2012年5月22日火曜日

俳句集団【itak】 第一回シンポジウム評論②


                

私的花鳥風月観

                                    山田航


1. 「花鳥風月」と「自然詠」はどう違うか

 短歌をやっている人間の視点から、今回は「花鳥風月」について語ってみようと思う。はじめに言わなくてはいけないことは、短歌では「花鳥風月」ないし「花鳥諷詠」という言葉はほとんど用いられないということである。「自然詠」という言葉ならば、よく使われる。自然をモチーフとした短歌だ。「花鳥風月」と「自然詠」はどう違うのかを、まず説明する。



最上川逆白波のたつまでにふぶくゆふべとなりにけるかも
                                                    斎藤茂吉




夕光(ゆふかげ)のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝を垂る

                           佐藤佐太郎


 近代の自然詠の代表をあげてみた。斎藤茂吉は言わずと知れた「アララギ」の巨人。佐藤佐太郎は茂吉の弟子にあたる歌人。やや脂っこい傾向のある茂吉の歌風をより洗練させて、清潔感を与えたような作風が特徴である。これらの歌はいずれも自然物しか詠まれていないという特徴がある。しかしこれらはあくまで心象風景だ。本当に描き出そうとしているのは「逆白波」が立つほどに吹雪が厳しく見えている自分自身の心。「しだれ桜」が輝かしく見えている自分自身の心なのである。近代において自然詠とは、人間の想いを自然物に象徴化させて託す、という「レトリック」なのだ。「自然」は「人間」を逆照射するものにすぎない。短歌の主役はあくまで「人間」なのである。

 「花鳥風月」とはそうではない。それは純粋な美学である。人間の心を自然物に託すなどというエゴイスティックなものではなく、世界にあまねく存在している「美」のあり方を表現したものだ。「花鳥風月」はもとをたどれば世阿弥の「風姿花伝」に由来する。つまりは能の教えである。それがいつのまにか文学の批評用語に活用されるようになったのである。



2. データベース化された「自然」

 岡井隆『詩歌の近代』(岩波書店、1999年)に収められている論文「風景はどう歌われたか」では、斎藤茂吉の短歌や木下夕爾、森澄雄らの俳句、金子光晴の詩などを引きながら、近代から現代にかけての自然詠の変質について論じられている。

 この論ではまず、1960年ごろを境にして純粋な自然詠が消えてきたことについて触れている。原因の一つは、自然環境の変化。国土の開発が進み、都市化してきた影響である。もう一つは、歌人たち自身の意志。前代の「自然詠」を否定し、新しい「自然詠」を作り上げようとする歌人たちの意識や戦略によるものである。このような戦略は現代にはじまったことではなく、明治大正昭和とずっと続いてきたことだ。近代の詩歌が、西欧由来の近代的自我の確立をめざす傾向に支えられてきたためであろう。

 斎藤茂吉の風景描写は詩歌に学んだものではなく、森鴎外や幸田露伴の散文から摂取したものが多いという。万葉集から学んだものは描写よりもむしろ句法の韻律、リズム面であった。「けるかも」などの語調にそれがあらわれている。茂吉の近代短歌における影響力の大きさを考えてみると、近代の自然詠とは詩歌から発生したものではなかったのかもしれない、ともいえる。

 そして、俳句も含めた近代詩歌の「花鳥諷詠」や「写生」が果たした大きな役割は、「自然」のデータベース化だったと、岡井隆は分析している。


 雪といえば、あの句あの歌、鯉といえばあの歌人あの俳人といった具合に思い出すことができるようになった。歳時記のように、自然界のさまざまな現象や、大景小景をまじえた風景に関する、一大作品辞典のようなデータを持つに至った。(72P


 岡井隆はこのことを、たとえば北原白秋のような四季派の詩人も含めた、近代の詩歌全体の傾向とみている。そして「花鳥風月」という美学と「自然詠」という方法が交差するのは、この「データベース化」という部分にあるように思える。

 本来具体化しづらいものであった「日本的な美」というものを、具体化して整理する必要が近代において生じていた。それは何が日本的で何が日本的ではないかと取捨選択する機能ももたされていたのである。「花鳥風月」という、具体物をその中にあらかじめ含ませた言葉は、非常に都合のいいマニフェストだったのだと思う。



3. ナショナリズムとしての「花鳥風月」

 品田悦一『万葉集の発明 国民国家と文化装置としての古典』(新曜社、2001年)では、明治時代に国民国家を作り上げるにあたって、国民が揃って座右の書とできるような「国民文学」が必要だったために、「万葉集」にその役割が与えられていったという過程が分析されている。そのような動きが起こったのは、「国民文学」がなければ、西洋から文化的に劣った国家とみなされてしまいかねないからだった。「万葉集」は天皇から庶民に至るまであらゆる階層の人々の歌が収められた、という神話を打ち立てて、日本人が身分の上下を問わず優れた文化性を保持してきた民族なのだと誇示するための道具。そのために「万葉集」は使われていた。それが神話にすぎないことを論じてきた国文学者として西郷信綱がいる。彼は「前線に送られた一般の兵士が詠んだ」とされてきた防人歌が、中央の貴族歌人が自らを他者に仮構して詠んだフィクションであったことを主張した。国文学上ではかなり受け入れられている説だが、国語教育のうえで教えられることはほとんどない。「身分の上下を問わず誰でも文化的活動ができる」というストーリーのほうが、事実としてはともかく倫理的・教育的には正しいからだろう。

『万葉集』は、広く読まれたために“日本人の心のふるさと”となったのではない。逆に、あらかじめ国民歌集としての地位を授かったからこそ、その結果として、比較的多くの読者を獲得することになった。(15P

 「花鳥風月」という美学の成立にあたっても、これと同様の現象があったのではないかと見ている。西洋文化へのカウンターとして、「日本固有の伝統的な美的感覚」というものを確立する必要があった。本来文芸用語ではない「花鳥風月」にスポットがあてられたのも、「日本的美学」の典型として作為的に白羽の矢が立てられたのではないかと思う。

 ただ、『万葉集』の国民文学化には為政者の意志が入っていたのに対し、「花鳥風月」という概念はそうではなかったのだろう。「日本の伝統美」をはっきりと定義付けることは、むしろ西洋化というかたちでの近代化へのアンチテーゼという意味合いがあったのだと思う。保田與重郎らの「日本浪曼派」もそういう要素があったし、日本画における「花鳥風月」の運動も、同様だろう。しかし、データベース化にも等しいかたちで「美」の内容の具体化を迫る動きそれ自体が近代の圧力であり、近代に抗するつもりで実際は近代に呑み込まれていたのだ。

近代化のなかで「日本とはいったい何なのか?」という問いかけが、日本人たちの目の前に突き付けられた。それに対する返答の一端が「花鳥風月」だったのだと思う。それはある意味では、ナショナリズムだったといえるのだろう。

「花鳥風月」とは、日本の固有美とは具体的に何かという命題に答えなければならない事態に追い込まれて、初めて提出されたものなのではないか。そして短歌において「花鳥風月」が比較的意識されないのは、近代の短歌が「花鳥風月」よりもどちらかというと「生活即芸術」の方を美学のテーゼとして選択したからではないか。人間が作り出す生活そのものが芸術なのだという思想である。「花鳥風月」という美学が確立されたことは、「日本の美とは何か」という命題に対する答えが分裂し、それぞれが独自の発達を続けて今に至ってしまっているという現状を生んでいるのである。


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