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2020年2月26日水曜日

第46回イベント抄録 「出張!サブカル句会」

 イタックの第46回例会が2019年11月9日に札幌市内の道立文学館で開かれ、俳人五十嵐秀彦さんと俳優小林エレキさん、漫画家田島ハルさんの3人による北海道方言の俳句をめぐるトーク「出張!サブカル句会」が行われました。事前に応募された159作品から選ばれた23作品について、道産子ネイティブの3人が楽しく解説。会場も大いに盛り上がりました。ざっくり紹介します。

秀彦 今日は事前の投稿をもとに、おしゃべりする句会です。
エレキ 俳優やっている小林エレキです。ハルさんと某ラジオ局の某番組でパーソナリティやらせてもらってます。俳句はずぶの素人。ノリで選びました。
ハル イタック参加させてもらっているのですが、いつも隅っこでぼーっとしているので、みなさんの目の前に立っているのは不思議な感じ。両脇に父と相方が座っている。それも不思議な気持ち。句を肴に、3人で楽しくやりたい。
秀彦 ラジオ番組というのは、HBCラジオの深夜番組「サブカルキック」。ゲストをよんで、よく分からない話を毎週しています。土曜日の深夜。
エレキ 最初は2時、押し出されて今は朝の4時からやってます。五十嵐先生のことは、愛情を持って「秀彦」と呼んでます。
ハル 会ったときから秀彦と言ってます。
秀彦 今日は北海道弁だけでなく、道外の方言でもオッケーとしたところ道外からも少し来ました。159句も集まって驚きました。面白かった。
エレキ 北海道弁って内地から来た方が持ってきたものが多い。調べたらこっち側だよっていうのもありました。

●全体の印象。人気の北海道弁
ハル 固有名詞の方言、ザンギ、ダイコン抜きとかもありました。
エレキ ダイコン抜きの遊び知っている人いる?
秀彦 意外と少ない。
エレキ 年代によるのかな。足を引っ張る遊びで抜けたら負け。
秀彦 「たくらんけ」も出てきた。職場で「たぐらんけ」と言われたこともある。(「たわけもの」というような意味だけど)訳してもしょうがない。たふらんけというところもあるみたい。これじゃなきゃ伝わらないというのもある。「もちょこい」(くすぐったい)とかね。
ハル 「あずましい」も「落ち着く」と訳されるけど、ちょっと違う。
エレキ サビオも北海道弁なんですね。商品名。九州のほうの会社の製品。カットバンと同じ。九州の会社が頑張ったんでしょうね。北海道で広まった。
秀彦 ネットで調べたら、これは方言だと出てた。カットバンの代表がサビオという地域が、北海道と全国で何カ所かある。千葉でもサビオだったらしい。「やきべん」(即席麺。マルちゃん「やきそば弁当」)もありましたが、僕としては北海道という印象はなかった。
エレキ やきべんって省略するのは最近かな。最近のイメージ。
ハル セコマも。正式名称になった。
秀彦 セコマは全国化した。上の世代が言っていたこともたくさんあった。「がおる」とか。ほおがこける、ぐったりしてるという意味。とても面白かった。今回は159句から、3人で10句ずつ選んだ。

●3人の選句
【7番】秋の鞦韆闇が「押ささる」と言ふ(秀彦、ハル○)
秀彦 典型的な北海道弁の活用。「なんとかさる」。これつけると面白いニュアンスが出てくる。「食べらさる」という広告がある。「巻かさる」とか。「さる」がつくと責任逃れのイメージ。スイッチが「押ささる」とか。
エレキ パンツとか見らさる。
秀彦 自分が見る訳ではない。「さる」はたくさんあったけど、これは句としてマジで作った感じ。俳句としても。
ハル 句としてかっこいい。完成度が高い。脱力、ふわっとした感じ。闇とのギャップがいいなと思った。

【11番】干柿のはぶててS字フックかな(岡山)(秀彦○)
エレキ 岡山弁?
秀彦 「はぶてて」。調べました。成長するって意味でなかったかな。干し柿って伸びるの? 形かわって、S字フックのようだと。形が歪んだと。「はぶてて」が面白いと思った一句。
【13番】 前足に手袋を履きヒトとなる(秀彦、ハル○)
ハル 手袋をはく、普通に言いますよね。
エレキ 道外ははめるっていうらしいですね。でも、履くですよね、みなさん。僕も好きな句だった。
ハル 人でなかったんかいって。お前はだれだ? 犬用の手袋もある。滑るから、寒冷地では犬に靴を履かせる。そのこととも取れる。犬が人になった。
秀彦 そうも読めるし、人間が手袋をするときに、自分の手を足の一つと思ったのかなと。自分が手袋はめたときに人なんだと気付く感じがした。

【14番】鮞(はららご)のおにぎりばくろ海老マヨと(エレキ○)
エレキ かわいい言葉。交換する。ばくる系の句はけっこうありましたしたが、コレはかわいい。庶民的な感覚で選びました。筋子とエビマヨ、交換するには対等ではない。軽く脅迫してる。筋子のおにぎりをよこせと。上下関係がしっかりしているのでは。
ハル 人間関係見え隠れする深い句。
秀彦 学生時代、方言だと思わないで使う方言だよね。道外では100%通じないです。でも、方言ステータスもあって、東京では方言がもてはやされることもある。

【20番】俺ゲッパJBゲロッパ狂咲(兵庫)(秀彦○)
ハル ラップみたい。
秀彦 北海道の人ではない。兵庫の人。ゲッパ、言わなくなった。知らない? ゲッパは「ビリ」という意味。運動会で一番最後、ゲッパって言われる。
会場 「ゲレッパ」って言ってました。
秀彦 げれっぱは、げっぱの活用形。げっぱ、げれっぱ、ゲロッパと活用する。
エレキ ファンキーですね。
ハル ジェームス・ブラウンが俳句になる。季語がいいですよね。上手。

【31番】寒蟬の遠くかしがるゴッホの絵(ハル○)
ハル 「かしがる」が方言。愛媛の人だけど、愛媛の方言なのかな? 北海道? 傾くの意味。
秀彦 北海道でものすごい使います。標準語だと思っていた。「かしげる」はある。「かしがる」はない。「かしがさる」が、「かしがる」になったのではないか。「さ」が抜けて、音便化になると。
エレキ 押ささるの「さる」?
ハル この絵が傾いてるの、おれのせいじゃねーしって感じですね。俳句として好きと思って取りました。

【34番】わかさいもって芋入ってないっしょ(愛媛)(3人とも○)
秀彦 ストレートな句。つい取ってしまった。
エレキ 勢いがある。「そうだね」と言わさる感じが好き。
ハル 道民の常識。芋の食感を出すために、白あんに細い昆布を入れている。
秀彦 愛媛の人だけど、北海道への望郷の句と思った。泣けてくるな。ないっしょ、「しょ」というのは消えることがないと思う。
会場 「内緒」とかけているのでは?
3人 イントネーションはちょっと違うけどね。
エレキ 役者やってて気を付けてはいるけど、北海道は「椅子」「コーヒー」もイントネーションが微妙に違う。NHKのナレーションの仕事もするのですが、NHKはイントネーションに厳しいです。

【39番】木枯の身にじぇんこ無しべんこふる(ハル○)
ハル 取ってるけど分からなかった。
エレキ 「ジェンコ」は分かった、「べんこ」は調べた。ゼニコのこと。飲み代ないという感じかな。
秀彦 「ジェンコねえんだわ」は、よく言った。品がないほうかな。ジェンコは「ない」と続くのが北海道弁。ある時はじぇんことは言わない。べんこふるは分からなった。おべっか使うという意味だって。結構知っている人いますね。ご機嫌を取るとか。

【43番】こわいって言うから檸檬煮ておいて(エレキ○)
エレキ 「こわい」って面白いな。疲れただけど、けだるい感じもある。優しい感じがある。ばあちゃんが良く言っていた。
秀彦 「こわい」と「疲れた」は語感が違う。肌で分かる。東北でも言うはず。
ハル クエン酸とってねってこと。

【47番】したっけさなまら亀虫いるだべや(エレキ、秀彦○)
エレキ やけくそ加減がすてきだなーと思いました。カメムシの脅威、錯乱している感じ。
秀彦 「したっけ」「なまら」「だべや」。ここまでコテコテに入れてくるのは驚いちゃった。全部分かるよね。したっけは後の世代ではないかな。俺の印象では子供のころは使っていなかった。「したっけ」って別れるじゃない。高校生くらいから使っていた。何だそれはと思った。函館では昔からあいさつであったと。
会場 「したらね」って言ってました。

【58番】こんぼほりしてデレッキで叩(はた)かれる(ハル、秀彦○)
秀彦 デレッキジョンバも石炭ストーブがらみですよね。懐かしい。ごんぼほり分かります? だだこねる。子供叱るとき。デレッキでたたいたら、死ぬよね。今だと虐待ですね。デレッキの語源はよく分からない。英語、オランダ語らしいけど、はっきりしないみたい。石炭ストーブが入ったときになまって。私の親は、なぜかロシア語といっていた。噓を教えられて信じていた。

