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2014年4月17日木曜日

俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その3~




『短詩型における「文語」と「口語」~信仰としての二分類~』


講演  
月岡 道晴

2014年3月8日@北海道立文学館


 
俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その3~
 
 
■事例⑦ 擬古文的短
 
 
こんなにも「文語」と「口語」とで違いがないのに、なぜ〈文語〉ばかりを特別扱いして作りたがる人がいっぱいいるのでしょうか。ここからはその淵源を探ってみたいと思います。私が師事した歌人、成瀬有さんがこんなことを書いています。

「現在、文語短歌など誰にも作れない。文語でなく擬古文的短歌と言うのが正しい」(「新考現代短歌」第16回 『白鳥』平成24年1月)
 
俳句でもそうでしょう。ではなぜ、だれにも作れないものを、わざわざ擬古文体で詠作し、またそれが推奨されるのでしょうか。もちろん手ほどきをしてくれた先人や近現代の作品に倣って、誰しもが「文語(らしきもの)」を用い始めるわけです。しかし、その先人たちはなぜ「文語」で作歌していたのだろうか。さらにそのまた先人たちは? 永遠に繰り返しになってしまいます。
その頃には「口語」短歌はまだ存在しなかったからという回答は、既に封じられています。一応現在の短歌では、俵万智がその文体の完成者と言われていますが、これだって口語とは言えないことは先ほどから見てきた通りです。要は、なぜその規範に「文語(らしき)」文章体が志向されるのかということに尽きます。
 次に江戸時代の文体の例として、式亭三馬『浮世風呂』文化9年=1812年刊を引いてきました。銭湯で女性2人がおしゃべりしている場面です。

本居信仰(モトヲリシンカウ)にて、いにしへぶりの物まなびなどすると見えて、物しづかに人がらよき婦人二人。…(中略)…
けり子「(カモ)()さん。此間は何を御覧(ゴロウ)じます」
かも子「ハイ、『うつぼ』を読返へさうと存じてをる所へ、活字本(ウヱジボン)を求めましたから、幸ひに異同を(タダ)してをります。さりながら旧冬は何角(ナニカト)用事にさへられまして、俊蔭(トシカゲ)の巻を半過(ナカバスギ)るほどで捨置(ステオキ)ました」
けり子「それはよい物がお手に(イリ)ましたネ」
かも子「鳧子(ケリコ)さん。あなたはやはり源氏でござりますか」
けり子「さやうでござります。加茂翁の新(シヤク)本居(モトヲリ)大人(ウシ)の玉の小櫛(ヲグシ)(モト)にいたして、書入(カキイレ)をいたしかけましたが、(サトビ)た事にさへられまして筆を()(イトマ)がござりませぬ」
かも子「先達(センダツ)てお(ウハサ)申た『庚子道(カウシミチ)の記』は御覧(ゴロウ)じましたか」
けり子「ハイ見ました。中々手際(テギハ)な事でござります。しかし(ウタガハ)しい事は、あの頃にはまだひらけぬ古言(コゲン)などが今の(ゴト)ひらけて、つかひざまに(アヤマリ)のない所を見ましては、校合(キヤウガフ)者の添削なども少しは(アツ)たかと存ぜられますよ」
かも子「何にいたせ、女子(ヲナゴ)であの(クラヰ)文者(ブンシャ)は珍らしうござります。先日も(ホカ)消息文(セウソコブミ)を見ましたが、いにしへぶりのかきざまは、手に(イツ)た物でござります」
けり子「さやうでござります。何ぞ著述があつたでござりませうネ。世に残らぬは(ヲシ)いことでござります。ホンニ『怜野(レイヤ)(シフ)』をお返し申すであつた。(ナガ)々御恩借いたしました。(アリ)がたうござります」

 
まるで時代劇のおしゃべりのようです。これが江戸時代の普通の文体だったのですが、われわれは江戸時代も「文語」の文体は変わらなかったと思いこまされている。
さて、この2人の名はもちろん和歌の助辞「かも」と「けり」に由来するパロディーです。鴨子と鳧子は極端な国学崇拝者として設定されており、『宇津保物語』や『源氏物語』を読むのにも、何と本文校訂から始めるという念の入りようです。
ここで注意したいのは、この2人の関心が「いにしへぶりのかきざま」――つまり擬古文を書く点にあることです。『庚子道の記』というのは、 紀行文の手本です。国学者たちが序文をつけて、書かれてから80年、90年くらい経ってから出版されました。文章語のテキストのような本です。また『怜野集』も和歌を作るお手本となる、いわゆる虎の巻のような本です。お手本に従いながら彼らは文語文を書いていこうとしている。すでに、われわれと同じ事をする人たちが江戸時代にいたということです。2人は極端な国学崇拝者として設定されていますから、知識として体得した「いにしへぶり」を自らの創作に活かすことが要求されました。国学者は語や文に表われている思考形態を通じて物を見、その思考の体系に則って表現することで、初めて古典に対する充分な理解が得られると考えたわけです。例えば彼らはどういうことをするか。ここに『徒然草』と『日本書紀』を持ってきました。ここにはともに「たしなむ」と言う言葉があります。現在では「茶をたしなむ」のように趣味程度に楽しむ意味で使いますが、かつては違いました。

