2013年5月31日金曜日

『かをりんが読む』 ~第7回の句会から~ (その3)


『 かをりんが読む 』 (その3)


~第7回の句会から~
今田 かをり

一徹の「売り切れご免」桜餅

和菓子、とりわけ生菓子は季節を感じさせるお菓子である。その中でも「桜餅」は、最もポピュラーな季節の和菓子であろう。期間限定なのである。それだからこそ、その期間はちょっと多めに作って売ればよさそうなものなのに、「一徹」の和菓子職人は作らない。あくまでも丁寧に一つずつ、道明寺粉を蒸した餅に餡を詰めて、塩漬けの桜の葉でくるむ。ただし、これは上方風。私の大好きな和菓子のひとつである。「売り切れご免」という、ぶっきらぼうな物言いにも、職人気質の店主の顔が浮かぶ句である。
 

さくら待つ札幌市電試運転

先日、試運転している市電の新車両を見た。窓が大きく、低床で、そして白と黒を基調とした洗練されたデザインの外観であった。この句のよさは、まず口ずさんで楽しいことである。「さくら」の「サ」、「札幌」の「サ」、「市電」の「シ」、「試運転」の「シ」と、サ行が畳み込むように使われていて、弾むような気持ちにぴったりである。一読、ちょとしたキャッチコピーのような句であるが、「待つ」が、「さくら」と「試運転」の両方にかかっていて、なかなかよく考えられた句なのである。
 

風光る工事現場のコーヒー缶

作業員が休憩の時に飲んだのであろう、コーヒー缶が工事現場の片隅に捨てられている。まだ少し温みも残っていそうなコーヒー缶である。さてそこに季語の「風光る」をもってきた。春風の中に感じられる光、その光が「コーヒー缶」に反射している景が浮かぶ。季語を「春風」ではなく「風光る」としたところに、この句のよさがあるのだと思う。「コーヒー缶」ではない物を持ってきたら、また新しい物語が始まるかもしれない。
 

初夏や小瓶に移す化粧水

 「初夏」「小瓶」「化粧水」、これだけでドラマの一場面になりそうである。けれど、口当たりのよいだけの句ではない。化粧水を小瓶に移すという、日常の一コマが実感をもって表現されているからだろう。化粧水も夏の暑さには劣化するのである。おそらく、この後、化粧水は冷蔵庫に入れられるはずだ。「初夏」という季語からも、そして小瓶に移されている「化粧水」からも、柑橘系の香が立ち上ってくる。


(つづく)




 


2013年5月29日水曜日

『かをりんが読む』 ~第7回の句会から~ (その2)


『 かをりんが読む 』 (その2)

~第7回の句会から~

今田 かをり
 


鳥の屍の吹かれてありぬ春汀


霧多布へ行ったことがある。その折、ペンションのオーナーが、ケンポッキ島という無人島に連れて行って下さった。島に着いて汀を歩いていると、いくつもの鳥の屍に出会った。流れ着いたのだろうか、どの屍もかなり傷んでいて、白骨化しているものもあれば、かろうじて鳥の形を残しているものもあった。そしてその羽が風に震えていた。言葉にしてしまうと陳腐になってしまうが、この風は「無常の風」であり「無情の風」である。「吹かれてあり」と突き放した詠み方が、いっそうその感を強めている。また「汀」という、二つのものが接する場所をもってきているのも心憎い。さらに付け加えれば、「夏」では重い、「秋」では寂しすぎる、「冬」では凄惨になる。やっぱり「春汀」なのである。