【61番】七五三めんこにじぇんこあげらさる(ハル○)
ハル おこづかいを、かわいい子に「あげらさる」
エレキ 冬が厳しい分、自分にやさしく。

【67番】つっぺした内縁の妻食うおでん(エレキ○)
エレキ 鼻が止まらない時にティッシュとか詰めるのが「つっぺ」
ハル 長くしてしまうと、汁物とか食べる時についたりしてね。
秀彦 内縁の妻、すごいよね。詩的喚起力がある。おふざけ企画に乗じて真剣な句を出している。上五変えれば、深刻な句になる。
エレキ エロいですよね。
ハル ちょっとかわいいかも。

【76番】愛犬もかててゲロリや冬晴るる(ハル○)
ハル 「ゲロリ」はググっても出なくて…。ゲタスケートのこと? 「かてて」は仲間に入れる。
秀彦 雪スケート? 知らないでしょ。ゲロリがどんな道具が分からないけど。ゲタの裏側に竹などをつけて滑る「ゲロリ」。
会場 小樽ではあった。ゲタスキーとか。
秀彦 雪スケートと言っていた。道のつるつるしたところ、ゲタに歯がついている。明治から昭和初期に使われたって。
会場 「がんじゃスケート」
ハル 勉強になりましたね。

【83番】重ね着のゴムたごまっていずぃいずぃ(エレキ、ハル○)
エレキ 「いずい」って独特。違和感みたいのが「いずい」。たごまる「だごまさる」とも言うよね。靴下だごまさるって。「い」が小さいのもかわいい。
秀彦 「たごまる」も標準語と思っていた。

【95番】冷蔵庫開けて羆はおっちゃんこ(秀彦○)
秀彦 実際にヒグマってやるんだよね。冷蔵庫を前足で開けて、食べる。知床などである。「おっちゃんこ」は方言なんですね。おっちゃんがおっちゃんこ。

【97番】なんもにはなんもとかえすねこじゃらし(秀彦○)
秀彦 「なんもさ」って言わない? 優しいよね。親身になってくれている。「大丈夫」よりも「なんもさ」のほうがいい。なくしたくない言葉。
エレキ 「なんも。泊まっていけばいいっしょ」みたいに使う。
ハル ぶっきらぼうな感じがするけど温かい言葉。

【103番】新米のなまら美味くて食べらさる!(エレキ○)
エレキ 本当にその通りだなって思って。ビックリマークに勢いがあって選ばさりましたね。
秀彦 なまら使わなくなってない?
エレキ 若い人は使わなくなっている。祖父祖母がいない家庭は、方言あまり言わなくなる。
秀彦 なまら美味いは、いいな。こんな感じだよね。

【112番】ありつたけサビオを壁に貼る夜寒(千葉)(エレキ○)
エレキ サビオを壁に張るのかって。台風に備えているのかなとも思ったけど、太刀打ちできないよなって。不思議な俳句と思って。
秀彦 千葉なんだよね。ネットで調べて使ったのかな。かなりの人、上手だよね。シュールだし、怖いよね。すごい句だよね。

【129番】だらせんのこったらべっこ秋じめり(ハル○)
ハル 「こったらべっこ」ピンと来ないので調べました。ほんの少し。あまり言わない?
エレキ おばあちゃんに「ご飯、こたっらべっこ残して。はんかくさい」って言われた。
ハル そういえば「お米あめるしょ(いたむでしょ)」っていうのも。
エレキ 「こったらもん」って言いますよね。こったらべっこ、妖怪の名前みたい。

【134番】デレキよりジョンバで叩くほうが好き(エレキ、秀彦○)
エレキ 「ジョンバ」は「シャベル」だよね。SM的な要素かなと。性癖的な。それかなと思って、面白いと思って。
秀彦 叩かれたら大変だよね。石炭をすくうスコップだよね。プラスチックのスコップってあるけど。
会場 木で作ったものがジョンバ。
秀彦 僕は鉄のイメージだった。

【143番】 銀杏並木いいふりこきとそれ以外(秀彦○)
秀彦 いいふりこき、いい言葉だよね。決定的な言葉はないよね。「こき」がいい。感情が込められている。俳句のテクとしても良くできている。

【152番】いなびかり妻をばくれと唆す(エレキ○)
エレキ たまにばくるのもいいかなと。妻を「ばくる」ってなかなかですよね。
ハル 「唆(そそのか)す」相手がいるんですね。
秀彦 稲に米を作らせるために「稲つるみ」から。稲の妻とかもいう、これも結構な俳人が作っていると思う。





















秀彦 これでぜんぶ終わりですね。1位決めてもしょうがないので、締めくくって、終わります。方言はなかなか俳句では使えない。(決まりがあるわけじゃないけど)通じないことが多いので。そのためか、今回はそのうさをはらすように、やまほど方言が来ました。面白かった。
エレキ 北海道で暮らしていても、いまさら知らないものとか、意味を取り違えているとか。深いなと堪能しました。

2019年7月21日日曜日

第44回イベント抄録 『俳句の中に出てくるカエルの生態』




「古池や蛙とび込む水のおと」の「おと」は
「ドボン!ドボン!ドボン!」だった!

第44回イベントは、高井孝太郎さんに『俳句の中に出てくるカエルの生態』という題名で講演をしていただきました。高井さんは北海道大学北方生物圏フィールド科学センターや「北海道爬虫両生類研究会」でカエルの研究に打ち込んでおられます。

◆略歴
1979年、帯広市生まれ。北海道大学北方生物圏フィールド科学センター学術研究員。水田など身近な環境にいる生き物に興味を持ち、その中でも代表的なカエルの生態を研究して15年になる。

◆講演詳報
カエルは世界におよそ6700種、日本に48種いるそうです。
不思議な生態を持つカエルも多く、例えば、寒冷地に住んでいるアカガエルの仲間はかちんこちんに凍っていて解凍して息を吹き返します。オーストラリアの乾燥地帯にいるカエルは蟻塚でシロアリを食べながら生きています。さらに空跳ぶカエルもいて、モモンガのようにひれのところを発達させて滑空します。
北海道のカエルですが、在来種は春先に見かけるエゾアカガエルと、田んぼや草原で見かけるニホンアマガエルの2種です。エゾアカガエルのオタマジャクシは、外敵に食べられないよう頭を膨らませる。世界でも例のないカエルです。
さらに北海道の外来種のトノサマガエルのDNAを調べると、兵庫県や島根県から来ている個体が石狩平野に広がっていることが分かります。トノサマガエルにそっくりなトウキョウダルマガエルは東京・町田市が由来です。

俳句の本題に入ります。春の季語の時期に繁殖するカエルは、ヤマアカガエル、ニホンアカガエル、ニホンヒキガエル、アズマヒキガエルがあり、北海道だとエゾアカガエルになります。夏はモリアオガエル、シュレーゲルアオガエル、北海道ではニホンアマガエルなどが該当します。
渓流などきれいな流れのところに住むカジカガエルは、かなり澄んだ声で鳴きます。昔、俳句を作った方々が聞いたのはカジカガエルが多いのではないでしょうか。
有名な句に、松尾芭蕉の「古池や蛙とび込む水のおと」があります。このカエルがどのカエルなのか、僕なりに分析してみました。

「蛙」なので春の季語。文献を読むと、詠まれた場所は深川(今の東京都江東区深川)の芭蕉庵。この時期に池の周りをたむろしているカエルは、ニホンアカガエル、トウキョウダルマガエル、アズマヒキガエルです。繁殖の準備でニホンアマガエルも出てきているかもしれません。
この中で跳び込むという動作を行うのは、主にトウキョウダルマガエルになります。
じゃあ跳び込む音はどんな音だろうかと。
僕も最初は「ポチャン」という音を連想しました。でも芭蕉が生きた時代は環境が良くて、たくさんのカエルがいたことと思います。そうしたら「ドボン!ドボン!ドボン!」という音になります(会場笑)。芭蕉が見たのは複数のカエルだと思います。
それから小林一茶の「やせ蛙まけるな一茶これにあり」。これも諸説あるんでしょうけど、武蔵国で「蛙合戦」を見たときの句だというのを読みました。蛙合戦というと今も昔もヒキガエルです。一茶は、ヒキガエルが繁殖のために大集団になっている景色を見たのだと思います。押しくらまんじゅうのようにわんさかいて、一つのつがいが池に入ると、5、6匹のオスが集まってきてメスを巡って争います。

◆代表五十嵐秀彦さんとの質疑応答
(五十嵐さん)「古池や」の句の蛙は複数だったということですか。この句の蛙が単数なのか複数なのか結構前から議論になっているんです。この句を英語に翻訳するときに、「S」を付けるか付けないかで問題になったんです。結論の出る話ではないんですが、「ポチャン」という印象でみんな思っていたようですが、今はたぶん複数なんじゃないかという説が強くなってきています。ですので「カエル複数説」の重要な発言がありました(会場笑)。これは夜だったんでしょうか、昼だったんでしょうか。