『徒然草』第百五十段=秋本守英・木村雅則編『龍谷大学本 徒然草 本文篇』平9年、勉誠出版より引用
 
(いま)堅固(けんご)かたほなるより、上手(じやうず)の中に交りて、(そし)り笑はるゝにも()ぢず、つれなく過ぎて(たしな)む人、天性(てんぜい)、その(こつ)なけれども、(みち)になづまず、(みだ)りにせずして、年を送れば、堪能(かんのう)の嗜まざるよりは、(つひ)に上手の(くらゐ)に至り徳たけ、人に許されて、(ならび)なき名を()る事なり」

これは要するに、「劣っている人が上手な人に交じって笑われながらも、苦労して、だんだんうまくなっていく。最初から上手だとうたわれて苦労をしない者よりも、そうした人のほうがずっと高いところまで到達することができる」という努力のすすめの文章。「たしなむ」はここでは努力する、苦労するの意味で使われていることが明確です。

『日本書紀』巻第一神代上第七段一書第三引用は岩波古典文学大系版昭四二に拠る)
時に、(ながめ)ふる。素戔嗚尊、青草を結束()ひて、笠蓑として、宿を衆神(もろかみたち)に乞ふ。衆神の曰はく、「汝は(これ)()(しわざ)濁惡(けがらは)しくして、(やら)()めらるる者なり。如何(いかに)ぞ宿を我に乞ふ」といひて、遂に(とも)(ふせ)く。(ここ)を以て、風雨甚だふきふると雖も、留り休むこと得ずして、辛苦(たしな)みつつ降りき。

ここは日神の天岩窟籠りを引き起こした素戔嗚尊が天上世界から追放されて、苦労しながら地上におりてきたという場面で、「たしなむ」という語に「辛苦」という字が当てられています。そのように現代とは違う意味に使われる言葉があり、こういうものを学びながら自分の文章に活かしていこうと彼ら国学者たちはしていたわけです。
 
現代のわれわれがあえて文語を使って作ることに意味があるのかということは、やはり江戸時代の関わり方に学ばなくてはなりません。現代に敢えて〈文語〉で詠作することにどんな意義があるのか。可能かどうかはわからないが、〈文語〉と一括りにされる長い歴史の中で生滅を繰り返してきた表現の背景に存在した過去の思考形態を、一首一首の詠作のかたちで、たとえ断片的でしかないにせよ、この世に甦らせることだと私は考えたい。
 
今の言葉だけで発想するよりも豊かな部分、かつてあったけれど現代の思考の物差しには入っていない発想のかたち――それが新鮮だから古典から習っていく。だから文語を学ぶのなら、そのことばだけではなく、その背景にある豊かさにこそ目を開いてゆくべきだと言いたいのです。このように言語とその背景にある生活意識が、世代間で受け渡されてゆかなければならないと推奨したのが柳田國男でした。柳田は戦後、民俗学から一時引退し、熱心に教科書を作ります。その中で「言語生活」ということばを盛んに唱えまして、これが国語教育には最も大事なのだとしました(柳田國男「昔の国語教育」=『岩波講座国語教育 国語教育の学的機構』昭和12年、岩波書店、後に柳田『国語の将来』、昭和14年、創元社に収録)
 
俳句の歳時記などは、まさにこうした「言語生活」のテキストと言えます。歳時記は俳句でかつて使われてきた言葉とその背景にある生活の索引だということができますが、それに倣いながら、各自が1句1句の詠作に活かしていくことは、非常に意義のあることだと思います。
 

■事例⑧ 擬古文的短歌
 

現代でも国学者のように、古えの言葉に倣いながら創作しているという極端な例を引いてきました。

「東野炎立所見而反見為者月西渡」(『萬葉集』巻一・四八歌)。

この歌は現在では、「ひむがしののにかぎろひのたつみえてかへりみすればつきかたぶきぬ」と読まれることの多い歌ですが、斎藤茂吉は『万葉秀歌』上(昭和13年、岩波新書でこう言っています。
 
「契沖、真淵等の力で此處まで到達したので、後進の吾等はそれを忘却してはならぬのである」
この漢字列を最初にそう読んだのは、賀茂真淵の『万葉考』です。それまでの古写本ではすべて「あづまののけぶりのたてるところみて」と読んでいました。江戸時代になって、国学者の研究によって初めて「ひむがし」という読み方が発明されたのです。この語は平安時代以後には歌に用いられず、わずか4首を除いて散文専用でした。これが真淵以降に急にたくさん用いられるようになります。


