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2018年5月29日火曜日

俳句集団【itak】「抄録まつり(2)」第30回イベント抄録

ルイス・キャロルなくて七癖
――『シルヴィーとブルーノ・完結篇』(Sylvie and Bruno Concluded)
翻訳こぼればなし
                 平 倫子 
(2017年 3月11日 北海道立文学館にて)
長年取り組んできた仕事ではありますが、俳句とは何の関係もないことをお話することに大きな壁を感じています。でも、せっかくルイス・キャロル(1832-98)のことをお話するのですから、タイトルを思い切って「ルイス・キャロルなくて七癖」にしました。



左の肖像写
真は、『シルヴィーとブルーノ』2冊本を執筆していた60代のキャロルです。
冒頭、『不思議の国のアリス』を読まれた方はどのくらいいらっしゃるか、おたずねしました。かなりの方が手をあげられました。『鏡の国のアリス』はずっと少なくなりました。ところが『シルヴィーとブルーノ』を読まれた方が一名いらっしゃったので、大いに励まされました。
ルイス・キャロルなくて七癖」というタイトルの手がかりになるものとして、フロイト(1856-1939)の著作から、不安夢の図を借りることにしました。 晩年のキャロルは、当時の科学がまだ解明できなかった心理学や物理学、脳生理学に強い関心を抱き、フロイトの初期の論文を読んでいたらしいのです。それでこの有名な図に、キャロルの七癖(「ことば狩り」、「夢」、「狂気」、「不気味」、「写真」、「手紙魔」、「数学・論理学」)の立て札を貼りつけ、便宜上のイメージ図を作成しました。  
もともとの狼のいる木の絵は、幼児期神経症の患者(通称「狼男」
)が幼いころに繰り返し見た夢を図に描いたものです。樹上の狼は、『赤ずきん』、『狼と七匹の仔山羊』、『仕立屋と狼』の人喰い狼の恐怖、ロシアの貴族だった父親の領地で飼われていた羊が伝染病で大量死した時の記憶、などが合成されたもので、成人してのちフロイトの患者になってから描いた不安夢の絵です(フロイト「ある幼児期神経症の病歴」より、『フロイト全集』14巻、2010,25-26ページ)。
「不気味」という項目は分かりにくいところかと思いますが、『シルヴィーとブルーノ』二部作に通底する妖気や、スピリチュアリズム、ニンフォレプシー(少女しか愛し得ない異常さ)なども含めています。
「狂気」は、キャロルが狂人だったという意味ではなく、19世紀末の時代の病としての狂気を根底においたものです。子どものための物語として書いたものに病気や死の概念を取り入れたことを、キャロルは『正篇』の序文で断っていますが、『完結篇』16章には死生観を語るシーンも見られます(拙訳、113-4)。
「ことば狩り」は、滑稽詩、パロディ、造語、アクロスティック(行頭、行間、行末の文字を綴ると語や名前になる)、アナグラム(語句の綴り換え、完結篇1章に出てくるLIVE➡EVILなど)、ダブレット(「HEADをTAILに変える」, HEAD➡HEAL➡TEAL➡TELL➡TALL)、回文(Was it a cat I saw? このこネコのこ?)など、キャロルの真骨頂で、言語はキャロルが逃げ込むユートピアでした。また、次の例のように下線の一字だけを置き換えることで、よく知られた諺を換骨奪胎したものもあります。Take care of the pence, and the pounds will take care of themselves. ➡ Take care of the sense, and the sounds will take care of themselves.(『不思議の国のアリス』9章より)。

キャロルは多くのゲームやパズルを考案して、子どもたちを楽しませました。左の絵は、最晩年に刊行を計画していた『オリジナル ゲームとパズル』の口絵のイメージを、挿絵画家E.G.トムソンのために描いたキャロルのパズル絵で、1897年8月7日にトムソン宛の手紙に添えられたものです(『キャロルと挿絵画家の往復書簡』、310)。『シルヴィーとブルーノ・完結篇』(1893)の巻末に、「『オリジナル ゲームとパズル』は目下準備中」と広告が載っているにもかかわらず、実現しませんでした。
池澤夏樹氏は現在刊行中の「日本文学全集」の第29巻『近現代詩歌』のなかで、英語圏でもっとも短く、形式の制限がつよいものとして、エドワード・リア(1812-88)のリメリックをあげています。リメリックは地名と人物を書き込んだ5行の戯れ歌です。
  リガから来たお嬢さん / 虎に乗ってニコニコお散歩 / 戻ったときには / お嬢さんは虎の中 / ニコニコなのは虎のほう(『近現代詩歌』、457)
キャロルも13歳のとき、『実益と教育のための詩』(1845)という家庭回覧誌をつくり、そのなかにリメリックを数篇書きました。児童文学史では、ノンセンス詩人としてキャロルはリアと肩を並べ称されます。『不思議の国のアリス』にはじまるキャロルのノンセンス詩やパロディには目を見張るものが多いのですが、『シルヴィーとブルーノ』と『シルヴィーとブルーノ・完結篇』にも、二作にまたがった全9連の「狂った庭師のうた」という6行詩があります。「、、、」かと思ったが、もう一度見ると「・・・」だった、というパターンのノンセンス詩です。その第一連目をあげておきます。
  やつの見たのは一頭の巨象 / そやつは横笛吹いていた / 思ったものの、も一度見れば / なんとそやつは女房の手紙 /「やれやれわかった」やつがいう /「これぞ人生の辛さかな   (『シルヴィーとブルーノ』正篇第5章、柳瀬尚紀訳)

