2014年4月11日金曜日

『 「猫の耳」のこと 』 ~鈴木 牛後~


『 「猫の耳」のこと 』
 
~鈴木 牛後~
 
2014.03.21
 

旭川東高校文芸部から、句集「猫の耳」を頂いた。手作りの62ページの小冊子だが、なかなか読み応えのある一冊だった。俳句はもとより、堀下翔君による「一人の家を-岡本眸鑑賞」や、全員が書いている「五十嵐秀彦句集『無量』を読む」など、散文も興味深く読んだ。やるなあ高校生、というのが正直な感想だ。彼らは私の子どもよりも年若いのだが、俳句の話をするときはまったく対等になるだろうな、と思う。
今回は、掲載されている俳句からいくつか鑑賞してみたい。

 切手の裏に秋燕と書いて貼る   堀下翔

切手の裏に文字を書いてから貼るなんて、実際にはまずしないだろう。でも、どこかノスタルジック。
作者は切手の裏に「秋燕」と書いたのだという。相手には直截には言えないメッセージ。相手が気づくか気づかないかはわからない。おそらくは気づかないと思っての行為だろうが、心のどこかには気づかれることへの期待もある。そんな青春の一場面がリリカルに表現されている。

 ラストシーン空に檸檬を投ぐる役   堀下翔

青春映画の一場面のよう。だが作者はおそらく青春性などということを意識してはいないだろう。俳句は基本的に大人の文芸だから、青春性の滲む句などととるのは、青春が眩しいと思う年代だからかもしれない。
「空に檸檬」。青春の酸っぱさ。でもそれは所詮「役」なのだ。作者も、「青春」という配役を、俳句のまわりに屯する大人たちの前で、軽やかに演じているのだろう。

 冷トマトむだに白くて長い指   池原早衣子

トマトを冷蔵庫から出して丸のまま囓る。その辺で立ったまま囓ったりしたら汁が零れてしまうので、流し台に顔を突っこんで囓ったのだろう。白くて長い指を汁まみれにしながら。その、喉の渇きと食欲を同時に満たそうとする野性的なふるまいに、あまりにも不似合いな指。無駄に白くて長い・・・。
だが作者は「むだに」と言いながら、そんな状況をどこか愉しんでいるのではないか。汁まみれの指から始まる新しい自分を見つけて。

 夕焼の中内臓を抱え立つ   池原早衣子

「内臓を抱え立つ」という措辞にインパクトがある。夕焼の赤と内臓の赤。宇宙が包む夕焼、夕焼に包まれる作者、そして作者が抱える内臓。その連関はどこか宗教的であり、存在論的でもある。
自分の内臓を意識するというのはどういうときだろう。医者に何か病変を指摘されたときか。病を得て生きる決意を表現した句ととればわかりやすい。だがここは、自分の中の得体の知れないもの、自分のものなのに自分ではどうしようもないもの、そんな「何か」を抱えて生きていく人間の業のようなものと解したい。

 団栗や歩幅の広い父と行く   木村杏香

きっと作者にとって心地良い場面だったのだろう。敬愛する父親との外出。歩幅の広い父親と並んで歩くためには、少し早足にならなくてはいけない。その足の躍動が全身に伝わって、心が浮き立つような感覚さえ覚えている。
公園の中を横切る小道。作者の足はときどき団栗を踏む。底の堅い、おしゃれな靴を履いていても、その感触は明瞭に伝わってくる。痛いというのではないがちょっとした違和感。でもそれもまた楽しい。晩秋の木々の色、風が落葉を鳴らす音に、この足の裏の小さな感覚が加わったことが、父親との記憶を鮮明なイメージとして作者の脳裡に留めているのかもしれない。

 終点に広がっている夏の海   木村杏香

海水浴に来たというよりも、ひとりで親戚の家か何かに遊びに来た様子を想像した。駅からバスに乗換え終点で降りる。下りたところはちょっと小高い集落だが、そこから眼前に広がっている海に向かって一本の坂道が下っている。そんな、ワンシーンを思い描いた。
「終点」というキーワードが夏の海と響き合って、風景が有機的に描かれていく素敵な句だ。

