2012年5月21日月曜日

俳句集団【itak】第一回シンポジウム評論①


花鳥風月の発生現場 ~一等低い音として~
                   五十嵐 秀彦

1.イメージの発生現場へ

俳句の世界では、何か意味あり気に使われていながら、
その本来の意味について深く論じられていない言葉というものがた
くさんある。たとえば「定型」「客観」「写生」「伝統」「季語」など。そして「花鳥風月」あるいは「花鳥諷詠」などもその典型だ。普段使っていながらその意味を深く考えることなど滅多にない。
本来、言葉にはその言葉を生みだした「イメージの発生現場」
というものがあるはずだ。特に俳句のような長い歴史を持つ詩の場合、
その文芸を支えるイメージの発生現場について知りたいし考えたいと思う傾向が私には強くある。しかし、そういう考えはどうやら少数派のようで、「客観」とか「伝統」とか「花鳥風月」という言葉は本質的な何ものかを説明するようでいながら、実はその意味を問い返すことはせずに、悪い表現をすれば「惰性」で使われている。
「花鳥風月」という言葉の意味とは何だろう。
「自然の美しい景色。また、
自然の風物を題材とした詩歌や絵画などをたしなむ風流にもいう」
。三省堂の『新明解四字熟語辞典』ではそうなっている。どうもこの説明は違う感じがするのだ。小林一茶は自分のことを「風景の罪びと」と呼んでいた。この「花鳥風月」の辞書的な意味は、まさに一茶の言った「風景」ではないか。「花鳥風月」とはその程度のことなのか。私はこの説明では全く納得できないのである。
では私の考える花鳥風月とは何かについて、以下に述べてみたい。


  2.   鎮魂のカーニバル

私たちが古代からのものと思っている日本人の文化の根は、
思ったほど古くはない。その原型はおそらく鎌倉・
室町にあるらしい。もちろんそれ以前にさかのぼることもできるのだが、形はずいぶん変わってしまう。比べて中世に出来上がったものの多くは今もあまり変わることなく続いている。
ことあるたびに私はこのことを述べてきたが、
私たちの俳句の原型は、おそらく中世にあると考えている。
それはよく言われる室町時代15世紀16世紀の山﨑宗鑑や荒木田守武のことを言っているのではなく、それ以前に俳句を作りだした土壌のようなものが鎌倉期あたり、あるいは室町前期あたりにあったのではないか、と思うのだ。
そして、それはどんなところから生まれてきたのだろうか。
そのヒントを、松岡心平という人が20年ぐらい前に書いた『
宴の身体 バサラから世阿弥へ』(岩波現代文庫)という本の中に見つけた。
一見俳句と無関係のようなこの鎌倉時代の遊行僧がなぜかとても気
になって調べているうちに、今の私たちの文芸のあり方に大きな影響を与えた人だと思うようになったが、松岡心平さんもそのことをこの論考で指摘している。一遍上人とは13世紀鎌倉時代の人で、もともとは浄土宗の僧だったが、宗派から離れて全国を行脚したいわゆる遊行聖である。弟子を連れての旅で、訪れる先々で踊り念仏の興行をしたことから、民間芸能文化との深い関係も論じられている存在だ。しかし、この人物が実は今の私たちのイメージとしての日本文化というものに大きな影響を与えたということはあまり知られていない。
なぜひとりの乞食坊主でしかなかった彼が日本文化に影響を与えた
のか。それは、彼の創った集団の性格にある。
時衆と呼ばれたその集団は旅のための組織を作った。定住することのない教団であった彼らは、職能民を多く仲間に迎え、さまざまな技能を持ったグループを作っていた。
松岡心平は『宴の身体』でこう書いている。

「連歌・早歌・軍記・能・説経・茶・
花等々の真に中世的文芸と呼ぶに値する諸文化現象に、程度の差こそあれ時衆がおおいに関与していることは否めない事実である」

さらに松岡は一遍の踊り念仏について、こんなふうに書いている。

「一遍の踊り念仏は、
生身の阿弥陀仏となるために修せられる一方、死者の鎮魂祭儀として修せられるという面も非常に強く持っていたため、常に市・地蔵堂といった冥界との接点にあたるような場所で興行された」

ここで「冥界との接点」と言われているところに注目したい。
歴史学者の網野善彦風に言えば「公界」
と呼ばれていた場所であろうか。誰の所有の土地というのではない空間。そこに何があったのか。また、そういう場所で何が行なわれていたか。
そこにあったもの、それは枝垂れ桜だったというのだ。
ここに連歌が登場する現場があった。
宮中で公家たちが行なっていたものではなく、町の辻、冥界の接点で行われた連歌、いわゆる地下(じげ)連歌で、その源流こそ花の下(もと)連歌であり、花の下連歌とは枝垂れ桜の咲く時期に花の下で興行された連歌会のことである。その興行を執り行っていたのが時衆の僧侶であったわけで、とくに有名なところでは善阿(ぜんな)上人が挙げられる。
松岡はその花の下連歌をこう表現している。

「花の下連歌は、
冥府への入口で挙行される言語による鎮魂の祭儀であること、座という集団において他者と身体的に共感し合いながら一つの昂揚した言語的世界を築いていくこと、大勢の観客を前にした興行であること等において、まさに静かなる踊り念仏だったのだ。そして花の下連歌と踊り念仏とが通底し合う場所が、鎮花祭に典型化されるような日本の民族的カーニバル伝統に他ならないのである。ここに時衆が鎮魂儀礼の司祭者としてまた言語的演技者として連歌の分野に進出する契機が存在する」