ここで「象」かと思ったが、もう一度見ると「女房の手紙」というのは、俳句の「二物衝撃」のテクニックに近いものが感じられないでしょうか。
『正篇』序文には’litterature’ というキャロルの造語が出てきます。literature (文学)とlitter (散らかす)を合成、リッテラチャーというかばん語にしたものです。具体的にキャロルは「ふと心にうかぶ半端な思いつきや会話の断片をリッテラチャー(文学散乱物)と名付けた」と言っています。どんどん溜まる混沌としたリッテラチャーを、なんとか独創的な物語に撚り合わせようと、キャロルは長い間腐心していました。
2015年にドキュメンタリー文学のジャンルでノーベル文学賞を受賞したベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシェーヴィッチは、近著『セカンドハンドの時代』のなかで「自分の耳に聞こえるままを書くために、長いあいだ自らの手法をさがしていた、、、、真実はひとつの心、ひとつの頭のなかにおさまらない」(『セカンドハンドの時代』、602)と言っています。彼女は聞き書きの過程で、話し手の沈黙をも記録しました。「ただの日常生活が文学に移行するその瞬間を見逃さないように、、、、、あらゆる会話の中でその瞬間を見張る。『文学のかけら』はいたるところで、あるいは思いもよらないところで、きらりと光る」とも言っています(同、480)。『セカンドハンドの時代』を読んで、「文学のかけら」は「リッテラチャー」と呼応するのではないかと思いました。
「夢」は ”eerie / trance” のところで触れます。「写真」や「手紙魔」についてはパワーポイントで資料にそって説明をしましたが、ここでは割愛して「翻訳こぼればなし」に移ります。
図1

図1は、H. ファーニスによる『シルヴィーとブルーノ』(1889)の口絵、図2は、同じく『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の口絵です。この物語は当初一巻で発表する予定でしたが、あまり長くなったため折半されました。キャロルはそのことを『完結篇』の序文で次のように説明しています。   「1889年3月に物語全体のページ数の見当がついたとき、二冊に分けて出版するほうが良いと考えた。そのために正篇にある種の結末(a sort of conclusion)を書かなければならなくなった。多くの読者がこれで終わりと思えるような結末(the actual conclusion) にして1889年12月に出版した。たくさんよせられた手紙のなかに、この結末は本当の結末(a final conclusion)ではない、といぶかる内容のものが一通だけあった。それは子どもからのもので、最後まで読んで、これでおしまいではない(no ending up)ことがわかり、あなたは続き(sequel)を書こうとしていることが分かった、と書いてあった」(拙訳、7)。

