゴ、ゴ、ゴと動いているユーラシアプレートの上に暮らしているということを忘れがちなワタクシたち。この句は警告を発しているのでありマス。掲句は警句って駄洒落ってる場合じゃないのですが。


 歓声の消えてアリーナ冴返る

 
 これはよく分かりマス。夜のグラウンドや体育館。昼間繰り広げられた試合の悲喜こもごも、選手の意気込みや涙、客席の熱気…。そうしたものが嘘のように静まり返った感慨に強く共感しました。アリーナというからにはカーリングかな? ただ、少し引っ掛かったのは「冴え返る」という言葉が季語として働いているのかという点。良いような気もするのですが、別の季節も同じような感慨がある気もしたりして…。
 
 

(つづく)


2014年3月28日金曜日

『おヨネが読む』 ~第12回の句会から~ (その2)


『 おヨネが読む 』 (その2)

 ~第12回の句会から~

栗山 麻衣

 
 バス停の風の手ざはり水温む

 
 何気ないけれども技ありの一句。地味といえば地味ですが、ワタクシ、こういう句、好きだワ―。春めくとともに冬とは違ってきた風の感触をとらえた感受性、風が暖かくなったと言わずに「水温む」という季語を取り合わせたことで、逆に読み手に深い現場感覚をもたらす表現力。難しい言葉はないし、さりげないけれども、ありふれているようでありふれていない素敵な作品でありマス。
 
 
 恋の猫尾といふ旗を振り立てて

 
 そっかー。猫さまたちがお尻にぴっと立ててるアレは、戦に向かう時の旗だったのでありマスね。恋猫の凄まじい声や態度を以前間近で見た個人的な感覚から言うと、ちょっとかわいらしすぎる気もしましたが、ランボーを五行とびこす恋猫(@寺山修司)もいるぐらいですから、とらえ方は人それぞれなのかもしれません。情景がよく浮かびます。


 Y字路にならぶ子猫のよい姿勢

 
 子猫のよい姿勢という表現のかわいらしさにもうメロメロ。なぜY字路なのかとか、なぜ並んでいるのかとか、並ぶって何匹ぐらいなのかとかとか疑問もあることにはありますが、まあいいや。勝手に段ボール入りの2、3匹を想像いたしました。これからどこに拾われていくのか、運命の岐路に立たされている子猫たち。そのイメージを象徴しているのがY字路なのでしょうか。


 歯応えを確かめてゆく木の芽和え

 
 しみじみとした喜びにあふれている素直な作品。ひねりは無いかもしれませんが、俳句を人生の伴侶としている作者の誠実な姿勢を感じます。確かめているのは、木の芽和えだけではなく、これまでの人生やこれからへかける思いでもあるのでしょう。こんなふうに生きていきたいものだなあと思わせられました。



(つづく)


2014年3月26日水曜日

『おヨネが読む』 ~第12回の句会から~ (その1)


『 おヨネが読む 』 (その1)

 ~第12回の句会から~

栗山 麻衣

 


 いやあどうもどうも。いつもお世話になっております。栗山麻衣でございます。なんでおヨネなのかというと、なんか「麻衣が読む」だと真面目っぽすぎるっつうか、なんか気乗りがしないもんだから。うふ。おヨネなのは、米が好きだからでありマス。

つうことで先日欠席しました句会の句、鑑賞させていただきマス。いつもながらの不勉強、いたらぬところが多々あるかとも思いますが、異論反論、叱咤激励、ご指導ご鞭撻大歓迎でございます。何卒夜露死苦!


 種々の箱にみな蓋雛納む

 
 これは「種々の箱」がピリッと効いた一句。お雛様ご本人たちはもちろん、五人囃子の笛太鼓や三人官女の持ち物など雛飾りは確かに細々とした道具が多く、それぞれをそれぞれの箱にしまわなければなりません。その幾つもの箱の存在に目を向け、表現したところに、お雛様に丁寧に臨む作者の姿勢がうかがえます。ナイス。


 雛納む息の通へる和紙一枚

 
 こちらは箱ではなく、お雛様をくるんだ和紙に注目した作品。中七下五は「和紙には人間の息が通る」という事実を述べているだけとも読めますが、季語「雛納む」を取り合わせることで、お雛様が来年の桃の節句まで穏やかに過ごせますように…という祈りを込めたようにも受け取れます。作者はきっと優しい人なんだろうなあ。


