2018年5月30日水曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(3)」第32回イベント抄録

itak講演会(2017年7月8日)
「新・北のうた暦」と大岡信 
古家昌伸





≪「新・北のうた暦」の始まり≫
 今年3月から、北海道新聞朝刊で「新・北のうた暦」を連載しています。【itak】の五十嵐秀彦さん、橋本喜夫さん、久保田哲子さんにもご協力いただき、ここまで5カ月、順調に進んでおります。この連載について道新本社で4月23日に、五十嵐さんと北海学園大の田中綾さんにご講演をお願いしたため、その代わり…ということで、私がこの場でお話しさせていただくことになりました。
 「新・北のうた暦」は道新の編集局で昨年、それまで連載していた「四季の栞」の後継企画として、北海道の季節感に合った俳句や短歌を紹介していくことはできないか、という提案があったことから検討が始まりました。「四季の栞」は通信社が全国に配信している記事なので、当然、本州の季節感に基づいて構成されています。有名なところでは桜の開花時期。たとえば東京などでは3月ごろなのに、北海道では2カ月近く遅れ、札幌では5月の連休にやっと満開です。連載マンガもそうですが、通信社が配信する記事は、しばしば北海道の季節感にそぐわない内容になる場合があります。
 その検討のさなか、橋本喜夫さんが道新文化面に「北海道歳時記つくろう」という原稿を寄せてくださいました。

■歳時記にある季語と実際に道内に暮らす生活者との間の「季節感のずれ」は以前から指摘されていた。この問題を考えるに二つの視点があると思う。一つは北海道という地域的特徴から実際に本州からみると1カ月の季節のずれがあること。もう一つは本州の人には理解しえない、または知らない北海道ならではの特殊な季語があること―である。(2017年6月10日、北海道新聞夕刊文化面)

 俳句の実作をされているみなさんなら、すでに実感されていることと思います。ならば、北海道の俳人や歌人に、北海道の季節感に合わせて道内の作家や作品を中心に紹介していただこうというのが「新・北のうた暦」のコンセプトだったわけです。五十嵐さんや田中さんに相談し、【itak】に参加している久才秀樹記者の知恵も借りつつ、毎日掲載なのでなかなか大変だけれど、何とかやってみようかという結論になりました。
「新・北のうた暦」については、のちほど五十嵐さん、橋本さん、久保田さんにも加わっていただき、「裏話」的なことをお話ししたいと思います。

≪大岡信の「折々のうた」≫
 さて、本日の題にもある、詩人で評論家の大岡信さんのことです。これから話す内容は、実は明日7月9日にさっぽろテレビ塔で行われる「文学フリマin札幌」に出品する文芸誌「調べ」(残党舎刊)に私が書いた「追悼 大岡信」という原稿をもとにしています。
 4月に亡くなった大岡さんが、朝日新聞に「折々のうた」を長期にわたって連載したことは、みなさんご存じと思います。「新・北のうた暦」は、ある意味で「折々のうた」の道新版という側面があるかもしれません。競合する新聞としては、こう言うのはいかがなものかとも思うけれど、それだけ「折々のうた」が与えたインパクトは大きかった。
 大岡さんが亡くなってまもなく、『現代詩手帖』5月号で「大岡信追悼」特集が組まれました。ここに詩人の渡辺武信さんが、こんなことを書いています。

■早くも新聞やテレビに現れた訃報は、大岡信の業績を朝日新聞の長期連載コラム『折々のうた』を中心に据え〝一面の左下から読ませる男〟などと表している。(「戦後叙情詩の終焉」)

 では、大岡さんは「折々のうた」でどんな文章を書いていたか。『折々のうた 春夏秋冬・夏』(童話屋)という本から、その二つを紹介します。

■青蛙(あおがへる)おのれもペンキぬりたてか 芥川龍之介
 芥川が生涯に作った句は約六百句という。彼はそこから厳選してわずか七十七句の『澄江堂句集』を残した。「青蛙」は省かれている。芭蕉とか芭門俳人の凡兆、丈草らに傾倒した彼の句の主流は、古調にあった。しかし右の句は初期代表作としてつとに名高い。機知の句だが、それだけに終わってはいない。読む者の意表をつく鋭い視覚的印象、歯切れいい表現が、この句を今なお新鮮にしている。
 
■あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ 土岐善麿
 『夏草』(昭一一)所収。昭和五十五年四月十五日、九十四歳で逝去した歌人。最後まで明敏な知性の活動力を保ちつづけ、単なる歌壇の域を越えた大きな文業を残した。昭和二十年夏の敗戦後、夫人とかわした会話をそのまま歌にしている。調べは散文すれすれだが、当時の多くの終戦詠の中でも白眉ではないかと感じる。続く一首は「子らみたり召されて征きしたたかひを敗れよとしも祈るべかりしか」

 「折々のうた」の解説部分は180字で、くしくも「新・北のうた暦」も同じ。この文章を読んでおわかりのとおり、短い字数にきわめて多くの情報が織り込まれています。大岡さんは「折々のうた」について、こんな文章を残しています。(いずれも水内喜久雄選の大岡信詩集『きみはにんげんだから』より)

■できれば自分自身が楽しく読める文章にしたいと思っています。わずか百八十字といっても、僕にとっては広いリンクなんです。山も谷も必要で、力の配分を考えますね。そうしないと、あのスペースでも読者はあきてしまうでしょう。自分の主観の表現は最後の一行か二行、少ない時は五文字ぐらいで済ませます。その方が効果的な場合が多いからです。(『「忙即閑」を生きる』日本経済出版社、1992年)

■『折々のうた』で私が企てているのは「日本の詩歌の常識」づくり。和歌も漢詩も、歌謡も俳諧も、今日の詩歌も、ひっくるめてわれわれの詩、万人に開かれた言葉の宝庫。この常識を、わけても若い人々に語りたい。(岩波新書版『折々のうた』の新聞広告)

 「日本の詩歌の常識づくり」。やや大上段に構えた言葉ではありますが、それだけ大岡さんは日本語が大好きで、日本の詩歌への熱い思いがあったことを表しています。芥川の軽妙な俳句もいいけれど、土岐の妻との会話――戦中はおそらく何も語らなかった妻が、戦後に「あなたは勝つと思っていたのですか」と、ぽつりと問う。その冷徹なまなざし。とても好きな歌になりました。このような句歌を紹介することで、それが日本文学の財産になっていく、と大岡さんは意識していたのではと思います。
 さきほどの渡辺さんの追悼文には、こんなくだりもあります。「折々のうた」の話の続きです。

■私にとっては、彼はあくまで抒情詩人であり、『折々のうた』は日常は詩歌を読む嗜好はなかった新聞の読者を遠くまで導いた良きガイドではあったが、大岡信の重厚長大な業績の裾野にすぎない。

 確かに大岡さんと言えば、『万葉集』や『梁塵秘抄』の研究でも知られるし、それ以前に詩人として評価されるべき人でしょう。亡くなってから、あらためて彼の詩を読んでみました。思潮社の現代詩文庫から、初期の抒情詩を紹介します。抒情詩というのは、現代詩の分野にあっては、甘い感情を吐露するだけのもの、いわば過去の文学として忘れ去られている側面がありますが、大岡さんの初期の抒情詩はとてもいい。6月末に、大岡さんを「送る会」がテレビで取り上げられ、女優の白石加代子さんが、あの独特の口調で「ひょうひょうとふえをふこうよ…」と朗読していました。これは「水底吹笛」という作品です。

■ひょうひょうとふえをふこうよ
 くちびるをあおくぬらしてふえをふこうよ
 みなぞこにすわればすなはほろほろくずれ
 ゆきなずむみずにゆれるはきんぎょぐさ
(「水底吹笛」 思潮社・現代詩文庫24『大岡信詩集』)

