2012年5月30日水曜日

俳句集団【itak】第1回句会評 (橋本喜夫)



俳句集団【itak】第1回句会評

 


2012年5月12日

 

橋本喜夫(雪華、銀化)
 




 
  5月12日、初夏というか、花曇りというか微妙な日よりのもと、第1回句会が開催された。
句会は2句提出で、2句選句30数人の参加で、人数の割りに、はじめての割りには概ねスムーズに終了した。進行係がもっと独善的に、句評を語るひとを選択して進めた方がよいと思ったことと、高点句には入れなかった人の意見も必要と思った。
  それから私の意見として提出句の1.5倍の数の選句が理想なので、3句選が良いかなと思った。
超結社句会なので、やはなり期待するのは思い切りのいい句、花鳥諷詠にとらわれぬ句、詩のある句だろうか。入った点数に関わりなく、独善的に句評を進めてゆきたい。

最初に述べておくが、いつの時代も言われることだが、「高点句には名句なし」ということと、「読み」には色色あり、正解などはないこと。誤解があっても、ご勘弁をお願いする。また掲句以外に秀句がたくさんあったが、個人の希望で取り上げることができないことを付記する。



湯上がりの黒髪に花舞いおりる    深澤春代

  
◆雅のある句である。黒髪に花散る。私のような湯屋の長男として育った男には懐かしくも実景でもある。ふつうの感性で言えば、黒髪、花、湯上がりと情景設定がいささか、揃えすぎであることと、中年過ぎの男俳人には「甘い」と言われかねない。「舞いおりる」がこの句のコアでもあるが、欠点でもある。

嘘だったのだと睡ること辛夷咲くこと  五十嵐秀彦

  ◆まず対句表現で、定型感が生まれ、リズムがあること。そしてあえて、破調にしている。この無内容を見れば、十分定型に納めることができるのだが、あえて字余りにしている。意味を考えること、違和感を覚えること、そして読んだあとに心の中で反芻してしまうこと。すべて作者の術中にはまっている。この手の句を拒否するには「嘘だったのだと無視すること」しかないのだ。

 



マンモスの玻璃の瞳に夏来る      久才透子
 
 
  ◆マンモスの剥製もしくは完全なる展示物か。そのマンモスの目が硝子玉で出来ている。その質感、冷たさに夏を実感している。私などはロシアのイルクーツクで見た「マンモス記念館」を思い出す。マンモスの実物は今でも絶対氷河の中に埋まっている。マンモスという動物の選択が実景かもしれないが、読者には「浮いている」または「リアリテイーの稀薄さ」として感じられるかもしれない。




葎ゆくやがて角もつわが身かな     信藤詔子

   ◆荒れ地、野原に繁る雑草のなかを行く作者。実景でもあり、心象風景でもあるだろう。やがて自分は生まれ変わって、草食獣になり、角を持つ身になるのだ。という断定と、変身願望。もしくは「かな」に見られる隠れたナルシシズム。とても不思議で魅力のある句だ。




かみあはぬ弾道春は行った儘   安藤由起
  
   ◆「かみあはぬ弾道」という措辞で、読者は立ち止まり、かの失敗ミサイルを思い出し、採らされたのではないか。確かに喚起力のある言葉だ。「春は行った儘」という口語的表現も成功していように思う。行く春を思うとき「かみあはぬ」という季感は確かに肯える感覚だ。




葉桜となりて切り出す話かな  籬 朱子

   ◆最高点句かもしれない。確かに私も採らなかったが、印をつけた。巧い句であるが、季節の移り変わりで、話を切りだしたというパターンは俳句の常套かもしれない。この句の非凡さはあまたの季語から「葉桜」を選択してきた「季語選択力」であろう。「葉桜」がこの句のTPOをわきまえている。佳句(高点句)の条件として、読者に自由に想像させるという特性も持っている。いわゆる共感性のある作品だ。



母の日の母のひとりは速足で  高畠葉子
  
   ◆多数の句会や、大会で入選するには「母」が入ると良いと、どこかで聞いたことがある。私は俳句をはじめて十年位は「母の句」に弱く、必ず句会では「母の句」を採っていた。ここ数年やっと「母の句」にも免疫力が着いたようだ。この句もキーワード「母」が2回使われ、「言いさし」の句である。読者の想像に委ねている作りだ。母の日の今日、母と思わしき人たちが多数歩いている。そのうちの一人だけやけに「速足」で歩いている。すでに地平線の向こうまで行っている。この母は「このまま進んで崖から落ちて夭折する」のであろうと私は想像する。このように何でも想像できるということは、無内容の佳句である。



蒲公英の絮や母には母の夢  内平あとり
  
  ◆同じ母でもこちらは少しウエットな抒情がある。内容の限定化も存在する。「蒲公英の絮」と「母の夢」をうまくぶつけて、無理のない佳句に仕上げている。ただし、「母には母の夢」というフレーズがいささか、ステレオタイプのようでもあるし、「夢」という言葉には甘さが横たわる。甘いことが悪いとは言わない、好みの問題であろう。

