2015年3月28日土曜日

『やぶくすしハッシーが読む』 ~第18回の句会から~ (その1)



『 やぶくすしハッシーが読む 』 (その1)


 ~第18回の句会から~

橋本 喜夫 


なんだか2回も休むと休み癖がつきそうだ。今回などはイタックがある週を勘違いして、仕事が入っていた。ハートアタックになってから、俳句に対するハートも熱くなれないでいる。心臓=こころなんだなとつくづく思う今日このごろだ。さて今回もいやいやながら、○子さんに尻を叩かれつつ読んでいきましょう。
 
 
 限界集落雛飾る四畳半     瀬戸優理子   

上八の「限界集落」という措辞がこの句の「きも」であり、それによって何も言ってないのだが、読者に現代の田舎のリアルな一面を覗かせる。限界集落だから、ぎりぎり小社会を保てる数の集落で、しかも子供や若者がいない集落となる。そこの一戸の四畳半の一部屋に必要性がないくらいの七段飾りの豪華な雛人形が飾られている。もうこれから嫁ぐような世代の女性は存在せず、中年の女性とその母親の世代のためだけに雛を飾っているのだ。つまり雛段=過去の遺物=化石なのだ。近未来的な句ともとれる。ある意味雛祭りの季語の新しい処理の仕方でもある。

 吹き抜けの二階三階春の雪  荒舩 青嶺

大きなショッピングセンターや郊外型の硝子ばりのアミューズメントでもいい。二階三階の見通せる吹きぬけの外に春の雪が交差して降っている。作者や読者の視線が上へ上へとゆっくりと昇るのに対して春の雪が下へ下へ降るという構図。ちょうどシースルーエレベーターで昇るとき、外では春の雪が降っている景と似ている。遠近法というより、映像のドップラー効果のような句の作りだ。

 雪解水日毎夜毎を通りゆく   信藤 詔子

雪解川を分解したような作りであるが、瞬間を切り取っているわけではなく、雪解川の時間の流れを、川の流れとともに表現したかったのであろう。日毎夜毎というベタな表現であるが、あまり雪解には使われない措辞だ。水としたのは川でなくて、ほんとうにちょろちょろ流れる水を詠みたかったのかもしれない。または「川」とするともろ「べた」な表現になるので作者は避けたのかもしれない。

 言霊の行きつくところ花明り  遠藤 静江

言霊という言葉は使いたくなるが形而上的な言葉なのでなかなか使いづらい。花明りの斡旋が見事なので俳句として成立したのだと思う。言葉に霊魂が宿っているという発想は日本的なのであるが、「言霊の幸う(さきはう)国」=日本であるから日本となれば桜でしょうということになる。べたに桜としないで「花明り」に微妙にずらしたのがいいと思う。


(その2につづく)
 
 

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