ひむがしにむかへる家はあさあけに明行く空を見つつたのしき (田安宗武

 
田安宗武は暴れん坊将軍吉宗の子で、御三卿田安家の初代になった人です。その次男が寛政の改革で有名な老中松平定信と言ったらイメージがしやすいでしょうか。この宗武は真淵に師事して国学を学びましたから、まず最初に田安宗武がこの語を用います。
 また有名な「松坂の一夜」で真淵に弟子入りした本居宣長も、


見るが君ひむがし山の花の春月の秋をもやどのものにて 本居宣長


と歌いますし、面白いことに国学者たちと対立した学者や歌人たちも同じように「ひむがし」と詠んでいるのです。

ひんがしの野に出でて見ればにしごりの近き里からけさはかすめる 上田秋成
 
朝づく日いでぬさきにとひんがしの市にあきなふはたのひろもの  (香川景樹)
 

近現代の作品も並べました。「ひむがし」の歌は現在も陸続と作られています。
 
ひんがしに月の出づれば一人の秋の男は帆柱を()づ  (与謝野晶子
 
ひんかしに陽炎立ちて楽しみのけふの入日ぞはや明けにける  伊藤左千夫
 
ひむがしの天の八重垣しろがねと笹へり輝く(わた)()()の雲   茂吉
 
みじか夜の有明の月のかすかにてひんがしの空に雲焼くるなり  若山牧水
 
ひむがしに()()はかがよひみむなみに真日ぞかがよふ西に真北に  前田夕暮
 
ひんがしに(やま)(ひだ)白し静まりて夜明けんとする恵那山仰ぐ    宮柊二
 
海を見ず過ぎてゆく夏ひんがしの社会政権崩えてゆく夏  道浦母都子

例えば終りに引用した道浦さんの歌なんかでは、東側諸国のことまでを「ひんがし」と言っていて、現代歌人は文語だと〝東〟は「ひんがし」と読むものだと思っていることがわかります。それまで流通していた語の「あづま」なんかには見向きもしません。「文語」では「ひむがし」と詠むものだと現代短歌では既に制度化され、これが伝統的な歌語でないことさえ、忘却の彼方へ追いやってしまっています。現在流通する「文語」らしき擬古文の文体が志向される背景には、こうした国学以来の「学習」成果の伝統の、無限に積み重ねてきた蓄積が存在しています。このすべてを「いにしへぶり」と一括りにまとめて仰ぐ際に、初めて〈文語〉なる規範的な文体が出現するとみてよいでしょう。


■事例⑨ 文語・口語に差異はない


以上見てきたように、〈文語/口語〉に明確な差異はありません。にもかかわらず、なぜこんな二分法が流通しているのかを最後にお話します。与謝野晶子『草の夢』(大正11年、日本評論社出版部)にこんな歌があります。

 
  (ごふ)(しよ)よりつくりいとなむ殿堂にわれも黄金(こがね)の釘一つ打つ
 

和歌、俳句を〈文語〉で作ることは、どういう意味がある営みだと認識されているのでしょうか。ここでは「劫初」と意識されるほど長大な歴史を通じて用いられてきた総ての文体を――様々な難も矛盾も敢えて無いものとして――統合した存在だと意識され、それを晶子は〈殿堂〉と呼んでいます。ありとあらゆる歌人・俳人とその作がこの文体の中で、一堂に会しているということなのでしょう。それゆえ、この文体によって詠む者は、人麻呂にも貫之にも和泉式部にも西行にも連なることができると信じられています。その長大な歴史のうねりの中に身を委ね、自らもまたそれに連なる者だと位置付けることが、〈文語〉で詠作する者の営為の意味だろうと思われます。
 
見てきたように、「文語」の作も「口語」の作も、現代日本語による発想を、ある規範的な文章語のスタイルに翻訳して成立しているわけです。自分の心に思った心の中の声を、ある人は文語に置き換える。またある人は口語に置き換える。この作業に本質的な差は存在しない。そういう意味でここまでは「同一」だと説いてきたのですが、晶子の歌に基いて改めて考えてみると、所謂「文語/口語」の相違は、文体それ自体にあるのではなく、〈文語〉として規範的に捉えられる歴史性を自身が引き受けて詠作するのか否かという、作歌態度の側にその本質があると言えます。
 
 
それを裏付けるために、『ユリイカ』平23年10月号の特集「現代俳句の新しい波」の中の、川上弘美・千野帽子・堀本裕樹による鼎談「読むところから俳句ははじまる――〈世界〉に惹かれるための技芸」を引いてみます。

川上 旧かなっていうのは、不思議な光をまとっている。...中略...実際、十七文字しかない中で、いまの口語よりはるかに強い喚起力が出せる。
 
千野 なんということのない題材を句にするときにすごい力を発揮しますよ。口語だと逆に、変わったこと言わなきゃいけないと思っちゃう。
 
川上 だから反対に、池田澄子さんは本当にすごいと思う。あえて口語で新かなであれだけひとを立ち止まらせる句を作っちゃうんだもの。
 
千野 「よし分った君はつくつく法師である」ってすごい句ですよ。たしかにそうだもの笑)。...(中略...
 