 




花の闇四番出口が便利です  信藤詔子
 
  ◆採っておきながら、最後まで評価が難しい句がある。つまり四番が動くか、動かないかである。考えてみれば、俳句評によく使われる表現だが、変な言葉である。言葉が自ら動くはずもなく、「一番適切かどうか?」ということなのだが、これに対する答えは「一番でなければいけないですか?」であろう。作者が佳いと思えばそう詠めばいいわけで、読者は自分が「受容」できれば、好きになるのである。それにしてもこの句実は、リアリテイーがある。地下鉄の出口で、便利か便利でないかを言う時に、何も一番や二番出口を使わないだろう。目的地に最短距離で行き、そんなに遠くない、いわゆる「その道の通」が使う出口としては四番辺りではなかろうか。十一番だと便利だが遠いのである。花の闇も地下鉄出口に通じている。




風薫る新書に浮かぶ紐の跡  高木 晃
  
   ◆平積みされている新書、インクの匂いもすがすがしい。風薫るが適切な季語であることがわかる。その新書に縛った紐のあとがついている。これも俳句的発見で、すばらしい。でも私は採らなかった。選句数に限りがあったのもあるが、「浮かぶ」という措辞が気になったから。紐の跡がのこっているのを、動きのある動詞「浮かぶ」でいいのか。せっかくの発見なので、作者に問うてみたい。




鳥編みしユカラの糸や風光る  岩本茂之
 
  ◆ユーカラもともとはアイヌに口承されてきた叙事詩である。むしろユーカラ織りの方が有名であろう。掲句は勿論、後者を詠んだものだろう。もともとユーカラの糸は鳥が編んだものと口伝があるのか?もしくは絵柄に鳥を織り込んだユーカラ織りなのか、一本一本織り込まれてゆく糸に作者は着目した。春の陽光と織りなす風を示す「風光る」の季語がきちんと坐っている。





 
春雷や宇宙に踊るスプライト  久才秀樹

  ◆春雷が近づいてくる。その音と光を見て、作者は先日テレビで見たオーロラの宇宙からの映像などを思い出したのであろう。地球上で見えるかずかずの天体ショーも宇宙から見ればどうみえるのだろうか?想像すると楽しい。「スプライト」という今しか使えない措辞も悪くない。ひとつ気になったのは「踊る」であろう。この措辞でいいかどうかは一考に値する。



ひたすらの帰雁の胸の硬からむ   久保田哲子

  ◆ひたすら北へ帰る雁のはばたく姿を自らの心象風景と合わせて詠んだ句。素材としては新しくないのだが、「胸の硬からむ」の後半部分が心に残る表現だ。帰る鳥の胸の硬さを主題に詠んだこの手の句は少ないかもしれない。



わが夜具に花冷えという同居人  高橋希衣

 ◆花冷えの夜であろうか、寝るときに使用するふとん、あるいは夜着などにひたすら花冷えを感じた。私にとって花冷えは同居人のようなものだ。とも読める。これも言いさしの句ではあるが、座五の同居人が面白い止めである。名詞で止めているが、あくまでも比喩として使用している。または同居人が実際に居て、その人の存在は花冷えのようなものと言っている。



山笑ひすぎて止まらぬ奇環砲(ガトリング) 早川純子

  ◆ガトリング砲は円筒に束ねた多数の銃身を回転させながら、次々弾丸を発射する機関砲である。春になって山は辛夷が咲き、梅が咲き、桜が咲き、ツツジが咲き、次から次と草木は萌え出て、まるでガトリング砲のようである。メタファーの面白さで勝負する句であるが、「止まらぬ」が言い過ぎであり、いわゆるそこから先は川柳の域だと私は思う。



 

何度目の五月病なりパラフィン紙  室谷安早子

  ◆人生、齢を重ねると五月病も何回もかかかってしまう。自嘲的に詠んだ句である。おそらく粉薬を包んだパラフィン紙の質感が作者あるいは主人公の少し、乾いた、冷や冷やした心情を伝えている。ちなみに齢は「弱い」とも言う。




握手する指環が邪魔よ聖五月   瀬戸優理子

  ◆中七までの措辞、男の自分にはあまりないが、指輪を沢山している女性、あるいは女性同士の握手であれば、実景として思い当たる。面白い視点だ。この句を採る、採らないは「聖五月」との響きあいがあるか否かにかかっている。「マリア月」、カトリックとの関わり、女性、宝石、五月の光、といろいろ想像しているうちにこの季語の選択が悪くないと感じた。
 


以上で今回の句会評を終える。あくまでも独善的な意見なので、俳人各氏どうか御寛恕を。

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