2012年7月1日日曜日

<緊急追加>俳句集団【itak】第一回シンポジウム評論③の1

第一回シンポジウムの評論集のうち平 倫子のものについて当日引用された画像等のお問い合わせを多数頂きましたので、これを補填したものを再録させていただきます。


英文学から見た「花鳥風月」>
平 倫子

 


.シェイクスピア(1564-1616)の戯曲『冬物語』(1610)の、第四幕四場の牧歌的場面から、黄水仙、菫、桜草、九輪草、早百合、いちはつ(右図参照。Wild Flowers of Britain,1981より)などを読み込んだ野の花にまつわる部分を、上田 敏訳『海潮音』の「花くらべ」でみた。

 




 燕も来ぬに水仙花、/大寒こさむ三月の/
風にもめげぬ凛々しさよ。/またはジュノウのまぶたより、/ヴィナス神の息よりも/なほ臈たくもありながら、/菫の色のおぼつかな。/照る日の神も仰ぎえで/嫁ぎもせぬに散りはつる/色蒼ざめし桜草、/これも乙女の習ひかや。/それにひきかへ九輪草、/編笠早百合気がつよい。/百合もいろいろあるなかに、/鳶尾()(いちはつぐさ)()のよけれども/ああ今は無し、しょんがいな。                (『上田 敏全訳詩集』、80



ボヘミアの王子に求愛されたパーディタ(シチリア王の娘。しかし王は、王妃と羊飼いとの不義の子ではないかと疑う。自分は羊飼いの娘であると思い込んでいるパーディタは、身分の違いを理由に王子の申し出を断る)のせりふとしては、少々不釣り合いな訳である。 

この場面のすぐ前に、交配により赤と白の縞模様になった石竹((英語名はpink)を「自然の私生児」と呼んで嫌ったパーディタに対し、王子の父であるボヘミア王は「人工の手も自然の生み出す手に支配されている。野育ちの幹に育ちのいい若枝を嫁入らせることによって、卑しい木に高貴な子を宿らせることがある・・・しかしその人工の手そのものが自然なのだ」と、ネイチャーとアートに言及する(小田島訳『冬物語』、397)。
ここでシェイクスピアは、冬から春に季節(自然)が変化するように、王の猜疑心もやがて解けることを暗示している。



.ウィリアム・ブレイク(1757-1827)の「病める薔薇」(1974年『経験の歌』所収)は、美しい大輪の薔薇の蝕まれた姿を挿絵にもつ寓意詩である(右図参照。Songs of Innocence and of Experience, London, 1991. Plate No. 39)。







 おお薔薇よ、おまえは病んでいる。/夜にまぎれて飛ぶ に見えない虫が 荒れ狂う嵐のなかで/深紅の歓喜の おまえの寝床を見つけた。/そして彼の暗いひそかな愛が おまえの生命を滅ぼす。(松島編『ブレイク詩集』107-8







 ブレイクがこの詩に添えた版画には、画面全体を縁どるような一本の薔薇の木がある。大枝に咲いた大輪の薔薇は、葉を喰う芋虫のために大きく曲がり、花は地面についている。地虫がその花の心臓部に入りこみ、歓喜の精を押し出している。別の枝の二つの蕾も、芋虫の害により生気をうばわれ朽ちている。荒れ狂う嵐は唯物主義のシンボルであり、茎全体をおおう棘は、この世の愛の苦しみ、絶望感を強調している。



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.ロバート・バーンズ(1759-96)の「薔薇」の詩「我が恋人は紅き薔薇」(1796)は、恋人を薔薇の美しさ、香り、自然の姿とかさね、天真爛漫に歌った讃歌である。


我が恋人は紅き薔薇、六月新たに咲き出でし。/我が恋人は佳き調べ、調子に合せ妙に
奏でし。(中村訳『バーンズ詩集』、159
 ブレイクやバーンズの薔薇に見られるように、花は、自然の美や香りなど底意のない自己中心性を表す一方で、豊満な肉、野心や権力といった一面もそなえた、複雑なアイロニーの効果を持っている(シェイクスピアが『ソネット』94番で、百合の花を引き合いに出しpower flower の韻を警句的に用いた例など)。


(つづく)

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