 流氷来港酒場やロシア帽

 
 「りゅうひょうく」「みなとさかばや」「ろしあぼう」。三段切れっちゃあ、三段切れ。流氷と港というのも、ダブりっぽいっちゃあダブりっぽい。とはいえ情景も浮かぶし、北海道らしくて力強い。後世まで残るタイプの作品かというとビミョーかもしれませんが、この勢いは捨てがたいと思わされました。このイメージをもっと細かく詰めたり、逆に広げたりしたら、作品に作者ならではの目が出てくるのでは? とか言っちゃって、作者、大ベテランさまでしたらすんまそん。何様感あふれるワタクシの感想でございました。


 カフスボタンあるいは寒きくすりゆび

 
 現代詩っぽい味わいの一句。薬指っつうことは、結婚指輪を外したのでしょうか。この場合の「寒い」は心理的な寒さも表しているのかな。男同士の複雑なつながりと葛藤を描いたおフランス映画の邦題「あるいは裏切りという名の犬」の場合、ワタクシは「あるいは」の前に「親友」という言葉が省かれているのではないかと考えているのですが、掲句の場合はハテさて。「寒くないと思っていたけど、あるいは…」なのか。カフスボタンを留めた作者。「ひょっとしてオレ、寒いのか」と自問自答しているのかもしれません。

 
(つづく)


2014年3月25日火曜日

『おヨネが読む』がはじまります!


俳句集団【itak】事務局です。


ご好評の『読む』シリーズです。
今回は『牛後が読む』に続きまして
『おヨネが読む』をスタートしたいと思います。

第12回俳句集団【itak】の句会には今回115句が投句されました。
その中から当会幹事・栗山麻衣が毎回心の赴くままに選んだ句を読んで参ります。
え?なぜ「おヨネ」かって?そりゃぁもう。お米が大好きだからですよ!
というわけで全国的に「米チェン!」推奨、【itak】は基本的に道産子でっす!

前回同様、ネット掲載の許可を頂いたもののみを対象といたします。
掲載句に対して、あるいは評に対してのコメントもお待ちしております。
公開は3月26日(水)18時からです。ご高覧下さい。

☆栗山麻衣(くりやま・まい 俳句集団【tak】幹事 銀化、群青同人)

2014年3月24日月曜日

第23回中北海道現代俳句大会・講演のお知らせ



俳句集団【itak】です。


来る4月6日に第23回中北海道現代俳句大会および講演が開催されます。

講演会については現代俳句協会会員以外の方も自由にご参加いただけます。

当会幹事でもあります橋本喜夫氏が講演をいたします。

講演内容は『俳人のための俳句入門書』

昨年の俳句集団【itak】第五回の講演内容を深めたものとなっております。

前回の講演をお見逃しになった方も、是非ともご来場の上お聴き下さいませ。


☆と き  平成26年4月6日日曜日・午後1時より

☆ところ  札幌市北区北24条西5丁目 札幌サンプラザ

☆入場料 無料・事前申込不要


2014年3月22日土曜日

照井 翠  句集『龍宮』 一句鑑賞 ~青山 酔鳴~


句集『龍宮』の一句鑑賞

青山 酔鳴


このときわたしは古いビルのエレベータの中にいた。徹夜明けでめまいがしていた。建築士事務所の登録更新に行った協会の事務室の中では妙な笑いがさんざめいていた。わたしの書類に不備でもあったのだろうか。それにしても妙な。

「なにか間違っている部分がありますか?」 「いいえなにも」

目をあげると額が揺れていた。ああ、地震なのか。どうしたらいいのか判断できなくて笑っているのだろう。ここは6階である。でも今、古いエレベータは問題なく動いていた。

「どうしましょう」 「隣の建築士会から誰も出てこないし大丈夫なんじゃないか」

書類を提出し、テレビもラジオもない、協会を後にする。エレベーターで1階に下りる。まだなにも気づいてはいなかった。駅について改札にあるテレビの前でだれもが一様に言葉を失くしているのを見て、初めてこの出来事を知ったのだった。