川上 だから、むしろ私は文語で書くほうが文語のオーラを借りていい句ができるかなと思いますね。純粋に口語でやれと言われたら、できないなあ。 傍線・傍点引用者

なかなか興味深い鼎談です。傍線部に「オーラ」や「不思議な光をまとっている」と表現されているのが、即ち先ほど私が述べました、〈文語〉として把握される歴史性と同一のものを指していると見ることができます。俳句は短いということもあってか、ここではそうした歴史性は重みの面よりも、むしろ季語と同様の仕組みとして積極的に活用すべきものと捉えられています。
 
その一方で、「口語で新かなで」句作する側にはそうした面ではハンディがあり、それを補うには個人の発想力、努力による他ないとも知覚されています。ここでは誰がというよりも、小説家も大学教員のエッセイストも、つまり俳人でなくても同じように「文語/口語」の相違について共通の観念をもっていることがたいへん興味深い。
 
しかし「産声の途方に暮れていたるなり」(『いつしか人に生まれて』)などの秀句がある池田さんを「口語俳句の俳人」と位置づけるには実際無理があるでしょう。掲出句の「つくつく法師である」も、「である」というところは明らかに文章語です。だから正確には「口語的な語の表現力を積極的に句作に利用する俳人」とするのが適当だと思います。池田さんの句作もその意味では「文語」です。
 
短歌の場合では、「口語」の歌人の作品に特徴的な現象があらわれています。
枡野浩一さんは、「かんたん短歌」を標榜しておりまして、口語でつくれ、文語で作ってはダメといっている人ですが、その作品に

あの夏の数限りない君になら殺されたっていいと思った
                          (枡野浩一『枡野浩一短歌集 ますの。』
 
 
という歌があります。これは盗作と騒がれたこともあって有名な歌なのですが、元ネタとなっている歌を参照すれば、これは本歌取りの歌とするのが適当な作です。その元ネタとなったのが、

あの夏の数かぎりなきそしてまたたつた一つの表情をせよ 小野茂樹『羊雲離散』

という歌です。このように自らを「口語」短歌の歌人と位置付けている人が本歌取りをする場合に特徴的なのは、ほとんどの場合、近代以降の歌人からしか本歌取りをしていないことです。
もちろん「ゴアという街の祭りを知りたけれどここはそらみつ大和の国ぞ」俵万智『サラダ記念日』なんていう古典和歌を取り込んだ例はあるのですが、ここでも、「知りたけれど」のように、本歌になじみやすい〈文語〉的な表現を同時に織り込む工夫をしないと、本歌取りができないことは見逃すべきではありません。
〈文語〉の範疇にある歌は、〈文語〉の工夫をしないと口語の中で抱え切れない。全部口語で作る人は文語を抱えきることができないという観念がその背景に看て取られる。その観念の域内にあって「口語」の詠作を選択する営為は、即ち近代より前の作品とは基本的に切れた位置に自作を定める姿勢だととらえられます。〈文語/口語〉の問題は、ここでまさに信条そのものだと言えるでしょう。
それでは以上を簡単にまとめて締めくくりにしたいと思います。現代の短詩形文学では、同じ音数律の定型を明確に差異の見出し難い方法で運用しながらも、それを口語、文語となぜか呼び分けている。それは「信仰」としか呼びようがない非本質的な区別であり、現代の短詩形文学の詠作信条には、このように文語、口語の二種類の信仰のもちかたが存在しているということを本日はお話ししました。

=終わり=
 
 

 

 

 つきおか・みちはる

長野県出身。國學院大學北海道短期大学部准教授・歌人。
上代文学会、萬葉学会、美夫君志会、古代文学会、日本文学協会の各学会に所属。
また、歌人としてさまざまな雑誌・新聞等に寄稿(『歌壇』『短歌現代』『短歌新聞』など)。
著書(共著)に『古事記がわかる事典』、『万葉集神事語辞典』、『太陽の舟 新世紀青春歌人アンソロジー』。
朝日カルチャーセンター札幌教室「人麻呂恋歌拾い読み」を開講中。








 


※次回のitakは5月10日(土)午後1時から、道立文学館で開催。第一部は『読(詠)まずに死ねるか!~短詩型文芸の可能性~』と題して、当会幹事・五十嵐秀彦&山田航による【itak】旗揚2周年記念トークショーを予定しています。詳しくは追ってホームページなどで告知いたします。


 

