2017年2月12日日曜日

俳句集団【itak】第29回句会評④ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第29回句会評④

  2017年1月14日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 
 初夢からアドレッサンスの乖離      頑黒和尚

アドレッサンスは思春期とか青春性とかという意味で、たしか齋藤慎爾や寺山も使っていたかもしれぬ。そして「乖離」文字通り解離する という意味であるが、理系のひとたちが論文やデータの解釈にもよく使う言葉である。理想と現実の乖離 などと使う場合もある。私が頂いたのはこの言葉の詩的な違和感と、6音+7音+4音の 不協和音的な十七遠の繋がり(ひとことで破調感)が気にいったからであるが。「初夢のアドレッサンスとの乖離」と5+7+5の定型にしてもこの句の佳さは十分伝わると思ったが、そこは作者の好みもあろうが。



 狐火や高梨沙羅は着地する       ふじもりよしと

たいへん気になった句である。私は高梨沙羅のファンなので。高梨沙羅ファンは少なくないと思うのでそのひとたちも皆気になったと思う。そして私も含めて取り切れないのは「狐火」との繋がりだと思う。取り合わせの問題なので 話はそれほど簡単ではない。狐火 という架空のおどろおどろしい季語との離し方は これはこれでいいのではと思った。つまり冬空とか吹雪だとか だとつまらない。「狐」 という文字が最後まで私は気になったのだ。沙羅ちゃんは「狐なんかじゃない」とオジサンは強く思ったのだ。でも季語の飛ばし方として悪くない気がする。


 六畳に新弟子ほどの鏡餅         栗山麻衣

作者は巧者というだけではない。おそらくこの作者の真骨頂はこの諧謔にあると思う。ここで栗山麻衣論をぶつほどの時間とスペースに余裕がないが。六畳の部屋に置かれる鏡餅の大きさは巨大でもなく、さりとて百均でうられる小ささでもない。中途半端な大きさでばつが悪そうに、座り心地もわるそうに六畳の部屋に置かれる鏡餅。中七に「新弟子ほどの」の比喩のすごさは大したものだと思う。新弟子 という言葉だけで、新年のフレッシュ感と、中途半端な感じと、海のモノとも山のモノともつかない感じが言い表されている。ちなみに私は本当の「相撲取りくずれ」なのでこの比喩のすごさがわかるのだ。


 けふのことしゃべりすぎてる膝毛布  田島ハル

俳句初心者にして膝毛布にすべてを語らせている。つまり場面が想像できるのだ。膝毛布であるからおそらく冷え症の女性だと想定される。くつろいで膝毛布であたたまったので、安心して今日あったことをペチャクチャ。ついでに言わなくても言いことも口を滑らしているのである。




0 件のコメント:

コメントを投稿