 これは教科書にも載ったのではなかったでしょうか。萩原朔太郎の影響も感じ取れるけれども、なんと大岡さんの16歳の作品です。早熟さに驚きます。そういえば大岡さんと仲が良かった詩人の谷川俊太郎さんは<前に大岡と話してて、大岡が自分が詩を書き始めたときは、日本の詩の歴史というのはだいたい頭に入っていた。もちろん新体詩以後の詩の歴史も入っていた。自分はその歴史の先端で詩を書き始めなきゃいけないから、過去の詩と同じものは書けないんだという意識で始めたって聞いて、僕はびっくりしたんです。いかに自分はいいかげんに書き始めていたかという感じね>と語っています(『日本の詩101年』「新潮」1990年11月臨時増刊)。さすが、と思いますが、そういうものを知らずにやはり十代で『二十億光年の孤独』を刊行し、デビューした谷川さんにも別種の才能を感じますね。

≪『ぬばたまの夜』と「連詩」「うたげと孤心」≫
 大岡さんの詩集に『ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる』(1989年)という一冊があります。「ぬばたま」という「夜」や「闇」にかかる枕詞を、私はこの詩集で知ったような気がします。「ぬばたま」の語感と「夜」、そしてなぜか天から迫ってくる巨大な掃除器の存在。何だかよくわからないなりに、怖さを感じた覚えがあります。
 ここには36篇の詩が載っています。このうち<巻の十四 8月6日の小さな出来事>を紹介します。8月6日と聞けば誰もがイメージすることがあります。広島への原爆投下の日ですね。詩は、広島に原爆を落とした爆撃機の愛称「エノラ・ゲイ」を擬人化し、一人称で語らせています。このようなところに、大岡さんの皮肉っぽいまなざしが現れていると思います。と同時に、これは原爆がテーマですが、原子力潜水艦について書かれた詩もある。<巻の四 原子力潜水艦「ヲナガザメの性的な航海と自殺の唄>です。古典の詩歌を研究するなど、文学の志向としては、どちらかと言えば保守的・穏健な方との印象がありましたが、実は体制への批判的な視点も持っていた。
 『現代詩手帖』の追悼企画(6月号の鼎談「大岡信、詩的出発の頃から」)にも、大岡さんの父・博さんが歌人で、<筋金入りの左翼>のようだった、それが大岡信さんにも影響を与えているという趣旨の記述がありました。
 大岡さんのもうひとつの仕事に「連詩」があります。俳諧や連句・連歌はみなさんもご存じと思いますが、それを現代詩で、つまり定型ではない形でやってみようというのが、大岡さんたちの「連詩」の取り組みでした。「たち」というのは、茨木のり子さんが主宰した同人誌『櫂』に集った人々――大岡、谷川、茨木、さらに石垣りん、吉野弘、川崎洋といった詩人の間で、最初に連詩が行われました。

■湯の波も師走か 弘
 店卸ししながらにぎやかな店卸し 俊太郎
 年賀状の絵柄は
 海蛇に決める 洋
 若い二等航海士はカリブ海上 弘
 この王国にも床屋がいた 衿子
 なぞなぞを翻訳するあほらしさ 俊太郎
 西洋事情を殿に講ずる 弘
 (「櫂」連詩 第十一回湯の波の巻より 『日本の詩101年』「新潮」1990年11月号臨時増刊)

 連歌では、厳しい制約があり、この場所(座)には桜を入れるなど、きまりがあるようですが、連詩は制約がさほど厳格ではなく、前の人につけたり、あるいは飛躍したりということのようです。70~80年代には、大岡さんを中心として盛んに試みられました。
 大岡さんの詩論に「うたげと孤心」(『うたげと孤心 大和歌篇』、1978年)というものがあります。長く詩歌の古典を研究した結果、たどりついた見解といえます。「孤心」は、自分の頭の中で、感情や考えを突き詰めるという、ものを作る人にとっては当然の境地だと思います。でも、それだけだと自家中毒的になったり、堂々巡りになってしまったりすることがある。そこに「うたげ」があると自分の目線と違うところで考えられる。その両方がないと詩歌、文芸にはならないんだという趣旨だと思います。
 「うたげ」とは、つまり酒宴のことで、『うたげと孤心』では、このように書かれています。

