2014年6月29日日曜日

『葉子が読む』 ~第13回の句会から~ (その1)


『 葉子が読む 』 (その1)

 ~第13回の句会から~

高畠 葉子
 

多くの参加者を迎えた第13回俳句集団【itak】イベントと句会。
俳句というツールで世代を超えた交流はもはや、俳句はカビ臭い!などと言う方がカビ臭い!という状況なのでしょう。残念ながら私は今回のイベントには参加できませんでしたが多くの秀句を鑑賞させて頂きました。中からいくつか思うまま書かせて頂くことにしました。 
 
 
 
 夢を追ふ旅より帰り余花の雨     戸田幸四郎
 
 
旅の楽しみは旅立つ前にも後にもある。さらに俳句という表現によってまた深く味わう事ができる私たちは幸せだ。「夢を追ふ旅」の熱と動、「余花の雨」の冷えと静、がそれぞれを際立たせてくれている。あらゆる年代の「旅」の経験とイメージを重ねることのできる句だと思い心に強く印象づけられた。
 
 
 母にだけ分かる文字ある種袋     吉村 佳峰
 
 
わたくし事であるが、引き出しにまさに「母にだけ分かる」種袋がある。一体何の種なのか皆目見当もつかない。引き出しに仕舞い込んでいる訳はどんな芽生えがあるのか分からないせいではなく「母にだけ分かる」種袋だからだ。この種を植えてしまえば「母にだけ分かる」事が「私にも分かる」となる事が寂しいからだ。分からない事が解決してしまえば、母の一つの証が零れてしまいそうな気持になるのだ・・・この句を読んで私自身の心の内を理解した。百人百様の人生があるはずだがこうして季語と十七文字で共有できることに感動した。
 
 
 こいのぼりおかあさんいなくてさみしいな  ともやっクス
 
 
ふと考えた。こいのぼりのうた。一般的におかあさんは歌詞に出てこない。そもそも鯉のぼりの風習を考えれば納得してしまうのだが・・・いや納得してはいけないか?と自問してみたがこの点はちょっと置いておくことにする。オトナの事情も含まれるしね。(実際おかあさんが登場する歌詞で歌われてもいるらしい)この句に魅かれたのは「おかあさんがいない」事がさみしいと言い切る素直さと歌詞をままに受け入れることなく「なんか変!」と感じ表現する自我があるからだ。作者ともやっクス君にはいつまでも「なんで?なんで?」の疑問の目を無くしてほしくないな~と思うのだった。あわせてこの句。オトナ世代には子どもの頃一緒に鯉のぼりを見上げたおかあさんはもう居ないんだよね・・・という共有もある事だろう。
 
 
 よりによって父に似てきて衣更     熊谷 陽一
 
 
よりによって。に顔がほころびる。父と息子、母と娘とは「よりによって」という愛情表現をするらしい。衣更の季節に現れる体型や衣の好みなどがよりによって似て来ていることを実感してしまう。衣更の季感を存分に感じさせてもらえた。
 
 
 つばめ来る千枚の田の水鏡      草刈勢以子
 
 
田を見る事がとんとなくなってしまった。水をたたえた田は遠い記憶にある。最も美しいこの日本の風景を私たちはしっかり記憶に、記録に留め、表現していきたいと改めて感じる事ができた句だった。つばめの伸びやかな飛翔と千枚田の水鏡など本当に美しいと思う。いつかきっと見にゆきたいと思う。

 
(その2に続く)


 

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