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2012年8月24日金曜日

芥川龍之介の俳句を語る(俳句集団【itak】第二回・講演会論考)


 芥川龍之介の俳句を語る
      ー「水涕」の句を中心にー 
                    
                             今田 かをり

Ⅰ はじめに


 芥川龍之介〈明25(1892)・3・1~昭2(1927)・7・24〉は、短歌や旋頭歌なども
作っているが、詩歌の中では断然俳句の数が多く、千句余りの句を残している。
しかも、彼は死の直前まで「俳句」という詩型を手放すことはなかった。そこで、
芥川が「俳句」を愛した理由、そしてまた、辞世の句ともいうべき「水涕」の句を
考察してみたいと思う。

 まず芥川の句集についてであるが、以下のものがある。


 
①加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』(平22・8、岩波文庫)

 芥川の作品の他、ノート、手帳、未定稿、日記、短冊などの自筆資料、芥川以外
 の第三者による作品中から、編者により1158 句を選び収録。ただし、原資料が
 確認できないため、②村山古郷編『芥川龍之介句集 我鬼全句』に収録の句で 
 あっても記載されていないものもある。年代による編集。

②草間時彦編『芥川龍之介句集 夕ごころ』(平5・3、ふらんす堂)

 編者により318 句を精選。

③村山古郷編『芥川龍之介句集 我鬼全句』(昭51・3、永田書房)
  
 芥川の作品の他、ノート、手帳、未定稿、日記、書簡、真蹟などから編者によっ
 て1014 句を収録。季題による編集。

  ちょうこうどう
④『澄江堂句集』(昭2・12、文藝春秋社出版部)

 『梅・馬・鶯』(大15・12、新潮社)に収録されている「発句(74 句)」に3句を
 加えた77 句を、彼の四十九日に芥川家が配ったもの。その後、市販された。
 実は、芥川自身は、生前一冊の句集も出版していないが、④の『澄江堂句集』
 にして、妻の文さんが次のように語っている。

  
 主人は亡くなる前年の、大正十五年の夏、鵠沼(くげぬま)にいました
 私達の家へ長崎から渡辺庫輔(くらすけ)さんを呼びました。/主人は
 今まで作りましたたくさんの俳句を整理して、その中から七十七句を
 抜き出して、渡辺さんに清書をしてもらいました。/きっと思うところが
 あって、清書してもらっていたのだと思います。/主人が亡くなりまして
 から、この句集を印刷にしまして、それと日頃使用しておりまし印の
 いくつかを捺したものとを、二冊にして、横十三・五センチ、縦二十七
 センチの和に収め、和綴にして、藍色木綿の表紙の三つ折の折た
 たみの中に収めて、『澄江堂句集 印譜附』としてお返し用に、それぞ
 れお送りいたしました。
                   〈芥川文〈述〉・中野妙子〈記〉『追想 芥川龍之介』(昭50・2、筑摩書房)〉



 これが『澄江堂句集』の復刻版であるが、妻であった文さんの言葉から、死を覚悟
 した芥川が、千句余りの句の中から選び抜いた77句だということができる。


Ⅱ 芥川龍之介の句歴

 句歴については、芥川が随筆「わが俳諧修業」で、四つの時期に分けて書いている。

 ①小学校時代

 
  尋常四年の時(明34、満9歳)で初めて十七字を並べる。

    落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな


  
 ②中学、高校、大学時代 

  子規などの著作は読んでいたようだが、句作は殆どしていない。

 ③教師時代

 東京帝大を卒業後、海軍機関学校の英語の教官となった大正5年から急速に、俳
 にのめりこんでいく。その理由として、二つ考えられる。
 まず一つ目が、この大正5年という年は、芥川が発表した小説「鼻」が夏目漱石
 激賞され、文壇にデビューした年であり、それ以後芥川は、頻繁に漱石山房に出入
 りするようになる。そこで、俳句を作っていた漱石はもちろんのこと、同じく漱石
 山房に出入りしていた久米正雄(俳号は三汀)らと交わる中で、次第に俳句に興味
 を持ったのではないかということ。
 二つ目の理由は、高浜虚子の住む鎌倉に住むようになり、また『ホトトギス』へ
 の投句も始めたということ。

  
  蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

  青蛙おのれもペンキぬりたてか

  木がらしや目刺にのこる海のいろ


   
 ④作家時代

 芥川は大正8年に教師を退職し、念願の作家生活に入る。そして『ホトトギス』
 脱退し、俳壇とも関わらず、句作をつづける。その時に彼の拠り所となったのが、
 とりわけ 芭蕉の蕉風を中心とした 江戸の俳諧であった。 ちなみに芥川は 終生、
 「俳句」とは言わず、「発句」と言っていた。

  元日や手を洗ひをる夕ごころ

  初秋の蝗つかめば柔かき

  臘梅や雪うち透かす枝のたけ

   (亡くなる昭和2年の5月の初め、北海道へ講演旅行に来て作句)