 
方円に随う水を鱏のひれ


この句が詠んでいるのは、結局は、悠々と泳いでいる「鱏のひれ」だけなのである。けれど、というかそれ故にというか、不思議な魅力を持った句である。「水は方円の器に随う」ということわざが思い出されるが、この句では、そのことわざの意味(人は交友・環境によって善悪のいずれにも感化される)としてではなく、文字通り、水はどんな器にもなじむという意味で使われている。つまり水のもつ「しなやかさ」「たおやかさ」、けれどそれは「したたかさ」にも通じる。その、したたかな水を統べて、まるで洋凧のように泳いでいるのが「鱏」、否、「鱏のひれ」なのである。この「鱏のひれ」を言うために使われた「水」の修飾が効いている。しかも「方(四角)」「円(丸)」、そして「鱏のひれ」の三角。何も言ってなさそうで、実はかなりしたたかな句なのである。

 
春耕や人に手のひら足のひら


「手のひら足のひら」のリズムもさることながら、「足のうら」ではなく「足のひら」としたことが、この句の成功の鍵だと思う。それによって、手と足が対等だった太古の匂いが句から立ち上ってくる。さらに、足のうらで大地を踏みしめるのではなく、手のひらと足のひらで愛でている、みずみずしい黒土の匂いもしてくるのである。まさに「春耕」の最も本意にかなった句ではないだろうか。一読して、ぐっときた。

 
 春寒やフラスコの燗酒旨し


大学の実験室を思わせる。夜遅くまで実験をしていて、ちょっとフラスコに日本酒を入れ、アルコールランプで温めているような景が浮かぶ。そして今のように管理教育が行き届いていなかった頃を思わせる。先日、何気なくテレビを見ていたら、北大恵迪(けいてき)寮の寮歌、あの有名な「都ぞ弥生」の誕生を扱ったドラマをやっていた。あえて蛮カラを気取った時代でもあった。なんだかその頃を思わせる句である。中七から座五にかけて句またがりになっているのも、無頼の気風を漂わす一役を買っているのではないだろうか。


(つづく)


 

2013年5月27日月曜日

『かをりんが読む』 ~第7回の句会から~ (その1)


『 かをりんが読む 』 (その1)

~第7回の句会から~

今田 かをり


 5月11日のitakには、残念ながら仕事のため出席出来なかった。そして先日、句会の資料が届いた。もちろんすべて名が伏せられてある。
 句との出会いは、人との出会いに似ている。最初の印象が良くて、それがそのまま変わらないという幸せな出会い、あるいは後からしみじみその人の良さがわかってくるという末広がり的な出会い、あるいは始めはぐっときたのに、そのうち飽きてくるという尻窄まり的な出会い等々。
 そこで今回、句を選ぶに当たっては、出会った瞬間にぐっときた、あれっと思った、あっとびっくりした、というような「出会い頭」の句を選ばせていただいた。したがって、後からぐっとくるような句は、残念ながら入っていないことをお許しいただきたい。


 

母の日や妣の齢にあと五年
 

人は、親の齢を越えるときに、何らかの感慨を抱くものらしい。私事で恐縮だが、私を可愛がってくれた祖母は享年59歳で亡くなった。交通事故であった。その齢に近づくにつれ、祖母を思う気持ちにも、単に懐かしむだけではない感情が混じるようになった。あの頃の祖母が、どんなに私を慈しんでくれたのか、祖母の視点でものを考えられるようになったといったらよいだろうか。そして、大げさに言えば、祖母がどのような生き方をしようと思っていたのかが、朧げながら見えてきたということだろうか。この句の作者もきっとこういう気持ちなのではないだろうかと、少し切ない気持ちでいただいた。
 

インディアンペーパー匂ふ緑雨かな
 

「インディアンペーパー」は、「インディアペーパー」ともいう、辞書や聖書などに使われている薄い洋紙である。図書室で辞書を開いているのか、あるいは聖堂などで聖書を読んでいるのか、いずれにせよ静謐な感じが漂っている。そのうえ、外は緑雨である。その静けさが嗅覚を鋭敏にして、紙の匂い、インクの匂い、あるいは雨の匂いを感じ取っているのだろう。「インディアンペーパー」がこんなお洒落な句になるなんて、驚きである。季語の「緑雨」がいい。
 