 雲の峰三分待ってやるラーメン   渡部琴絵

その昔「三分間待つのだぞ」「腹が減ってもじっと我慢の子であった」というコマーシャルが一世を風靡したことがあったが、「待つ」とはたいていの場合「我慢」がつきものだ。私などは待つことが嫌いなので、行列のできるレストランなどには決して入ろうとは思わない(連れに強硬に主張された場合はこの限りではないが)。
それを「待ってやる」と、今はやりの言葉で言えば「上から目線」で言ったところが面白い。今の作者は、ラーメンに「待ってやる」と言えるくらい、気分が昂揚しているということなのだろうか。気温は30度超、空には巨大な積乱雲、大夕立寸前の湿度。そんなシチュエーションが、この句の気分にはふさわしい。

 麦秋や実家のひとつ前の駅   渡部琴絵

帰省のときの風景だろうか。実家は、おそらくそこそこの市街地にある。そのひとつ前の駅は、ホームひとつだけの、待合所もない無人駅だ(私のイメージとしては、名寄駅の隣の東風連駅)。駅のまわりは田んぼや畑ばかりで、駅前に一軒、自動販売機ばかりの小さな店がある。もしかしたら切符売り場や待合所を兼ねているのかもしれない。そこの店番の老女が、馴染みの乗客と何やら談笑しているのが見える。
作者は何となく、そんな風景にほのかな憧れを抱いているのかもしれない。列車の窓を開ければ、麦秋の風が車内に流れ込んでくる。

 雨の月紙の匂いの中にいる   矢崎雄也

「雨の月」は雨の名月。残念ながら月見はできない。だから「紙の匂いの中にいる」。「紙の匂い」とは、古い本の匂いだろうか。函入りの全集のようなものかもしれない。それを枕元で読み終え、灯りを消す。あたりには、読んでいた物語の余韻とともに、本の匂いも漂っている。雨月の、ほのかに湿った薄明かりは、浮世を少しばかり離れようとしている意識の背景にもってこいだ。

 窓際に遠くの花火とラジオかな   矢崎雄也

窓際とは窓のすぐそば、という意味だから、遠くの花火が窓際にあるというのは矛盾している。作者の単なる勘違いかもしれないが、意図的と考えた方が面白い。
作者のふだんいる場所は窓にほど近い椅子で、手の届くところにラジオがある。ラジオからは花火大会の話題が流れている。まさに、窓から見える「遠くの花火」のことだ。花火大会には好きな女性と行くつもりだったのだが、それがどういう事情か、お流れになってしまった。本来ならこの手にできるはずだった花火大会の夜。もう手の届かなくなったものだからこそ、窓際に置いておきたいのだ。そして、相変わらずラジオからは楽しそうな花火のこと…。

 万緑やなめらかに入るベビーカー   島津雅子

万緑や、で切れているので、ベビーカーがどこに入ったのかは明らかではない。公園のトイレかもしれないし、緑蔭の小道かもしれない。そんなどこかに、ベビーカーはなめらかに入った。少なくとも、作者にはそう見えたのだ。
そんな想像をしながら、ベビーカーの主である赤ん坊と万緑との親和性を思う。どちらも生命のエネルギーに満ちていて、そのエネルギーをあたりに放散させている。そして、両者のエネルギーの触れ合うところでは、水の滴るような領域が生まれているのではないだろうか。だから、「なめらか」なのだ。もちろんこれはこじつけだが、あながち的外れな読みでもないのではないような気がする。

 無生物ばかりが哭けり大野分   島津雅子

「無生物」という措辞にちょっとドキリとした。台風で聞こえるのは雨風の音や、何か物が飛んで行くような音ばかりだ。それを「無生物」として括っている。この句が巧みなのは、「無生物」とわざわざ言うことで、小さな生物の様子に読者の視点が誘導されるようになっているところだ。無生物の大音声の蔭に潜む生き物たち。あるものは土にへばりついて、またあるものは木や石の蔭で台風が過ぎ去るのを待っているに違いない。
※島津雅子さんはOG(大学生)



☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)




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