2014年9月21日日曜日

俳句集団【itak】第15回句会評 (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第15回句会評

  
2014年9月13日


橋本 喜夫(雪華・銀化)
 
 
 今回は参加人数が少ないと聞いていたが、高校生などが集まりいつも通りの人数があつまった。さて今回は公私ともに不調で、元気がないので速攻で終わらせたい。またかなり虫の居所も悪いので辛口になるやもしれず。
 
 
 死に隣る友の着信夜半の秋  小笠原かほる      
 
 
「友」を使うと句が甘くなり、あまり成功例はない。「死に隣る」の措辞がひたすらその甘さを消している。「夜半の秋」の情緒があまりにも付きすぎの感もあるが、事実なので仕方ないであろう。ただし詩として事実だからよいということはない。
 

 貫録の千年杉や天高し     田湯 岬 
 
 
コメントでも言ったが、千年杉、天高しは順当なつながりであろう。選句したひとは「貫録」という擬人化が佳いと思ったであろうし、採らない人は問題だと思ったであろう。千年杉に対する「貫録」という措辞が佳いか悪いかは意見の分かれるところであろう。私はやはり問題かなと思った。
 

 仁王像の乳首に菊が咲いてやがる   山田 航
 
 
せっかく、破調であるならここまで遊んで欲しいし、破天荒であってほしい。乳首に菊が咲いていることを定型で納めても面白くないかもしれない。「咲いてやがる」の措辞がひたすら気に入った。俳句で「遊んでやがる」と思った次第だ。
 

 立待月かばんの闇をまさぐりぬ   瀬戸優理子
 
 
立待月の風情、どうしても闇というのはありうる。宵闇というイメージがあるから。そこを「かばんの闇をまさぐる」というインパクトのあるフレーズで、しかもイメージの湧く「もの」を持ってきたところに掲句の佳さがあるのでしょう。上五を「立待の」「立待や」と俳句らしくまとめるのも手だが、「名詞切れ」にしたのも作者の好みなのであろう。
 

 高階の燈の二つ三つつづれさせ    猿木三九
 
 
高層のビルあるいは高階の建物を下の闇から見つめている景であろう。二つ三つという措辞がとても成功している。つまり、少ない灯りで闇がメインであることがわかり、つづれさせの虫の音を逆にクローズアップさせる作りになっている。「虫の闇」とか、「虫しぐれ」というあざとい止めでなく、「つづれさせ」で止めたのも上手い納めかただと思う。
 
 
 秋晴れや秒速一歩ずつ歩む      今井  心
 
 
コメントでも言ったのだが、「秒速」という言葉は意外にあいまいで、速度が遅いのか早いのかわかりずらい。秒速だけをとりあげるととても速いイメージがあるのだが、「一歩ずつ歩む」 となっている。つまりこの句は「秋晴れ」という気持ちの佳い季語に対して、中七以下は意外にアンビバレンスな感覚が残る句になっている。それが作者の思いとは裏腹にこの句の魅力になっていると思う。気持ちの佳い秋晴れの下、作者がゆっくり歩いているのか、急いで歩いているのか伝わりづらい作りになっている。逆にそれがこの句のフックなのである。
 

 終戦忌色えんぴつの五百色     久保田哲子
 
 
この句の佳さは座五の「五百色」、これが色んなことを思わせる。文字通り「古色蒼然」な感じもするし、逆に「呉越同舟」というか、いわゆる「混沌」な感じもする。まさに終戦のころは12色の色鉛筆すら買ってもらうことが大変だった、それが平成の今は五百色の色鉛筆が手に入る。人種もひとの考えも、多種多彩であるが、「終戦忌」の句の割に明るさが残るのは、多彩であること、多種多様であることを作者自身が肯っているからであろう。
 
 
 供物なき名月よ闇汲む水よ     五十嵐秀彦
 

句またがりのつくりで、何か意味ありげに詠みこんでいるが、内実なにも言っていない、逆にそれがこの句の佳さなのである。しいてあげればせっかくの名月なのに何も供物を置いていない現代人あるいは自らに対する自虐とでもいおうか。とにかく意味ありげな言葉がならぶが、これがこの句のフックであり罠である。
 

 氾濫は今宵とまらず天の川     酒井おかわり
 

「氾濫が止まらない」という措辞。天の川の斡旋、現在の時事状況を踏まえてとてもよくできている。問題は「今宵」おそらく、この3文字を使って、中七をもっとインパクトのある表現にできるような気がする。そこが少し残念だった。
 

 ティンパニの在庫あります秋の雷   青山 酔鳴
 

テインパニの楽器としての性格、金属的な音、打楽器で、突然入ってくる感じなどなど。秋の雷という季語にかなっているが、それだけにネタバレ感があること。しかし、中七の「在庫あります」がこの句を格上げしているように思う。「ティンパニ=秋の雷」の単なる見立ての句と思われても仕方がない。
 

 眠草仏わらひの稚児の夢       長谷川忠臣
 

「赤ちゃんの虫笑ひ」を詠むことはあまたある「孫俳句」などによくあるのであるが、この句の成功はやはり「仏笑い」としたことに尽きる。あとは眠草の斡旋の佳さ悪さ、好みによるかもしれない。近すぎるというひともあると思うが、私は佳いと思う。むしろ「稚児の夢」が言い過ぎなのかもしれない。
 

 雁やユンボ巨腕を地に噛ませ     鈴木 牛後
 

「巨腕を地に噛ませ」のフレーズはとても良い。あとは空、秋天、という対照物の季語を何にするか。「雁」がベストかどうかはわからない。たまたま雁が飛んでいたではすまされない。詩として何がベストか?である。 
 