図2

翻訳を終えて気になった疑問と課題はつぎの二つでした。
1)なぜタイトルがSequel ではなくConcluded なのか。
2)物語に通底するeerie / trance 理解のための新しいアプロ 
ーチはないか。
『完結篇』の序文からもうかがえることですが、『正篇』の評判があまり良くなかったため、キャロルは続篇に相当のこだわりを見せました。それがタイトルにも表れたものと思われます。
“Concluded” 考のために、D.デフォー(1660-1731)の『ロビンソン・クルーソー』1部、2部(ともに1719)と3部『反省 録』(1720)を拠り所にしました。
その理由は、第一に『正篇』5章で、セルカーク(デフォーが『ロビンソン・クルーソ-』の種本にした世界周航の体験者の名前)に言及していること。第二に同22章で、「ブルーノの腹心の奴隷になりたい、、、」は、ロビンソン・クルーソーの従僕「フライデー」のイメージと重なること。第三に『ロビンソン・クルーソー』の主人公は時代に応じた宗教論(一例は『シルヴィーとブルーノ』25章に反映)や、経済論(一例は『シルヴィーとブルーノ・完結篇』3章に反映)を述べますが、キャロルも登場人物に当時の社会観、歴史観、宗教観を反映させていること。第4にキャロル(ドッドゥスン家)の先祖に北極探検家がおり、海洋探検記などに親しんでいたふしがあること、などがあげられます。
ちなみに『ロビンソン・クルーソー』の第1部の原題は、『ヨークの水夫、28年間オルノコ川河口に近いアメリカ沿岸の無人島に暮らしたロビンソン・クルーソーの生活と不思議な驚くべき冒険』です。第2部は『ロビンソン・クルーソーのその後の冒険』で、第3部は『ロビンソン・クルーソーの生活と驚くべき冒険のあいだの真摯な反省』です。キャロルは『ロビンソン・クルーソー』の第1部、第2部、そしてあまり読まれていないといわれる第3部までも読み、物語の構成や序文などを参考にしたことが考えられます。
興味深いことに、『ロビンソン・クルーソー』の第2部の結末は、”To conclude, having syayed near four months in Humburg,,,,, And here,,,,,” で、「長い物語をいま、ここで終わるにあたり、これまでよりもずっと長い死出の旅へ赴く用意をしている」で終わります。
『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の物語と、献詩(翻訳5ページ参照)とを合わせ読むとき、“Concluded”というタイトルには、晩年のキャロルの思い入れが重なってくるように思いました。
もう一つの“eerie / trance” 考については、拙訳にざっと目を通してくださったある方が「eerie / tranceの異常感覚は、LSD のそれに比肩できる」と感想を寄せてくださったことがきっかけになりました。そこで、新しいアプローチの拠り所として、ド・クインシー(1785-1859)の『阿片常用者の告白』(1822,1845)とその続篇『深き淵よりの嘆息』(1845)を読んでみました。あとで分かったことですが、キャロルは25歳のときにド・クインシーを読み、日記に『阿片常用者の告白』を読んだ感銘をつぎのように書いていたのです。「この本にはあらゆる情報が詰まっていて、まるで人体が養分を吸収する導管が張り巡らされているようだ。今後のために索引を作っておこう、、、、、作者が意識していない同時代の作家にとって大事なものが秘められている」(1857年11月24日の日記)と。彼は1853年にエディンバラから出版された『ド・クインシー全集』全14巻を所有しており、つぎつぎに読破していったようです。ド・クインシーの著作はその後のキャロルの文学の淵源となったと考えることが出来ます。
ド・クインシーは、 子ども時代の経験や苦悩が夢の中に結晶して、夢見るものの人間性を形づくり、育て、文学を生み出しうること確信していました。『深き淵よりの嘆息』には“eerie / trance” 理解のためのヒントが多く含まれていました。
「人間の頭脳に埋め込まれた夢見る仕掛けは…..闇の神秘と手を結んで、人間が妖しい影と密会する一つの偉大な反射望遠鏡となる」(『深き淵よりの嘆息』、p. 11)。
「夢見る器官は、心臓、目、耳と結びあって無限のものを人間の脳細胞の中に押し入れ、、、、眠る心の鏡面に投げかける見事な装置である」(同、139)。
「人間の頭脳とは、自然の偉大な重ね書きした羊皮紙写本でなくてなんであろう」(同、217)。
キャロル自身も1856年2月9日の日記に「夢」について書いています。「夢から覚めようとするとき、目ざめているときなら狂っているとしか言いようのないことを言ったり、したりすることはないだろうか。そうだとすると、狂気を、夢と現実が区別できなくなった状態と定義してはいけないだろうか。眠りはもう一つの世界をもっており、現実と似た一面さえ持っているようだ」。ここには彼が愛読していたサー・トマス・ブラウン(1605-82)の影響があったことも考えられます。ブラウンは『医師の信仰』(Religio Medici, 1643)のなかで「睡眠中に人は自らをいくぶん超えた存在になるからには、肉体のまどろみは魂の覚醒でもあるのではないか。眠りは感覚を結紮する反面、理性を開放する。したがって、目覚めているおりの思考は眠っている間の空想には及ぶべくもない、、、、、夢の中で私は一篇の喜劇を書き上げることが出来るばかりか、それが上演されるのを眺め、その滑稽さを理解し、笑ってしまい、目を覚ますこともある」と言っているのです(180-1)。
多くの先達からのリッテラチャーもあってこそ『シルヴィーとブルーノ』が書けたことが分かります。ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は、1896年から東大在任中におこなった英文学講義の中で、キャロルの二冊の『アリス』、『スナーク狩り』、『シルヴィーとブルーノ』について触れ、キャロルの夢の論理の叙述が「子どもがどういう夢を見るか、なぜそんな夢になるのかを知っており、夢のヴィジョンとそれに伴って生ずるあらゆる異常感覚の、動揺、歪曲、矛盾、不条理を、読者に、これこそ夢の感覚だと思わせるようなかたちで書いた」(『L.ハーン著作集6』、322)と言って高く評価していました。
         
ところで、『深き淵よりの嘆息』の原題は、Suspiria De Profunds: Being a Sequel to the Confessions on English Opium Eater です。そしてラテン語の‘suspirio’ には‘to breathe ’の意味があります。キャロルは『シルヴィーとブルーノ』2部作で、「ささやく」という動詞を多用していますが、多くは‘whisper’を用いました。最後になって‘breath’を用いたのには彼なりのこだわりがあったに違いありません。『鏡の国のアリス』6章でハンプティ・ダンプティが、「動詞がいちばん気難しいので、たくさんの意味を込めたときには特別手当を支払う」と言うくだりがありますが、‘breathe’や‘concluded’などの使い方にも、キャロルのことばへの強いこだわりを感じます。
続篇執筆中の1891年2月、キャロルはクライストチャーチ・カレッジの礼拝堂で発作を起こし倒れ、その時の体験をのちに「病める人のための手紙」に次のように書きました。
   疑いもなくわたしのさい先は長くはありません。先だっての発作は容易にわたしの心臓の働きを止めた可能性がありました。発作のあと目覚めたときの不思議な情景は誰でもが見られるわけではないと思いますが、死は終わった(Death is Over!)というような幸福感に満ちていました。病気から解放され、甦ったような身体になれる、あんな体験がこの世でも出来ればいいのにとしみじみ思います(1891年8月の書簡)。
『シルヴィーとブルーノ・完結篇』の献詩に“My Tale here ended” と書き、19章で「語り手」が「ダブル・ライフを生きてきた」と、自分の秘密をミュリエルに告げる(breathe) 場面を経て、かねて挿絵画家ファーニスに「自伝的なもの」と告げていたこの物語を閉じたのでした(concluded)。わたしはここに、キャロル自身の文学の完結という意味合いも込められていたのではないかと考えています。
『完結篇』24章で、リュウマチを病んで自室にこもった教授が言った「まだ二つ、三つ科学的な難題がある」(拙訳、165)というのは、暗にアインシュタインの量子力学や、フロイトの精神医学のことを示唆していると考えることが出来ますが、キャロルの作品が今日につながる開かれた終わり方をしているところを再確認しておきたいと思います。
このところテレビでモーガン・フリーマンの「時空を超えて」というシリーズを見ていますが、先日は「パラレルワールドは存在するか」という題で、「宇宙の中心はパラレルワールドの入り口である」という説をとりあげて、「パラレルワールドはもはやファンタジーではない」と言っていたのが印象に残りました。