そしてこの鎮魂のカーニバルがこののち分岐していって能などを作
っていくことになるわけだが、
そちらにいくと横道にそれすぎるので、鎮魂のカーニバルというものを文芸としてだけとらえてみよう。
連歌はご存知のとおりこののちに俳諧の連歌に変化していく。
それが俳句の端緒となるわけで、その後江戸俳諧を経て、
明治に正岡子規の俳句革新を経て、現在にいたる。花の下連歌から現代の俳句まで700年~800年。私はこの流れは一気であると思っている。一気にここまで、私たちの時代まで流れてきたのだ。であれば私たちは今のんきに句会をするわけだが、ここにはきっと鎮魂のカーニバルが隠れているのだろうと思う。
現代において花鳥風月と呼んでいるもの、それは季語・
季題の存在を必須とする俳句文芸ゆえに常に言われ続けていること
だが、私はこれこそ本来は鎮魂のカーニバルに密接な関係を持ったものだと考えるのである。
枝垂れ桜が散るときに鎌倉時代の人たちは何を感じたのだろう。
民俗学的にそれを解釈すると、
桜を散らせるのは怨みを呑んで死んだ人々の怨霊がそうさせるのだ
とその時代には信じられていた。だから、乱れ散る桜の花の下で鎮魂祭をとりおこなわねばならなかったのである。花は人の心の分身であり、魂の実在を人に知らせるメディアであったともいえるのかもしれない。


   3.   中上健次の花鳥風月

花鳥風月について、
現代の作家である中上健次がその評論作品の中でいくつか重要な発
言をしている。中上健次は70年代80年代に活躍した芥川賞作家で、1992年に46歳で亡くなっている。ちかごろあまり話題になることもないが、学生運動敗北後の青年文化に大きな影響を与えた作家である。そして、実は俳句にも強い関心を持っていた人だった。
彼に『夢の力』(講談社文芸文庫)という評論集があり、
その中にある「鳥獣に類ス」という短い論考が私はとても好きだ。
そこで彼は自分自身と芭蕉とを比較するのである。

「花を花、月を月と詠ずるに文人で充分であるが、
花とは何なのか月とは何なのか問う者は文人ではない。/その者に風雅はなく、あるのは、壊れた造化(ぞうか)としての自然、壊れ破砕された私である。」

そして中上は芭蕉の言葉を紹介する。

《像(かたち)花にあらざる時は夷狄にひとし。
心花にあらざる時は鳥獣に類(たぐい)ス》

で、彼は自分を夷狄だととらえ、こう言い切るのだ。

「夷狄、鳥獣であり、同時に小説家である私は、「花」を「花」
とみる事と、「花」の因(よ)ってきたる根元を同時に視ているのである。そして芭蕉の言うとおりこの身すべてが、夷狄であり、鳥獣におちるのを知る。」

そして芭蕉の「笈の小文」の吉野の話に対して、
中上独自の吉野観を述べている。

「私が眼にしたのは花の吉野ではなく、
セイタカアワダチソウが群生した秋の吉野である。その根に毒を持ち他の植物を枯らして群生する草は、夜にあわあわと、昼に粘る黄色のハナをつけ、気味が悪い。/<造化にしたがい、造化にかへれ>と言う芭蕉は、この吉野のセイタカアワダチソウを何と言うだろうか、風雅に反し、花鳥風月に入らぬものと、見て見ぬふりをするだろうか? と今思う」

芭蕉に対する驚くほどの対抗心のようなものを感じ、
ぞっとする評論となっている。
中上は一見ここで花鳥風月を否定しているかのように思えるのだが
、けしてそうではない。
文人的な風雅という概念への強い反発が彼にはあるのだ。ここでは「花鳥風月」をそのような意味として否定的に使っているが、別なところでは違うことを書いてもいる。
これも評論集で『鳥のように獣のように』(角川文庫)の中の「
小説の新しさとは何か」という文章。

「直感だが、今、鮮明に、
短編小説が他の小説と違う貌を持って現出しはじめたと思う。能、謡曲が、室町期に、土俗芸能から一つの芸能、文学として自立したように、である。俳句が、俳句として自立したように、である。何故だか、わからない。現代の作家の一人一人の、短篇をテキストに述べてもよい。能、俳句、短篇、という血脈が、ぼくには見えるのである」

ここで中上が言っている短篇というのは私小説のことを言っていて
、さらに次のように続けられる。

「私小説=短篇は、死、死穢を一等低い音として、
鳴らしているのに気づくのである。いや死穢の音が、中篇や長篇よりも強く鳴る。そして短篇とは、花鳥風月の側のものである」

「短篇が、死穢を踏まえてあると言うなら、俳句もそうである。
季語、それが花鳥風月であるなら、それも、死穢の形を代えたあらわれではないか? 季語=死語によって、死の音が鳴る。そして俳句を読むたびに、五七五の音が定形なのではなく、季語=死語が、型を決定していると思えるのである。それは短篇もそうだ。死穢の姿によって型がきまる」

このふたつの論考を読めば中上健次の花鳥風月観が見えてくる。
そしてそれがさきほど述べた花の下連歌の深意にとても共通してい
るものであることに気づき、驚くのだ。
どうして中上のようなことを俳人が言わないのか。
私は不思議でならない。
花鳥風月の持つ鎮魂というものに最も敏感であるべき俳人が、そういう発言をほとんどしないのは不満だ。
花鳥風月とは、生きているもの、死んでいるもの、
その両界をつなぐチャネルなのである。
そして俳句という詩はあの世とこの世とを往還するものであろう。花の下連歌から中上健次まで、人々の歴史の中で「一等低い音として」鳴り響いているものが、花鳥風月なのに違いない。





「参考文献」
松岡心平 『宴の身体 バサラから世阿弥まで』(岩波現代文庫)
中上健次 『夢の力』(講談社文芸文庫)
中上健次 『鳥のように獣のように』(角川文庫)


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