 銀漢や窯場の薪のうづたかし    草刈勢以子
 
 
 コメントの時も言ったが、窯場のしづけさを詠むために、大自然の大きなもの、たとえば銀漢を持ってくるというのは在り得るであろうし、逆に予定調和なのかもしれない。しかし、なかなか「薪のうづたかし」という格調の高い止めの措辞は出てこないと思う。最後の八文字の止めは大変非凡だと思う。
 

 宿題は鈴虫の餌替へてから     内平あとり
 

宿題という題材、高校生が作者と思ったが。この方であった。「宿題や」で切らないのも、「餌替えてより」 としないのも句の内容の若さ、青春性みたいものを出したかったのだと推察する。俳句は無名がいいと、龍太は言ったが、句会ではこういう「なりすまし」のやり方も面白い。
 

 草の花名を問い質す鎖塚      藤原 文珍
 

「鎖塚」の由来を知っていれば中七の措辞がありがちであることはいなめないし、予定調和感がある。しかし開拓のために死んでいった名もなきひとたちへの思いが「草の花」に集約されている。この季語が救ってくれている。
 

 天高くみなそれぞれの旅鞄      三品 吏紀
 

みなそれぞれに家があり、鍵があり、靴があり。そういう意味では中七以下は在り得るし、順当なつくりであるが、そこに「天高く」とくると、一挙に秋天の下で旅をつづけるひとびとの生き様が見えてくるようで、気持ちの佳い作りになった。「天高し」でなくて、天高くと連用形で繋げたのも佳い。
 

 六十九回目の弔文虫が読む      村上 海斗
 

終戦の句としてとても変わった切り口をしたと思う。69回年を重ねたことをわざわざ詠むということを普通の俳人はしない。それを「弔文を虫に読ませた」ところが面白い切り口だし、それで作者もいいたいことが言えたのだと思う。
 

 鶏頭のむかうに家のありにけり     堀下  翔
 

なんの工夫も、修辞もないように見えるがかなり、新しい読み方だと思う。特に「鶏頭」の句は子規をはじめとして有名句があるので、そのイメージを払拭する意気込みが感じられる。
 

 夜の海月独りの時を持て余し      田口三千代
 

中七以下の表白というか措辞はこれも独居老人であればよくあることかもしれないが、「夜の海月」という季語を置くと、にわかに味が出てくる。死にかけた艶っぽさと、危うさもあるし、俳諧味も出てくる。今水族館で、海月がブームらしいが、その怪しい美しさと、頽廃さがいいのかもしれない。昼の海月ではなく、夜の海月だからいいのであろう。
 

 純真をどこかで失くす賢治の忌     大原 智也
 

賢治の生き様を考えるとべたべた感もあるのだが、「純真」という措辞をまっすぐ使った作者の「純真さ」に魅かれる。まずもって俳句になりずらい措辞でよく考えてみると純真という措辞を使って俳句になるとすれば、詩になるとすれば、「賢治の忌」しかないような気もしてきた。
 

 時間切れのランナー詰めてバス秋暑   佐藤  萌
 

まず札幌マラソンかなにかのスナップショットとしての切り込みの佳さ。そして時間切れランナーの悲哀と、悲壮感。そして疲労感。しかも「バスの句」。バスという措辞、俳句にしずらい乗り物の一二を争うのではなかろうか。「バス秋暑」で座五をまとめた力技も素晴らしいと思う。「詰めて」 の措辞もランナーの徒労感が伝わる。
 

 虫が鳴く和式トイレの窓の外        ともやっクス
 

「和式トイレ」がとてもよい。場所設定もしっかりしている。洋式トイレだと俳諧味も詩も生まれないであろう。「厠」という古臭い言葉を使わなかったことも佳い。
 

 新涼の手のひらにのる嬰の靴     草刈勢以子
 

私のように爺ルーキーにはたまらない句材だ。実際に、購入したり手にするとわかるが、あの靴はほんとうに可愛らしい。いろんな形や色があって楽しめる。ほんとうに嬰は一生楽しめるし、一生飽きることのない玩具だ。なんてことを言うのか。多数の苦情や御批判待ってます。
 

 玉葱を投げる祭りは痛いので中止     山田 航
 

究極のナンセンス俳句であるが。とても喚起力がある言葉でできている。まっすぐ、まじめな俳人であれば「玉葱を投げる祭り」なんてあるのかしら?とか、玉葱が当たると痛いのかしら?とか中止したら来年は行われるのかしら?とか疑問が次々とわくであろう。すべて言葉のトラップである。俳人協会のひとであれば、季語に季感がないとか言うのであろうか。季語の使い方が雑とか言うのかな?考えただけでわくわくする。
 
 
 
やっと終わった一時間以上もかかってしまった。
最後に毒を吐かしてもらうが、「どこそこで、このような景を見て、そのときたまたま鳥が飛んでいたのを詠んだ」というのは自句自解とは言わない。状況説明である。聴くだけやぼだし、時間の無駄なのでやめた方がいいと思う。それなら問題句や話題提供句に時間を割いた方が建設的だ。来てくれている高校生の勉強にもならない。それではまた。またはないかもしれないが。
 

※喜夫さんありがとうございました。
 みなさんに人気のある企画なので是非とも「また」おねがいいたします♪
 そしてみなさまのコメントもお待ちしております(^^by事務局(J)


 

1 件のコメント:

  1. 前回の【ハンモックなんであおいのうみとそら】に続き橋本先生に鑑賞して頂きマリアナ海溝より深く感謝。このコーナー無くなると困る人かなり多いはずです!橋本先生の時々休む事を条件に続ける&またはないかもしれないが発言の 撤回のキッカケとなればと思って苦手な散文ガンバって書きました!
    酒井おかわり

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