 牡丹の死の始まりの蕾かな         照井 翠


これから咲こうとする蕾に対する「死の始まり」という措辞。落ちてもまた翌年咲き誇る、木本性の牡丹に本来、死という概念はそぐわない。普通の句集だったら気の利いた表現のひとつとして受け取っただろうと思う。しかしこれは「龍宮」という句集の中に置かれている句なのだ。同じ遺伝子を持つ同じ花が来年も再来年も咲く牡丹の、蕾に見た「死」とは間違いなくあの日あの場所で起こったことであるだろう。圧倒的な力で取り去られてしまった数多の命。生を寿ぐ大輪の花になる蕾に与えられた新しい属性。この句の中にある、静かだけれど激しい、作者の慟哭を感じずにはいられない。そして、なにもかもがまだ片付いていないのだということを、作者も読者も改めて知らされるのである。毎年の「死の始まりの蕾」によって。


数年後わたしはまた古いビルのエレベータに乗るだろう。登録更新に行く協会の事務所には大きな変化はおそらくないに違いない。阪神の時に整備された基準法でも東北ではまるで力不足だった。我々にできることはなんなのか、3年たっても実のところ、もどかしくもはっきりしていない。わが身と生業を恥じるところでもある。

人間にとって、今ある事実と向き合って生きていくことは難儀なことで、忘れてしまいたいことはたくさんある。しかし作者はそういったものと、これからもただ真摯に向き合い続けていくのだろうと、この『龍宮』の一連の句群に感じた、わたしである。当事者の表す凄まじさの前に、ただ立ち尽す。わたしもまた真摯であらねばと、心を新たにする。


☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事 群青同人)


照井 翠 句集『龍宮』 角川書店
http://www.kadokawa.co.jp/product/321306000185/




2014年3月20日木曜日

「厳寒焼肉」体験と、北 光星さんの句 ~久才 透子~

 

「厳寒焼肉」体験と、北光星さんの句

~久才透子~
 

皆様、こんにちは。
俳句集団【itak】幹事の久才透子です。
今日は、立春はすぎたものの、まだまだ寒い北海道から、北見市の「厳寒焼肉」体験と、北 光星さんの句について触れたいと思います。


北光星さん(1923~2001年)は、北海道北見市出身の俳人。
「氷源帯」に入会後、「道」の主宰として活躍されました。


私は、三年前に北見市に引っ越してきました。

市内の公園にある句碑を見て、始めて北光星さんの存在を知りました。


 
 凍裂の樹が凍裂の叫び聴く   北 光星
 


北見市  野付牛公園に句碑があります。
この句がきっかけで、「凍裂」が冬の季語になりました。
凍裂というのは、気温が下がり木の中の水分が凍って、木が縦に裂ける現象をいいます。厳寒の地では、木が裂けるほど寒い日があるのです。
それほど気温が下がるオホーツク地方。
そんな中、北見市では、「厳寒焼肉というイベントを毎年二月に開催しています。今年は二月七日夜に開かれました。
北見市は、日本で最も寒いと言われる陸別町のほぼ隣に位置しています。そんな街で、マイナス20度近い冬の夜に、屋外で焼肉をするのです!
一年のうちの何ヶ月間もが雪に閉ざされる土地で、寒さを逆手にとって、面白がってやろうじゃないか!という気概を感じます(気概か?)。
といっても、その寒さはハンパじゃなく、口に入れるまでの短い間に、焼かれた肉は冷え、タレはシャーベット状 に。全くもって、酔狂なイベントです。
そこで、私の一句。



 焼肉や皆着ぶくれて星の下   透子


本心は、


 厳寒に外で焼肉なんて馬鹿   透子


すみません・・・。駄句も駄句ですね。


地元のご老人は、「昔は電線のスズメが凍ってポタポタ落ちてきたもんだあ~」 とおしゃってましたが、そんな大袈裟な話も本当かも・・・と思える、 涙や鼻水も凍るような厳寒焼肉体験でした。
北光星さんの句の中では、北海道の寒さを詠んだ句も多く見られます。


 氷まづ削られ板が削らるる

 鉋屑燃やせば歪む寒日輪

 


北さんが大工職人の頃の句です。
板を削るには、先に氷を削らなければならない。厳しい寒さの中での作業(ああ、厳寒焼肉の句を消去しようか迷っております)。私は、北さんの大工職人の頃の俳句に、とても魅力を感じます。



 鳥帰る渡り大工のわが上を   (沼田町に句碑)

