2016年12月7日水曜日

俳句集団【itak】第28回句会評② (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評②

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 欠席の椅子に冬日の坐りをり     五十嵐秀彦
 

名乗りのあと、康秋さんの追悼句と本人が言っていた。なるほどと思う。井上康秋さん、自らの句集「にんげん」の跋文と序文に、無名の若手?だった私と秀彦さんに依頼してきたすこし強面の、社会派の俳人であった。数年間ファックス句会「てんでん」を主宰して、てんでん通信を発行してくれた。「生きをればあり舌頭も白桃も」は昨年秋のイタック句会だったかな と記憶する。さて掲句いつもの椅子にいつものひとがいない。その椅子に冬の日差しが当たっている。それがいつまでも冬日が移らずに座っているという句である。秀彦俳句にしてはなんら難解なところがない。



 偽果として乳房偽薬として六花    青山 酔鳴


偽果はふつう果実は植物の子房が肥大してなるはずであるが、花床、花軸、ガクなどが肥大してなる果実で、リンゴ、ナシなどは偽果である。これに対して子房の部分だけが受精後発達するのが真果でブドウ、きゅうり、モモなど多い。偽果、偽薬に類比するものをそれぞれ、並列して、対句的に表現している。偽薬(プラセーボ)を六花にもってきたのは飛んでいて面白い。白い雪の結晶あるいは粉雪(パウダースノー)はプラセーボとアナロジーは確かに感じる。六花(つまり花)を使ったことで植物の偽果とも呼応する。


 爪に添う血豆七ミリ秋深し       福井たんぽぽ


中七までの措辞、爪の横にできた7ミリの血豆までの措辞はよかったと思う。座五の「秋深し」の斡旋に問題があったか。季語の選択は私は悪くないと思うが、あまり人気が出なかったのは「秋深し」の置く位置にあると推定する。たとえば「秋深き血豆七ミリ爪に添ふ」とすれば奥行きが出る句になると思うのだが・・・。


 毛糸編む森の小径を行くやうに     内平あとり


毛糸編むという行為をクロスショットで観察すると、編針と編まれた毛糸が絡み合って、じぐざくで、これをロングショットで観ると、森の小径を歩いてゆくようだという見立てが生まれた。毛糸編むという生活の季語どうしても狭い領域に限られたり、心理描写に使われたりが多いが、毛糸編むこと、そのものを比喩にした句は珍しいと思う。


 初雪を人が踏み人々が踏む       鈴木 牛後


初雪が降ってある程度積もった舗道に定点カメラを置いて、一日の推移を早回ししたような景。初雪の句として新しい視点である。新雪でまっさらな雪の上にはじめて人の足跡がつき、ほどなくその足跡をかき消すかのようにつぎつぎと人々が通り過ぎて往き、雪が踏み固められてゆく景である。俳句という形式じゃないと詩にならないことだと思う。


 

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