角川俳句叢書 『農場』 |
先日の北海道俳句協会大会において鮫島賞授賞の壇上に登られた明倫さんは、感極まったのか少しばかり鼻声で、感情の揺らぎを隠そうともなさらず、句様そのままに自然体で大らかで、そしてチャーミングでいらっしゃいました。改めまして、受賞おめでとうございます。
厚かましくも「受賞句集『農場』を是非読ませていただきたいのです」とお願いしたところ、すぐさま句集をご恵贈くださって、感激しきりです。
それでは句集『農場』からの感銘五句を引かせて頂きましょう。
星全部はだかで光りダリヤの上
失楽園より此の方、着衣を当然と思っている我々人間。だがひとたび天を見上げればそこには星が、なにも纏わず誤魔化さずただ光っているのである。足元を見やれば地上の星たるダリヤが咲きこぼれている。あるがままを見、生きる。そんな心のありようを詠まれているかのようだ。圧倒的な自然を相手に暮らしてこられた作者が持つ、自然観の一端を覗かせる句であろうと感じた。
みなはだけみづうみのやうみな昼寝
農家の夏は朝が早い。北の大地とはいっても夏の昼間の日差しは厳しく、その時間帯は静かにしている方がよろしい。掲句は頭韻がすべて「mi」、そしてあえて平仮名を選んでいる。柔らかなリズムが心地よい。夕暮れの、あるいは明早朝の農作業に備えて英気を養う午睡は、広い農場の中で水のように深く静かである。
しばれるとぼっそりニッカウィスキー
この秋から放送予定のNHKの朝のドラマ「マッサン」。 その舞台となる余市町にあるニッカウヰスキーは北海道の開拓史そのものであり、その酒は同時代の開拓民の、喉と心を癒すものであったろうと思う。
「しばれる」という、北海道弁。氷点下の大地にこれ以上適切な表現は無い。ここでどうしても気になるのが「ぼっそり」という言い回しである。度数の高い酒は凍らないまでも、厨や納戸の中でゆっくり粘度を増しただろう。わたしもウオッカなどは冷凍庫にぶち込んで楽しむものである。喉越しを表現するならやはり「とろ~り」である。では「ぼっそり」というのはなんなのか。酒のことではなく、これを頂くご自身の心象を表しているのだろうか。
ともあれ、このひとことにおいてこの句はわたしに強い印象を与え、ススキノのニッカBarに行くたびにおそらくは小さく口誦することになると思われる。あるいは真冬日のナイトキャップに。
狩の犬追ふこゑごゑのしなるかな
使役犬をコントロールするには常に一定の調子でコマンドを発声することが必須である。これを習得することで人犬一体となっての狩が可能となる。今でこそ狩猟は限られた人間に依るものであるが、かつてのこの大地の男たちは皆、それをしないわけにはいかなかったのだ。
「しなる」という言葉に農場や家族を守る人々の強い意志と矜持、遠くある猟犬に対する信頼と希望を読み、深く感じ入るものである。
大夏木より大夏木までの影
まこと北の農地の大景である。ポプラであろうか。防風林としてそこここに植えられ、梢を天高く置くものである。一定の範囲まで続く大樹から大樹まで、一樹ごとの影が影に連なり、一枚の布を広げたように地面を黒く染める。シンプルで壮大な写生の句である。
しかし平明に農村の風景を詠ったこの句を改めて読み直した時、氏は単に写生句として、今、目に見えた様を詠まれただけではないという印象を、わたしは持ったのである。
「大夏木より大夏木」。これは確かに景でもあっただろうが、ここに氏は時間の流れを内包させているように、わたしには感じられたのである。かつての大夏木から今日の大夏木までの、飾ることなき個人史とでもいおうか。この句が巻末に一句置かれたことが、なお一層そんな印象を与えるのだろう。
この島は開拓から百数十年の大地である。各種要因によってその環境は当初よりは遥かに本州に近くなってきた。だがその歴史の大半は自然との闘いと中央政府や経済との軋轢であったろうとも思う。そして現代に在っても気を抜き、手を緩めたなら、また何かに飲み込まれかねない島なのだ。
掲句の「大夏木」は、かつての不毛の地が肥沃な大地となるまでの数多の大夏木であり、明倫氏の、また、たくさんの農場の人々の、我々道産子の歴史を隠喩するものとして、このページにただ一句置かれたものだとわたしは思う。
そしてその左側の余白は、続く世代に対する問いかけであり贈り物であると、わたしは勝手に思い込むことにしたのである。
☆
以上、感銘五句を上げさせていただきました。
明倫さんとまた句会でお会いできることを楽しみにしております(「ぼっそり」についてはその趣意を是非教えてくださいませ!)。
☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事 群青同人)
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