さらさらと水音たてて種袋
 

種袋を振った折に聞こえてきた「さらさら」という音。これだけを句にしたのなら
ありふれた句となり、紛れてしまったことだろう。ところが作者は、その音を「水音」に見立てた。そして見立てた途端、幻の川が流れ出すのである。言葉の力、言葉の不思議であろうか。そしてその不思議は、「種」の持つ命の不思議にもつながっていくのである。
 

巣作りの鳥見え妻の白髪見え


この句の面白さは、何より立体的な句だということである。まずは空間的に、作者は下から見上げているのだろうか。樹の上で鳥が巣作りをしている。そしてその向こうに、ベランダで洗濯物を干している妻の白髪が見えている。とも取れるし、上から見下ろしているとも考えられる。ベランダに出てみると、近くの樹で巣作りをしている鳥がよく見える。見下ろすと、庭で花でも植えているのだろうか、妻の姿が見える。その妻も白髪が目立つようになった。どちらにしても、作者は「巣作りの鳥」と「妻の白髪」を同時に見ているのである。「巣作りの鳥」は、これから家庭を作り、子どもを育てていく若い家族、そして「白髪の妻」は、すでに子育ても終え、これから作者と老いを生きていくのである。当然、作者の脳裏には子育てをしていた頃の妻の姿が浮かんでいたはずである。「鳥の時間」と「夫婦の時間」、時間においても立体的なのである。
 

(つづく)


 

2013年5月25日土曜日

『かをりんが読む』がはじまります!


俳句集団【itak】事務局です。

光あふれる5月。
というのはもはや当地では都市伝説でしかないのでしょうか。

ご好評の『読む』シリーズです。
今回は『かほるんが読む』に続きまして
『かをりんが読む』をスタートしたいと思います。

第7回俳句集団【itak】の句会には今回46名92句が投句されました
その中から今田かをりが毎回心の赴くままに選んだ句を読んで参ります。

前回同様、ネット掲載の許可を頂いたもののみを対象といたします。
掲載句に対して、あるいは評に対してのコメントもお待ちしております。
公開は明日5月27日(月)18時からです。ご高覧下さい。

☆今田かをり(いまだ・かをり 「圭」 「銀化」 札幌在住)

2013年5月22日水曜日

第7回句会 投句・選句一覧④


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。





#投句・選句一覧

第7回句会 投句・選句一覧③


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。






#投句・選句一覧

第7回句会 投句・選句一覧②


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。





#投句・選句一覧

第7回句会 投句・選句一覧①


※作者・投句一覧が空欄のものは 掲載の許可がなかったものです。








#投句・選句一覧

2013年5月20日月曜日

俳句集団【itak】第7回句会評(橋本喜夫)

 
俳句集団【itak】第7回句会評
 
2013年5月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
5月11日、天候は相変わらず恵まれず寒くて雨模様であったが、イタックは無事満1周年を迎えた。どうなるか、続くのかと危ぶまれたが今のところ盛況に継続されている。まあ、こういうイベントというかムーブメントは3年続けば成功と言えるのではないか。3年続いた段階で次への歩みをもう一度考えればよいのであろう。などととても冷静に、対岸の火事のように見ている私であるが、幹事であることに変わりはなく、普段仕事をしない代わりにこの欄への寄稿を義務的に行うこととする。句会前の久保田哲子氏の話の中で出てきたが、昔の主宰というか俳句の師というのはとても怖くて会話の一言一言に気を使ったものである。それは若者にとっても、私たち初老のものにとってもとてもうざったいものなのだが、なにか懐かしく、とても大事なもののような気がしたのは私だけだろうか。私は職業的にもともと、結構封建的な師弟関係の中で育ってきたものだから、なおさらなのかも知れない。若者にとってはそんな古臭い、封建的なものから新しい、建設的なものは生まれないと思うかもしれないが、青臭い、甘ったれな烏合の衆からも何も生まれないのである。さて東京出張前の昼休みの間に終わらせるためにさくっと行きます。相変わらず失礼、誤読あるかもしれませんがご寛恕を。