(了)

2017年4月12日水曜日

りっきーリポート#21 今日までの【itak】をゆる~く振りかえってみるの巻


皆さまお元気でしょうか?
こんにちは、【itak】の裏方でみんなのアイドルことリッキーでございます。


今回もりっきーリポート、若者たちのitakでの活躍をリポートするつもりでいましたが、今回(3月ね)の学生さんの参加はほんの僅か、まぁ確かに時期的に卒業とか期末テストとかで「忙しくてそれどころじゃないわっ!」なんて感じですよね(;^ω^)
ということで、特段目を張るようなネタも無かったので今回は今までの【itak】の歩みをチョロッと振り返ってみようかなと思いますです、ハイm(__)m


【itak】も立ち上げから早や5年、次回からはなんと6年目に突入しちゃうという、BOSSを始めスタッフみんなビックリのしぶとさであります(笑
立ち上げ当初の目的は「北海道の俳句界をもっと自由に盛り上げよう!」「もっと若手(学生さん)や初心者さんが自由に俳句できる場を作ろう!」なんて感じで一同ワタワタとイベントを企画し句会も開催してきました。
当然の事ながら最初の頃は異端児的扱いで白い目で見られたり「【itak】?なにそれ?」的な御言葉も頂いておりましたが(いや、今も言われてるけどね(-_-;)、 地道に活動してきた甲斐もあって今は一定の認知度も上がって毎回のように新しい方が参加してくれたり、また【itak】に遊びに来てくれている高校生たちも徐々に増えていき、そして一昨年は旭川東高校が俳句甲子園で準優勝するなど、それはもう濃ゆ~い5年間となりました。

それに呼応してかどうかは分かりませんが、道内の俳句結社や各協会でもジワリと動きが出てきたようで、新たに結社で俳句を学ぶ方や協会に所属される方なども少しずつではありますが増えてきたようです。
今までは減る一方と言われていた北海道の俳句人口も、我々【itak】の活動でウマイこと刺激になっているのであれば、これほどうれしい事はありませんぜ、旦那っ( ̄▽ ̄)
 
・・・が、これで満足して足を止めちゃぁいけないって事で、【itak】はまだまだこれからも突っ走っていく所存でありますよん。

次回5月は旗揚げ五周年記念企画、【itak】初の吟行句会!5月上旬の北海道は厳しい冬を越えた花や木々たちが一斉に眩くそして彩る時期で、吟行にはもってこいのシーズンです。
そして5月は学生さんも新入学で色々フレッシュな風を吹かせてくれるシーズン!特に今年は大学生達とたくさん御縁が出来るような気配でありまして・・・(ニヤリ


という訳で6年目の【itak】もエンジン全開で突っ走りますんで、そこんところ夜露詩駆!
・・・
あ、エンジンにはちゃんとガソリン(酒宴)を補給しないと動かないんで、そこんとこもヨロシクです(`・ω・´)ゞ





2017年4月10日月曜日

俳句集団【itak】第30回句会評⑥ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第30回句会評⑥

  2017年3月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 啓蟄や鉛筆の芯そろへ置く   遠藤ゆき子
 
鉛筆の芯を揃えて置く とはどういう景なのか 考えてみるとふつうの三菱の鉛筆(昔ならではの)であれば鉛筆をきちんと研いで、同じ方向に並べて置く。この場合シャープペンシルの芯を4~5本出して同じ方向に並べたのではなかろうか。そうすると、なにか虫のような感じがしないだろうか。そこに「啓蟄」の季語が生きてくる感じがする。
 
 
 生きものの色を集めて牡丹雪   ふじもりよしと
 
生きものの色を集めると、なんで牡丹雪になるのであろう?とか牡丹雪の白い色がはたして生きものを集めた色なのであろうか? とか読者が??を頭で考えているうちに作者の術中にはまるのである。こういう独善的な比喩的な表現が俳句ではぜったいに必要なのである。思えば 白はひかりの三原色をあつめれば白くなるのではなかろうか。
 
 
 鳥雲に大霊界は果ての果て    三品吏紀
 
大霊界という言葉久しぶりに聞いた、丹波哲郎いまごろ大霊界でどうしているのであろうか。鳥雲に の季語に大霊界という言葉の取り合わせ悪くないと思う。問題は「果ての果て」なのだと思う。これは作者もおそらく気づいているはずだ。たとえば 鳥雲に入りて大霊界に棲む とか徹底的に
虚に持って行くという手もある。
 
 
 弥生なり十日十一日炎(ほむら)  五十嵐秀彦
 
三月十日は東京大空襲。十一日はご承知のとおり東日本大震災。弥生なりが逆に気になった。本来は陽暦4月なので。ここは「三月や」でいいのではと。日本にとって忘れてはいけない日が二日続いていることは大きな発見でもあるので、大事な俳句だと思う。
 
 
 新しき電柱並ぶ弥生かな    村上海斗
 
三月末の年度末には決算時期でもあり、予算執行もあるので意味なく新しいものが出来上がる。電柱が新しくなっても不思議はないのだ。弥生は「いやよい」の意味で、新しものがにょきにょき立つのはとても共鳴できる季語なのだ。
 
 
 黒鍵の艶めきだして冬終る   平野絹葉
 
ピアノの黒鍵を詠むことはけっこうあると思うが、「艶めく」と詠んだのは過去にはないのではないだろうか。たしかに黒光りした感じは、末黒野も想像されて「春」めいた感じである。そういう意味で「冬終わる」はするどい季語選択だと思う。
 
