2014年2月3日月曜日

『牛後が読む』 ~第11回の句会から~ (その1)


『 牛後が読む 』 (その1)

 ~第11回の句会から~

鈴木 牛後


【itak】のイベントには毎回参加、といきたいところなのだが、仕事の都合等々でなかなか思うようにならない。それでもできることを、ということで今回は「読む」を担当することになった。毎度のことながら、好き勝手に鑑賞させていただく。



 雪しんしん人に哲学木に年輪


この場合の哲学とは、おそらくカントやデカルトではなく、人生哲学というようなものだろう。
私は学生時代、哲学ゼミというところに所属していたのだが、あるときたまたま知り合った年配の女性に所属ゼミを聞かれ、哲学と答えると、「私もよ、私は人生哲学者」と言われたことがあった。そのあとどんな会話になったのかは記憶にないが、「いや、それはないでしょ」と思ったことだけは憶えている(若かったので)。という、どうでもいいようなエピソードに出てくる「人生哲学」。

件の女性の言いたかったことは、人間年を重ねれば深みが出てきて、哲学的な思索もするようになるものよ、ということだったのだろう。作者にはそれが木の年
輪と重なって見えている。「人に年輪」では常套だが、「人に哲学木に年輪」と並べて見せたところに新鮮味がある。


 去年今年夜空の色のうすはなだ


去年今年、年の移り変わりはあっという間だ。
私も大晦日は夜更かしはするものの、年が明けるまで起きていることは滅多になく、目覚ましでやっと起きればもう元朝だ。そして新年の感慨に浸る暇もなく牛舎へと向かわなければならない。

冬至を過ぎたばかりの朝はまだ暗い。毎年のこととはいえ、元日の朝から仕事をするのは少しばかり気分も重い。そんな私の上に広がる空の色を「うすはなだ」というちょっと詩的な名前で呼ぶのも悪くはないのではないか。そんなことを思った。


 知床をがつしり摑む鷲の爪


知床の鷲といえばオオワシとオジロワシ。オホーツク海沿岸などに棲息するが、内陸の当地にも稀に飛来することがあり、私もオジロワシを一度だけ見たことがある。ひと目見て、その悠然と空を舞う大きさには感嘆せずにはいられなかった。

大きな動物というのはそれだけで畏怖の対象となる。それは古来、そのようなものに神性を感じてきたことが記憶に底に染みついているからだろうか。そんな神にも見立てられるような鷲が知床を掴むというのだ。世界遺産見物などといって小さな人間たちが木道に犇めいているが、ふと上を見れば巨大な鉤爪が半島を掴もうとしている。知床にはいつまでも、そんな超越性が似合う場所であってほしいと思う。


(つづく)


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