  冴え返る身にしみじみとほつき貝

  雪どけの中にしだるゝ柳かな



Ⅲ 俳句を愛した理由

 次に、芥川が俳句を愛し、死の直前まで手放さなかった理由を探ってみたいと思う。
今のところ私は、三つの理由を考えている。

◇家庭環境

 芥川の随筆に次のような一節がある。

   私の家は代々御奥坊主(おおくぼうず)だつたのですが、父も母も甚(はな
  はだ)特徴のない平凡な人間です。父には一中節、囲碁、盆栽、俳句などの
  道楽がありますが、いづれもものになつてゐさうもありません。母は津藤(つ
  とう)の姪で、昔の話を沢山知つてゐます。その外に伯母が一人ゐて、それ
  が特に私の面倒を見てくれました。今でも見てくれてゐます。家中で顔が一
  番私に似てゐるのもこの伯母なら、心もちの上で共通点の一番多いのもこ
  の伯母です。伯母がゐなかつたら、今日のやうな私が出来たかどうかわか
  りません。/文学をやる事は、誰も全然反対しませんでした。父母をはじめ
  伯母も可成(かなり)文学好きだからです。その代り実業家になるとか、工学
  士になるとか云つたら反つて反対されたかも知れません。
            〈芥川龍之介「文学好きの家庭から」(大正7・1、『文章倶楽部』に掲載、全集第三巻所収)〉


 
 このように文学好きな人たちに囲まれ、江戸の文人文化が色濃く残っている家庭
境で育つという、俳諧に親しむ素地があったことが大きいのではないかというこ
とが一つ目の理由である。


◇最短の詩型


 次に考えられる理由は、俳句のその「短さ」である。これも彼の随筆からの
引用である。


    「もつと己れの生活を書け、もつと大胆に告白しろ」とは屢、諸君の勧める
  言葉である。僕も告白をせぬ訳ではない。僕の小説は多少にもせよ、僕の
  験の告白である。けれども諸君は承知しない。諸君の僕に勧めるのは僕自身
  を主人公にし、僕の身の上に起つた事件を臆面もなしに書けと云ふのである。
  おまけに巻末の一覧表には主人公たる僕は勿論、作中の人物の本名仮名を
  ずらりと並べろと云ふのである。それだけは御免を蒙らざるを得ない。

 
                         〈芥川龍之介「澄江堂雑記』、「告白」(大11・8、 全集第十巻)〉


 
 このように、あからさまに自己をさらけ出すことを拒んだ芥川にとって、五・七・
五という世界最短の詩型は、不自由さよりもむしろそれがかえって魅力的だったの
はないか。また、芥川は、推敲に推敲を重ねるタイプの作家であり、一字一句に
こだわって句を作るという行為そのものが、彼の資質に合っていたといえるのでは
ないだろうか。


◇「点心」のようなもの


 三つ目の理由は、芥川が俳句をどうとらえていたかということに関わっている。
下生の小島政二郎への書簡(大7・5・16)の中で、芥川は、「此頃高浜さんを先生
にして句を作つています。点心を食ふやうな心もちでです」と書いているのだが、
その「点心」ということについて、随筆で次のように述べている。


   点心とは、早飯前及び午前午後哺前(ほぜん)の小食を指すやうである。小
  説や戯曲とすれば、これらの随筆は点心に過ぎぬ。のみならずわたしは
  この四五年、丁度点心でも喫するやうに、時々これらの随筆を草した。


                           〈芥川龍之介 随筆集『点心』自序(大11・5、全集第九巻)〉



 この中に出てくる「随筆」の部分を「俳句」に置き換えると、俳句を作るという
とは、芥川にとって、本業の小説を書くという行為とは違った楽しみだったので
はないか、まさに点心を喫するように、俳句をもてあそぶことが彼の精神の安らぎ
になっていたのではないかと思われるのである。


Ⅳ 「水涕」の句考

     自嘲

   水涕や鼻の先だけ暮れ残る

 いよいよ「水涕」の句の考察に入りたいと思う。

◇成立時期

 まずこの句の成立時期であるが、実は、これがはっきりしていないのである。

 • 水洟や鼻の先だけ暮れ残る   大14
   (村山古郷篇『芥川龍之介句集 我鬼全句』、「冬」の「水洟」の項に記載)

 
 • 水涕や鼻の先だけ暮れ残る
   (加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』、「大正15・昭和元年」の項に記載)

 
 • 水涕や鼻の先だけ暮れ殘る
   (『澄江堂句集』…77 句中17 句目に記載)


 
 上に挙げたように、句集によって制作時期が異なっている。ただ、ほぼ制作順に
んでいる『澄江堂句集』の中で、この句は77 句中17 句目であり、前後の句の作られ
た年代から、大正10 年頃には出来ていたのではないかと思われるのである。芥川が亡
くなったのは昭和2年の7月、ではなぜこの句が辞世の句ともいうべき句であるのか。
そのあたりのことを山本健吉が『定本 現代俳句』に書いているので、引用する。