(高井さん)たぶん日中だと思います(会場笑)。

(五十嵐さん)それはこの句に対する先入観を裏切る話なんです。

(高井さん)実は単数か複数かいうことにはかなり思い込みが強いんです。昔の芭蕉がいた時代なら、おそらく自然がすごく残っていると。そんな中でそんな池があったらカエルの数が一匹じゃすまないだろうという先入観から複数です。なおかつ自分の調査の体験から、「ドボン!ドボン!ドボン!」となったんじゃないかなと思いました。実は、夜はカエルはあんまり動かないんです。僕もトノサマガエルやトウキョウダルマガエルを捕まえるときは、夜にライトを照らして近づくんです。そうすると、よっぽどカエルの横に足を入れたりしない限り、動かないんです。ですので芭蕉が池の周りをぐるっと回って、カエルを捕まえてやるぞという勢いで回ってるのなら、もしかしたらカエルを踏みそうになって、池に跳び込んで「ポチャン」と鳴ったかもしれないですけど。ただ、もし池に近づいたというだけなら、カエルが跳ぶというのは日中じゃないと見られないと思います。

(五十嵐さん)ものすごい指摘だと思いますが、近づいたから跳び込んだんでしょうか。

(高井さん)多分そうだと思います。ただ、何もしなくても跳ぶこともあるんです。でももし何か一匹が跳び込んだら、その音に驚いて他のカエルも跳び込むことがあるので、近づいて跳び込んだかどうかは分からないですね。

(五十嵐さん)ほとんどの人は、この句は夜で、しかも芭蕉は庵の中にいて聞いたと思っています。もちろんはっきりしたことは分からないけど、昼間で、芭蕉は外を歩いていて、カエルは複数で「ドボン!ドボン!ドボン!」と落ちた。これはすごい新説です。おもしろいです。

(高井さん)確かに僕も初めてこの句を詠んだときに抱いたイメージは、家の中で聞いていて、夜など静かなとき、なおかつ一匹ポチャンと行ったのかもと思ったんですが、実際に夜と朝、繁殖期と非繁殖期とカエルを追いかけて、改めてこの句と向かい合うと、そっちじゃないかなと思ったんです。

(了)


2019年3月14日木曜日

俳句集団【itak】第40回イベント抄録 『歴史のあしあと』 札幌の碑

俳句集団【itak】第40回イベント抄録

『歴史のあしあと』 札幌の碑

 俳句集団【itak】の第40回のイベントが20181110日、道立文学館(札幌市中央区中島公園)で開かれ、札幌市内の石碑を研究している川島聡さんが「歴史のあしあと 札幌の碑」と題して講演しました。川島さんは、201712月、石碑の愛好家グループ「さっぽろ石碑探索部」を設立、ブログ(https://nyh3boys.theblog.me/でも、その魅力を発信しています。講演では、札幌市内にある石碑や史跡の場所、歴史などを写真を使って紹介しました。講演の詳報を掲載します。



季語にするなら秋?

私は5年ほど前から石碑に興味を持ち始めて、札幌市内の碑を探索しようと思い立ち、ブログ「歴史のあしあと 札幌の碑」として(インターネットで)発信しています。現在(1811月現在)、訪ね歩いた670の石碑、旧跡の説明板などを紹介しています。

今年(2018年)1月から、札幌の「第3もっきりセンター」の隣のビル、サルーン(札幌コワーキングスペースカフェSaloon、南1東2)という場所をお借りして、月に1回、「石碑探索部」という会を開き、石碑の話などをしています。北海道新聞にも「ブログに400基掲載」と大きく紹介されました。歴史に興味ある人、古建物に興味ある人が集まるユニークな会になっています。夏には講演のほか月に1回、石碑めぐりツアーも行っています。

ところで石碑は「季語」ですか? 違いますか?。でも、石碑を詠むことにはみなさんも興味があるのではないかと感じます。私の石碑のイメージとしては、「秋」がふさわしいと思っています。夏は、どうしても緑に囲まれて見えにくい。今日も中島公園をぐるっと回ってきましたが、夏は緑の中に覆われた石碑が、秋になって枯葉が落ちた中で姿を現すと「ああ風情があるなあ」と感じます。気を付けて見ないと分からない。ぜひ、自宅の近くに碑を探して、何かひらめいたことを句にしてみるのも面白いと思います。石碑に興味を持ってから、車を運転していても周囲の風景が気になる。安全運転を心掛けていますが、見つけるとわざわざUターンすることもあります。ホームページ(HP)では670基を数えたと言いましたが、札幌市内で1000基近くはあるのではないかと思っています。有名な碑もあるけど、埋もれた碑もある。HPでも紹介していますが、素人なので、あいまいなところもあると思いますが、文責は私にあるのでご了承ください。


歴史伝える生き証人

明治24年の札幌の地図を見てみます。石碑は歴史を知らせるものの一つでもあります。古いモノを訪ねることが目的の一つではありますが、私は今も残されていることにも興味があります。明治初期、戦前の碑が今も大事に残されており、そこを訪ね歩く。明治24年の地図には、すでに道庁、植物園があります。札幌は、湧き水が伏流水となり、川となり、扇状地の末端にあたることが分かります。伊藤組会長の自宅があった場所、いまは高層マンションになっていますが、そこには「開拓紀念碑」がありました。今は大通公園6丁目のステージの片隅に移設され、保存されています。「屯田兵招魂碑」は、中島公園から護国神社に移されています。時代を経ながらも大切にされ、保存されている碑がたくさんあります。そのことをもっと市民に知ってもらいたいとも思っています。

石碑は、歴史の生き証人。HPやブログで石碑を紹介する人は結構いますが、もったいないと思うのは、紹介だけで終わっていることです。石碑にはいろんな情報が残されています。裏には碑文があり、歴史が書かれていたり、人物なら履歴などが刻まれている。石碑を見て、何が刻まれているのか、何のために残されているのか、一つ一つ見ていくのが面白い。

石碑探索を始めた当初は情報がなく、身近な碑から訪ね歩きました。すでに絶版となっていますが「さっぽろ文庫」(100冊シリーズ)の第45巻に「札幌の碑」があります。古本屋で見つけて買ってきて、まずそこから始めました。本の帯には「600余りを取り上げる」と書いてあって、昭和63年には600基の碑があると紹介されています。その後、なくなった碑も結構あります。ただ、新しくできた碑もあるので、今でも最低でも600はあると思い、続けてきました。各区のHPに、区の歴史とともに碑を紹介しているサイトもあります。南区や白石区、豊平区はHPで見ることができます。その情報をもとに、石碑がどのような場所にあるのか、健康増進も兼ねて、週末に探し歩いています。

今日も中島公園を歩いてきましたが、今まで探してもどこにあるのか分からなかった碑を見つけることができました。郷土史家の山崎長吉さんの著作の中にヒントがあった碑(「札幌園芸市15周年記念碑」)なのですが、人目の着かない場所に小さい石碑を見つけたので、さっそく写真を撮ってきました。これは興味を持たないと見つけることができないなという感じで、自分の足で探して歩くことが大事だと切に感じています。


10区各地に点在

「石碑探索部」には興味がある人に参加してもらい、有意義な時間を過ごさせてもらっています。きっかけは、「O.tone(オトン)」という雑誌でした。ブラタモリにも出た和田哲さんらが編集している雑誌です。オトンの記者から「碑を紹介するページを作りたいので協力していただけませんか」と声を掛けられ、記事にしていただきました。また、市電で配られていた小冊子「まちのモト」でも、HPから選んでもらい、市電沿線の石碑を紹介しました。先日、STVの「ブギウギ専務」という深夜番組では、道内の石碑を3週連続で紹介した企画がありました。道産子ワイドでも、桑園の歴史で石碑の紹介をしていました。北海道開道150年というタイミングもあり、歴史がクローズアップされてよかったなと思います。

札幌の石碑の中で、一番に思いつくものは何でしょうか? 自宅の近くの碑と言われても、なかなか思いつかないかもしれません。例えば大通公園では5丁目の「聖恩碑」。背の高いオベリスクのようなものがありますが、あれも石碑の一つとして紹介しています。気を付けて見ると結構、身近なところにある。6丁目の「開拓紀念碑」も、ベンチに座ってみると「あっこんなところにある」と感じます。テレビ塔も一つの歴史の遺産という気がします。

HPではエリア別に紹介していますが、やはり中央区が一番多いです。開拓使が置かれ、札幌の始まりの地域でもあります。次に南区が多い。昔、豊平町であったという古い歴史があります。私は南区に実家があり、自宅は豊平区なので、市内南部に足が運びやすいですが、逆に手稲、厚別はあまり足を踏み入れることができていません。手稲区も歴史があるところで、軽川というところから馬車鉄道が走っていたと聞いています。南区は、国道230号沿いに集中しています。明治初期につくられた東本願寺街道がもとになっていますが、様々な思いを刻んだ碑がある。これは人海戦術で伊達から平岸天神山の麓まで、突貫工事で開いた道です。しかし、2年後には苫小牧や千歳を通る室蘭街道、今の国道36号ができました。歴史にあまり詳しいわけではなく、ただ石碑が好きで趣味の域を出ていないので、多くの方の情報を得ながら、少しずつ中身を深めていきたいと思っています。HPの地図では区別に色分けしていますが、かなりの数が点在していることが分かります。



地区の神社に収斂

石碑はどういうところに多いのか。一言でいえば、神社が非常に多いです。信仰の対象となった碑などが、神社に集められ、収斂されていった結果と思います。個人の住宅にあった碑や街道沿いの碑も、住宅開発や道の拡幅などで移され、行き着く先が神社となる。神宮、護国神社、石山神社、信濃神社(厚別)、白石神社、豊平神社など地区の大きな神社に残されています。神社に行くだけでも、ある程度の碑を見ることができます。

