2013年10月30日水曜日

『あすてりずむ vol.3』を読む ~鈴木牛後~

 
『あすてりずむ vol.3』を読む
 
 
~鈴木牛後~
 


先日、隣町のセブンイレブンに行って「あすてりずむ vol.3」を入手してきた。わが家からセブンイレブンまで 20km、車で30分ほどかかる。面白そうなネットプリントがたくさん発行されていて、読みたいと思うことも多々あるのだが、簡単には行けないのが田舎の辛いところだ。



さて、「あすてりずむvol.3」、小さいながら洒落た体裁だ。俳句を並べるだけなら私にも作れそうだが、読んでもらうためにはデザインも大事。残念ながら、こういうセンスは私にはない。やるなら、センスのある人と組まなければ。【itak】にもひとりくらいそういう人がいるんじゃないかな。

それでは好きな句を挙げさせていただく。



 指先のナンの熱さよ小鳥来る 後閑達雄

ナンといえば、膨らんでいないパンのようなもの。これを自宅で作って食べる人は日本ではあまりいないだろう。たいていはカレー屋で、カレーと一緒に食べるのではないか。

私が田舎者だからかもしれないが、ここで感じるのは本格的なカレー屋に入るというちょっとした祝祭感だ。恋人と一緒なのかもしれない。出てきたナンをさっそく摘めば、思いのほか熱かった。「熱い!」などと言いながら二人で笑い合う、そんなささやかな幸せに小鳥来るという季語が寄り添っている。


 電卓に0(ゼロ)光りたる秋の暮 後閑達雄

今の電卓は液晶だから、数字は黒く色が変わっているだけで光ってはいない。だからこの句は、かつて緑色に数字が光っていたころの光景だろう。わが家に電卓が初めて現れたのは小学生の頃だっただろうか。どんな難しい掛け算や割り算も一瞬にして答が出るのが面白く、しばらく遊んでいたような記憶がある。1分間に何回キーを押せるか、という競争を友達としたこともあった。「1」「+」と押してから「1」を押すと、押した数だけ数字が積み上がっていく。そうやって飽きずに遊んでいられた子どもの頃、気がつくと液晶だけが光り、外は夕闇が迫っていた。


 達筆の文字読み取れぬ帰燕かな 金子敦

昔は達筆、というより読めない筆跡の人が多かったように思う。若い頃から書道を習っていたりしたことに加え、仮名も今では使わないような難しい字を使いこなすからだ。母方の祖母はそういう字を書く人で、手紙を読むのも大変だったことを憶えている。

作者もきっと亡くなった祖父母の書いた手紙か原稿を読んでいるのではないだろうか。もうこの世にはいないので、何と書いてあるのか尋ねてみることもできない。あれこれ悩んでいる窓の外を燕が帰ってゆく。燕は遠い国との間を軽々と行き来できるのに、作者は手に触れている作者の意志さえ掴めないでいる、そんなもどかしさが掲句から感じられた。


 コスモスや裏手に男子更衣室 小早川忠義

男子更衣室を詠んだ俳句は非常に珍しいのではないか。何だか意味もなくドキリとした。

学校の男子更衣室はとても騒がしいところだ。ただでさえうるさい男子が狭苦しいところにひしめき合うのだから当然だろう。パンツの柄がヘンだとか、すね毛が濃いだとか、どうでもいいような話題で笑い合う。その声は校舎の外にまで響いていて、花壇の手入れをしていても聞こえてくる。花壇は今はコスモスが盛り。男子更衣室の爆弾のような喧噪も、コスモスの花畑を通ればたちまち青春の香りに変わるような気がする。



☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)

 

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