2013年10月7日月曜日

『かをりんが読む』 ~第9回の句会から~ (その1)



『 かをりんが読む 』 (その1)


~第9回の句会から~

今田 かをり

 
 9月14日の第9回【itak】は、第1部イベントで札幌琴似工業高校の文芸部の研究発表があるということで、とても楽しみにしていたのだが、仕事が入ってしまって出席できなかった。石狩の句会・尚古社の歴史と伝説の俳人・井上伝蔵についての立派な発表だったようで、本当に残念だった。

 この発表に続く第2部の句会は参加者42名という、今回も大句会となったようで、後日、作者名を伏せた資料が手元に届いた。前回は「出会い頭の句」ということで選ばせていただいたが、今回は、「火花の散った句」ということで選ばせていただこうと思っている。選句をするということは、体のどこかが句に反応してスパークするということである。激しく火花が散る事もあれば、穏やかに、けれど継続して散ることもあり、またそれは、心でスパークすることもあれば、頭、目、鼻とさまざまである。ただ、体調及び精神状態に依るところ大であるから、そこのところはお許しいただきたい。




 五体ほど玄関で待つ案山子かな


「五体ほど玄関で待つ」まで読んできて、ぎょっとした。地震、津波、竜巻、大水等、ここ数年、大きな自然災害が続いているからだろうか。「五体」、えっ!「玄関で待つ」、ええっ〜!!本当にぎょっとした。そして座五にきて「案山子かな」で、ほっとして頬がゆるんだ。なあ〜だ、「案山子」だったんだ。それぞれに身支度を整えた案山子が、田んぼへ出る人間を待っている。「案山子」を詠んだ句で、人間を待っている案山子の句なんて、初めてではないかしら。なんともユーモラスで、切字の「かな」が効いている。


 ひとひらの雲洗いたて秋気澄む


 「洗いたての雲」とは、真っ白な真綿のような雲なのだろうか。あるいはもしかしたら「洗いたて」なのは「空」なのかもしれない。たしかに秋の空は、アルコール消毒をしたかのような清潔な感じがする。「雲」「空」、どちらにしても実にすがすがしい。そして駄目押しのように、季語の「秋気澄む」。ここまできて、なんだかちょっともったいない気がするのである。もう少し別の季語を取り合わせてみてもいいのかもしれない。
 

 爪先に夏ころがして秋に入る


 初物は待ちに待って愛でられ、旬の物は喜ばれ、そしてその後は飽きられ、忘れられていく。「夏ころがして」は、もちろん消費されていく「夏」そのものとも取れるが、私の脳裏には、台所の隅にころがされている小振りの西瓜といった瓜類の映像が浮かんだ。もう食べ飽きて、見向きもされなくなった野菜たち。死力を尽くして実をつけたのに・・・そして季節は移ろっていく。愉快でもあり、また切なくもある句である。


 肩書きのとれて百態薯を食ふ


 「肩書きのとれて」、定年を迎えられたのだろうか。その年を迎えた寂しさよりも、肩書きに抑圧されていたことからの解放感が、「百態」によく現れている。そして、食べているのが「薯」なのである。ポテトグラタンでもなく、ましてじゃがいものニョッキでもなく、おそらく芋の煮っころがしのような素朴な料理を食べているような気がする。これから続くであろう平凡な日常を、自然体で受け入れようとしている作者の心意気を詠んだ句とも受け取ったが、きっとこの句の作者は、「心意気、そんな大げさな・・・」とおっしゃるような気がする。
 

(つづく)



 
 




 
 
 
 

 
 

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