俳句集団【itak】第3回句会評
2012年9月8日
橋本喜夫(雪華、銀化)
9月8日、残暑のなか第三回イタック句会が道立文学館で行われた。今後、イタックの会はここをフランチャイズに行われるという。少なくとも場所だけは素晴らしく、幸せな船出である。3回目となると人気低下または熱気低下が心配されたが、40人超の参加で不安も払拭できた。普段幹事として何もしていないので、今回も本欄執筆をJ女史に命令されても受諾するしかなかった。さて先日読んだ本でフリーライターの千野帽子氏が書いた俳句入門書の中に、俳句は「一発芸」とあった。川柳との違いは俳句は「モノボケ」に相当し、川柳は「あるあるネタ」に相当するらしい(そういえばあるある探検隊というギャグが一世を風靡したことがある)。私はこれは言い得て妙であると思った。たとえば「傘」を手に持って「モノボケ」をしようと思ったら、「親分、この座薬使いますか」とか言ってボケる。「あるあるネタ」の場合は「傘」を手に持ちつつ「雨ふりのなか、水たまりを踏んだら、犬のおしっこだった」とボケる。つまり意味が通じる、すべて説明がつくのが川柳で、すべてを言い切らず、話をずらす、ほのめかすようなお話を作るのが「俳句」ということになる(即興で作った実例がいまいちでした)。
いささか話が逸れて、いつものように筆が上滑りするがご容赦願いたい。さて3回目の句会評へと進もう。事情があり、すべての秀句を紹介できないことと、高点句をとりあげるのではなく、私が独善的に佳句と思ったものを取り上げるのでご寛恕ください。
頬杖の仏の前にソーダ水 信藤詔子
◆頬杖という動作は人間の行う所作のなかでも、興味をそそられる。恋の悩みも、哲学的な思惟も、ただのうたた寝もあるであろう。頬杖仏というのがあるそうな。今年のように炎暑が続くと仏さんもさぞかし暑いことだろう、しかも人間の救済のために、その場から逃げることはできないのだ。ソーダ水をそっと差し出す人間の心持を考えると、信仰心というよりもっと根源的な非自己を思いやる心が伺える。
自分のことを思いやることは優しさとは言えない。
自分のことを思いやることは優しさとは言えない。
さやけしや空は濁らぬまま暮れて 籬 朱子
◆中七以下の措辞だが、いえそうで言えない措辞であろう。茜色に染まりつつ、雲ひとつなくゆっくりゆっくり暮れてゆく。この場合作者は暮れてゆくという、明度が下がる状態を濁りとは捉えていない。もちろん、心持の問題も含んでいるのであろう。さやけしという季語に本意があるとすれば、この句のような景もその一つであろう。
オルゴヲルと書かれし箱に秋の声 鈴木牛後
◆旧体のカタカナを使用していることから昭和それも戦後すぐであることが推測される。何かの付録で貰ったものか、またはプレゼントに貰ったものか、もう音が出なくなっているかもしれない。だからこそ作者は箱と言ったのだろう。もう音が出なくなった古ぼけたオルゴールそこから作者は確かに秋の声を聴いたのであろう。「オルゴール」と呟いた自らの声だったのかもしれない。
アーケード野良猫だけの良夜かな 久才透子
◆近未来的な印象も受けるが、実は地方都市ならどこでもみかけるシャッター街であろう。猫と良夜(月)この取り合わせはよくあるのかもしれないが、アーケードを持ってきたところで、新しい機会詩になっていると思う。そのうち猫だけの街、犬だけの街ができあがるかもしれない、そんなSF的想像も可能である。
ピーマン
青椒の欠けたるナポリタンの邪悪 早川純子
◆初出はピーマンの読みが入ってなかったと思う。私は「チンジャオ」と読むのか、「あおはじかみ」「あおざんしょ」なのか、他に読み方あるのか迷っているうちに時間が来た。この句の眼目はナポリタンの邪悪であるから、素直に読みを入れた方がよいであろう。作者はピーマンの入ってないナポリタンは邪道だと主張している。わたしはピーマンが嫌いなので、ナポリタンの正義と締めたいところだ。なんだかナポリタンに無視され、いじめにあっているピーマンの姿を思い浮かべて可笑しい。いずれにしても正義より邪悪の方が喚起力がある言葉だと思う。