私が一番、感動したのは白石神社で、ここはすごいですね。昔の渓谷をそのまま残して、今は使えないですが、湧き水もある。池が作られており、その回りに小さな神社や碑が置かれている。景色もいい。近くに幹線道路が走っているけど、その音も聞こえない閑静なところで心が洗われます。碑を眺めながら時間を過ごすのもぜいたくなことだと思います。

護国神社は、戦争の犠牲者の慰霊碑なども並べられている。歴史が刻まれた中で、犠牲になった人たちの魂が眠る場所。特別な場所という気がする。近くに行啓通がありますが、車の音は聞こえない。「集められている」と言い方はどうかと思うけど、一堂に会して見られ、今で言うパワースポットと言えると思います。慰霊碑や信仰の碑が置かれており、神社はいいなと思います。

公園にも石碑があります。大通公園も、1~11丁目まで歩くと、25~30基近くあります。ゆっくり見て歩くのもいいと思う。学校にも結構あって、文学碑などが残されています。石碑を探す際に一番難しいのは、個人宅にある場合です。公共性のある場所はいいのですが、管理されている場所や個人住宅にある碑を探したり、見るのが難しい。これが意外とあって、外から見える場所は道路から遠巻きに撮影したりします。なぜそこにあるのかを紐解いていくと、面白い歴史が分かることもあります。


点が線で結ばれる

第1回の石碑探索部では、「碑が置かれた点と線」と題して話しました。石碑は地域地域にあって、それが点になります。その点をたどると、線となって、つながるものがあります。

一つの例として、明治天皇の行啓関連碑があります。まずは「清華亭」。札幌駅北口の偕楽園に小さな建物が残されています。明治19年、明治天皇が北海道に行幸に来られた際に、東北から船で小樽に入りました。そこからお召し列車に乗って札幌まで、当時は時速15㌔くらいでゆっくりと入ったようです。そこで清華亭で休憩されたという記録が残されています。敷地の中に「明治天皇札幌御小休所」という石碑が残っている。お休み所ですね。ここで一休みして札幌市内に入られた。現在、中島公園内にある豊平館は、昔は市民ホールの場所にあり、豊平館跡の石碑が市民ホールの前庭にあって、ここにお泊まりになられたと残されている。その点をなぞっていくと、偕楽園、豊平館という繋がりができる。その後、市内を回られたことが、あちこちに石碑として残されている。行幸の順番でいえば最後のほうになりますが、行啓通の山鼻小学校グラウンドの一画に「明治天皇御駐蹕(ごちゅうひつ)之地」という碑があります。「御駐蹕」とは、かごを停められたという意味です。藻岩下には、藻岩山スキー場から降りてきて、真駒内橋を渡ったところの「みゆき公園」の中に「明治大帝御巡幸之碑」があります。そして真駒内公園(曙町)に「行幸道路」という碑が残されています。さらに月寒東にある農業試験場の国道36号挟んで向かい側にも「明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)之跡碑」があります。「御駐輦」もかごを停めたという意味です。個人の農場だった場所にかごを停めて休まれた。「点と線」で言うと、小樽から銭函、清華亭、豊平館につながり、東本願寺通、平岸街道を下って、真駒内の種畜牧場(陸自の駐屯地の場所)を視察され、豊平川をわたり、みゆき公園からみゆき通りを通って山鼻小学校で休まれ、豊平館に戻ったという記録が残っています。こうして見てみると、点と線がつながる楽しみ方もできて、一つ一つの石碑が意味をなしていきます。そうした見方をするとあちこちで歴史をたどる方法が見えてきます。


本願寺街道の記録

さきほど紹介した本願寺街道は、明治4年に開通しました。当時、反政府側と見られていた東本願寺に新政府が命令してつくらせた道で、現如上人を筆頭に、お布施を募りながら、東北地方を北上し、北海道の伊達に入って道を切り拓きました。伊達市の長流別(オサルベツ)に本願寺街道の始まりの碑があり、そこから中山峠に入ります。峠の頂上に現如上人の像と記念碑が置かれ、傍らには旧本願寺街道の碑も残されています。当時は幅3㍍ほどの原野を切り拓いた道だったそうです。あの山道をどれほどの苦労で切り拓いたのか。東本願寺派の信者やアイヌの人たちの力を借りて、人海戦術で1年ちょっとの短期間で平岸までの道をつくり、節目節目、場所場所に碑が残されています。簾舞中学校の傍らには、道の一部が残されています。裏に小高い丘があり、一部歩けるようになっていて、そこにも碑が残されています。旧国道には旧黒岩住宅があります。当時は休憩場所、駅逓として使われていました。今も黒岩家の末裔の方が管理されています。中には定山渓鉄道の記録も残されていて、とても興味深い場所になっています。さらにたどって230号線から平岸街道に入り、澄川墓地のふもとに本願寺街道終点の碑があります。歴史を辿ると線でつながります。当時の街道がすべて国道230号線になったというわけではないので、現在は実際に歩くのは難しいです。昔から景勝地であった豊平峡あたりも、ダムに沈んでしまったところもありとても残念です。今は豊平峡の碑が残されています。


創成橋の里程元標

もう一つ、線と点で結びつく例を紹介します。街中の南2条、創成川のアンダーパスになっているところに創成橋が復元されていて、その東側に「北海道里程元標」があります。すべての道はここから始まったという意味で残されています。側面に方向を示したものが刻まれています。東側には「對雁驛(ついしかりえき) 四里拾六丁五拾三間」「島松驛 五里弐拾七丁四拾五間」と書かれています。恵庭の島松ですね。北には篠路、西には銭函、方向と距離が示されています。島松駅は5里あると書かれていますが、ここを起点に、月寒の36号に「一里標」跡というものが残されています。車では気づかない小さな看板です。望月寒川の橋の欄干にある豊平区で立てた説明板です。明治6年に札幌~室蘭の室蘭街道の完成を機に、1里ごとに里程標を設置したものです。では、2里はどこか。これは月寒東2条19丁目にあります。36号線から一歩入ったところですが、東月寒会館の敷地の中に「協心拓地」という碑が建てられていて、その説明板に「二里塚」と書かれています。3里はどこか?それは三里塚神社の名前に残されています。平岡南公園には、国道の旧道に「三里塚碑」が残されています。1、2里塚には碑があり、3里塚は碑のほか、地名としても残っています。では4里塚はどこか? 残念ながら4里塚の記念碑は、以前はあったかもしれませんが今はありません。北広島のほうになるのですが、「四里塚会館」というのがあって、会館の名前にはかろうじて残されている。島松は五里の地点になり、クラークさんの碑があります。

本願寺街道、明治天皇の行幸、里塚など一つ一つの石碑を辿ると一つの線につながる。それが碑に興味を持ち始めたきかっけですが、そういう見方でも楽しんでもらえたらと思います。


俳句にまつわる碑

俳句にまつわる碑も残されていることに気づきます。HPでは「句歌の碑」として紹介しています(https://nyh3boys.theblog.me/posts/categories/25620)。

旭川の詩人、東延江さんが「北海道の碑(いしぶみ)」(1989年、北海道新聞社)という本を書いていて、当時の北海道の文学碑、詩や短歌、俳句の碑を紹介しています。この本を一つの参考にして訪ねています。旭山公園の寺田京子さん、定山渓には花之本聴秋さんの句碑句碑は、意外と個人住宅に置かれていることが多い。鮫島交魚子さんは、ご家族の個人住宅に置かれています。入るのは難しいのですが、陸上自衛隊の駐屯地にも、交魚子さんの句碑があります。今は移転しましたが以前、平岸の陸上自衛隊病院にも交魚子さんの碑があったと聞いています。紅桜公園(南区)には木村敏男さんの句碑。木村さんは盤渓(南区)にもあります。盤渓には椎名千恵子さん。月寒公園(豊平区)には北光星さん、藤野(南区)には天野宗軒さん。丸山定山さんは豊川稲荷(南7西4)の境内にあります。

新しい碑はなかなか紹介されていませんし、目に触れないもの、興味がなければ気づかないものが多々あると思います。みなさまのお住まいの地域で、近くにある碑、句碑などの情報があれば、ぜひ教えていただければと思います。

先月、円山公園の記念碑ツアーを行い、石探部(石碑探索部)の仲間で回りました。HPで紹介した碑を中心に見て回りました。円山墓地に入り、坂本龍馬の末裔、坂本一族の坂本直寛氏のお墓などもあると聞ていたので、みんなで捜して、見つけることができました。お墓は、石碑とは違いますが、著名な人のお墓も残されており、これからも札幌の歴史として紹介していきたいと思います。今後の活動として、札幌市内で1000を基を目標に(碑を)紹介していき、その後は札幌近郊も訪ねていきたいと思っています。





これからも探索

文学一つとっても北海道ゆかりの作家さんの碑が多い。有島武郎、伊藤整、小林多喜二、余市のほうにいけば幸田露伴の碑もあります。文学を通じての碑もテーマとして面白い。そのほか、当別のほうに行くと「石狩川」を書いた本庄陸男の碑、大通公園の近くには島木健作生誕の地丸井今井の大通公園側には武林無想庵の小さい説明板もあります。情報がないと分かりにくいですが、札幌にゆかりにある作家を辿る見方も面白いですね。

