2013年11月27日水曜日

五十嵐秀彦第一句集『無量』から ~平 倫子~

五十嵐秀彦第一句集『無量』から

――寺山ワールドという通過点――
                      平 倫子

 


手に馴染みやすいフランス装の本である。今年1月のitakの会で、山口亜希子さんにお会いして、魅力的なお人柄と豊富な話題に引き込まれたのだったが、その方が書肆アルスの編集者で、五十嵐さんの句集の発行人でいらした。

 

五十嵐さんにはじめてお会いしたのは1999(平成11)年9月、北海道の「藍生はまなす句会」に旭川から参加されたときだった。それ以来「藍生」と「はまなす句会」と、そして最近は俳句集団【itak】でご一緒させていただいている。

 

『無量』を一読したとき、つぎの三句が立ち上がってきた(括弧内はページ)。

 

  かたくりや希望は別の名で咲きぬ(25

  自転車に青空積んで修司の忌(27

  五月雨や父なきときを母とゐて(104)

 

そして繰り返し読むうちに、これらの三句がわたしの中で鍵句になって定着した。以下はそのことをふまえた試し読みである。

 

1.「自転車に青空積んで修司の忌」、あるいは寺山ワールド

 

この句は2002(平成14)年5月に「はまなす句会」に投句され高得点句だった。五十嵐さんが寺山修司に強い関心を持っておられるのを知ったのもこのときである。同年「藍生」8月号の<選評と観賞>欄で黒田主宰が、若い世代が寺山の世界を受け継いでゆく、と注目しておられた句であった。

この年北海道文学館では、寺山修司の特別企画展「テラヤマ・ワールド きらめく闇の宇宙」があり、4月20日の山口昌男と九條今日子のトーク・セッションにはじまって、夏まで文芸セミナーや映像作品鑑賞のイベントが続いていた。

その後五十嵐さんの寺山研究はどんどん進み、深められ、2003年には「寺山修司論」で現代俳句評論賞を受賞され、いまや寺山修司研究のエキスパートとして知られている。

 

『無量』を読んで、いままで句会や会誌「藍生」で目にしていた同じ句が、句集のなかでは異なる色や光を放っていることを知った。五十嵐さんが寺山の土や空を共有しておられることが確認出来たのも句集になってこそであった。

 

  自転車に青空積んで修司の忌

  街角を曲がる角度で冬に入る

  露寒やどこにも行かぬ日の鞄

  古里の母音の空の花芒

  下駄なんか履いてゐる人ほととぎす

  その細き身をその旗として夏野

  大寒や人は棺を空に置く

  悼一句寒の日の透くセルロイド

  沫雪やわれらと呼ぶに遅すぎて

 

2.「五月雨や父なきときを母とゐて」、あるいは喪の仕事

 

五十嵐さんはいつか「自分はさびしがり屋だ」といわれたことがある。そこが五十嵐さんの優しさを裏付けていると思う。読み返すほどに、お父上の晩年に寄り添って多くの句を詠み、また喪の仕事(平成216月父上を亡くされた)としての悼句をあのようにたくさん詠まれたことに、五十嵐さんの優しさがにじみ出ている。寺山の若書きの句「林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき」や「父と呼びたき番人が棲む林檎園」の肉親への心情にもつながるのではないだろうか。

 

  こときれてゆく夕凪のごときもの

    肉塊の淋しき西日射す柩

    五月雨や父なきときを母とゐて

    魂ひとつ青野に還す血曼荼羅

  冬の日のなほあたたかな時を病む

  新涼のふたり分け合ふものすこし

  緘黙の父に行き合ふ虫の闇

  幻影となり父の声雪の声

  咳こぼすひとりの刻をひろびろと

  窓ぬぐふ人惜しみ年惜しむとき

  父は去り母は冬日の遠汽笛

  生国は雪生むところ海と山

  母老いて姉また老ゆるつつじかな

 

3.「かたくりや希望は別の名で咲きぬ」、
       あるいは「意味か?音か?」

 

 ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』に、公爵夫人がアリスにむかって「意味に気をくばりなさい。そうすれば音はおのずから決まってくるのです」(第9章)というところがある。これは英語の格言 ”Take care of the pence, and the pounds will take care of themselves.” (日本では「一円を笑う者は一円に泣く」で知られる)を、キャロルがpの一字をもじってsensesounds にした言葉遊びである。キャロルの意図は、事がらを表現するための方便として、センス(意味・内容)を上位に、サウンド(音のひびき)を下位に見立てているのでる。

 

  かたくりや希望は別の名で咲きぬ

  不可知なる言葉すずらんなどと呼ぶ

  

この二句を見つけたとき、五十嵐さんは若い頃詩を書いておられた、と伺ったのを思い出した。そして五十嵐さんは、まさにキャロルの代弁者だと思って嬉しくなった。「かたくり」や「すずらん」という音のひびきが、それぞれの花の意味・内容を表していない、つまり「名が体をあらわしていない、あるいは逆に、体が名にそぐわない」というのである。その言い分が愉快だった。

黒田主宰は『無量』の序文の冒頭で「五十嵐秀彦。いい名前だと思う」と書いておられる。とても合点がいく。

 

このようにみてくると、『無量』の大半の句はお父上への哀悼の思いと深く結びついていることに気づいた。生国、先祖、信仰、死後の世界、へとひろがって、その延長線上に五十嵐さんの新しい折口信夫研究や中上健次研究があると思った。



☆平 倫子(たいら・くみこ 俳句集団【itak】幹事 英文学者)


(2013年8月24日のブログ記事を再掲)


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