 丁々と釿のひびき春が来る

 釘こぼす春日へうつかり口あけて


北国では、心底待ち遠しい春。
その気持ちが響きます。
働く喜びや誇りを感じ、こちらまで気持ちが晴れ晴れするのです。



 雪やまぬ夜は村人丸く寝る

 共に出て雪したたかな母の背よ


村人の大自然に逆らわず生きていく姿。その忍従の日々。
そして、同じ雪道を歩いていても、丸くかがんだ母の背に、雪は容赦なく積もるのです。


 


 打てば鳴る凍れ魚となりにけり

 巡礼に風も薄刃の二月かな


せっかく厳寒の地に引っ越してきても、私はなかなかその厳しさを俳句にできません。
そして、過去の北海道民の苛酷な生活を思う時、彼らにとって文学が、どれほど生きる力となっていたのだろうと思われます。 




 開拓や斧よ言霊よ遠郭公

 


厳寒焼肉に参加したくらいで、厳寒体験をした・・・とは大きな声では言えませぬ。ですが、降ってくるような星空の下、雪と夜空のくっきりとしたコントラストを見ていると、 俳句という短い詩型があってよかったと、つくづく思えたのでした。
北さんの句集を読んで、そして美しい冬の夜に、それをまっすぐに感じたのです。




☆久才透子(きゅうさい・とうこ 俳句集団【itak】幹事 北舟)

 

2014年3月18日火曜日

俳句集団【itak】第12回句会評(橋本喜夫)


俳句集団【itak】第12回句会評

  
2014年3月8日


橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 


第12回も盛況だった。イタックのこの勢いいつまで続くのであろうか??なんて関係者が冷めた目で見てたらいけませんよね。第一部の歌人 月岡道晴氏(それにしても歌人になるための名前だ、本名だってさ・・・)の口語、文語のお話は大変わかりやすく、楽しく聴けたし、胸のつかえがとれた感もある。イタックはやはりこの第一部があってこその、第二部の句会なのであろう。と思いつつさっそく、句会評に入りたい。最近、他の機会でも書いたのだが、仁平勝氏の造語である「俳句の半喩性」についておりおり思う。つまり俳句の多くは構造上、不完全な比喩でなりたつという考えで、たとえば二物衝撃も取り合わせも遠い、近いはあるが、詠みたい主体(季語)を比喩したものととらえることができそうだ。心に残った句に簡単に触れて行く。

 

肉体もこころもやはらかし弥生     恵本俊文

 

弥生は「いやおひ」であり、草木がさかんになる意味で、そういう意味では体も心もやわらかくなるというのは、平板なつながりであり、「やはらかし」で切れているのであるが、ここまでの措辞は弥生を比喩している、あるいは半喩しているともとれる。この句の佳さは、わかりやすさ(すこしわかりやすすぎるが)と、さいごの「やわらかし」、「弥生」のY音のたたみかけだろうとわたしは思う。意味というよりは俳句の韻文性を重視した句。

 

種々の箱にみな蓋雛納む       松王かをり

 

箱という箱すべてに蓋がある。逆に言うと蓋がないと箱とは言わない。箱はものを収納するもの、納めるもの、個室を形成するものである。われわれは生まれたときはその「臍の緒」を桐箱などに保管したり、死んだときは棺桶にも収納される。それらすべてには蓋が存在する。生あるものを納めるものは箱と言わないのかもしれない。雛人形に一年の別れを告げて、蓋を閉めるとき作者はいろんなことが頭をよぎったのかもしれない。

 

大白鳥空気に触れてしまひけり     信藤詔子

 

白鳥というのははっきり言って近くでみると美しくない。なんかこすけて、汚いこともある。白だからなおさら目だつ。空気にふれるということは、酸化すること、朽ちることにもつながる。われわれは真空パックされたらある程度鮮度は保つことができる。白鳥の汚さをみたとき作者はそう感じたのかもしれない。これも取り合わせであるが、ある意味ではオオハクチョウを半喩しているともとれる。

 

洗剤が時計回りに溶けて春       鍛冶美波

 

洗濯機に見える洗剤、洗物の回転を時計回りと表現することもけっこう珍しい。時計回りで廻ることは物理的なことだが、時間的推移も感じられる言葉だ。そして溶けるということば、これも「雪が解ける」という発想につながる。したがって最後の着地は「春」しかない。季語が動かないともいえるし、やはり十五音使って春を比喩しているともいえる。音調もいいし、春という落としどころもわきまえている。