 茹ですぎたパスタ残りて春愁い 福井たんぽぽ

春愁いの句は当然のごとく、どうでもいいことを取り合わせて、ライトバースな感情がこの季語に使うと成功する。そういう意味で「茹ですぎたパスタが残ってしまった」現実と春愁との取り合わせは成功例だと思う。「茹ですぎた」が口語的で、「残りて」が散文的で、説明的なのでここをどちらかに統一するのがいいと思われる。「パスタが残る」にするか、文語表現で統一するなら「茹ですぎのパスタ残れる」でもいいかもしれないが、ここは本当のこというと好みの問題だが、実際のコンクールなどではやはり欠点として指摘を受ける可能性がある。でもこのライトバースな発想は私は好きだ。そしてこういうのはライトバースと言わないという指摘は甘んじて受けるが、あくまでも私の定義である。

 骨なしの魚を齧るこどもの日  大原智也

予選で私はこの句に印をつけた。発想もよいし、微量の毒もいい。とてもよくわかる句だ。よい川柳と俳句は区別がつけがたいし、区別する必要もないと思う。しかし、私はこの理知的な発想に川柳を感じた。だから最終的には採れなかった(採る句数が限られているのが本当のところだが)。つまり諧謔と川柳のうがちとは鑑別つけずらいが、やはり違うのだと思う。そしてにわかにその違いの定義をできないので、採れなかった。佳い句であることは間違いない。ただ俳諧であれば、「齧る」とはしないと思う。たとえば「選ぶ」とか「焼いて」とか「皿に」とか少しずらすのではないだろうか(風刺が如実にならないように)。

 血のめぐる音さらさらと明易し  内平あとり

夏の明け方、しらじら明るくなるころ、眼をつぶっていると、己の血がめぐっているのを感じた。あくまでも作者の独善の感性であろうが。それは「さらさら」だった。何となくすっきり晴れた朝なのであろう。明易しへの飛ばし方がとてもうまいと思う。これは師系にもよると思うのだが、藤田湘子一門は季語の飛ばし方がうまいと思う。そしてそれは私の独善的な考えかもしれないことは付け加えておく。私ならきっともっと近い季語使ったと思う、「爽やかな感じの春の季語」を選択しただろう。

 インデイアンペーパー匂ふ緑雨かな 五十嵐秀彦

また「天」に採ってしまった。私の体調が悪かったのかもしれない。インデイアンペーパーという言葉を読んでまず、「東インド会社」「シルクロード」など思った。もともとは中国の唐紙など薄葉上質紙を模してイギリスで作ったものだが、その名の通り、その原料はインドの木綿、亜麻などをイギリスで安く仕入れて作ったに違いないのだ。聖書、辞書などを開けた時の匂いそれは紙ではなくて、印刷のインクの匂いも混ざっているのであろうが、その気持ちの良い匂いを緑雨の中で感じているのだ。本好きにとっては至福の時であろう。緑雨への展開がうまいと思った。

 さらさらと水音たてて種袋  籬 朱子

これは作者が分かった句だった。作者が誰であろうとよい句はよい句である。俳句には罪がない。種袋をふったときの微かなそして気持ちのいい音、そして命のひしめく音でもある。それを水音としたことで詩が生まれたのである。俳句を何年もやってると手癖みたいのがつく。私の句に「柩」「死」「葬」などの縁起の悪い語が多いのと同じで、「さらさら」は作者に多いかもしれない。

 春草の地球を蹴って逆上がり  恵本俊文

わかりやすく、春の草の息吹が伝わる。しかも地球という大きな言葉を使うとたいてい失敗するのだが、この句は無理なく嵌っている。
「逆上がり」という語が名詞でありながら、動詞からできているので何かすわりが悪く、全体にのんべんだらりと、切れがない感じで読めてしまった。ここは「春草や」で切ってはどうか。「の」 もきちんとした切れ字なのだが、この辺は好き嫌いだ。私の結社なら「の」で軽く切れるし、藤田湘子なら「や」をおすすめしたに違いない。