2014年4月15日火曜日

俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その2~




『短詩型における「文語」と「口語」~信仰としての二分類~』


講演  
月岡 道晴

2014年3月8日@北海道立文学館






俳句集団【itak】第12回イベント抄録 ~その2~ 



 ■事例④ 古典語でコスプレ


私も文語と口語、どちらで短歌を作っているんだと訊かれた際には、文語で作っていると答えています。次にわたしをはじめとして、文語で歌、俳句を作っている人の作業手順を考えてみます。


ここでは茂吉の「赤茄子の腐れてゐたるところより幾程(いくほど)もなき歩みなりけり」をサンプルにします。


①まず「トマトが腐っている所から」と発想します。
 

②それを端から「文語」らしき語へ置き換えていきます。「トマト」では締まらないから「赤茄子」としよう。「が」は口語っぽいから「の」に。「腐っている」を「腐れてゐたる」。「所から」を「ところより」

③「赤茄子の腐れてゐたるところより」とする――

だいたいこんな手順ではないでしょうか。

「腐れてゐたる」は、江戸時代にはちょっと分かりませんが、江戸より前の文語といわれる時代の古典では絶対に使いません。「~している」という補助動詞で「ゐる」とはしない。「ゐる」はほぼ本動詞で間違いなく、こんな継続の用法で使うことはない。これはおよそ古典和歌では見出すことのできない言葉で、現代語で発想して文語で置き換えるからそういうことが出てくる。

このように本当に「作業」としか呼びようのない手順の中からしか、こうした副産物が発生しないことは明らかでしょう。現代の短詩形文学で「文語体」とされる文体は、こうした作業の末に作成された文体がみなそういわれるにすぎません。だから正確な呼び方をするなら「旧仮名文語混じり文」という石川美南さんの言い方が本質に近いと思います。ここでは発想の基盤はあくまでも現代語。だから古典語や古典詩歌とは、特に文末助辞の発想の時点が根本的に違う。

ここで話を分かりやすくするために、詩人で、平安文学研究の第一人者である藤井貞和さんの著書、『日本語と時間――〈時の文法〉をたどる』(平成22年、岩波新書)の説明を拝借します。

「かつての日本語には、時間を表わす助動詞(藤井さんはこれを時枝誠記『国語学原論』(昭和16年、岩波書店)に倣って「助動辞」と呼んでいます)、キ、ケリ、ツ、ヌ、タリ、リとケム、アリの計8種類ある」

アリは一般的には助動詞ではありませんが、それを抜いても7種類もあります。われわれは「だ」というとき、その他何種類の言い方ができますか? 「だった」「している」「だろう」のせいぜい3種類くらいですよね。3種類と7種類とを比べると、3種類で発想しているわれわれには扱えない部分が出てくるのは当然です。古代人はの7種類を多様に使い分ける言語生活を送っていました。われわれがそれをにわかに真似しようとしても真似できるわけがありません。例えば共に「完了」とされる助動詞「ツ」と「ヌ」をどれだけ使い分けられるでしょうか。

現代の短詩形作家が用いている文末表現の「~ぬ」は、現代語で発想した作品を古典的に装うための扮装でしかありません。扮装が分かりにくいなら「コスプレ」といっていいかもしれません。われわれは、古典語のコスプレをして作品を作っている。それで貫之や小町、芭蕉や子規になったつもりで作品を作っているのにすぎない。「ぬ」がどれだけ、発想の中で古典語と一致させて使えているのかは疑問です。

ただし、実は古典の時代から文末の表現はそういうものでした。文法を学ぶと、助動詞の「ラシ」というのはほとんど平安時代には和歌にしか表れないことに気付かされます。「~を~み」というミ語法などは、平安時代末には既にほとんどみんな意味がわからなくなっていたのに、さかんに歌に用いていた。そもそも和歌における付属語とはそういう性質を帯びやすいものだったらしい。例えば、「ツツ止め」なども、秘伝の代表的な方法になっていますが、秘伝を受けた人のみが許されるコスプレといえます。文末の言葉は、昔からコスプレに使われやすい言葉だったということができます。

俳句では逆に古典語とはまったく異なった機能において、これらを「切れ字」として新たな機能を持たせてきました。当然「文語」と同一ではない。だから、文語ではどう使ってきたのだろうなどと考えて、俳句の切れ字を考えなくてよい。現代の人は、現在の使い方に励めば良いと思います。現代の文体を作ることに精力を注ぐのが良いと思います。
 
 
 
 ■事例⑤ 文語=古文ではない


「文語」は高等学校教材の「古文」とイコールと思っている人はいないでしょうか。辞書や文法書を見て、そう書いていない、はずれているから「間違っている」と考えていないでしょうか。古典の人たちは間違えることはなかったと考えてはいないでしょうか? そもそも「間違える」という言い方自体が間違っています。

高校で使われている『標準古典文法の研究』(平成7年、第一研究社)を見てみます。私が高校教員の際に使っていた教科書ですが、ここには助動詞ツとヌの区別について、こう書かれています。