 

種蒔いて峰を下りゆく巨人かな     青山酔鳴

 

「だいだらぼっち」や八郎潟の「ハチロー」のようにここでいう、「巨人」は大いなるもの、自然の大きさを比喩したものであろう。種を蒔くという春の季語を用いているから、作者は巨人という言葉で、春の山や「春そのもの」といった自然の大きさを比喩したともとれる。

 

手違いで二玉届く春キャベツ     瀬戸優理子

 

春キャベツそのものが、明るさと、諧謔を兼ね備えている感じである。ひとつ届くはずが、二玉だったのか、キャベツそのものが手違いだったのか、わざわざ二玉と言ったところで、かえって成功した句。

 

山なりのボールやはらか山笑ふ     鈴木牛後

 

「やまなり」、「やわらか」、「やまわらう」のY音の繰り返しによるYY感。おなじく三つのことば(山、山なり、ボール)の形としてのドームが三つならぶ言葉からくる表象性。どれもうまく構成されている。惜しむらくは、山笑ふの季語にすべて順当につながる感じが平板である。

 

逃げ馬の逃げきれぬまま寒の明け    久才秀樹

 

さすがの寒もさいごに春の日射しに差しきられた感覚を詠んでいる。「逃げ馬」を使用したことも面白いがきっともっとよい季語があるであろう。比喩としての逃げ馬でなく、競馬時期に一致した季語で勝負するときっとよい句になると思う。逆に逃げ馬に逃げ切られてもいいのかもしれない。逃げ馬は逃げ切れないのが、順当だから。

 

「てぶくろ」の民話の郷やウクライナ  平 倫子

 

民話の「てぶくろ」を季語として解釈するのは難しいが、無季としても、機会詩と考えれば現在のウクライナ問題をある意味愁いをふくんで詠んでいるのがわかる。中七の「や」が、俳句として、機会詩として効いていると思う。

 

卒業が駆け下りてくる地獄坂      青山酔鳴

 

「地獄坂」が小樽の坂であると知らなくても、固有名詞がこの句では生きていると思う。夢に満ち溢れた、元気な卒業生が駆け下りてゆくその坂の名が「地獄坂」とは面白い。ちなみに私が高校三年間通った坂は「出世坂」という名であった。(自慢でなくて事実)。

 

眼鏡屋の手がこめかみに春の雪     柏田末子

 

眼鏡とか時計は俳句に成功しやすいが、時計屋や、眼鏡屋、保険屋とか屋がはいると人間が介在するせいか、失敗することが多いのだが、この句は成功例と思う。あたらしく買った眼鏡を担当者がやさしく、しなやかな指で耳にかけてくれる。そのときこめかみに眼鏡屋の手が触れる。そのときの微妙な感覚やニュアンスを春の雪で詩的に昇華されていると思う。中七まですべての措辞が「春の雪」という季語を半喩していると思う。

 

4月から消費税はお高いよ       武田慎一

 

一読笑ってしまった。印もつけてしまった。作者はあの子。私はいま「ヘタウマの句」をなるべく選句しようと思っている。俳句としてテクニックは下手でも、テクニックや俳句の俳句らしさ(俳句のいやらしさと言ってもいいか)を無視しても詠みたいことを詠む、ぐさりと心に刺さるような句だ。まさに子供らしい感覚なのだが、ヘタウマ的な要素をみせたのが、「お高いよ」である。これはなかなか出てこない措辞だと思った。

 

恋の猫尾という旗を振り立てて    松王かをり

 

恋猫のさまをまっすぐ詠んだ。まさに伴侶を得るためにときには尻尾を立てて争う。戦いにくれる日々だ。それを旗に見立てた。単なる「見立ての句」と言ってよいか。いきとしいけるもの、恥ずかしさなどは気にせずに、一本の旗を立てて生きるべき。私自身いま「旗」を立てて生きていないという自責の念。そんな気にもさせられた。恋猫をふくむ生きとし生けるものに対する慈愛の目がそこにはある。

 

おほかたは通過駅なり春浅し      恵本俊文

 