 
馥郁と蕊を反らせて臥龍梅     増田植歌
 
北海道の人間なかなか臥龍梅は詠む機会がない。そういう意味では名古屋在住の作者ならではの詠みである。中七の「蕊を反らせて」という措辞。馥郁という措辞。どれも臥龍梅のありようを的確に写生していると思われる。

 
◇◇◇
 
以上さくさく 今までの中で最短時間で終了。たくさんの句をあっさり触れることに終始してみました。今回はこれで勘弁してください。(了)
 
 
 

2017年4月8日土曜日

俳句集団【itak】第30回句会評⑤ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第30回句会評⑤

  2017年3月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 冴返る転宅を告ぐ青インク    恵本俊文


句会でこれもコメントされていたが、たんなる転居や引っ越しでない、不穏な感覚が、「転宅」という措辞と「青インク」から伝わるのだ。これが冴えかえるという季語と相俟って十全に伝わる句なのだ。
 
 
 街は雪を愛して木々のかをるなり   瀬名杏香
 
十+八の破調なのであるが「街は雪を愛して」とたっぷりと叙しているので、あまり破調感がないのだ。この措辞が旭川、札幌などの雪国の街を想像させて、故郷を愛する作者の表白も垣間見ることができる。そして「木々のかおりるなり」の措辞が雪解けのこの季節の感覚を十分に伝えている。
 
 
 友のくれし歳時記春に栞あり     黒紗
 
まず俳句に歳時記を詠むことが珍しい。はじめて俳句を作ったらしい。この句も十+八で破調なのだが、友のくれし歳時記 とたっぷりと叙しているのであまり違和感なく読める。違和感があるとしたら 歳時記を詠んでいることである。すべて読み終わったあと読者が感じることは、なるほど作者は友人から「歳時記を貰って、その歳時記には春の項目に栞が挿してあった」ということである。ここからこれからの季節感、俳句をはじめて詠むこころの躍動感や、友人との関係が温かく伝わるのである。
 
 
 卒業の朝へ靴紐結びけり      栗山麻衣
 
卒業の朝へ の「へ」が良い。靴紐を結ぶという行為はやはり、きちんと新しくはじめること、襟を正すことに 近い行為だと思う。もちろん身だしなみの一つでもある。卒業後の生き方にも通じるはずである。
 
 
 だくだくと山も崩さん雪解水   鍛冶美波
 
雪解水の勢いが「だくだく」というオノマトペによって見えてくるので、このオノマトペは成功している。読者が立ち止まるのは山もの「も」である。なぜ「を」でないのか?、「も」にした理由は?と考えてみる。湧き出て来る雪解水によって、山崩れをおこすばかりでなく、長い冬期間に生じた氷の山や、雪の山、はたまた人間の固くなったこころの山も崩すという意味なのであろう。
 
 
 

2017年4月6日木曜日

俳句集団【itak】第30回句会評④ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第30回句会評④

  2017年3月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
 
 春泥を越えて結婚話かな    田口三千代
 
春の浮き浮き感がでる春泥をまたぎながら、まさに結婚話をしている景である。嘘くさい景とは思えないのだ。「かな」の詠嘆が結婚話にかかっているのもこの句は成功していると思う。つまり妙に 「春泥」という季語を重視していないのが良いのだ。春泥という季語は軽く扱われる方が喜ぶ季語だと思う。
 
 
 口笛のスピカに届き冴え返る   石井義康
 
冴え返るの季語の扱いが少しアンビバレンスで面白い。「冴えかえる」という場合は、むしろ「口笛が届かなくて冴えかえる」というネガテイブな意味でつかわれるが、この句はスピカというおとめ座の首星に口笛がせっかく届いたのに冴えかえる と詠っている。
 
 
 春霙犬には犬の思ひあり    高畠霊人
 
句会でも言ったが、中七以下のフレーズは犬好きのひとにはなかなか鉄板のフレーズである。あとは季語の斡旋だが、「春霙」なかなか良いと思った。「ずぶ濡れて犬ころ」を思い出した。
 
 
 ブルースと俳句机上の蜃気楼   高橋ヨウ子
 
机上の蜃気楼がいいです。机のうえの荒野は寺山、わたしも机上の砂嵐という俳句を作ったことあるが、机上の蜃気楼は 新しいと思う。ブルースも良い。この句を採れなかったひとは「俳句」なのだろうと思う。ここを「モノ」で収めることができたら、人気が出たのだと思う。
 
 
 のどけしや卒寿の母と土弄り    藤森美千子
 
句会でも言ったが、のどけしや の季語の斡旋のよろしさと、坐五の「土弄り」がとてもリアルな表現で信憑性がある。かっこつけて表現していないのが良いと思う。卒寿の母ののどかな生活が想像される。
 
 
 

2017年4月4日火曜日

俳句集団【itak】第30回句会評③ (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第30回句会評③

  2017年3月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 

 
 
 鯛焼の雄(国産)を箱で購ふ    青山酔鳴
 
タイ焼きの雄で国産を箱ごと買ったというまさに嘘っぱちであるが、一種の発見かもしれない。タイ焼きを買いつつ、おそらくスーパーで並んでいる魚貝類に思いを馳せたのだろうと想定する。
 
