2013年5月29日水曜日

『かをりんが読む』 ~第7回の句会から~ (その2)


『 かをりんが読む 』 (その2)

~第7回の句会から~

今田 かをり
 


鳥の屍の吹かれてありぬ春汀


霧多布へ行ったことがある。その折、ペンションのオーナーが、ケンポッキ島という無人島に連れて行って下さった。島に着いて汀を歩いていると、いくつもの鳥の屍に出会った。流れ着いたのだろうか、どの屍もかなり傷んでいて、白骨化しているものもあれば、かろうじて鳥の形を残しているものもあった。そしてその羽が風に震えていた。言葉にしてしまうと陳腐になってしまうが、この風は「無常の風」であり「無情の風」である。「吹かれてあり」と突き放した詠み方が、いっそうその感を強めている。また「汀」という、二つのものが接する場所をもってきているのも心憎い。さらに付け加えれば、「夏」では重い、「秋」では寂しすぎる、「冬」では凄惨になる。やっぱり「春汀」なのである。

 
方円に随う水を鱏のひれ


この句が詠んでいるのは、結局は、悠々と泳いでいる「鱏のひれ」だけなのである。けれど、というかそれ故にというか、不思議な魅力を持った句である。「水は方円の器に随う」ということわざが思い出されるが、この句では、そのことわざの意味(人は交友・環境によって善悪のいずれにも感化される)としてではなく、文字通り、水はどんな器にもなじむという意味で使われている。つまり水のもつ「しなやかさ」「たおやかさ」、けれどそれは「したたかさ」にも通じる。その、したたかな水を統べて、まるで洋凧のように泳いでいるのが「鱏」、否、「鱏のひれ」なのである。この「鱏のひれ」を言うために使われた「水」の修飾が効いている。しかも「方(四角)」「円(丸)」、そして「鱏のひれ」の三角。何も言ってなさそうで、実はかなりしたたかな句なのである。

 
春耕や人に手のひら足のひら


「手のひら足のひら」のリズムもさることながら、「足のうら」ではなく「足のひら」としたことが、この句の成功の鍵だと思う。それによって、手と足が対等だった太古の匂いが句から立ち上ってくる。さらに、足のうらで大地を踏みしめるのではなく、手のひらと足のひらで愛でている、みずみずしい黒土の匂いもしてくるのである。まさに「春耕」の最も本意にかなった句ではないだろうか。一読して、ぐっときた。

 
 春寒やフラスコの燗酒旨し


大学の実験室を思わせる。夜遅くまで実験をしていて、ちょっとフラスコに日本酒を入れ、アルコールランプで温めているような景が浮かぶ。そして今のように管理教育が行き届いていなかった頃を思わせる。先日、何気なくテレビを見ていたら、北大恵迪(けいてき)寮の寮歌、あの有名な「都ぞ弥生」の誕生を扱ったドラマをやっていた。あえて蛮カラを気取った時代でもあった。なんだかその頃を思わせる句である。中七から座五にかけて句またがりになっているのも、無頼の気風を漂わす一役を買っているのではないだろうか。


(つづく)


 

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