列車に乗って目的地へゆく。その一駅が問題であって、その間はすべて通過駅にすぎない。人生死という駅が終着駅ならばそのすべてが通過駅にすぎない。すばらしいフレーズだけに季語が問題である。「春浅し」が人生まだ通過点だという作者の気概みたいなものも感じられて、私は悪くない季語だと思う。

 

春隣色鉛筆で書く予定        田口三千代

 

色鉛筆で予定表に書き込む。その春めいた気分と、春隣の季語の組合わせがすばらしいために高点句である。ただ「予定」だけだと「予定表」だとわかるであろうか。もちろん、好意的読者ならわかる。好意的読者でなければ、色鉛筆で書くのはあたりまえだろうということになる。このままで好意的読者にゆだねるか、予定を「旅程」などとして具体性を持たせるか。どうにかして予定表とまで完全に17音に入れ込んで表現してしまうか。これは作者の考え次第だ。

 

かたくりの花おそらくは人嫌ひ    内平あとり

 

かたくりの花のうつむき加減を、人嫌いととるか、はずかしがりととるか、いずれにしても人嫌いとしたのが成功した原因であろう。動詞ひとつも入れずに、「おそらくは」 と入れたのが実はこの句のコアだと思う。「おそらくは」が人嫌いとかたくりの近さ加減を薄める効果がある。取り合わせというより、かたくりの花を半喩した表現とも思う。高点句であった。

 

置いてゆくはずのアルバム春ともし   籬 朱子

 

「春ともし」 の季語で春の燈のもとで、別れの準備、引っ越しの準備、新生活への準備という感覚が共有される。そこにもってきて「置いてゆくはずのアルバム」つまり、持って行くつもりはなかったが、思わず、旅荷あるいは荷物の中に入れてしまったのである。アルバムという措辞もそれを代弁している。読者をひきつける、悪く言えばひっかけるフック満載の句である、釣り針にひっかかった読書も多いのは当然である。

 

梅の香は天へ悔恨などは地へ      安藤由起

 

すーっと通り過ぎてしまいがちの句ではある。梅の香は天へ伸びて行く。ここまではよしとしよう。悔恨などは地へ、人生の来し方の悔恨はすべて地下へ葬ると考えてもよい。そう考えると処世訓じみてくるが。私は「梅」と「悔」という漢字のアナロジーを感じた作者がそのふたつの漢字を使って俳句に仕立てたと考えたい。私のような「机上派」はよくやる作り方であるが、作者は全く違う感覚で作ったかもしれない。

 

二番茶のななめにずれる眼鏡かな    久才透子

 

二番茶をすすっているご老人の眼鏡のずれを詠んでいると読んだ。この句の佳さは不可解なところ。二番茶のずれる というのはその筋で意味のある言葉なのか。二番茶の出回る時期のずれるという意なのか?なぜ眼鏡に力点をおいて「かな」という切れ字を使ったのか。ただいま季語と無関係で、詩的な言葉でない措辞に「や」「かな」をつけるやり方が方法論として確かにある。不可解さが面白い。

 

福耳と言はれ霜焼けとは言へず    田口三千代

 

霜焼けは凍瘡と言われ、樽柿のように腫れるタイプがある。耳に起これば当然、大きく腫張する。それを福耳と言われた作者(あるいは主人公)の戸惑いが面白い句として成り立った。「言はれ」 「言へず」のレフレイン調も成功している。

 

なごり雪最後の通知箋渡す       太田成司

 

まさに万感の教師の姿が目に映るような句。はじめ「なごり雪」が近すぎるとも思ったが、「これしかないか」 とも思った。通知表でなくて通知箋としたのも成功した理由と思う。最後という措辞があるので卒業の三学期の通知表であることもわかる。

 

啓蟄や首より覗く絆創膏        西村榮一

 

啓蟄の句は概念で勝負すると失敗することが多い。この句は首より垣間見られる絆創膏というありふれて、卑近なものに焦点を当てたことが成功している。覗くという言葉が、啓蟄の出てくる感、穴からでてくる感覚と相応すると思う。
 
 

◇ 
 

以上、今回も誤読、失礼あるやもしれませんが、どうかご寛恕を。
それではまた(あ~またと言ってしまった)。
 
 

※「また」次回もよろしくお願いします、喜夫さん♪
 そしてみなさまのコメントもお待ちしております(^^by事務局(J)