 豆飯やキライとはじき主役なし  中道恵子

発想はわかりやすいし、面白い。おそらく沢山選が集まらなかったのは説明しすぎてしまったから。 わかりすぎてしまったのだ。豆飯なのに嫌いだからと豆をまめにはじいたら、主役がなくなったしまった というわけだ。ここは嫌いとまで言わず、たとえば 「 豆飯の豆をはじいてしまひけり」、とか 「豆飯をはじきて主役なかりけり」 でもわかるのでは と思う。または「豆飯の主役を嫌ふ女かな」 などと自己を客観的に表現しても面白いかもしれない。あまりつべこべいうと嫌われるのでこのあたりで退散する。

 0°までブランコ漕いで鳥になる  早川純子

人気をあつめた句のひとつである。問題は0°が本当にわかるかでしょう。当然設計の仕事や、理系ならわかるんでしょうが..私なんかこの短時間の選句では温度の0と思い、くそ寒いなかで一生懸命ブランコ漕いでいる女の子を想像してしまった。そして凍死して、鳥になったんだなと。 何言ってんだと怒っている作者の顔が浮かぶが、平凡になってしまうが、私ならば「水平に」 とか 「中空へ」 とか 「中天に」 とかでごまかすけどね。ここは0°の方が作者の個性でるよね、共感は得られないけど。殺されないうちに次へ進もう。

 春耕や人に手のひら足のひら  田口美千代

体の一部分をクローズアップして労働の素晴らしさ、「春耕」の素晴らしさを表現する方法は確かに前例があるとは思う。でも私は足の裏にせずに、「足のひら」にしたところがこの句の佳さだと思う。もちろん春耕の季語の斡旋も秀逸だが。足の裏は獣や動物でもあるが、「足のひら」はおそらく霊長類しかないから。おそらく前足の裏が進化してゆき人間の手のひらになり、春耕という文明というかカルチャーが生まれたわけだし。そういう意味で「足のひら」という表現は絶対フックのある言葉だ。

 山椒魚(はんざき)や森は原始の香をなせり
                戸田幸四郎

雰囲気の佳い句である。はんざきの住んでいる川おそらく、清水であろうし、汚れてはいないだろう。そしてつきすぎとも思える「原始」ということばだが、この言葉を山椒魚に使用すればつき過ぎであろうが、「森の香」にうまいこと飛ばしている。ここが秀逸である。ただし、あまりうるさいこと言いたくないが、「二段切れ」になるのでここは 「森は原始の香をなせる 」と止めて欲しかった。

 どこにあるいるかのふぐり虎が雨  室谷安早子

この句も凄い。中七までのフレーズが十分、インパクトがあり、フックがあるのだが、「虎が雨」への飛ばし方が凄い。私の所属する北海道の結社なら飛ばしすぎで意味不明とそしられるが、私はこれでいいと思う。この???感を読者は楽しめばいいのだ。考えすぎかもしれんが、「虎が雨」というのは曽我十郎が死に、その死を悲しんだ愛人遊女虎御前の泪が雨となるという季語であるが、もしかして大化の改新の「蘇我入鹿」まで時代がさかのぼったのであろうか?だとすると恐ろしく飛んでいる。作者の所属結社を失念してしまったが、「鷹」の飛ばし方だ。

 春寒やフラスコの燗酒旨し  深澤春代

昔の学校は規律がいまほどうるさくなく、職員室や理科室で先生同士、酒を飲みかわすこともあった。そんななごやかで、男ぶりな景を想像した。たとえば昔の学校なら宿直室というのもあった。そこでの景でもよい。中七、座五の句またがりも面白い味を出している。フラスコで燗酒をしているのも諧謔である。いまなら、先生は始末書を書かねばならないだろう。