 
 蕗味噌の苦み嬉しや生きてをり   高畠霊人
 
蕗味噌を食べたときの、ことしも春を迎えられたという喜びを句にした。たしかにはずんだ心持が表白されているが、やはり「嬉しや」が問題と言えば問題なのかもしれない。「嬉しや」がなくても、苦みを味わい、「生きてをり」の措辞があれば理解できるので。
 
 
 草間彌生似の犬通る春の闇    高畠町子
 
三年に一度くらい句会に登場して高点句になる草間氏である。笑える句であるが、草間フアンには見せられないかも。「春の闇」がゆるめる、深刻さがないという意味ではいいのだが、闇の中で顔が似ていることが本当にわかるかしら?なんて思う。「春の昼」とか「蝶の昼」で十分面白いのではと思う。ちなみに私むかし「ビクターの犬に似たひと山笑ふ」という句をだして、うけたことことがある。
 
 
 僕を俺と言ひなほすひと春の闇   横江泰子
 
この句もある意味現代の若者それも男の子の現状をよく見ている句だと思う。草食系と思われたくない草食系男子が、見栄をはって言いなれない「俺」を連発している姿がほほえましい。春の闇の季語がどうなのかという、恨みは残るのであるが・・・
 
 
 ぽちっとなのぼりのボタン押して春  平野絹葉
 
句会でもみなさんがコメントしていたが、この句の面白味は「ぽちっとな」の措辞であろう。一青窈の作詞みたいな、おもしろい魅力的な措辞だ。春への展開もかろやかである。エレベータのボタン押すたびに「ぽちっとな」と言ってしまいそうだ。
 
 
 

2017年4月2日日曜日

俳句集団【itak】第30回句会評② (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第30回句会評②

  2017年3月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 

 
 亀鳴くや告知の前の缶珈琲    山田美和子

句会のときも議論されていたが、ここの告知は恋愛告知とはふつう、思わない。やはり癌の宣告などの病気の告知または深刻な事態をお知らせする場面であろう。そこですこし緩い感じの「缶珈琲」が逆に存在感が出てくると思う。また亀鳴くという諧謔の季語を使用したことが、こういう場面に使われるのは逆に新しいと思うのだ。


 夕張の空き家の太き氷柱かな     安田豆作

夕張という過疎の代表的な街が固有名詞として利いている。空き家なので、氷柱を落とすひともいないのだろうと理解できるし、納得できる。住居建築の専門家に言わせると、空き家にはそれほど氷柱はできないという、これも後から聞けば納得できる情報だ。


 半島に青き点描流氷期       籬  朱子

これはヘリコプターやドローンで知床半島を俯瞰したときの景として理解できるだろう。今はむかしにくらべると小型化した流氷の塊を点描と比喩している。惜しむらくは流氷期とすると「時期」を示すのでここは景としては「流氷野」とすべきだと思うが・・・。


 漢気の軸のぶれなき卒業歌    三品吏紀

卒業の句として珍しい素材。おそらく男子校もしくは水産高校、工業高校などの校歌であろうか。おそらく時代錯誤といえるような男気にあふれた校歌の「詞」なのだと思う。中七の「軸のぶれなき」がなかなか骨のある措辞で、ほほえましい。


 み仏も趺坐くづしませ春の闇   草刈勢以子

中七の「くづしませ」が非常によい。そしてそれに「春の闇」という季語の選択がもっとよい。春の柔らかい闇の中だからこそ、「仏さま、どうぞ胡坐をゆるめて楽にしてください」という作者のこころもちも温かく伝わるのだ。


2017年3月31日金曜日

俳句集団【itak】第30回句会評① (橋本喜夫)


俳句集団【itak】第30回句会評①

  2017年3月11日
 
橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
今回の平倫子先生のイベント、そして句会ともに盛況で何よりでした。さて週末から東京出張なのでサクサクと。


 薄皮を残したやうな弥生かな    大原智也

この句の中七までの措辞は、作者の自然環境つまり東京に住んでいるか、北海道かでその味わいが違ってくる。「薄皮を残したような」という措辞はまだ、うすうすと前の季節を曳づっている感覚が言い表されている、だから作者が東京住まいならここは「如月」とか「きぬさらぎ」がベターなのだと思う。そして北海道在住だからこそ本来なら陽暦4月の季語である、弥生が生きてくる。この句は「北海道の弥生」という意味でとてもよい季語選択だと思う。


 懐の源氏名名刺納税期       藤原文珍

句会のときもコメントしたのだが、この句は面白い。ススキノとかで働いているおねーさんが、源氏名名刺を懐に忍ばせながら、きちんと確定申告の列に並んでいる景がほほえましい。毎年わたしも並ぶのであるが、税金をとられるために、おとなしく整列する国民は日本人以外にはないのではないだろうか。私は並びながら毎年、日本人でよかったと微苦笑しながらも思うのだ。


 野焼き火の何処へ生まれる何処へ死ぬ  太田量波

句会のときも言ったが、中七以下の措辞が魅力的なので、やはり季語なのだと思う。この季語で私は良いと思うのだが、「野焼き火」という措辞が美しくないと思う。「野火」とするか「遠山火」、「遠野火」とか他の措辞もあるはずだ。


 雪解風白樺百幹にひかり     藤森美千子

この句は句会のときもコメントされていたが、「白樺百幹」の措辞にオリジナルがあり、コアである。中七~座五にかけての句またがりの破調感がとても成功していると思う。雪解風とのマッチングの問題で句の優劣が決まるのであろうが、私は悪くない組み合わせと思った。「風」の季語はやはり無難である。ただし完璧な取り合わせではないと思う。