古い建物もあるし、時間とともになくなっている碑もある。久しぶりに訪れた碑が、もうなくなっていることもあります。移設されたのかもしれないですが、宅地開発ともに失われていくものも多く、淋しいですね。豊平の経王寺という開拓時代からのお寺がありますが、20数年ほど前、地元の郷土史研究家が石碑を発見したこともあります。これからも新しい碑が見つかるかもしれません。失われた碑を捜すことも考えています。東本願寺街道に昭和初期、ひぐまに襲われて命を落とした方の慰霊碑が置かれていたという話しがありますが、今どこにあるのか分からない。見つかるかどうか分からないが、これをたどっていきたいとも考えています。

3年ほど前まで、福住に玉田守という若い兵隊の慰霊碑がありました。戦時中、福住に墜落して命を落とした飛行兵の碑ですが、老朽化が著しく危険とのことで、地域の住民の総意のもと、神主さんが祭って解体されたことが区のHPにも紹介されています。時代とともに残されていくものがある一方、なくなるものもあります。いま残されているものはぜひ紹介していきたいです。

石碑探査部は月1回、サークルという形で、愛好者に参加してもらっています。HPをもとに話をしたり、外に向けての活動をすすめていきたいと考えております。情報があれば、ぜひ聞かせてもらいたいし、もっともっと石碑に興味を持ってもらえるとありがたいです。また、例えば石碑をテーマにした句会などを開くのも、面白いのではないかと思います。



2019年2月14日木曜日

第41回イベント抄録 『アート・クラフトから見た俳句』




 第41回イベント『アート・クラフトからみた俳句』が1月19日に開かれ、箒職人の吉田慎司さん(34)に講演をしていただきました。
 吉田さんは1984年、東京都練馬区出身。武蔵野美術大学彫刻学科卒。札幌市中央区南1西15にある〈ほうきのアトリエと本の店 がたんごとん〉にアトリエを構える。
 大学4年のとき、箒の展示会で明治から昭和初期にかけて神奈川県北部の中津村(現愛川町)で生産された中津箒に出会い、その実用性と美しさにひかれました。

 2003年に愛川町に設立された中津箒の会社〈まちづくり山上〉に入社し、職人に弟子入り。箒職人として腕を磨く一方、銀座のエルメスや青山の無印良品、安曇野の美術館などで展示をされ、中津箒の魅力を伝えて来られました。

 2016年秋、2人の子どもを北海道で育てようと、妻の故郷札幌に移住され、2017年11月に〈がたんごとん〉ができました。
 講演会で、吉田さんは「(原料となる草の)栽培からやっている箒屋です」と自己紹介。「『箒木』という夏の季語もあり、高浜虚子の『箒木に影といふものありにけり』という句もある。箒木は学名コキアといって丸くて赤く紅葉する。でも東京の箒屋が使っているのはホウキモロコシという高さ2メートルぐらいになる草です」と説明しました。
 「箒は草が良いかどうかが大事。悪い米をどんなに頑張って炊いても美味しくならないのと同じです」と原料の大切さを強調しました。

 


「現代アートが好き」だという吉田さん。なぜ箒職人の道に進んだかについて、「アートは世界を豊かにし、人を幸せにする。でもアート好きがアートを見に来る人のために回す狭い畑より、普通の暮らしや生き方に還元されてこそ本当のアートだと思って道具がいいなとなった」と話しました。
それからフランス生まれの美術家マルセル・デュシャンがレディメイド(既製品)の小便器に署名をしただけの作品「泉」(1917年)から始まる現代アート史を解説し、日本では大正時代に「民芸運動」が出てきたと紹介。「民芸運動は『民衆の生活の中に美しいものがあるんじゃないか』と柳宗悦や河井寛次郎らが取り組んだ。もっとカジュアルに普通の人の日常に近づけようということでクラフトというカテゴリーができた」と一連の流れを説明しました。
 「今は大量消費の時代で、ものがこれまでで一番捨てられている時代だが、言葉も一番捨てられている。質より量になっている」と批判。その上で、「手作りの道具など素朴なものの中にこそ、豊かさや季節感、美しさがあり、詩情が厚みを増す。いかに質を高め、結晶化していくか。そのために俳句や短歌や詩の本を置いたお店を始めた」と話しました。



◆ほうきのアトリエと本の店 がたんごとん
札幌市中央区南1西15の1の319 シャトールレェーヴ605号
http://gatan-goton-shop.com/ (←こちらをクリックするとお店のHPにジャンプします)

2019年1月27日日曜日

俳句集団【itak】第37回イベント抄録 『ベトナム季節感から生まれる季語』

俳句集団【itak】第37回イベント 講演会詳報
『ベトナム季節感から生まれる季語』 グエン・ヴー・クイン・ニュー



 俳句集団【itak】の第37回のイベントが2018年5月12日、道立文学館(札幌市中央区中島公園)で開かれ、ベトナム人俳句研究者グエン・ヴー・クイン・ニューさんが講演しました。ニューさんは、ベトナムでの俳句の普及にも携わっており、国際日本文化研究センター(京都)で「国際化時代の新たな日本古典学―ベトナムにおける教育実践の研究―」というテーマで研究を行っています。講演では、ベトナムにおける俳句事情や季節感について解説。今はまだ発刊されていない「ベトナム歳時記」の可能性について探りました。
詳報を掲載します。

◆◆◆
きょうは「季節感」について話したいと思います。でも、うまく話せるのか、とても緊張しています。というのも、ベトナムと日本の気候は、だいぶ違うからです。私はベトナムの南部に生まれましたが、特に北海道とは、季節の違いはとても大きいです。日本は古くから和歌などで季節が詠まれ、歳時記もあります。ベトナムには歳時記もないですし、「季語」も分からない人が多いです。

●ベトナムの季節
始めに、ベトナムはどんな季節があるのかを説明します。ベトナムは南北に長い国です。大きく北部、南部、中部に分かれています。私は南部で生まれました。両親は北部です。北部と南部では少し季節が違います。北部には少し四季のイメージがあると思いますが、南部は一年中暑い。常夏です。平均気温も22度くらい。今日(5月)も、35度くらいあると思う。とても暑い。日本の四季のイメージはありません。中部は雨が多いけど、そんなに寒くない。南部出身の私が京都に行くときには、「とても寒いけど大丈夫?」と言われました。
ベトナムには基本的に乾期と雨期しかありません。11月から4月までが乾期、5~10月が雨期です。南部、中部では少しずれますが。ですから、ベトナムの俳句では、季語を軽視する傾向にある。季節を感じていないので、「なぜ、ベトナムで季語が俳句に必要なのか」という論議もあります。
ベトナムの俳句を一つ紹介します。

Tay cầm vô lăng (タイ・カム・ヴォー・ラン)
xoay vòng đời(ソアイ・ヴォン・ドイ)
sinh – tử(シン・トゥー)
ルウ・ドック・チュン作
「ハンドルや人生の輪を生きる死ぬ」(日本語訳)


 この俳句を見ても、季語はなさそうですね。
そもそも、ベトナムには、いつから「俳句」が広まってきたのか? ベトナムではもともと、漢字が使われていましたが、1945年にフランスから独立して、ローマ字が導入されました。日本の俳句は、主に北部に入ってきて、1986年ごろに高校の教科書に松尾芭蕉などが使われました。ただ、当時はあまり俳句は、普及しませんでした。2007年、ベトナムで初めて日越俳句コンテストが開催されました。そのとき私は日本総領事の広報文化班で仕事をしていました。このコンテストで、俳句がブームになってきました。昨年(2017年)は第6回を迎えました。はじめは日本語部門、ベトナム語部門がありましたが、第5回からベトナム語部門だけになっています。
コンテストでは、独自の(俳句の)ルールを作りました(3行で書き表し、各行の文字数=単語数=は5・7・5文字=単語=を超えない)。
また季語も問いませんでした。テーマや季語はありません。私は季語を導入したかったのですが、反対されました。もう10年もたって、慣れてしまっているので、このルールを変えるのは難しいかなと思います。
ベトナム語には、一つの字に一つの音があり、それぞれ六つの声調があります。北部が標準(発音)と言われ、中部、南部では発音も違います。日本でも方言がありますよね。六つの声調があるので、意味が分からなくても(ベトナムの俳句は)歌のように聞こえると言われます。日本の俳句よりもリズムがあると言われます。

Mộ bên đường モー・ベン・ドウン
Cơn mưa phùn ướt コン・ムア・フン・ウオット
Sân khấu dế non. サン・カウ・ゼー・ノン
「道の墓 霧雨の中 虫奏で」(日本語訳)
(チャン・ズイ・クオ作、第5回日越俳句コンテスト2015年、ベトナム語部門第一位)


ベトナムでは短い詩が好まれるので、俳句もすぐにブームとなりました。ただ、5・7・5にはならず、3・4・3のような形が多いです。日本のように季語ではなく、周りの生活のきれいなことを表現できたら、それを詩にする。

