2014年2月5日水曜日

『牛後が読む』 ~第11回の句会から~ (その2)



『 牛後が読む 』 (その2)


 ~第11回の句会から~


鈴木 牛後


 燃え移るやうにみみづく発ちにけり


ばさっ!みみずくが不意に大きな羽音を立てて飛び立ってゆく。その音と驚き、両方を「燃え移るやうに」という比喩で表現している。

鷲や鷹の方がはるかに大きな鳥だが、ここでは「みみづく」が効いている。それは夜の鳥だからだろう。人間の感覚がいよいよ研ぎ澄まされる深夜、物音は人を鋭く照射する。それが更に跳ね返って木菟を照らすのかもしれない。炎のように。

私は、木菟を見たことはないが、その羽音を一度は聞いてみたいと思う。


 ひとつづつ減りゆくものと雑煮箸


正月のめでたい席に用いられる雑煮箸(太箸)。それと取り合わされる、「ひとつづつ減りゆくもの」。これは何だろうか。いろいろと考えられるだろうが、私は余命ととった。数えで年齢を言っていた時代なら、正月は年齢をひとつ重ね、かつ余命をひとつ減らす日だ。めでたさの裏に貼り付いているもの。それを包含した上でのめでたさなのである。そんなことを思いながら目を閉じて雑煮を味わう。そこに作者の美学を感じる。


 町は青家出少女に電波飛ぶ


「町は青」という上五にはっとした。この「青」は青春の青。私たちにはもう見えないかもしれない色だ。

もちろんほんとうに町が青いわけではなく、自分のうちがわにある「青」が町を照らしているのである。それくらい青のエネルギーは強い。雑踏には朱や白の人もたくさんいるのだが、ほとんど青に圧倒されている。おそらく、空から見れば青一色に見えていることだろう。あ、地球が青いのはそのせいか(いえ、物理的現象です)。

掲句の少女は、ひときわ強い青を放っている。まるでネヴィラ71から見るスペクトルマンのようだ(たぶんわからないでしょう)。そこをめがけて電波は飛んでゆく。携帯電話の電波は、青に対する強い指向性があるのだろう。


 重ね着の内に裸の私いて


重ね着のいちばん内側が裸なのは当たり前といえば当たり前。それなのに、この句に惹かれるのは、「裸」の象徴性のためだろう。社会に適応して生きていくために、何重にも纏った衣服。ときどき北風が外套の裾をはためかせたりはするが、それ以上入ってきたりはしない。手には手袋、首にはマフラー。セーターにヒートテックの下着。そうやって守っている私の裸。

でも、それを見せるときが来るのを願っているというのも、おそらくは作者の願いなのではないか。裸というのはそのためにあるのかもしれない。


(つづく)

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