天高く群れたる牛のアマゾネス 久才秀樹
◆秋の青空の下、放牧の乳牛の群れであろう。漲る乳房や、締まった大腿など見ているうちに、アマゾネスという語が浮かんだのであろう。気持ちはわかるし、言いたいこともわかるが、座五にこの言葉を使うのはあまりにも俗っぽい感じがした。アマゾネスという措辞を使うチャレンジ精神は買う。しかし最初に言ったように「あるあるネタ」になって、すべて意味が分かってしまう。ここは「モノぼけ」でぼやかしてほしい。たとえば「天高し牧にアマゾネスを思ふ」「牧はアマゾネスのごとし」とかでも十分伝わると思う。(またたとえが今一で悪いが)すべての人に伝わるのが川柳、わかる人はわかるのが俳句でいいのでは。もちろんわかりやすい俳句もいいが、ホトトギスじゃないんだから少しは謎がないと。。。
浴室が空くのを待ってる竈馬 新川託未
◆まるで家族の一員のように浴室の空く順番を待っている竈馬、なんかユーモラスな感じである。待っているでスリットを入れて読んでもよい。浴室が空くの待っているのは作者本人で、浴室に入ろうとおもったら、先客として竈馬が居たという景でもよかろう。有望な高校生である。本人の話だと家での実景だそうだ。すごい家に住んでいる高校生だ。
秋に入るラジオの熱き腹をなで 五十嵐秀彦
◆ラジオという昭和の道具を出してくると私は弱い。しかも使用時間が長くなってくると熱を帯び、腹が熱くなってくる。それを感じ始めたのも少し空気が冷えてきて秋になったからであろう。微妙な季節のゆらぎを、ノスタルジアのある素材で処理している。私はこの句を採ってしまった。いつからこんなしぶい句をつくるのか、これでいいのか秀彦!? 秀彦さんには私に採れない句をいつも作ってて欲しい。
「うるさい、ほっとけー」という声が聞こえてきそうだ。
九月来てサンドイッチの具に悩む 後藤あるま
◆中七以下の措辞は主婦にとっては日常ではあるが、なかなかキャッチ力のあるフレーズである。このようなフレーズができた場合、持ってくる季語が重要になってくるが、これがかなり微妙にうまい。絶妙と言っていいのではないか。7月、8月は夏どまんなかで、夏らしい具を考えるであろう。夏の暑さが残っている残暑厳しい、九月はどうか?夏らしさといってももう2か月続いているので飽き(秋?)が来ている。そこでさらに具に悩む。とすれば実は用意周到リアルな季語選択でもある。
残し置く帽子のへこみ鰯雲 今田かをり
◆ふつうに読めば、夏におもに被った帽子であろう、夏の思い出がいっぱい詰まった帽子をへこんだままにしておく。そして今は秋、空には鰯雲が湧き出るように広がる景だ。作者はこの夏、大切な身内の方を失くしているので、その人の形見の帽子だとしたら、さらに感懐がわく。故人の頭のかたちにあわせた帽子のへこみなのである。そのままにしておこうとどうしても思う。ただこの句の場合はそのようには読めないであろう。
木歩忌や家の奥より日向見て 久保田哲子
◆富田木歩という比較的珍しい俳人の忌日の句。生まれつき足が不自由で、大正十二年九月一日関東大震災で逃げ遅れて死亡している。私などは重症な結核の妹を詠んだ「かそけくも喉鳴る妹よ鳳仙花 木歩」を愛唱している。家の奥から外の日向を見る、角度が違うといつもの日常も違って見える。もし自分が歩けなかったらこのような角度、立場で世の中が見えるんだなとふと思う。そういえば今日は木歩忌だ、作者はほんの少しだけ木歩が近しく思えたに違いないのだ。
朝顔の紺に夜明けの染み出しぬ 栗山麻衣
◆朝顔、紺といえばあまりに有名な石田波郷の句があるので、けっこう詠みずらいのであるが、波郷の句が悠久の時間を詠んでいるのに対し、この句は直前の時間の切り取りを詠む。夜明けに朝顔を見る。その紺色はまるで夜明けの縹色が染み出ているように感じたという句である。
