2012年7月28日土曜日

俳句集団【itak】第2回句会評 (橋本喜夫)

俳句集団【itak】第2回句会評



2012年7月14日


橋本喜夫(雪華、銀化)




714日、少々手狭な会場ではあったが、第回の句会が第1回以上の熱気を帯びつつ、行われた。今回は高校生男子が参加したせいか、先輩女流たちの目がいつもより輝いていた感じがしたが、気のせいかもしれない。さてさっさと、無責任に、わがままにこの句会評を書いてしまおう。誤解、誤読は「俳句の華」だと思っていますので、どうか俳人諸氏ご寛恕を。それと紹介できない佳句もあったことをお忘れなく。





干梅にひとつひとつの夜空かな  久保田哲子

◆さっそく、今回の代表的秀句のひとつを掲げた。手作りの梅干しを作ったことのあるひとも、ないひとも想像すればわかることがある。それは夜干しの梅の背景にある気持ちの良い夜空だ。丹精こめて作った梅干しひとつひとつに時間、空間としての夜空があり、夜空ひとつには数多くの星がある。気持ちの良い夜空、夜の空気感が伝わる句ではないか。梅干しではなく干梅とした作者の言語感覚も素晴らしい。




星涼し眼持たざる深海魚   今田かをり

◆海底に澄む深海魚のひんやり感を夏の俳句に素材として使用することはよくあるだろう。眼の退化した深海魚を「眼持たざる」という表現もありえるだろう。この句の良さは星涼しの季語の斡旋なのだろうと思う。海底と天空という取り合わせだけではない、気持ちのよい飛躍がある。




団扇からどこ吹く風の生まれけり  栗山麻衣

◆どこ吹く風という措辞を使いたいとまず、思ったのだと思う。言葉派ではよくある作り方だ。そんなときにどんな季語を持ってきて、いかに処理するかは、作者の力量と作者の志向が決めることだ。団扇という俳諧味のある季語を斡旋するところはニヤッとさせられる。そして風で団扇か、つき過ぎでないかと思った諸氏?ためしに他の季語でやってみな。ここまでうまく俳句にならないと思う。




流しさうめん変なおじさん混じりをり 岩本 碇

◆流しさうめんを使った小芝居やコントの場面を想像する。流しそうめんに多くの箸が伸びて、皆でそうめんをすするクローズアップ画面のあと、大写しになる。
するとひとり、変なおじさんが混じっているという景。「人生はクローズアップでは悲劇だが、ロングショットは喜劇である 」といったチャップリンの言葉を思い出す。




鰻屋に酒好きそろふ走り梅雨     三国真澄

◆夏の暑いさかり、鰻屋にあつまり昼酒を楽しんでいるおじさんたち。そろいもそろった酔狂なひとたちである。今でも東京の下町などに行くと見かけそうな風景。この句の良さも走り梅雨の季感のよさであろうか。鰻屋との取り合わせも最高である。これを季重なりだとかいう無粋なひとはイタックにはいないであろう。




夕立て音階の風散らばれり      後藤あるま

◆夕立がきて、さっと涼しい風が起こり、屋根をたたく音が聞こえてくる。中七の「音階の風」の措辞が素晴らしい。夕立ての上五の措辞をどう取るか、説明的と思う人もいるだろうし、夕立の とかるい切れのある助詞を使うべきだとか、夕立やで一度切って座五を連体形で締めるという別案もあるだろう。作者はおそらく、切りたくなかったのだと思う。夕立がきて、風が起き、音を立てるといった連続性を重視したのだと思う。




月涼し今日ふたたびの水を買ふ    籬 朱子



◆水の宅急便とどくという句があったが、この句もそんなすがすがしさが伝わる。水を買うというごく日常的な行為が、とても気持ちよく感じられるのは、月涼しの季語のよろしさなのであろう。あわただしく、暑い日盛りが過ぎて、夜になり、涼しい月を仰ぎながら、ふと息をつぐように今日2回目の水を買った。背景にあるその人の繁忙な日常と夜の息遣いが伝わり心地よい。


真空管つてなあに八月十五日     内平あとり



◆おそらくあの玉音放送も全国に真空管ラジオを通じて発信されたものだろう。若者は真空管そのものも言葉では知っていても見たことないと思う。われわれの頃はテレビが壊れたときや、ラジオを壊してむき出しになった真空管をよく見た。当初の頃は鉄腕アトムのおなかのなかにも内臓されていた。この句も八月十五日への展開が見事である。



乳房のひとつは薔薇におきかへる   早川純子


◆今回の最高点句かもしれない。私も頂いた句だ。俳句は「もの」と言われ、具体的なもの、具象的なものが好まれる。この句は医学的な乳がん、乳房切断といった具象を想定しなくても楽しめる句だ。私はむしろ「観念的」に楽しめばよい句だと思っている。具象的に理解したいひとは「にゅうぼう」と読めばよいし、より観念的に捉えたいひとは詩歌の古典的な読みである「ちちぶさ」でもよい。たとえば「胸の薔薇のタットウー」を「おきかへる」と表現したのであれば、好きだったロック歌手を思い出す。薔薇戦争や、薔薇星雲を思う人だっているはずだ。それだけ薔薇は喚起力のある言葉だし、私にとっては不吉の匂いもする。作者は乳がんのことを詠んだかもしれないが・・・私にはそれを詩的昇華する心の準備が出来ていなかった。