ツは「意識的・作為的な場合に使用し、他動詞に接続」
ヌは「無意識的・自然的な場合に使用し、自動詞に接続」

こんなこと頭に入れて、短歌、俳句は作れません。木下正俊という国語学者の「『雨が降る』という言い方」(『萬葉集語法の研究』昭和47年、塙書房)という論文で、古典語では「露―置く」「波―寄す」などのように、古典和歌には多く自然現象について他動詞で、つまり作為的な行為として詠まれた例を多く見るという記述があります。これは自然現象は神様がしているものだという考えのなごりなのでして、古典語に現代の「他動詞/自動詞」という物差しを当てて考えることは、必ずしも有効とは思われません。ツとヌの本質的な区別はもっと別のところにあると考えるべきで、このような整理は単なる集計結果を示したものに過ぎないと断じざるを得ません。
一番良い使い分けを示しているのは、ちょっと古いものですが、中西宇一さんの「発生と完了――『ぬ』と『つ』」という論文に尽きるのではないかと思っています。中西さんによれば「ツは事態の完了」。ついさっき終わったということ。「ヌは事態の発生」。これから起こっていくこと。だから「月傾きぬ」といえば、月が傾き始めるということです。江戸時代の文法書『あゆひ抄』でも、「~ツ」は「つい最近の昔」という説明をしています。
藤井貞和さんも、「ツは直前までのことをつよく指す」――さっき~したばかり。「ヌはさし迫る状況をさす」――まさにそうなろうとしていると言っている。藤井さんが挙げている2例によると

 

吾が(おも)ひを人に知るれや。(たま)(くしげ)開き明けつ――と夢にし見ゆる
                (『萬葉集』④五九一、笠郎女)

私の思いを人に知られたのだろうか。いやそんなことないのだろうけど、「(たま)(くしげ)開き明けつ」と夢に見えた。これを藤井さんは、「たったいま玉手箱が開かれた!」それが夢に見えたと読むべきなんだとしています。しっくりきますね。


熟田津に船乗りせむと月待てば、潮もかなひぬ。今は漕ぎ出でな
                    (『同』①八、額田王)
 


有名な歌ですが、これも、今潮が良くなって、これからずっと良くなるぞ、「おお、潮が満ちようとしているぞ!」と読まないと歌の理解としては不十分だろうと言っています。ツは「短期で終わる」、ヌは「終わりの始まり」という意味がある。


これは古典語を注意深く読むからできることで、現代人がいちいち注意して使えるかというとそうではない。要するに現代人が使っている「ツ」「ヌ」と古典語で使われているものには大きな開きがあり、なかなか同じように使うことは難しいと言いたいのです。


藤井さんは、そうした多彩な古典語の表現から、「現代日本語が〈貧しく〉(あるいは簡便に)なってきた」と言っています。そのような現代において、昔の歌人や俳人が「文語で詠作する」ことは、当時の人と同じ発想ができない限りできません。達成しがたい偉業といっても言い過ぎでない。それはあたかも遥か遠い古代に死んでしまった神を現代の世に求めるような営みと言えるかもしれません。しかし、私も文語で作ることはやめません。それなりに意義があることとは思っています。その意義についてはまた後ほど。




次に古典作品で実際にどのような文章が綴られていたのかという例を持って来ました。


定家本『俊頼髄脳』です。これは鎌倉時代初期に藤原定家が部下に命じて作らせたもので、ここには忘れ草という歌語の解説をしている部分を引いてきました。忘れ草を植えると忘れる、思い草を植えると忘れないわけですが、この部分では思い草である鬼のしこ草を植えたところ、果たして鬼が出てきてこう話したという内容が語られています。


ひをく)らし、よをあかしつれは、「我はわすれ申さし」とて、「しをんといへる草こそ、こゝろにおほゆる事はわすられさなれ」とて、しをんお〔を〕つかのほとにうへてみけれは、いよ々々わするゝ事なくて、ひをへてしあるきけるをみて、つかのうちにこゑありて、「我はそこのおやのかはねをまもるおになり。ねかはくはおそるゝ事なかれ。きみをまもらんと思」といひけれは、おそりなからきゝおりけれは、「きみはおやにけうある事、とし月をゝくれともかはる事なし。あにのぬしはおなしく戀かなしみてみえしかと、思わすれ草をうゑてそのしるしを()たり。そこはしをんをうゑて、又そのしるしお〔を〕えたり。心さしねんころにしてあはれふ所すくなからす。我おにのかたちをえたれとも、ものをあはれふこゝろあり。又ひのうちの事をさとる事あり。みえんところあらは、ゆめをもちてしめさむ」といひて、こゑ……。(※〔を〕は補ったもの)

注目したいのは、助詞の「を」を「お」と書いているところです。「植える」は学校文法だと「うゑ」と書くべきところですが、「うへて」とも記されている。古典文学の時代でも、実際はこう書いていた。われわれが作り上げた文語にという規則では「田植ゑ」と書かなきゃならないけれども、それが文語だとは一概には言えないのです。