■「うたげ」という言葉は、掌を拍上(うちあ)げること、酒宴の際に手をたたくことだと辞書は言う。笑いの共有。心の感合。二人以上の人々が団欒して生みだすものが「うたげ」である。

 何人かで共同制作をする、あるいは古典詩歌だと『古今集』も『新古今集』も天皇の祝賀ーーお祝いをするということが動機にあるアンソロジーなんですね。「みんなで作る」ことが、日本の詩歌の伝統にはある。それは「うたげ」とも関係があるというので、<日本の古典詩歌の世界では、文芸は文芸、生活は生活という二元論でなく、文芸は生活、生活は文芸という一元論が、久しく原則をなしていた>(『うたげと孤心』)という考えにたどりついた、と書いています。創作はひとりで作るものであると同時に、生活のなかにあって、いろいろな人との関係のなかでできていくんだということかと思います。
 その一方で、こんなことも書いています。<みんなで仲良く手をうちあっているうちにすばらしい作品が続々と誕生するなら、こんなに気楽な話はない>。やはり、孤心に還る必要もある。両方を満たして初めて、詩歌、文芸はできてくるということです。
 思えば70〜80年代は、難しい現代詩ばかりがあふれていました。抒情詩が隆盛だった時代や、「戦後詩」の枠組みで書かれていた時代がある。そのあとに何を書くのか、書けるのかを詩人が考えた結果だと思いますが、実際には読んでもわけわからん、というものが多かったように思います。袋小路に入ってしまったという自覚が現代詩人たちにあったのではないでしょうか。大岡さんに言わせると、孤心の方に寄りすぎているということになるのではないか。
 『現代詩手帖』では当時、毎年のように「詩はどこへ行くのか」とか「読者とは何か」ということが問い直されましたが、結局は出口がない、結論がないままで続いてきているように思えます。私は、「連詩」の試みは、その問いに対するひとつの回答だったのでは、と考えます。ふだんひとりで書いている人たちが、誰かの作品につける、人の作品を読み解いて、その文脈に添った、あるいはそこから飛躍した詩行を導くという作業は、ひとりで書いているときの頭の構造とちょっと違うのではないか。「連詩」を並行してやることで、自分の作品にも違ったものが生まれてくるはず、と考えて本腰を入れて進めていったのではないでしょうか。
 最初は同人誌の仲間で始めたのが、他流試合をして、欧米の詩人たちとも歌合(うたあわせ)的なことをやっています。「国際連詩」という妙な言葉になっていますが、英語で詩を作ったり、翻訳して聞かせてそれにつけてもらったりする、語学堪能な大岡さんが主体的に取り組んでいたことです。
 「連詩」が本当に回答になっているのか、と考えると、90年代、2000年代に入るとそのような試みを見る機会が減ったので、後継者はいないのではと思っていました。でも『現代詩手帖』の最新号、7月号には「連詩」が載っていました。大岡さん追悼の意図もあるのかもしれませんが、いまも現代詩のなかで「連詩」というものが、どこかに効果があるのではと思われている節もありそうです。

≪アンソロジーの難しさ≫
 「連詩」の延長上に、谷川俊太郎さんが、正津勉さんとやった「対詩」があります。文字通り『対詩』(1983年)という本があります。81年から83年にかけて、往復書簡のようにして詩を書き、それに相手の詩をこう読んだ、その読み方は面白い、思ってもみなかったなどのコメントもつけて出したものです。このふたりは、よく一緒に仕事をしていたようでした。それでなのか、『日本の詩101年』(「新潮」1990年11月臨時増刊)という雑誌で対談をしている。この本は、正津勉さんと平出隆さんが編集を担当しています。1890年から1990年までの101年から、1年単位でこの年にどんな詩集が出たかを、それぞれひとりだけ選ぶ(やや無理がある)編集方針で、多くの詩人が紹介されていています。さて谷川・正津の対談は、基本的な構図としては、正津さんが10年以上先輩の谷川さんに「こういうものを作りました。どうですか」と尋ね、谷川さんがそれに対して厳しいというか、どうしてこの詩人を入れないのかなどと、喧嘩を売るような感じで語るので、正津さんが途中でキレそうになるという場面もあり、とても面白いのですが、そこに詩の本質が見え隠れしています。ところどころ紹介します。