 冬の月いまならきつと言えるはず   恵本俊文

この句も中七以下のフレーズが魅力ある。まるで「根岸の里のわびずまい」のように。逆に言うとなんにでもつく完成されたフレーズ(万能なフレーズ)ともいえるので、そこが問題なのだと思う。思えば楸邨の「鰯雲ひとに言ふべきことならず」の中七以下もそんな感じなのだが、ひとえに「鰯雲」との取り合わせが素晴らしくて名句と言われている。この句を採れなかったひとはやはり「冬の月」に物足りなさを感じたはずだ。


2017年3月20日月曜日

第30回句会 投句選句一覧④



第30回句会 投句選句一覧③



第30回句会 投句選句一覧②




第30回句会 投句選句一覧①


【第30回人気五句披講】

俳句集団【itak】です。
 
いつもご高覧頂きありがとうございます。
先日公開しました第30回句会【人気五句】の披講をいたします。
三句選で、天=3点、地=2点、人=1点の配点方式、( )内は配点です。
横書きにてご容赦くださいませ。

たんぽぽや雲になりたい日の欠伸      酒井おかわり(14)
草間彌生似の犬通る春の闇          高畠 町子(11)
薄皮を残したやうな弥生かな         大原 智也(11)
重力の枷をとかれし春の雲          籬   朱子(10)

以上です。ご鑑賞ありがとうございました。
なお一位と四位同点の一句は掲載不可のため上位4句を掲げました。

当日の句会参加者数は47名・94句となりました。
引き続き投句選句一覧をご報告します。
ご高覧下さいませ。


 

2017年3月18日土曜日

第30回俳句集団【itak】イベントを終えて


俳句集団【itak】第30回イベントを終えて 


ルイス・キャロル なくて七癖
『シルヴィーとブルーノ・完結編』
-翻訳こぼればなし-

 
~空想力という怪物がいる~

五十嵐秀彦
 
 
 
itakは隔月なので、年間開催数は6回となります。で、今回が第30回ですから、つまり丸5年が経ったわけです。
旗揚げしたときには、一年続くかどうか程度に考えていたことを思い出すと、よくここまで来たものです。

さて、その第30回イベントの第1部企画は、【itak】幹事であり、英文学者の平倫子さんの講演「ルイス・キャロルなくて七癖『シルヴィーとブルーノ・完結篇』~翻訳こぼればなし~」。
平さんはルイス・キャロル研究の第一人者であり、昨年は小説「シルヴィーとブルーノ完結篇」( “Sylvie and Bruno Concluded” )の日本初訳というお仕事を完成させています。
今回はその翻訳作業の中で発見したさまざまな「キャロルらしさ」とでもいうべきものを語ってくださいました。

聴いていて、人の想像力・空想力というものの奥深さ底の深さというものを考えさせられました。それは「夢」はどこから生まれてくるのか、ということでもあるのかもしれません。
日常意識されることのない心の奥底にひそんでいるものの存在。それが実はいつも人を動かす力のひとつとなっているのかもしれません。そして俳句もまた、そうした力によって生まれているのだろうと思いながら講演を聴いておりました。

抄録をご期待ください。
 
英文学が俳句と何の関係があるのかと思う人もいるのかもしれませんが、俳句と無関係なものってありますか?
視野を広く持ち、好奇心のアンテナを高く立てることで、俳句もまた新展開を迎えるのです。
【itak】はこれからもさまざまなジャンルからテーマを選びイベントを企画してまいります。楽しみにしていてくださいね。

司会の青山酔鳴さんと、コメンテーター橋本喜夫さんの二人による軽妙な進行の句会で、今回もたくさんの面白い句に出会うことができた句会となりました。
ありがとうごさいます。
参加者数は第1部企画に49名、第2部句会に47名、懇親会22名でした。
さて、次回は5周年記念企画ということで、いつもと内容を変えてみます。
吟行です。
と言っても、開始前に各自吟行ですので遠足的なものではありません。
場所は私たち【itak】のホームでもある文学館を擁する中島公園。
吟行句を持って文学館講堂に集合となります。
そのあとの進行がどうなるかは、その日のお楽しみとさせてください。
では5月13日にお会いしましょう。風邪などひかれぬようお体大切にお過ごしください。
 
 

 

2017年3月13日月曜日

第30回俳句集団【itak】イベントは無事終了しました

 

土曜日は俳句集団【itak】の第30回イベントにお越しいただきまして誠にありがとうございました。
講演会『 ルイス・キャロル なくて七癖「シルヴィ―とブルーノ・完結篇」-翻訳こぼればなし- 』はいかがでしたでしょうか。どうぞご感想などをお寄せ下さいませ。
今回は49名のみなさんにご参加いただきました。
年度末でご多忙中にもかかわらずありがとうございました。



第一部の抄録については改めてこのブログにてご報告させていただきたいと思います。
また、「句会評」「人気五句」「読む」企画などを随時アップの予定です。只今皆さんの原稿を鋭意募集中です(ごめんなさい、原稿料はありません)。 

itak】のブログは参加されたみなさんの発表の場でもあります。記事についてのコメントやツイッター等での評を頂けますと大変に励みになります。また、みなさまの作品もお寄せください。既発表作でも構いません。エッセイ、回文、短歌、どんなジャンルでも結構です。どうぞよろしくお願いします。

次回は5月13日(土)13:00から、北海道立文学館・地下講堂にて開催の予定となっております。
俳句集団【itak】旗揚5周年記念企画と題しまして、当日参加者全員で『 北海道立文学館・中島公園吟行句会 』を開催したいと思います。第一部に講演会などを行わないのは初めてのことですが、午前中各自が公園内を散策して2句を持って来ていただく趣向です。
文学館講堂の壁にそれぞれの大短冊をぶら下げます。
句座という往来をみなさまと共有する企画、是非とも楽しんでいただきたいと思います。

初心者もベテランもみな平等。みなさまお誘いあわせのうえご参加くださいませ。

詳細はメール・ブログ・Facebook・ツイッターなどで改めてご案内させていただきます。
以下のメールアドレスに随時お問合せくださいませ。 
 



ひとまずは取り急ぎの御礼まで。
今後とも俳句集団【itak】をどうぞよろしくお願いいたします。



俳句集団【itak】幹事一同

2017年3月9日木曜日

俳句集団【itak】第30回イベントは明後日です!


