2012年5月23日水曜日

俳句集団【itak】第一回シンポジウム評論③

<英文学から見た「花鳥風月」> 

           
                       平 倫子



なにしろ巌のような課題だったので、図像を用いて進めるのがいいと考え【itak】旗上イベントではパワー・ポイントを使用したが、ここでは図像は省く。

はじめに、シェイクスピア(1564-1616)の『冬物語』(1610)の4幕4場から、水仙、菫、桜草、九輪草、早百合、いちはつ、などを読み込んだ春の野花の詩を上田 敏訳の「花くらべ」でみた。

つぎに、ウィリアム・ブレイク(1757-1827)とロバート・バーンズ(1759-96)による「薔薇」の詩を二つ。ブレイクの「病める薔薇」(1974年『経験の歌』より)は、美しい大輪の薔薇が蝕まれる場面のブレイク自身の挿絵がある。荒れ狂う嵐のなかで、虫が深紅の歓喜の寝床を見つけ「おまえの命を滅ぼす」と歌う寓意詩である。一方、バーンズの「我が恋人は紅き薔薇」(1796)は、恋人を薔薇の美しさ、生気に托して歌った讃歌である。

そして、ロマン派の詩人P. B. シェリー(1792-1822)の「ひばりに寄せて」(1820)と「西風に寄せる歌」(1819)について。思想活動家でもあったシェリーは、前者で「陽気な精よ、おまえは鳥なのか、精なのか・・・」(1連)と問いかけ、揚げひばりに霊性を見て、美しい歌声の背後に真実の深いものがあることに思いを致し、「もっとも楽しい歌は、悲しい思いをうたうもの」(18連)とうたう。また、1819年秋イタリア滞在中遭遇した嵐に着想を得たという「西風に寄せる歌」では、「いずこにも吹きゆく力強い<精>よ / 破壊者にして保護者なる西風よ」といって、木々を枯らしたり芽吹きを促したりする西風の両義性に季節の循環を重ね、「・・・わたしの言葉を /(新生をうながすために) 人間の間にまき散らしておくれ!・・・冬来たりなば、春も遠からずや」で終わる(『シェリー詩集』、75-80)。

つぎに、ラファエル前派の運動について。当時の詩壇や画壇に反旗をひるがえした芸術家たちが19世紀中頃からラファエル以前のイタリア絵画を理想とする運動を起こす。中心的存在だったD.G.ロセッティ(1828-82)の「受胎告知」(1849-50)と「浄福の乙女」(1875-9)の百合の絵をみる。ロセッティは1850年、同名の詩も書いていた。「天上の紫磨黄金の手欄より / 浄福の乙女は外へ身を凭せ。眼は深く、夕まぐれ、しづやかに / 凪ぎわたる海の深みにまさりけり。その手には三つの百合の花をもち、髪の中、星は七つを数へたり」で始まる(竹友藻風訳)。漱石はこの詩から『夢十夜』(1908)の「第一夜」を構想した。

つぎに、英国伝統童謡(マザー・グース)の「月に棲む男」の月の寓意について。ほんらい月を表すlunaは、月の満ち欠けに影響されると考えられたlunacy あるいはmad の意味を持ったことばである。日本では月に「杵を振り上げた兎」を見るが、西洋では「野茨の束をもった農夫」である。よく知られている童謡は「月から逃げてきた男がノリッジへゆく道をたずね、南へ行って冷たいプラムのおかゆでやけどした」というノンセンス歌である。より古いものに、野茨の束で破れた垣根を直そうとするが、盗んだ束だったため仕事が進められず「突っ立って大股にすすむ」静止状態に陥る。しょせんは夜の間の妄想である。


1908F.R. フリント(1885-1960)が、『刀と花の歌』の書評を書き、荒木田守武(1473-1549)の発句「落花枝にかへると見れば胡蝶かな」の英訳 ” A fallen petal / Flies back to its branch: / Ah! A butterfly” を紹介した(『エズラ・パウンド詩集』、385-6)。パウンド(1885-1972) は、1908年ヨーロッパに渡り、フリント、オールディントン夫妻、T.E. ヒュームらとイマジズム運動に加わり、次のようなイマジズムの原則を発表した。1)日常語の的確な使用。2)新しいリズムの創造。3)題材選択の完全な自由。4)明確な映像の写出。5)輪郭の鮮明さ。6)集中法の重要性(斉藤 勇『アメリカ文学史』、p.177)。

パウンドの「地下鉄の駅で」(1912)は、イマジズムを代表する詩と言われている。

「地下鉄の駅で」

人混みのなかのさまざまな顔のまぼろし

濡れた黒い枝の花びら(新倉俊一訳)

1911年、W.B.イエーツ(1865-1939)とパリ観光をしていたパウンドが、地下鉄の駅を出たところで、美しい女性と子どもの顔に出会った、その一瞬の光景である。そのときの強烈な印象を表現しようとパウンドは30行の詩を書くが破棄、半年後15行の詩を書くが破棄、一年後荒木田の発句を念頭におきながら2行の詩にした。パウンド自身「hokku(発句)のような詩」と言っていた。

小西甚一は、芭蕉の「海暮れて鴨の声ほのかに白し」の「声・・・白し」のような描写に蕉風の新しさを見て、これは欧米の批評用語で共感覚(synaesthesia)と呼ばれるもので、芭蕉発句の特筆すべき点であると言う(『日本文芸の詩学』、109)。ここでは作者の心情は直接には言い表されない。ドナルド・キーンは、主題を表示しない日本の詩の特性を、「総体的には曖昧ながらイメージにおいては、まざまざと具象的である」と言い、芭蕉の「雲の峯幾つ崩れて月の山」についても「西欧の詩人はここに自分の意見を必ず付け加える」と言っている(小西、86)。

このように見てくると、俳句は西欧の詩人のように自分の意見を添えない代わりに「花鳥風月」を借りて表現する、と言えるかもしれない。



引用&参考文献

上田敏、『上田敏全訳詩集』、「花くらべ」、岩波文庫、1975, p.80.
ブレイク、W.,『ブレイク詩集』、「イギリス詩人選」(4)、松島正一編、岩波文庫、pp.107-8.
バーンズ、R.,『バーンズ詩集』、中村為治訳、岩波文庫、復刻版、2007, p.159.
シェリー、P. B.,『シェリー詩集』、p.75, 96.
ロセッティ、D.G.,『竹友藻風選集』第2巻、訳詩「浄福の乙女」、南雲堂、1982, pp.504-8.
夏目漱石、『夢十夜』、「第一夜」、岩波文庫、1986p.7-11.
パウンド、E.,『エズラ・パウンド詩集』、新倉俊一訳、角川書店、1976p.385-6.
富士川義之、『風景の詩学』、白水社1983, pp.139-42.
2012/5/20, ©Kumiko Taira


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