ルピナスの亡骸につと紅をさす 高橋希衣
◆ふたつの読みが成立すると思う。ひとつは色あせたルピナスの花そのものをメタファーしたという読み。もうひとつはいわばルピナスのような人が亡くなって、その死に化粧の場面を詠んでいるという読みだ。もちろんどちらも違うかもしれない。
ルピナスが色あせて亡骸のようになると紫色であれば、「ちびまるこ」の藤木くんのくちびるのようになる。たとえば夕日がさせばどうなるだろう、その紫色は紅をさしたかのように鮮やかによみがえる。 もうひとつは死に化粧の場面、納棺の前に女性であれば必ず死に化粧をする。故人は昇り藤のように生きた華やかな人だった。しかしいまその唇は色あせている、親族の方もしくは作者はその唇にそっと紅をさしてやるのだ。この句の佳さはルピナスという花の選択と、副詞の「つと」である。
源氏物語の「夕顔」などから着想したのかもしれない。いずれにしても亡骸に紅をさす行為のせつなさ、やさしさが胸に沁みる。
またけふも松茸ご飯炊いてはる 岩本 碇
◆「毎年よ彼岸の入りに寒いのは 子規」この句をはじめとして話し言葉が俳句になることはままある。この句も話し言葉が俳句として成功した例だと思う。お隣さんの日常を揶揄して詠んだのか、一緒に暮らしている人の松茸ご飯好きを揶揄して詠んだのか、いずれにしても事実をそのまま伝えて、揶揄なのか、妬みなのか、皮肉なのか、愛情なのか どう感じるかは読み手にすべて託している。この句の佳さはすべて「はる」という京都弁というか、方言である。この方言そのものに意味の重奏性があると思う。北海道の人間にとっては謎めいていて、品があるのである。同じ内容を北海道弁で伝えたら、おそらく隣人をねたんでいるとしか読めないであろう。面白い、方言俳句の新たな使い道である。
電柱に服直します草の花 古川かず江
◆最高点句かもしれない。私もしるしをつけた句である。まず中七までの口語体の措辞で場面がはっきり見える。それも昭和の景である。コールタールでまぶされた電柱の側面に縦書きで手書きのポスターが貼ってある。今のようにうるさくない時代である。勝手に他人の家の塀に貼っても機嫌のいいときなら見過ごしてくれることもあった。掲句が俳句として成功したのは「草の花」の選択である。その電柱の下、もしくは周囲に名もない秋の草花が咲いている。誰もが原風景として記憶のある景なのだ、だから多くの人が共感したと思う。
このぶよに「クサマヤヨイ」と名をつける 福井たんぽぽ
◆名をつけるパターンの句は「実名」と「実在しない名前」の場合がある。実名をつける場合は相当有名で、故人がいいのではと思う(その人の評価が定まっている)。
塚本邦雄はありそうな個人名をよく連続的に短歌にしていた。私はこの句が出たときこの名前は架空の名前だと思っていた、つまり「クサマ」さんを知らなかった。
ぶよの名前だから、実名だとするとまずくないかい、といろんな意味で思った。いずれにしても実験的試みとして面白い句と思った。そして高点句になったのは「クサマ」さんを知っているひとがこの句をたくさん採ったことになる。しかしこの句の「クサマ」さんはあくまでも、カタカタのそれであって、漢字でかくその人ではないのだ。この後わたしは漢字書きのこの人を知ることになり「ぶよ」の選択が悪くないことを知った(すまないけれど)。。。
まだ取り上げたい句もあったが、この辺で稿了とする。第4回イタックも盛会であることを祈念します。
平成24年10月9日 追記
お詫び
先日アップした第3回イタック句会評において不適切な記載が2,3ありました。
ただちに削除、訂正しております。
ご不快な思いをさせてしまった関係諸氏には深くお詫び申し上げます。
今後は気を付けて投稿いたしますのでご寛恕ください。
文責 橋本喜夫・俳句集団【itak】事務局一同
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