 反古焚きて残雪の端焦がしけり  草刈勢以子

人気のあった句である。反古、残雪、端焦がすといった素材がよかったのであろう。ゴミを焚いて、残雪の端を焦がすという表現の面白さもあったろう。しかし、想像できる景はあまり美しくない感じもする。反古を恋文、艶文のたぐいで書いてはまた捨てるものと仮定すれば、残雪(心残りを想像する)の端を焦がすという表現が生きてくるように思う。いずれにしても素材のみ提出してあとは読書に想像させるという俳句である。この方法もありでしょう。

 フリースロー何度もはずす花粉症  大原智也

中七までの措辞、そして「花粉症」への飛ばし方がすべての句。私は中七までの措辞は俳句的に悪くないと思うし、展開を期待させる措辞だ。季語の斡旋としては「花粉症」は決して成功していない気がする。鼻がむずむずして、くしゃみが出て集中力がわかずにフリースローをはずしたというふうにとられかねない。つまり予定調和に感じてしまう。ここは「万愚節」や、「植物の季語」などもってきて飛ばした方が良いと思う。

 若人や初夏の石狩へペダル踏む  田中悠貴

若者がツーリングのように石狩へ向かってペダルを漕いでいる。その詠んでいる景はいかにも、初夏であり、気持ちがよい。やはりいくら気持ち良い内容でも中八だとまずいであろう。日本中の主宰が一番嫌うのが中八であることを知らねばならない。俳句は17文字の短詩である以上に定型詩である。定型の袋に読みたい内容をきちんと詰め込んでこそ意義がある。リゴリズム*1の中で自由を謳歌すればいいのである。初夏という季語だけで若人感がでるのではないか?たとえば「 初夏や石狩の地へペダル踏む 」でもいいのでは。俳句甲子園勝つためには詩だけでは勝てない。リゴリズムの中でどれだけ遊べるかが勝負だ。

 風光る工事現場のコーヒー缶  久才透子

これも惜しい感じがする。工事現場という決して美しくない景色の中で風光るという感覚を詠むことはとてもいいのだが、さいごのコーヒー缶がどうも閉まらないのである。もちろん黒光りする缶が景色としては風光るに合うのであるが、読んだ感じ、間延びして言葉の音調としてあまりよくない気がする。たとえば「硝子壜」、「プラボトル」、飲み物と関係なければ意外性で「車椅子」、「乳母車」だってよいのだ。場面の切り取りをもう一工夫欲しい。もちろん実景であることはわかるのだが。リアリズムだけだと詩は生まれない。

 うららかや骨抜かれたる日章旗  岩本 碇

これはよい、そして微量の毒がある。社会性俳句のようでもある。だらりとはためかない日章旗を骨抜きと表現した。どうしても骨抜き国際的な弱さ改憲、護憲など色んな意味で政治色が強くなるように感じた。やはりよき川柳と諧謔との羊皮紙一枚の微妙な違いである。とはいえ、「うららかや」で切れているし、俳句の佳さも兼ね備えた川柳的テーマ性をもった俳句といえよう。

 初夏や小瓶にうつす化粧水  内平あとり

実際の句会でもいただいた。「はつなつ」という季語のよろしさ。化粧水を小瓶にうつすというつましさ。化粧水をうつす美しい指先が見えるようですずしい季感もある。やはり初夏にちょうどいい素材といえるかもしれない。季語がそれだけでよろしい、一級季語であれば、この句のように取り合わせとして飛びすぎなくてもいいと思われる。飛び過ぎはかえって、季語の佳さを損なう場合もある。

 風車もつて飛行機雲仰ぐ  久保田哲子

「風車」の季語としては珍しい詠み方である。回る風車を詠むことが多く、この句のような風車そのものを詠んでいない句は珍しい。つまりこの景の主人公(語り手)は風車をただもって、飛行機雲を仰いでいる。つまり、風車ではなく飛行機雲に仕事をさせている俳句である。この季語としては大景を詠んでいて、面白い処理の仕方である。