Trái đất luôn quay tròn   チャイ・ドァット・ルオン・クアイ・チョン
Bình minh nơi bạn sớm hơn tôi ビン・ミン・ノイ・バン・ソム・ホン・トイ
Gọi tôi dậy, bạn ơi  ゴイ・トイ・ザイ・バン・オイ
「地球はぐるぐる回る あなたの所はもう朝ね  私を起こして」(日本語訳)
(ニン・クイン・ニュー作= 女子 13歳、第14回世界こどもハイクコンテスト"朝" 大賞作品)

JALの世界こども俳句コンテストベトナム大会の作品です。これは5・7・5となっています。子供のほうが5・7・5となることが多いようです。子供コンテストには「題」があります。これは「朝」という題。子どもから俳句を始めるなら、季題があったほうがいいと思います。

●季節感はあるのか?
ベトナムの雨期と乾期があると言いましたが、俳句でも雨期と乾期を詠んだ作品が多いです。「雨」とか「干ばつ」とか。「雨」のほうが多いかな。干ばつはあまりイメージがわかないので、雨がよく俳句になっています。
では、ベトナムの季語は本当に必要なのか? 私はこの問題を一度論文に書いたことがあります。今は少しお休みしていますが、研究はしています。ベトナムでは季節が把握できないので、自分の俳句の中に季語を入れることは難しい。季語は軽視されがちです。あっても偶然の場合が多い。季語のイメージがないことが問題です。でも実は、伝統的な詩には、自然を表すものが多い。なのに、俳句にどうして季語を導入できないのか。残念だなと思っています。

Nhumg co hang xen rang den  ニュン・コー・ハン・ソム・ラン・デン
Cuoi nhu mua thu toa nang...  クォイ・ニュー・ムア・トゥ・トア・ナン
「小間物屋のお歯黒の娘、その笑顔は秋光の如し…」(日本語訳)


伝統的な詩人ホアン・カムの詩です。「秋光」(mua thu toa nang)という言葉があります。ベトナムでも詩の中に自然や季節を表すことはあります。
私は、ベトナムでも季語が導入できると思っています。形式よりは季語が大事と思っています。「お歯黒」の詩を見ても分かるように、伝統的な文化の中に自然を表せることはできます。雨期、乾期だけでも俳句で表せると思っています。

Nước đè  ヌオック・デー
ngói nâu ngụp lặn ゴイ・ナウ・グップ・ラン
cây dang tay đón người カイ・ザン・タイ・ドン・グオイ
「水溢れ タイル浸漬 木が迎え」(日本語訳)
(チャン・ティ・フェ、第5回日越俳句コンテスト)

台風、浸水、洪水はよくあるので、このような句ができます。「水溢れ(Nước đè)」「浸漬(ngụp lặn)」などは、季語としても使えると思います。

●歳時記の可能性
季語をルールとして導入するためには、「歳時記」をつくることが必要だと思っています。私が今、日文研(国際日本文化研究センター)で勉強しているのは、いつかわからないけど、目標としてベトナムの歳時記できたらいいと思っているからです。私が勝手に考えている季語のことを紹介したいと思います。
ベトナムにも、時候、天文、自然観、年中行事などがあり、季語は十分集められます。例えば、メコンデルタには「取水期」というのがあります。6~9月。これも季語として導入できるかなと考えています。
季節によって花も違います。ベトナムには旧正月の花があります。1月末から2月中旬くらい。梅のような花ですが、北部は赤く、南は黄色です。同じ国なので、同じ旧正月なのに違う花です。3月のカーペー。コーヒーの花です。5月には「火炎樹」という花があります。学生にとって大きな意味のある花です。高校生活、試験シーズンが終わる時期で、この花を見ると学生時代を思い出します。この花から押し花を作って、学生時代の記念にします。6月はハスです。ハノイの花です。南部はハスは8月となります。日本人の人たちと8月に初吟行を行いましたが、南部ではハスを見ました。10月は北部で菊があります。12月にも、いろんな花があります。

果物もあります。6月はライチのシーズン。2月はスイカやマンゴー。日本で2月に俳句を作ったときに、「スイカ」を使ったら、だめだと言われました。だったらマンゴーにしたら、それもダメと。日本は両方とも、夏だから。ベトナムではスイカは2月なのですが…。6月にベトナムに来られたら、バイクのカゴにはライチが山積みになっていると思います。ライチは北部ハノイしかありません。北のほうだけれど、トラックに詰んで中南部に運んできます。道にいるとトラックやバイクのかごにいっぱいのライチを見ることができます。
生活の中にも、季語になれる言葉があると考えています。
アオザイのすそひるがえる通り雨
(グエン・ホアン・ヴー、2009年第2回日越俳句コンテスト、日本語俳句部入賞2位)
ベトナムは9月が入学の時期です。お母さんが、娘のためのアオザイを用意する。学生のときには白いアオザイあります。
農業の生活の中にも季語を表せるものがあります。ベトナムの俳人にも季語を反対する人がいますが、私は季語がないのはもったいないと思っています。乾期・雨期しかないと言われるけど、季語はつくれると思います。
ベトナムでは、雨期に傘ではなく、カッパ、レインコートを着ます。バイクを運転するので傘は使わない。みんなカッパを着てバイクを運転します。レインコート、カッパも季語になれると考えます。

●ベトナムの行事
年中行事もいっぱいあります。毎月いろいろあります。日本もそうですが、中国から入り込んでいる行事があります。年中行事の中に季節の変化が現れるものもあります。

日本にはないものとして、ベトナムには11月20日に「先生の日」があります。また、3月8日、10月20日と女性の日が、年に2回あります。女性への感謝の気持ちがあります。でも、逆に男性の日はありません。女性の日には男性が薔薇の花を渡します。これも季語になれると思います。バレンタインデーは、ベトナムでは男性から女性に贈ります。花とか薔薇とかチョコとか。3月14日の「ホワイトデー」はベトナムにはありません。9月が入学です。
旧正月のときには、お餅を食べます。お菓子もあります。これも季語になれます。月ごとに言葉を集めればベトナムでも歳時記ができるのかなと思います。
日本の人が、ベトナムについて詠んだ俳句があります。
玉を守る戦士の墓やハンモック(西野徹)
ベトナム吟行にいった際にハンモックについて読んだものです。感動しました。
4月30日には大きな行事があります。解放記念日です。南部とアメリカの戦争が終わった日です。暑い時期ですから海や公園に行きます。涼しいところに行きます。ハンモックについてどういうイメージがありますか? 暑いから公園にいってハンモックをかけて過ごす。日本人がハンモックを詠んでくれて感動しました。
目標としては、ベトナムでも300の言葉を集めれば、季語を作れると思います。今回紹介したものを集めても、100くらいの言葉は季語になるのではないかと考えている。ほかにも生活、文化の中に、季語を表す言葉があると思います。
ベトナムに、「母の日記 / Nhật Ký Của Mẹ」(ハイ・チュウ)という有名な歌があります。(→https://www.youtube.com/watch?v=yRTntSSjnc4)
とても有名で人気があります。日本語にも訳されています(よしもとかよ訳)。
歌詞の中に、季語としての言葉がたくさんあります。「登校」「夏の終わり」「太陽の光」「試験(ベトナムでは7月)」「雨の後」など。一つの歌だけでも、生活の中にたくさん季語がある。だから、ベトナム語の歳時記を作りたい。ベトナム俳人の中に、歳時記をつくるという考え方は、今は私しかいないと思います。
こんなことがありました。
けあらしのパトカー早朝出動す(太田惇子)
「現代俳句歳時記」に「けあらし」という季語の句がありました。そこで私もけあらしの句を作りました。
けあらしに水際知らぬ声を出す(グエン・ヴー・クイン・ニュー)。
京都の句会に出したら、みんな、「けあらし」が分からなかった。違う句に変えてみたらとも言われました。歳時記にある季語なのに…。「けあらし」は東京の人にも分からない。2年前に「itak」に参加してみたら、さすがにみんな知っていました。同じ国の中でも分からないことがあります。ましてや国が違ったら、文化も違う、気候も違う。
新しいこと、新しいルールを入れることは難しいことですが、頑張っています。一人は無理なので、日本で勉強して、みなさんに協力していただければ、将来的には歳時記はできると思います。意見などいただければありがたいと思っております。
(了)

2019年1月26日土曜日

第37回イベント抄録アップのお知らせ

こんばんは。俳句集団【itak】事務局です。
2019年が始まり新年のご挨拶もすっかり遅くなってしまいましたが、本年もどうぞよろしくお願い致します。
本年最初のイベントは去る1月19日に道立文学館で「第41回イベント『アート・クラフトからみた俳句』」が行われました。
1月で足元の悪い時期にもかかわらず、多くの方にご来場いただけた事、この場をお借りして心よりお礼申し上げます。
次回イベントは3月9日(土)に予定しております。こちらのイベント案内についても後日改めて告知しますので、しばしお待ちいただきたく思います。

本日の案内は1月27日(日)の18:00に当ブログ上にて、昨年5月に行われた第37回イベント「ベトナム季節感から生まれる季語」の抄録をアップする予定です。(大分時間が経ってしまい、関係各位の皆様本当にゴメンなさい!)
今回の抄録も非常に興味深い内容となっておりますので、お時間のある時に是非ご一読いただければと思います。


どうぞよろしくお願い致します。






2018年6月1日金曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(5)」第36回イベント抄録


「点綴〈小説家の俳句〉」

(2018年 3月10日)