高校までで教えられてきた「古文」とその教材は、千何百年もの歴史の中で当然大きく変遷してきた近代よりも前の文章語を、現代になってから、現在の視点から「かくあるべきかたちに――または最大公約数的に」整理し直したものです。「文語」というのは、だから現代にしかない。実際の文章がその通りに運用されたわけではないし、扱われる教材もすべてその範疇で説明できるものを扱っているから、千年間も同じ文章の規則で書いてきたように見えてしまうのですが、そうではないのです。例えば、奥の細道は、あの時代の標準的な文章よりも、もっとクラシカルに書いている。あの時代の人がみんな奥の細道のように書いていたわけではない。


仮名遣いについて言えば、鎌倉時代初期に定家が「定家仮名遣い」を定めた。江戸時代に契沖が『和字正濫鈔』を著し、これが現在の文語のベースになっています。さらに近代に橋本進吉などが研究を加えた結果、現在ではこのように定められている。逆に言えば、平安時代も末になると、定家らが仮名遣いを定めなければならないくらいに、実際の「古文」は多様な仮名遣いになったと言えます。多様になったものを一つの規則に統一したのが定家であり、次に契沖が出てくるとその仮名遣いとなり、現在では文部省の指導の下でそう定められています。


次には短歌や古文の話ばかりでなく、俳句の例も入れてみました。

『俳諧七部集』の「冬の日 尾張五哥仙 全」(潁原退蔵(えばら・たいぞう)編『校註俳諧七部集』(昭和16年昭、明治書院)から取ってきました。


かぜ吹ぬ秋の日瓶に酒なき日(芭蕉)
これについて柳田國男は『木綿以前の事』(昭和54年、岩波文庫)の中で、「幸田(こうだ)()(はん)さんの本などは大切なものであるが、どちらが正しいかは問題外として、私などが今まで解しているのと正反対にとっておられるのが幾つもある」として、この『冬の日』の付合、「(つる)()る窓の月かすかなり」という7、7に対して、芭蕉が「風吹ぬ秋の()(かめ)に酒無き日」と付けた句を挙げています。


この「風吹ぬ」を潁原や柳田らは「風吹かぬ」と解し、それに対して幸田露伴は「風吹きぬ」だと主張して譲らなかったのですが、「吹かぬ」「吹きぬ」の果たしてどちらが正しいのかは誰にも分からない。現在のテキストをみると「吹かぬ」となっているけれど、「吹きぬ」でも文法的に正しいし、俳句の発想としても、露伴が強硬に主張するくらいですから悪くありませんよね。これは「芭蕉ともあろう人が送り仮名を間違えるなんて」という話ではなくて、芭蕉がこう書いているんだから、両方とも正解として成り立ってしまうということです。この時代には、送り仮名の規則が現代のように厳しく定められているわけではなかった。われわれが文語や仮名遣いとして「正しい」と思っている規則は、現代に作り上げた、あるべき古典の形をそう呼んでいるに過ぎないということです。


■事例⑥ 現代短歌での口語と文語


次の事例は現代短歌の現場における〈口語/文語〉についてです。最近多く議論になっています。


ここでは森本平さんの文章を持ってきました。平さんは実は万葉学者の森本治吉の孫で、現代短歌の世界でたいへん影響力の強い人です。この森本さんが、『歌壇』平成23年4月号の「どうでもいいこと、もしくは当たり前のこと」と題する文章でこう書いています。


「まず、一番根本のところから確認しておけば、いわゆる「口語」と呼ばれるものと同じように喋る人はほとんどいない」


 歌人の山田航(やまだ・わたる)さんが「お前の作は文語、口語、どっちだ」と言われたら、きっと口語の歌人と答えると思いますが、もし航さんが日常生活も歌の通りにしゃべる人だったら、ずいぶんと気持ち悪い人でしょう() 「口語」と言われる作品も、やはり口語そのものではないのです。森本さんの文章は次のように続いています。


 「ましてやいわゆる〈口語〉のように整理された形で思考する人もいない。当たり前のことだが、〈口語〉と呼ばれるものも一種の文語、と言って語弊があるなら『書くためのスタイル』に過ぎない」

ですから、いわゆる「口語短歌」も、やはり文語体に変わりありません。つまり、一つの文章のスタイルに過ぎないということです。「文語短歌」との間に明確に線引きできるようなものは、実は何もない。二つともひとつの文体であり、文章体であるという点では変わりないということが言えます。


森本さんはこうした主張に添うように、非常に実験的な作品を作っています。20首ある作品「ノスタルジスト」(『開耶』平成23年1月)の中から17首を引いてきました。

 
(わす)れたきものより()()()ひこめば()()(ゆき)よりも(しろ)()()


