2016年1月18日月曜日

俳句集団【itak】第23回句会評① (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第23回句会評①

  2016年1月9日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 今年も50人以上が集まって新年句会が行われた。当初予想された人数より増えて、平均年齢も格段と下がり、北海道のどこを探しても(というか日本のどこにも)このような俳句集団はないであろう。そんな意味でも楽しんで参加させてもらっています。私自身は私の書く俳句評の散文にすごく飽きていて、自分の中で使い古された措辞しか出てこないのであるが、そこは俳句作品の新鮮さで、私の散文の既視感は勘弁してもらいたい。読んでくれる人が一人でもいる限りは書くこととしましょう。先日先輩俳人に「選句がひろい」と褒められ?ましたが、私自身も選句を狭めると自分の作品も狭くなる感じがして、広く俳句を楽しもうと思っています。それでは今回もなるべくたくさんの句を採り上げましょう。


 ストーブに波打際のありにけり    栗山麻衣

高点句。私も天で頂いた。句会でも言ったがストーブの句に「波打ち際」という水ものを取り合わせたのも新しいし、ストーブを中心にあたかも等高線のように広がる温度の波が画像として浮かんだ。サーモグラフィーの像はまさに浪打際のようになっています。また句会でも評で言われていたが、昔の薪ストーブや石炭ストーブにある斑(まだら)な熱の伝わり方があたかも「波打ち際」でとても詩的に表現できている。いまの集中暖房や石油ストーブでは在り得ないような、寄せては返すような「熱の波」が昔のストーブにはあったのです。ちなみに私の生家はなんと「おが屑ストーブ」でした。


 黒髪に隠すにきびも初日の出    宮川双葉

黒髪で隠されたにきびも地平線から顔を出す初日の出も「隠れていたものが顔を出す」というアナロジーで繋がり、詩になっている。句会でも言ったが「も」という助詞が難しく、この場合詩的アナロジーをダメ押しで説明してしまっている。つまり、作者の意図が「だだもれ」になっているのだ。だからここでは中七は「や」で切れを入れた方がいいであろう。「や」で黒髪に隠された可愛い女の子のにきびが強調されクローズアップされたあとで、カメラがロングショットに切り替わり「初日の出」へ繋がる。


 目が覚めた年越していたそば出てた  藤澤汐里

私は地で頂いた。もしかすると「去年今年」の出来ごとをただ、並べただけの「ただごと俳句」なのかもしれないが、その俳句的でない、読み手にこびない、斬新な詠み口だと思う。三つの出来事を並べ立て、季重なりを怖れることなく、しかも動詞を三つも重ねてタブーにタブーを重ねている。年末に酒を飲みつつ、紅白歌合戦を見ながら、うたたねをしてしまい、目が覚めたらカウントダウンも終わって、すっかり冷めて伸びてしまった蕎麦だけ残っているということ皆さんにもありませんか。この句の佳さは日常のリアルを、散文的な動作三つを重ねても、さらに韻文性があることだ。三つの事柄がすべて口語調で「た」で畳み掛けられている。したがってとても覚えやすく口誦性もある。


 一年の計ぼくはぼくになりたい   平 倫子

「ぼくはぼくになりたい」の措辞は自我というか、アイデンテイテイーというか本当は小難しい内容なのだが、「ぼく」を使ったことで口誦性もでてきたし、哲学的な小難しからも逸脱できている。この句はもちろん高点句であったが、成功理由は二つあり、一つはその吸引力のあるフレーズに加えて、「一年の計は元旦にあり」という誰でもしっている慣用句から「元旦」という季語ではなく、「一年の計」を採用したところ。厳密に言うとあえて無季の句を作っているのである。しかし十分季感は存在して、今後は「一年の計」は「元旦」の「傍題」として採用していいのではと思う。七+十の破調感も「ぼくはぼくになりたい」という強烈なフレーズを生かす作りになっている。


(つづく)


 

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