2016年9月30日金曜日

俳句集団【itak】第27回句会評⑤ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第27回句会評⑤

  2016年9月10日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 地下鉄に貧乏ゆすりする案山子   福井たんぽぽ

面白い。俳句で切れ(スリット)はどこに入るかを考えて読むことはいつも大事でこの句の場合は案山子の前でスリットが入る。地下鉄に乗っていて隣あるいは迎えに座っている他人が貧乏ゆすりしている景が眼前にある。それだけ常に揺れていれば、すずめや鴉はよってこないであろう。もし作者が小鳥ならば貧乏ゆすりした案山子には近づかないであろう。そういう意味では貧乏ゆすりを案山子でメタファーしているともとれるのだ。地下鉄という措辞はこの場合一見効いているように思えるが逆に、これによって貧乏ゆすりをしているのが作者(この句の語り部)なのか、他者なのかがわからなくなっている。一案だがたたとえば地下鉄を取っ払って「おとなりで貧乏ゆすりする案山子」とすると貧乏ゆすりをしているのは隣に座っているひとであることがわかる。しかも本当に貧乏ゆすりをしている案山子がシュールに浮かびあがってくる。そんな景も浮かぶのだ。


 蟻の列浮きっぱなしの地球かな    亀松 澄江

この句も視点が面白いと思った。もちろん概念として「地球は浮いている」のだが、蟻の列はつねに上に物を載せて運ぶ、獲物を担いで運ぶのだ。そうすると蟻の列があたかも地球を担いでいて、地球が担がれて浮いているとも取れるのだ。ただしそういう風に読むにはこの表現だと無理があるだろう。作者は蟻の列を眼前に見て、それを載せている地球が浮いていることに思いを馳せたのであろう。ただそれだと 「虫の夜に浮いている地球」という有名句があるのでいまいちのような気がする。私がはじめに受け取った読みにした方が面白いと思う。


 あみだくじから蓑虫の生まれけり   栗山麻衣
 
卓抜な比喩である。あみだくじの格子模様から蓑虫の蓑の外壁の形状を想像したのかもしれない。比喩は近すぎるとなんの面白味もないし、まったく関連がなく、離れすぎるとただの自己満足の比喩になる。適度に離れてどこかで通底している比喩が一番よいのだ。比喩の成功のためにはもう一つ秘訣があり、ノンシャラーンと言い切ってしまうことである、その比喩が適切なのか詩的なのかなどは関係なく、とにかく独善的に言い切ることである、こうされると読者は否定しようと思えば思うほどその比喩が的確なものに思えてしまう。最近私が一番好きな言葉はゲーテの「一切は比喩である」という言葉なのだ。


 ぽやぽやの木霊の棲みか吾亦紅   ふじもりよしと

ぽやぽやのオノマトペはおそらく吾亦紅の茎の頂の赤紫の花を示しているのであろう。そのつましい赤紫の花のところに木霊が棲んでいるとみなしている。吾亦紅はどうしても寂しげな風情なので、それに沿った句が多いのだが、この句は少し異なっている。ぽやぽやのオノマトペをどう捉えるかでこの句の好き嫌いが決まってくるのであろう。


 只ごとか詩情かころげ青みかん    松田 ナツ

青蜜柑をころがす、または机などからこぼれて少し転がる。それを詠みたいと思った作者だが、これは只事ではないか はたまた詩情があるのだろうか と表白する。写生に徹すると只事に堕するかもしれず、かと言って詩情ばかり追いかけると俳句のリゴリズムに抵触し、写生からも逸脱する。只事俳句は一見報告句に堕したものを言う言葉だが、結局他人の句をけなそうと思ったひとに宿すものが只事で、どんな小さなことでもいいから感動して詠んだ句には必ず詩情が宿っている。このような詩人、俳人としての表白を盛り込んだ句はあまりなく、佳句と思う。


 秋味や恋に賞味の期限あり      藤原 文珍

秋味を「ほっちゃれ」 と読ますことまず賛同します。北海道季語かもしれません。産卵し終わって脂身も抜けて食しても美味しくない鮭を揶揄的に呼ぶ名前。だから大変失礼だが、これを女性に悪口として使うこともあります。この句は詠みたいことはよく伝わります。しかしやはり本当なら「賞味期限」と「の」を入れずに作者も使いたかったと推察する。中身はよくわかるのだが、理が通りすぎている感じ。ほっちゃれ に対して恋の賞味期限は幾分直列すぎる繋がりが感じられる。ここは捩れを入れてたとえば「秋味や賞味期限の来ない恋」などとするのも一案だと思う。

 

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