平原一良



 俳句集団【itak】の第36回のイベントが2018年3月10日、道立文学館(札幌市中央区中島公園)で開かれ、同館の運営にあたっている(公財)北海道文学館副理事長の平原一良さんが「点綴〈小説家の俳句〉」と題して講演しました。その詳報を掲載します。
 
●俳句との関わり
私は、作家の吉村昭さん、奥さまの津村節子さんと長年、交流を持ってきました。吉村さんとは亡くなる直前までお付き合いをさせてもらいました。文学館での四半世紀近くの間、世の中が見えなくなりそうな気分に陥りそうなときは吉村さんの存在が支えでした。今日は、吉村昭はじめ近代日本の小説家と俳句との縁についてお話しさせてもらいます。

私は俳句の専門家ではないのですが、俳句結社から講演依頼の声がよくかかります。旭川の「雪華」や源鬼彦さん主宰の「道(どう)」、「葦牙(あしかび)」…。「葦牙」の主宰者で北海道俳句協会の2代目会長だった山岸巨狼氏は、実は私の遠縁でした。文学館に入ってすぐの1995年秋、巨狼さんが「お前は親戚だ」と告げてきた。母方とつながっている人でした。以来、私は文学館で俳句のみなさんとの接触も増えました。そんな事情も手伝ってか、昨年の「ふみくら」展では、図録で、俳句と詩についての解説を担当しました。
また、私の父は小学校の教員でしたが、水野波陣洞(はじんどう)さんから号をもらって俳句を続けていました。敗戦直後、江別市の野幌に俳句結社「熊笹吟社」があって、野幌小や北広島東部小の教員時代にそこに所属していた。新聞に投稿して「天・地・人」に入選したなどと喜んでいた記憶があります。遺品を整理していたら、波陣洞さん直筆の父親の号を書いた和紙が出てきたりして、俳句に縁がなくもないのだと確認できました。
また、私は学生時代に北大で国文学専攻でしたが、先生の中に「壺」の元主宰、近藤潤一さんがいらした。最初は近藤研究室に出入りしていましたが、女子学生ばかりだったので、隣の五十嵐三郎先生の研究室に鞍替えしました。それでも近藤さんは始終声をかけてくれました。卒業後、東京に行き、Uターンして戻ってきた私を「壺」に勧誘したかったようですが、私は短詩型よりも評論、小説を読むほうが好きだったので、やんわりとお断りしたことがあります。近藤先生の逝去後に奥さまから遺品整理を頼まれ、一部は文学館で頂戴できました。
そんな巡り合わせで今回、五十嵐秀彦さんから【itak】講演のご指名を受けたのかもしれません。少しくらいは俳句について話ができるのかなと思ってやってきました。

 ●室蘭の作家八木義徳
室蘭生まれの芥川賞作家、八木義徳は、私が尊敬する作家の一人でした。吉村・津村夫妻も早くから八木さんを尊敬していました。八木さんは有島武郎の影響を受けています。さらに、私は原田康子さんにも弟分として接していただきましたが、吉村さんの奥さま、津村節子さんは原田さんと仲良しでした。私の父は、原田さんの連れ合い佐々木喜男さんと旧制中学で同期でもありました。いろいろと繋がっていて、不思議な縁を感じています。
実は、その八木さんが俳句好きだったことは意外に知られていない。「雪華」で講演した際にも少し触れたのですが、八木さんのエッセイに、句会の様子を書いた文章があります。
「30畳ほどの庫裏の片隅に逃げていって、慌てて歳時記を開く者がある」
「酒やウイスキーを飲みながら、『何々や』と大声で怒鳴り出す者がいる」
「そそくさといなくなり、広い境内をのそのそ動き回る者がいる」
「恐ろしくきまじめな顔つきで、高い天井の一点をにらみつけたまま、達磨のように身動きせぬ者がいる」
「『青芝』同人の女性を捕まえては、しきりに駄洒落を連発する者がいる」
「出るのか出ないのか、とにかく無闇矢鱈にトイレに入ったり出たりする者がいる」
「ノートに書きためてきた句の中から、何とか5句を選びだそうと神妙な顔つきで鉛筆をなめなめしている者がいる」
「裏手の墓地で姿を消したきり、締めきりギリギリまで顔を見せない者がいる」
お寺の句会で、集まった人が40分間で句を作るというときに、どういう行動をとったかを作家の目で捉えています。約40年前、昭和53年に出版された『男の居場所』(北海道新聞社)の中のエッセイ一部です。

野びる野にわれ大陸に飢え居たり
藤房のぼてりと重き恋終る
八木さんの俳句です。八木さんは大陸に召集され、本当にたいへんな思いで引き揚げてきた。家族全員が空襲で亡くなり、心身ともに荒れているところに現れたのが、2番目の奥さまです。正子夫人に救われました。最初の句は、時間を経て詠んだ句です。2句目、「恋」をストレートに詠むと、無粋になることがありますが、八木義徳さんの場合だと「いいな」と感じます。八木さんにも、そんな思いを持った時があったのだなと思いました。

●俳句にまつわる書籍
たった1回の句会でも百人百様です。参加者の数に応じて、いろいろな姿、形がある。さまざまな姿態を無意識にさらしながら、俳句を作って、差し出して、選句、合評をすることになる。これは僕らの時代、のどかな時代の俳句の景色でしょうか。机に向かって作るスタイルもあれば、吟行よろしく作る人もいるかもしれない。即吟ではなくて、2、3日前から作って、書きためている人もいるかもしれません。
俳句を作るスタイル、句のスタイルも本来は自由なはずです。坪内稔典さんの『俳句とユーモア』という面白い本があります。あるいは、永井荷風の俳句は有名ですが、加藤郁乎さんの『俳人荷風』という本もある。こんなに難しく論じなくてもいいだろうにと思いますが…。小説家でいえば、藤沢周平さんの句集もある。坪内さんには『俳人漱石』という本もある。書店の俳句コーナーは、以前に比べると小さくなりました。昔は3倍くらいはあったのではないか。短歌、詩も同じ。文学系の棚がどんどん小さくなっているという背景があります。
 句作百態。あなたはどんなスタイルかと言われたら、どう答えますか? 言葉と向き合って手を動かす人、若い人ならワープロ、パソコンでいきなり打つ人もいると思う。私は手書き派だけれど、仕事ではパソコンも使っています。一方、スマホなどで画面をスクロールしながら作る人もいるかもしれない。例えば、尾崎放哉の俳句は、ネットで調べればたくさん出てくる。ところが、(ネットでは)俳句が横書きになっている。これでいいのでしょうか? 本来日本語は、縦書きで鍛えられてきたという伝統がある。放哉の初期の作品「よき人の机によりて昼ねかな」などを横書きで見ると、私には違和感があります。
最近、子規の「獺祭書屋俳話・芭蕉雑談」という岩波文庫を読んで、感心しました。26歳で子規はこういう本を書いている。すごいですよ。江戸期の俳諧から近代の俳句に移っていく中で、革新者だった。短歌においてもです。すごい人物、天才だと思います。

高橋康雄さんは札大の先生で、名編集者としても有名でした。「俳句朝日」の編集長でもありました。残念ながら50代後半で亡くなりました。『風雅のひとびと』(朝日新聞社)という名著があります。古書店で見つけたら、ぜひ買うといいですよ。一読すれば、内田百閒、瀧井孝作、岡本綺堂ら、日本の近代、現代の散文作家、ジャーナリストなどが、いかに俳句を愛していたかが、よく分かる本です。高橋さんは宮沢賢治にも詳しい人でした。山口昌男さんに呼ばれて札幌に来て、10年も経たないうちに亡くなってしまいました。
坂口昌弘さんの『文人たちの俳句』(本阿弥書店)。原田さんの『挽歌』の映画監督、五所平之助は俳句好きでした。映画『挽歌』の主人公は最初が久我美子さんで、その後は秋吉久美子さん。五所監督の絵コンテが原田さんの残した資料にあって、監督の俳句がそこに残っている。この本は、みなさんの日ごろの興味を喚起する面白い一冊だと思います。

 室生犀星は、小説家で詩人だという固定観念がありますが、俳句も作っている。文学者は好奇心旺盛。小説家で通っている人が意外や意外、俳句や短歌など他のジャンルに熱中している場合もあります。原田康子さんも「私も若いころは詩を書いていたのよ」と、自作の詩をこっそり見せてくれたこともあります。
俳句を難しく考えることはないし、多様なスタイルがあっていい。俳句を詠むスタイルもいろいろあっていい。「面白がる」というところで言うと、久保田万太郎も、俳句が大好きで、俳句についての蘊蓄を傾けています。近藤浩一路の『漫画 吾輩は猫である』(岩波文庫)の巻末で、万太郎が「柿腸(かきのちょう)」という俳人について書いている。なぜ自分が俳句好きなのか、柿腸の俳句はどこが面白いか、などを紹介している。こうした本は、俳句コーナーでは、なかなか見つかりません。一般の文庫コーナーで、「何だこの本は?」と手に取ったら、俳句の本で、面白かったりする。「漫画はバカにできない」と山口昌男さんも盛んに言っていました。この本では、「柿腸は近藤浩一路という絵描きであり、漫画家だ」という種明かしもしています。
専門的な俳句の本、俳句コーナーだけに目を向けるのは、ダメとは言いませんが、違った分野の本からも意外な発見が得られます。例えば、吉村昭さんの『海も暮れきる』です。尾崎放哉が主人公のこの小説には、放哉の佳い句の大半が収まっている。また、『漱石・子規 往復書簡集』(和田茂樹編、岩波文庫)には、漱石、子規の句がびっしりです。

