2014年7月9日水曜日

鈴木牛後『暖色』を読む ~青山 酔鳴~


TPP論議もなんだか一時期よりは下火になっているようにも感じられるのはなぜだろうか。どうにも危うげな国に生きるを余儀なくされているようだが、われわれの住むこの島は間違いなくこの国の食糧基地である。作者はその「農」を支える実業者であり、詠まれる俳句にはすべてその息吹が感じられる。


 しぐるるや死して牛の眼なほ大き


作者は酪農家である。
戦後飛躍的に日本人の栄養、身体状況が満たされたのは、牛乳と乳製品のおかげだと言っても過言ではない。宅配で、スーパーで、コンビニで手に入るそれらは、水やお茶、ジュースとなんら変わらぬ気軽さで手にすることができるのだが、それは肉や卵と同様に、植物ではない生命によって得られるものである。
牛を生業の核と決める限り、作者の生活には経済動物の生命が付いて回る。当然ながらその生命の終末に臨むことも多いのだろう。
先程まで息の有った牛の眼が光を失ってなおも大きいこと。愛玩動物ではないものの死にあたって酪農家は、冷静にそのひとつひとつを見つめ、受け入れる。


 清からぬ部位ある吾に聖夜来る


北海道の農に携わる者の俳句には、聖夜を戴くものが多いように感じることがある。羊飼いのエピソードがそれを近しく感じさせるのだろうか。信仰の所在とは別にして、よく見られると実感する。
そんな中の掲句に取り合わせられたものは少しばかり意外なもので、「清からぬ部位」なのだという。
労働に汚れた部位を指しているのか、あるいは艶っぽいモチーフであるかは読み手に委ねられているだろうけれど、浄しこの夜に充てられたこの部位は、なかなかに強度のある言葉だと感じた。


 作業着を脱げば西日に捕はるる 


道北と言っても夏の一時期はやはり暑いもの。からだを動かしていればそれは尚更。汗ばんだ作業着を脱いで一瞬風がからだを冷やしてくれたとしても、障害物のない広い農場の地平線に落ちゆく日差しはそれは強いものだろうと思う。「捕はるる」としたことが逃げようもない大地の力を表現している。


 秋霖や赤く肉屋のショーケース


作者が営んでいるのは乳牛の牧場である。年に何回か牛の出産の話題を聞くことがある。乳牛であるからにはそのメインとなるのは母牛。うまれてくる仔牛が牡だった場合はちょっとがっかりしながら手放すことになる。
我々消費者は特に思うところもなく、今日は豚カツ週末は牛すき焼きなどと考えながら眺める肉屋のショーケースだが、作者にとってのそれは思うことのいくつかがよぎる場所であることは想像に難くない。寒さがだんだん深くなってくるこの時期、草木は色付き、肉塊の断面もまた赤く、在る。


 牛臥して鼻の先まで虫の闇


秋の夜に太いからだを地に付けて休んでいるのだろうか。鼻の先まで迫る「虫の闇」。「闇」の語の持つ深さに、これからほどなくやってくる長い冬を予感させられる。
「牧閉ざす」と記す日まで、やらなくてはいけないことはきっと山積みなのだろう。


 新緑に見事な牛を見に行かう 


北海道における「新緑」は、夏の季語というよりは春から初夏が一緒くたになった時期に広く使いたくなる言葉である。うっかりすると4月も5月も結構な積雪に見舞われる北海道。気持ちを明るく保つことはなかなかたいへんなことでもある。新緑があるからこそ初めて、ものみな息を吹き返す。
そんな新緑の中、見に行く牛は余程のものであるべきだ。「新緑や」とあえて切らずに書かれた句には、雪から解放され、春や夏に前のめりになっている作者の喜びが溢れている。そうだ、見事な牛をこそ見に行こうじゃないか!



☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事 群青同人)


「句集スタイル」はこちら⇒http://www.marukobo.com/style/


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