 蕗の薹大地は痒くないのかしら  久才秀樹

蕗の薹のさま、それを囲む大地の方へ眼を向け、「痒くないのかしら」と詠む諧謔が成功した。あえて座六にしたのが、面白みをむしろだしているし、成功している。破調感がこの句のコアでもある。内容的には今はやりの櫂未知子のいう「おばか俳句」ではあるが、この「無意味性」を私は愛する。

 真っ白なブラウスまっすぐ海へ  熊谷陽一

この破調感も面白い。ただし句の内容から言っても十分アトラクテイブな内容なのでここは破調感を出さずとも俳句として成立したのではないか。つまり「真っ白なブラウスまっすぐに海へ」でもよいと思ったのだ。みなさんはどう思ったであろうか?作者は「頭の中で白い夏野になつてゐる」が心に在ったのかもしれないが、無季であることも十分に挑戦的な句だ。ただし十分に夏の海を連想させる季感はある。

 花篝ひたすら脳が膨張す  福井たんぽぽ

夜の怪しい闇のなかで、篝火の中へ花が散り込む景はたしかに催眠術にかかったように妖艶な雰囲気である。たとえば燃え立つ火を見つめると、網膜にうつる景として、そのまま連結する脳が膨張する、沸騰する感覚を詠んでいるのであろう。いずれにしても思い切った感覚の句ではある。そして「花篝」が決して荒唐無稽に浮いていないと思う。





さて今回もこの辺で退散する。好きなこと言ってごめんなさい。せっかくの句に文句言われるのが嫌な方はどうか編集部へ苦情をお願いします。私を楽にさせてください。それではまた。
 
 
忙中有閑苦中有楽!7月もよろしくお願いいたします(^^by事務局(J)

*1 リゴリズム
厳粛主義・厳格主義。カントは、道徳説において善と悪とを峻別する態度をリゴリズムと呼び、その中間を認める妥協的態度を放任主義と名づけて対比させた。
 
 


2013年5月18日土曜日

【第七回人気五句・披講】



俳句集団【itak】です。
 

いつもご高覧頂きありがとうございます。
先日公開しました【人気五句】の披講をいたします。
三句選で、天=3点、地=2点、人=1点の配点方式、( )内は配点です。
横書きにてご容赦くださいませ。
 

春草の地球を蹴って逆上がり   恵本 俊文(17)
 
春耕や人に手のひら足のひら   田口美千代(14)

反古焚きて残雪の端焦しけり   草刈勢以子(11)
 
赤ちゃんのエコーの画像春の月  古川かず江( 9)
 
蕗の薹台地は痒くないのかしら  久才 秀樹( 8)
 
風車もって飛行機雲仰ぐ      久保田哲子( 8)
 
銅像の帽子目深に辛夷咲く    久才 透子( 8)

 
以上です。ご鑑賞ありがとうございました。
なお、実際の三位句、四位句の同点一句、六位句が掲載許可をいただけませんでしたので以降繰り上げてご紹介させていただきました。また後半三句は同点八位のものです。
句会評を挟みましてほどなく全句の公開をいたします。
ご高覧下さいませ。
 
 
 

2013年5月16日木曜日

人気五句@第七回俳句集団【itak】句会・20130511


 
※上位人気句数句が掲載の許可をいただけませんでしたので繰り上げてご紹介します。
※同点の句がございましたので八句の掲載となりました。

2013年5月14日火曜日

俳句集団【itak】第7回イベントを終えて

 
俳句集団【itak】第回イベントを終えて   五十嵐 秀彦

「思いはふかく、ことばはわかり易く」

 
 


俳句集団【itak】は昨年の5月に第1回イベントを実施しました。それから早いもので一年がたち、私たちのイベントも第回から2年目に入ったことになります。

とはいえたかだか1周年、何をどうするわけでもなく、普段どおりのイベントを実施しました。

部は久保田哲子さんの講演。
演題は「私と俳句 ~門前の小僧的な~」。
久保田哲子さんはご存知の方も多いと思います。特に北海道では有名な俳人のひとりです。結社は「百鳥」に所属。俳人協会会員です。