沈むこと忘れしくらげ月と居る    高木晃

◆下五の月と居る、がすこぶる良い。すばらしい乳房だ、蚊が居る みたいな。
こういう一点豪華主義的な俳句の場合は、素晴らしい措辞をじゃましない言葉が必要である。「沈むこと忘れしくらげ」がまるで月の枕詞のように私には読める。もちろん、海月と月の詩的相似性も美しい。




薔薇を剪る指は亡びに染まりけり   五十嵐秀彦

◆乳房の句のおかげで同じ薔薇の句でも損をした感が否めない。ただし亡びに染まるという措辞がこの句の美点でもあるが弱点でもある。抽象的なメタファーが薔薇の鮮烈さを弱めている感じだ。ただ亡びに染まるは美しい表現だ、きっとTPOを弁えれば、いつか復活する措辞だと思う。




夕立くるきざしきざはしすでに濡れ  鈴木牛後

◆実際の句会でも頂いた句。夕立は実際にまだ来ていないのに、階段がすでに濡れている感覚、きざし感覚とでも言おうか、この感覚が鋭い。夕立や で安易に切らずに夕立くる という措辞が、まだ来てない感を出している。もちろん、きざしきざはしの 言葉遊び的リフレインも口承性がある。階段がなくてナマコの日暮れかなのような、異界的な異星人的なフレーバーもあり、好きな句であった。




目覚めれば魂重き昼寝かな      高畠葉子

◆たましいの句は一般に難しいといわれる。観念的になりかねないし、暗い、重くれの句になりがちだ。この句は魂が重いと言いながらとても軽妙な句である。魂を使ってこんな軽い句を作った人はあまりいないのではないか。目覚めたときだけ、重い魂にクスッと笑ってしまう。




角皿の青きパセリの孤独かな     三品吏紀

◆料理の添え物でパセリの存在の軽さを、中原道夫も詠んだことがあったように思うが、この句はパセリの孤独をおおげさに詠んだところに眼目がある。「角皿の青き」はまさに添え物の措辞である。無内容で、あとくされない面白さがあり、味わったあとに胃がもたれない俳句を櫂未知子は良い意味で「おばか俳句」と名付けたが、まさにこの句のパセリは大真面目に角皿で主役を演じている。




風死して君の匂いがあとづさる    山田美和子


◆気持ちのよい風が吹いて、君あるいは恋人かもしれぬが、そのひとの匂いが遠ざかるのであれば、予定調和であるのだが、この句は風が止まってむせ返るような暑さとともに恋人の匂いが遠ざかっていったというのだ。このアンビバレンスがいいではないか。風死すという季語で、恋人の死をニュアンスとして伝えたいのかもしれない。そうであったとしても、この季語の新しい使い方である。


走り来て蛇口を夏の雲に向け     今田かをり


◆青春映画の一シーンを見るような景である。おそらく運動部の学生が汗を拭きつつ、駆けて来て、蛇口を上に向けて顔にかけているシーンだ。この句いい句なのだが、美しい断片をわれわれに呈示して見せてくれるが、切れがないのがやはり落ち着かない。切れは美しい断片を映像として繋げてくれる残像の役目もあるのだ。切れを求めるのは俳人の悪い癖かもしれんが、たとえば「走り来る」でも「駆けて来る」でもよいのだ、うーん切れが欲しい。




ソーダ水泡の数よりある記憶     小笠原かほる


◆ソーダ水の泡の数と記憶の数、とても具象的な数と抽象的な数を呈示して比較しただけであるが、面白い。いいさしのまま呈示したことで、ソーダ水を飲んでいたころの個人個人の記憶を想起させるよろしさがある。思えばソーダ水の泡も記憶と同じように消え去ってゆく運命を担っている。



昼寝覚ヒトのスイッチ切れしまま   栗山麻衣


◆人間そういえばスイッチ入った状態と、切れた状態ってあるよな、と思う。私などは医者のスイッチと俳人のスイッチをオン、オフしている。みなそうかもしれぬ。妻のスイッチ、母のスイッチ、おばさんのスイッチ、いじわるのスイッチなどもある。そんな面白いことを考える作者がこの発想を俳句にするために選んだ季語が昼寝覚、うーん周密である。しかも季語の選択に俳味がある。




日の暮は声なつかしき韮の花     久保田哲子


◆母の声だろうか、日暮れに声が聞こえるとなにかと懐かしい気持ちにさせられる。万人の感じる印象ではなかろうか。そこに持ってきた季語が韮の花。スキーの回転競技や大回転はポールにぶつかるくらいにぎりぎりを突っ切らないと良いタイムは出せない。もちろんポールに衝突したらおしまいである。名句とはそんなリスクを冒さねば作れない気がする。この句の韮の花の選択は一歩間違うと類句類想といわれるぎりぎりを突きぬける措辞だと思う。




ラジオから母校の名前夏は来ぬ    後藤あるま


◆ラジオそのものが今やノスタルジックなメデイアになりつつある。まさにメデイアとしての存在感すらも「壊れかけのラジオ」である。さて、そのラジオから母校おそらく高校だろうが、母校の名前が聞こえてきた。おりしも甲子園の予選が始まったかもしれない。その名前を聞いて夏が来たんだなーと心から思ったという句だ。そういえば懐かしき高校の名前(漫画の)、青雲高校、明訓高校、青葉高校などなど夏を感じさせる名前だなと思う。実名の湖陵、潮陵、江南、緑陵みなそうだな、とも思ったりする。高校時代は人生の夏だからなあと思ったりもする。そうすると今の私は人生の大寒か?やばい悲しくなってきたので今回はこれにて稿了


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