■谷川 アンソロジーっていつでもそうだけど。俺なんかもこれ見て、不平満々よ。なんでこの人が落ちてんだみたいのがさ。
 正津 言ってください、どうぞ。
 谷川 正津勉なんて詩がわかってねえんじゃないかって思うよ。
 (略)
 谷川 アンソロジーというのは絶対、選択に文句つけられるものなんだから、諦めて聞いてほしいんだけど、これは僕は、一種ちょっと似た系列に属する人たちだと思うんだけど、茨木のり子、吉野弘、石垣りん、川崎洋、こういう『櫂』のグループの主要メンバーというのが全部落ちてますよね。そういうとこはなぜかということはちょっと訊きたいなと思ってたの。
 正津 ああ、そう。やっぱりそれは答えるべきだと思いますから答えますけど。一年一詩ですから、競いあってもれる場合がありますね。実際、年表をご覧になっていただいても分りますが、年度によっていい詩集が集中している。それと、今『櫂』のメンバーの名前が挙がった人たちというのは、作品のうまさという意味じゃ非常に買えるんですが、あえて昔の政治青年の言葉でいえば、善良な市民主義の詩ですよね。今、読むとそういうタイプの詩、どうしてもその時代のもつアクチュアリティを感じられない。

 たしかに『櫂』のメンバーたちの詩は分かりやすい。教科書に載った作品も多いし、生活のなかから出てきたような詩ですね。これに対して谷川さん。

■谷川 ああ。そこが現代詩の最大の欠陥だね。つまりこういうものを評価出来ないというところに、俺はすごい問題があるということを、こないだ高橋源一郎なんかと話したんだけれども。(略)要するに、茨木、吉野、石垣というのは、少なくとも、現実生活に根を下ろした詩を書いているんですよね。普通の人に通じる言葉で詩を書いてきている。つまり、一番、詩に無縁な人たちが読んでわかる詩だと思うのね。それゆえの不満というのは、もちろんないことはないよ。つまり言語的実験に乏しいとか、方法論がなんとかとかということはあるんだけれども、でも、こういう面を無視して来たということが、今の現代詩の堕落を招いているというのが僕の説なんですよ、簡単に言うと。現代詩の凋落の元でもあった。

 この剣幕にたじたじとなってか、正津さんが答え、谷川さんにどやしつけられます。

■正津 僕のそれに諾(うべな)うことには吝(やぶさ)かじゃないですよ。
 谷川 政治家みたいなこと言うな(笑)。「諾うことには吝かじゃない」って何だ。それが詩人の言葉かよ(笑)。

 こんなやりとりの後には、谷川さんも<編者の嗜好ということで言えば、アンソロジーは全部そういうことになっちゃうから、それはそれでいいんですけどね>と一応の理解を示しています。
 これを読んで何を言いたいかというと、アンソロジーというのは難しいものだ、ということです。ここでやっと最初のテーマに戻ってきました。つまり「折々のうた」も「新・北のうた暦」も同じで、歴史上にたくさんある作品から、何を選んで、何を載せないかは、アンソロジーを作る人、選者の目利きであり、紹介の仕方であり、それが大事なことだと考えるのです。
 「新・北のうた暦」にも、北海道の多くの俳人・歌人がたくさん出てくるので、「なんで俺のを取り上げないんだ」という人が出てくるかもしれない。そこで筆者が「バランスを取るため入れなきゃ」とか、「作品はこうだけど、あの結社の先生だし…」ということを考え始めると、アンソロジーは面白くなくなるんじゃないかと思うのです。歴史の海にあまたある作品から、筆者に丁寧に選んでいただき、また発掘していただいて紹介する作業とは、つまりはアンソロジーを作る作業なのかもしれません。大岡さんの仕事や、谷川さん・正津さんのやりとりを見て、こう思いました。そのような、ある意味厳粛な気持ちで「新・北のうた暦」を続けていきたいと思っています。


*当日の講演を編集・加筆しました(文責・古家)。

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