これまで「白魚火」「梓」などの結社を経ての現在の「百鳥」同人で、それぞれの結社で受賞を重ね、さらに第二句集『青韻』で北海道新聞俳句賞、鮫島賞(北海道俳句協会)を受賞されています。

そう、彼女は筋金入りの結社人なのです。
それは【itak】的ではないのではないか? という疑問をもった方々もいらっしゃったかもしれない。
とんでもない。そういう決め付けこそ【itak】的ではないと思うのです。

彼女の結社で培ってきた経験を、【itak】に集まる人たちが俳句の栄養として吸収できれば、さらに深く俳句を考える機会を持つこともできるでしょう。


今回も会場は中島公園の北海道立文学館地下講堂。
開始時間の10分前にはほぼ満席の状態になり、講演参加者は51名になりました。
【itak】名物の高校生も今回は5名参加です。予約なしの飛び込み参加も5名ほどいらっしゃいました。
満員の会場で久保田哲子さんの講演ができたことを、とてもうれしく思っています。


久保田さんは講演をあまり経験していないということで始まる前には多少緊張気味の様子ではありましたが、始まると実にスムーズに自然体で話しをしてくださいました。

8歳で初めて俳句を作ったこと、18歳で職場の句会に参加し、それが結社へ入るきっかけとなったこと。

厳しい主宰のもとで、時には理不尽な思いもしたこと。

それでも俳句を続けてきたのは、「主婦」や「母」や「妻」という属性で見られるのではなく、ひとりの独立した人間としての表現を求めたからだったこと。

それが前半の講演内容で、後半は師に教えられた俳句の要諦をわかりやすく語ってくれました。


特に、「美しいと感ずるよりもぐっと胸を打たれたいのだ。巧いと感ずるよりもぐっと胸を締めつけるようなものが欲しいのだ」という加藤楸邨の言葉にひかれて「寒雷」に入った永田耕一郎さんへの久保田さんの強い共感が伝わってくる内容でした。

「思いはふかく、ことばはわかり易く」

「季語は自分の内奥のこえを表すものである」

こうしたことを「梓」の永田耕一郎主宰から教えられ、師のそれらの言葉が常に久保田さんの道を照らし続けてきたのでしょう。


 すこし泣きすこし手袋濡らしけり  久保田哲子


 水鳥に水尾といふ過去きらきらす  久保田哲子


部の句会は参加者46名。

いつもながら大人数の句会は運営が難しい。

それでも幹事の人たちのがんばりで、とどこおることなく進みました。

今回の句会では、次の句が好評でした。ほかにも高点句はありましたが、公開オーケーの句からのみ若干紹介します。

作者はまだ匿名とします。いずれブログで結果一覧を発表しますので、それを楽しみにしてください。

 春草の地球を蹴って逆上がり


 反古焚きて残雪の端焦がしけり
 

 風車もつて飛行機雲仰ぐ





さらに今回は懇親会もセットしました。 

これまでも懇親会の希望は多かったのですが、人数が多いため幹事の負担をこれ以上増やさないように懇親会をしなかったという経緯があります。

しかし1年間イベントを続けてきたことで、運営がかなり安定してきたこともあり、1周年の今回を機会として今後はできるだけ懇親会もセットすることにしました。

今回は文学館と同じ中島公園内のテラスレストラン・キタラで27名の参加で懇親会を開催できました。
やはりそうした場での意見交換も有意義ですし、なにより楽しいものです。

今後も参加者の協力をいただきながら続けていきたいと思いました。



次回、第回イベントは、7月13日(土)、道立文学館で午後1時から開始です。
部に、栗山の小林酒造小林精志専務さんによる酒造りの講演をしていただく予定です。
懇親会も予定しておりますので、ぜひ次回も多くの参加を期待しております。