2014年2月15日土曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~鈴木 牛後~


句集『無量』の一句鑑賞

鈴木 牛後

 
 
 沫雪やわれらと呼ぶに遅すぎて        五十嵐秀彦


「われら」には独特の郷愁の匂いがする。なぜだろうか。
「われら」と聞いて思い出すものがふたつある。
ひとつは大江健三郎の「われらの時代」。学生時代の一般教養の文学のレポートにこの小説のことを書いたおぼろげな記憶がある。もちろんどんなことを書いたのかはまったく憶えていないのだが、単位を取得できたところをみるとまあまあの線をいっていたのかもしれない。
もうひとつは青春ドラマの「われら青春」。中学生のころだったと思う。青春とは何かも知らないくせに、面白くて欠かさず見ていた。
イメージとしての「われら」が表象するものは「連帯」というようなものか。「われらの時代」では時代との連帯はついに実現しないのではなかったかと思うが、夢想としてのそれはおそらく底流としてあっただろう(記憶は曖昧だが)。「われら青春」では、浪費としての連帯がはてしなく続いていった(こういう言い方は語弊があるかもしれないが)。浪費こそが青春だと言い換えてもいいかもしれない。誰しもが思い出すそんな日々。もう私たちには「われら」と呼ぶ関係は帰って来ない。
作者はそれを悲観しているかと言えばそんなことはないだろう。降ってはすぐに融ける沫雪のような心性は、所詮一時期のものだ。すぐに草は生い茂り、否応なく生は転がっていく。それに、誰もが気づいているように、連帯とは裏を返せば桎梏でもある。連帯を求めて桎梏にからめとられた季節が作者にもあったに違いない。
そう、僕たちはもう「われら」と自分たちを呼ぶことはない。しかし、年齢相応に伸ばした触手同士が触れ合うことはあるだろう。連帯ではなく桎梏でもない何か。もしかしたら俳句の座はそのようなもののひとつかもしれない。作者のイタックに対する思いをこの句からほのかに感じるのは私だけではないと思う。



☆鈴木牛後(すずき・ぎゅうご 俳句集団【itak】幹事 藍生)

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