あっという間に年度末。世話にない日々となって参りました。

第30回イベントは明後日となりました。どなたでもご参加いただけます。
当日参加も大歓迎です!お誘いあわせの上、どうぞお気軽にお越しくださいませ。

天気予報はいまのところ晴ときどき曇、最高気温5℃、日中の降水確率10%です。
穏やかな日となりそうです。

また館内に自販機がありませんのでお飲み物などはお持ちください。
裏口を出て道路を渡るとセイコーマートがございます。


※休憩時間に平倫子さんの『シルヴィ―とブルーノ・完結篇』初訳本の頒布を致します。





 誰でも知っているキャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』。けれども彼が晩年『シルヴィーとブルーノ』を書いたことはあまり知られていない。ましてその続篇『シルヴィーとブルーノ・完結篇』があったことはほとんど知られていない。「どうして?」
 正篇は1979年に梁瀬尚紀の訳が出た。しかし続篇はずっと未訳だった。 「どうして?」

 ふたつの「どうして?」をかかえながら10年あまり、『シルヴィーとブルーノ・完結篇』を読み、考え、書いて過ごしてきた。難解ながらも読めば、いまに通じる話題をはらんだ当意即妙の物語で、キャロル理解の宝庫であることがわかった。
 そして先年7月、日本ルイス・キャロル協会の会誌『ミッシュマッシュ』の特別号として刊行することが出来た。

 今回は翻訳作業をとおして見えてきた疑問やキャロルのことばへのこだわりをいくつか拾って話そうと思う。

 *と き 平成29年3月11日(土)午後1時~4時50分
 *ところ 北海道立文学館講堂(札幌市中央区中島公園1-4)
 *参加料 一般500円、高校生以下無料


◆第1部 講演会 ルイス・キャロル なくて七癖
『シルヴィ―とブルーノ・完結篇』-翻訳こぼればなし-


講 演  平 倫子(俳人・英文学者 俳句集団【itak】幹事)


◆第2部 句会(当季雑詠2句出句・投句締切午後1時)
◆懇親会のお申し込みも金曜日いっぱいまでお受けします。
http://itakhaiku.blogspot.jp/2017/02/itak_3.html





たいら・くみこ 
1937年東京生まれ。仙台育ち。東北大学大学院文学研究科英文学英語学専攻修士課程修了。英文学、英米児童文学専攻。北星学園大学名誉教授。日本ルイス・キャロル協会会員、「藍生」会員。
主著に『ルイス・キャロルの図像学』、『ルイス・キャロル 身体医文化の実相』がある。


2017年2月25日土曜日

第30回イベント 講演会『シルヴィ―とブルーノ・完結篇』 ご案内(再)





 誰でも知っているキャロルの『不思議の国のアリス』や『鏡の国のアリス』。けれども彼が晩年『シルヴィーとブルーノ』を書いたことはあまり知られていない。ましてその続篇『シルヴィーとブルーノ・完結篇』があったことはほとんど知られていない。「どうして?」
 正篇は1979年に梁瀬尚紀の訳が出た。しかし続篇はずっと未訳だった。 「どうして?」

 ふたつの「どうして?」をかかえながら10年あまり、『シルヴィーとブルーノ・完結篇』を読み、考え、書いて過ごしてきた。難解ながらも読めば、いまに通じる話題をはらんだ当意即妙の物語で、キャロル理解の宝庫であることがわかった。
 そして先年7月、日本ルイス・キャロル協会の会誌『ミッシュマッシュ』の特別号として刊行することが出来た。

 今回は翻訳作業をとおして見えてきた疑問やキャロルのことばへのこだわりをいくつか拾って話そうと思う。

 *と き 平成29年3月11日(土)午後1時~4時50分
 *ところ 北海道立文学館講堂(札幌市中央区中島公園1-4)
 *参加料 一般500円、高校生以下無料


◆第1部 講演会 ルイス・キャロル なくて七癖
『シルヴィ―とブルーノ・完結篇』-翻訳こぼればなし-


講 演  平 倫子(俳人・英文学者 俳句集団【itak】幹事)


◆第2部 句会(当季雑詠2句出句・投句締切午後1時)
◆懇親会のお申し込みもお受けします。
http://itakhaiku.blogspot.jp/2017/02/itak_3.html




たいら・くみこ 

1937年東京生まれ。仙台育ち。東北大学大学院文学研究科英文学英語学専攻修士課程修了。英文学、英米児童文学専攻。北星学園大学名誉教授。日本ルイス・キャロル協会会員、「藍生」会員。
主著に『ルイス・キャロルの図像学』、『ルイス・キャロル 身体医文化の実相』がある。

※当日は著書の頒布会も行います。休憩時間にお求めください。