2016年12月11日日曜日

俳句集団【itak】第28回句会評④ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第28回句会評④

  2016年11月12日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 襟巻の狐の手足宙を掻く        遠藤ゆき子

襟巻の狐の顔はほかに在り  虚子 という超有名句があるので、だれしも襟巻そして狐には俳句として手をつけない傾向にあった。狐の襟巻を真正面から扱った句としてとてもうまくできていると思う。動作がみえるのがよい。すこしゆるんだ狐の襟巻を妙齢の女性が巻き直す、風に吹かれるように、その瞬間屍である手足が宙を掻いている ストップモーションのように見えてくる。ただしこんな女性最近いなくなったね。絶滅危惧種かもしれぬ。


 冬紅葉シニア屍にやと掃かれたり   山田美和子

とてもアイロニーがあり面白いと思う。冬紅葉を掃除している。ほとんどがシニア世代である。そしてその世代はもう少しで「死」を迎える世代でもあり、冬紅葉も屍のひとつである。シニア屍にや の語呂もよい。もちろん発想は川柳的なのかもしれない。


 冬木立誰かの手ぬぐいの掛かる    銀の小望月

詠まれてる事象は対したことはないのであるが、中七から座五までの句またがり表現が何かしら物憂げで、屈折があって面白い。冬木立というのはたくさんある木を示すのですこしぼやけた感じもする。冬木のうちの一本に手ぬぐいがかかるという表現が本当はよりインパクトがあると思う。たとえば いっぽんの冬木に誰かの手ぬぐい とか。


 二重窓の中が好きなの冬の蠅     久才 秀樹

今はサッシ技術が進んで、少なくなったが、冬の北海道は二重窓がないと暮らしていけない状態であった。中七までの口語の措辞も面白く、冬の蠅がつきすぎと思うひともあるかもしれないが、微妙に私はいいと思う。冬の蠅にとって窓の外側は寒くて危険だし、窓の内側はすぐ人間に叩かれるし、二重窓の中が唯一の安全域なのだ。「冬蜂の死にどころなく歩きけり 村上鬼城」の現代版でもある。


 群青の夜をかきまぜて吹雪けり    幸村 千里                 

中七の「夜をかきまぜて」の措辞、確かに吹雪の措辞としてはあまりないのではと思う。採らなかったひとは「群青」が生きているか否かということだが。群青なので、真夜中ではなく夕方、朝方の夜かもしれないと思われる。こういう句は中七以下で完結しているので、上五の「群青」はぬばたまの と同じように、枕詞的に解釈してもいいのかもしれない。


 

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