●小説家の俳句
【有島武郎】
雨十日十日の後の青葉かな
谷川に見入る一むらのつゝち咲き
時雨るや比叡さへ見えて京の町
山も水もぬれけり宇治の春の雨
有島は俳句は好きではなかったようです。ここに挙げた句のほかにもあると思いますが、全集第16巻を調べたところ、この4句しかなかった。平凡で、字余りだったりします。「山も水も~~」は、気むずかしそうで真面目な顔を持つ一方、こういう平凡さもあって、親しさを感じさせなくもない人だなと思えます。一方、短歌にはそこそこ関心があったのか、文学館には直筆の短冊もあります。心中相手・波多野秋子の夫宛の遺書、有島の書簡類もあります。80年ぶりくらいに本物が見つかって話題になりました。全集にもありますが、「明日知らぬ命の際に思ふこと色に出つらむあちさゐの花」など、辞世の歌を10首ほど残しています。叙情歌としても読めますが、末期の歌だと知ると、意味がくっきり分かります。

 【幸田露伴】
春風や巣に居る鷺のむく毛にも
冷酒に櫻をほむる獨りかな
おれもあの玉屋になろか春の風
 北海道にも縁の深い幸田露伴の春の3句です。
 3句目の「玉屋」。「あの句の玉屋って何だろう」と調べてみました。「シャボン玉」のことでした。当時は、シャボン玉が売り物になった。露伴は、江戸末期に生まれ、明治を生きた人。明治風俗を描いた柳田國男の本にもありますが、今と売り物が全然違った。
文学館の仕事の中で、道内の文学碑を全部チェックしたことがあります。余市に幸田露伴の句碑があることを知りました。
「塩鮭のあ幾と風吹く寒さかな」(からざけのあぎとかぜふくさむさかな)
良い句碑ですよ。露伴は若い頃、2年間、電信技手として、余市の分局にいた。帰りは、小樽から青森まで船で、青森から東京までは歩いて帰った。歩いて帰る道すがら、露を伴(伴侶)として、夜空を見上げながら、野宿のようにして眠ったことがある。そこで、「露伴」と号するようになったのだそうです。
札幌周辺にも句碑はたくさんあります。自分の結社にゆかりがある俳人・俳句作家の句碑なら知っているという人は多いと思います。一昨年3月に亡くなった木村敏男さんの句碑も、ビアガーデンのあった南区の紅桜庭園にあります。今トンネルができて便利になった盤渓にも、山岸巨狼さんの金属製の句碑がある。でも、意外と知られていません。

【森鷗外】
行春を只べたべたと印を押す
 【夏目漱石】
山高し動(やや)ともすれば春曇る
【芥川龍之介】
春の夜や小暗き風呂に沈みゐる
水洟や鼻の先だけ暮れ残る
  鷗外、漱石、芥川らも俳句を作っています。それぞれの全集にも入っている。漱石の場合は岩波新書でもまとめられている。
実は彼らも、北海道に多少なりともゆかりのある作家です。
鷗外は、北海道と縁があることをあまり知られていません。彼は陸軍の軍医だった。明治期から旭川には大師団があり、そこを視察に訪れている。そうした足跡を旭川の人も意外なほど知らない。
漱石は、日露戦争に徴兵されるのをよしとせずに、自分の籍を岩内に移したことが有名です。岩内には漱石転籍の碑があります。
芥川の「あの植物園全体へどろりとマヨネーズをかけてしまへ」という短句は有名です。これは道庁の裏の植物園のことです。改造社の円本、文学全集が出た折の記念講演で、函館を皮切りに北海道を数人で回った。その際、札幌の植物園近くの宿に泊まったらしい。うっそうとした緑の森が街中にあって、美味しそうに見えたのでしょうね。「マヨネーズをかけてしまえ」と。我々の年代はあれやこれや読んで、知っているけれど、今では風化してしまっている話かもしれません。芥川の「春の夜や~~」は、あの細い体で、たぶん木桶のお風呂でしょう、体が沈み込もうとしている。その様子を想像するだけでも面白い。

そのほか、近代文学史の全体を見渡すと、俳句歴のある作家は、軽く数十人、挙げることができます。子規や土屋文明は専門家ですが、それ以外にも詩人、ジャーナリスト、美術家なども俳句を作っています。北海道でも、山の俳句で知られた版画家の一原有徳さん。いろいろな分野で俳句が好きな人がいた。そのあたりを知りたい方は、高橋康雄さんの本(『風雅のひとびと』(朝日新聞社))を読むと良いと思います。

【吉村 昭】
春雷やまたも作家の死亡記事
貫きしことに悔いなし鰯雲
湯豆腐を頼むと成田から電話
さて、ようやく吉村昭です。吉村さんの俳句は、『炎天』という句集に全部入っています。「春雷や~~」の句は、少し散文的かなと思います。でも、吉村さんは筋金入りの俳句の人だったように思います。この一冊を読むととてもよく分かる。
学習院大時代に芭蕉が専門の岩田九郎先生という方がいた。吉村さんは、岩田先生の講義に、毎度のように遅刻する。遅刻ばかりする吉村さんを見て、(同じ講義を受けていた)津村さんは「いやね。あの人」と思っていたそうです。遅刻した吉村さんは、岩田先生の教卓の上に紙を置いて着席しました。「今日もまた桜の中の遅刻かな」とあった。岩田先生はうれしかったようで、叱りもせず、出席を認めたということです。
昔は食えない人の代名詞だった小説家。最近はスタープレーヤーまがいの人が増え、つまらない小説でも売れることがあって、真面目な小説はなかなか売れない。次から次へと絶版になっていく。原田康子さんや加藤幸子さんの本もそう。加藤さんは「千部しか出してくれない」と嘆いておられました。吉村さんは生前、作家らの暮らし向きをとても気にしていて、大型書店に並ぶ好きな作家の文庫本の点数を見て「この程度では食っていけないだろう」「何とかしてあげたいがなあ」と言っておられました。

【津村節子】
雨宿りした人と見る夕の虹
津村さんの俳句です。一緒に雨宿りしたのは吉村さんだったことは知られています。吉村さんは、普段、講演依頼を受けない方でしたが、ある日、さる省庁からギャラ50万円の講演のリクエストが来ました。同じ日に府中の刑務所から、囚人たちのために講演してほしいとの依頼もあった。後者の礼金は5千円。結局、吉村さんは5千円のほうを選んで話をしました。お金で動く人ではなかった。妻の津村さんも今は90歳で、たまの便りのやりとりが続いていますが、しっかりしておられます。とても魅力のある、立派な方です。吉村さんの逝去後に完成した津村さん主役、私が準主役の短編映画があって、賞(2015年度映文連アワード)をもらっています。いずれ上映する機会を作りたいと思っています。

【中村真一郎】
木枯らしや星明り踏むふたり旅
福永武彦の新婚に際して、中村真一郎が作った句です。中村真一郎さんが俳句好きだったと言うとビックリする人が多いですね。福永武彦と原條あき子、息子は池澤夏樹さんですが、二人の新婚のときにできた句です。めでたいときの作品。いいですね、夫妻の後ろ姿が見えてくる。ただ、これは私に言わせると短歌の世界に近いと思う。津村さんの「雨宿り~~」の句も、短歌的な抒情に近いと思う。この2句のムードは共通している。夫婦、男女の間柄を俳句にするとこういうふうになっちゃうものかと思いました。

 【金子兜太】
人体冷えて東北白い花盛り
2月に98歳で亡くなった金子兜太の句です。兜太さんは「アベ政治を許さない」と揮毫しました。ネットでもそれが見られます。一緒に並んでいるのは、澤地久枝さん。説得力ありますよね。

●むすび
明日来ればななとせめぐる3・11
これはぼくが昨日、作った句です。テレビなどでは、3・11前後は特集などを組むけれど、段々忘れられていく。活字にして作品に残すことは、その人の思いを残す意味もあります。とにかく残る。ネット情報は拡散しますが、いずれは消えてしまう。最近の大学生は、月に本を1冊も読まない人が半数以上いると聞きます。とても残念なことです。
最後に一句。「雨霽れて別れは侘びし鮎の歌」。中村真一郎が、立原道造を偲んで作った句です。立原が生きているときに物語集を出そうとして付けたタイトルが「鮎の歌」。中村さんは、その編集にかかわっていた。こういう句を詠むと、俳句の力を感じます。
ところで、「鮎の歌」っていったい何だろうと調べようとします。今は、ネットで何でもパッと出てくる時代ですが、こういうものまでは調べきれない。紙の形、本であれば、その情報はずっと残ります。文学館はそのためにある。資料の保存、書物の保存をするのが文学館の大切な仕事の一つです。みなさんの中で、私同様、身辺をそろそろきれいにしたいと思っておられる方は、ぜひ文学館にもご連絡ください。資料の収集責任者は私です。担当の学芸員もいますので、よろしくお願いします。