(なつ)(よる)(つき)はさらなり(けん)(たい)(ひる)(いか)りを()(つぶ)しつつ


(おも)へばあれはわが人生(じんせい)(はな)時期(じき)うるとらせぶん()けの明星(みやうじやう)


いれたての紅茶(こうちや)(かを)り 期待(きたい)ほど(たの)しくなかつた週末(しうまつ)()


(かぜ)(せい)(みづ)女神(めがみ)もゐざる(もいざる)()白鳥(はくてう)騎士(きし)ならねばあくび


(たれ)かがそこで()んだのだからいつの()胸処(むなど)(すみれ)(はな)(かか)へて


()(なか)昨日(きのふ)のごとく(うつく)しき乞食(こじき)(なに)かを(ひろ)ひて()たり


寝転(ねころ)びて()みゐる(みいる)沙翁(しやおう) (ゐだい)なる(ちち)たいたすりあ(おう)(おろ)かなる(ちち)


()えがての ()(のこ)(ゆめ)浮橋(うきはし)の あなたのるさんちまんの墓場(はかば)


おるごおる、わがおるごおる放置(はうち)され(うた)はぬままのわがおるごおる


感傷(かんしやう)()ぎるめーるを()さぬまま保存(ほぞん) 九月(くがつ)()れた午後(ごご)()


(うつく)しきひとと(おも)ひてそののちを五分(ごふん)()たず(わす)れてしまふ


ろくさーぬ のいず(やさ)しきれこーどの(はり)のとびたるごとき追憶(ついおく)


夜明(よあ)けまで(おも)ひだすべき(ほほえ)みの(やさ)()ぎればその(こは)れゆく


処女(せうぢよ)(きみ)(うる)みて()みし小説(せうせつ)()まで(ゑが)かぬはつぴいえんど


金色(こんじき)(なか)にやがては()えゆかむいのつくああでん()みゐ(みい)乙女(せうぢよ)


()ちぼうけらしき少女(せうぢよ)(ちや)(かみ)の ()つひとのゐる(いる)(さち)()づかず

ここでは全ての漢字にルビが振られています。また今ならカタカナ語にあたる語に傍線が引かれています。これは森本さんがここで初めて開発した特別な形ではなくて、明治や大正など、ある時代に集中してみられた文章の形をあえて模倣したものです。「楽しくなかつた」「死んだ」などの口語的な表現も混じっていますが、一読してわかるように文語を基調とする作品として読めるでしょう。


ですが、これが従来「文語」と呼ばれてきたものと同じかと言うとそうではありません。江戸時代以前の言葉がすなわち文章語と考えられがちですが、説明したように、ここで規範とされている文体は、明らかに江戸時代より後のものです。「ろくさーぬ」「いのつくああでん」という表わし方は、明らかに文明開化後の文体、近代の紙面を意識したものでしょう。従来は古典語の様々な語彙を継ぎはぎで組み合わせたものを「文語」と称しているのに対して、この総ルビで、かつ外来語を平仮名傍線で記した作品群は、そうしたモダンな時代の紙面にターゲットを絞って作り上げたものと見ることができます。この文体も〈文語〉――いや、この文体こそが〈文語〉を最も先鋭的に意識したものと言っていいかもしれません。


森本さんは「こういう文語だってアリなんだよ」と主張するために、こうした作品を作っているのでしょう。つまり古典語の喚起力のみが〈文語〉において意識化されるべきものではなく、われわれが日常〈文語〉と一括りに称しているものの中にも様々な位相が存在していることをこの作品群は気付かせてくれます。


現代の自称「文語」歌人・俳人は、〈文語〉の短歌を詠んでいると自己規定し、人麻呂や小町や貫之や定家と同じ地平に立って同じ位相において詠むことが可能だと信じて疑わないのですが、これまで見てきたように、古典語からかけ離れた文体・発想によって詠作している点においては、「文語」短歌も「口語」短歌も一緒だと言わざるを得ません。


どっちのほうが自然かという言い方でその優劣が論じられることもあります。現代人だから現代語が自然、いやいや和歌、短歌は古典の詩の形だから、古典語でやるのは自然という人もいるのですが、すでに早いうちに穂村弘さんがこんなことを言っています。


「表現欲の器として短歌という「不自然な」器を選択している以上、口語と文語どちらがより自然かなどという問いは無意味だ」と。『歌壇』平成11年12月号)(~その3~に続く)




 つきおか・みちはる

長野県出身。國學院大學北海道短期大学部准教授・歌人。
上代文学会、萬葉学会、美夫君志会、古代文学会、日本文学協会の各学会に所属。
また、歌人としてさまざまな雑誌・新聞等に寄稿(『歌壇』『短歌現代』『短歌新聞』など)。
著書(共著)に『古事記がわかる事典』、『万葉集神事語辞典』、『太陽の舟 新世紀青春歌人アンソロジー』。
朝日カルチャーセンター札幌教室「人麻呂恋歌拾い読み」を開講中。