   
   七月二十四日の午前一時か二時ごろ、彼は伯母の枕もとへ来て、一枚の
  短冊を渡して言った。「伯母さん、これをあしたの朝下島さんに渡してください。
  先生が来た時、僕がまだ寝ているかもしれないが、寝ていたら僕を起こさずに
  いて、そのまままだねているからと言ってわたしてください」。これが彼の最後
  言葉となった。「下島さん」とは主治医下島勲であり、乞食俳人井月(せいげつ)
  を世に紹介した人である。この後、彼はヴェロナールおよびジャールの致死量を
  仰いで寝たのである。短冊には「自嘲」と前書してこの句が書かれてあった。


           〈山本健吉『定本 現代俳句』(平10・4、角川選書、角川新書版『現代俳句 上巻』昭26・6)〉


 
 たしかに、かなり以前に詠まれた句であり、この句を辞世の句とするのはおかしい
という説もあるのであるが、死の直前に短冊に記して託したということから、私は、
やはり芥川自身が、この句を辞世の句として選んだのだということが出来ると思う。


◇句釈

  この句の解釈であるが、まず二つほど句釈を紹介する。俳人中村草田男と、山本
 健吉は、次のように解釈している。

   私はこの句こそ、彼自らによって客観化された人間芥川龍之介の一個見事な
  自画像であると思う。二階の窓ぢかい手欄に寄りかかったひとりの人の横顔が、
  都会の屋根の彼方に日の没し去った後の、真黄色な残光の光を背景にして、く
  っきりとシルエットになって浮かびあがっている。次第に増す寒さは夜気となって
 
  迫ってくるが、室内は灯ともらず、窓辺の人は不動の儘である。隆い鼻の先に唯
  たか一点、生き物のように宿っている水洟だけが、遠くからの黄色い残光を透し
  て、いよいよ瞭然(はっきり)と存在をきわだたせている。/芥川龍之介には、比較
  的初期の作品に、既に次のような題名を附せられたものがあったことを思い出さ
  ずには居られない。/「孤独地獄」
 
 
                              〈中村草田男「俳人としての芥川龍之介」(昭17・7、『芥川龍之介研究』)


   
   「僕も亦人間獣の一匹である」(或旧友へ送る手記)と言った彼は、顔の中の
  鼻の部分に動物的なものの名残を意識することがたびたびあったかもしれぬ。
  しかも次第に「動物力を失っている」(同)自分を意識した彼にとって、鼻はただ
  一つ取り残されたものという感じがつきまとっていたかもしれぬ。鼻一つ「暮れ
  
  残」っているという気持ちである。水涕を点じた鼻の先だけが光って暮れ残って
  いるという意識は、だからまさに「自嘲」そのものである。鼻だけが動物のごと
  生きて水涕を垂らしているという不気味な自画像を描き出したのである。鼻に
  託して、冷静に自己を客観し、戯画化した句であり、恐ろしい句である。彼の生
  涯の句の絶唱と言うべきであろう。

                                       〈山本健吉『定本 現代俳句』(前掲)〉


 
 山本健吉は「鼻」を「動物力」の象徴と捉えているものの、中村、山本両氏に共通
しているのは、水洟を垂らした具体的な自画像を描き出している点である。

◇私見

 さて、それでは私はどう考えるかということであるが、四つの観点からこの句にア
プローチしてみたいと思う。

 1. 措辞の問題

  
  *切字の「や」の問題

    俳人は助詞一字にもこだわるが、芥川もそうだったことが、句集をみると
   よくわかる。この句も、「水涕の鼻の先だけ暮れ残る」とたたみかけるよう
   にもていくことも出来たわけであるから、したがって、やはり芥川が「や」
   で切ったということの意味は大きいのではないだろうか。

  
  *「洟」と「涕」の漢字の問題

    村山古郷編『芥川龍之介句集 我鬼全句』では、この句は「水洟や」と
   なっており、岩波文庫の加藤郁乎編『芥川竜之介俳句集』と『澄江堂句集』
   では、「水涕や」となっている。果たしてこの違いに、どのような意味があ
   るのだろうか。『大漢和辞典』によると、「洟」は ❶はなしる。洟液。❷な
   みだ。一方「涕」は❶なみだ。❷なく。❸はなしる。となっている。

 「や」で切っているということ、そしてこの漢字の選び方から考えても、芥川は、
水洟を垂らした具体的な人物像を描き出そうとしたのではなく、「水涕」というの 
は、苦い自嘲の思いの象徴なのではないか、また漢字の「洟」を「涕」と改めたの
も、具体的な「鼻水」から離れたかったためではないのかと思えてくる。そしてさ
らに、「涙」ということも響かせたかったのではないだろうか。



 
 2. 「日暮れ」とは


  次に「暮れ残る」という「日暮れ」のイメージについて考えてみたいと思う。
くなる年に書かれた『或阿呆の一生」からの引用である。

    彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の
   面倒も見なければならなかつた。彼の将来は少くとも彼には日の暮のやう
   に薄暗かった。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼
   の悪徳や弱点は一つ残らず彼にはわかってゐた。)不相変いろいろの本を
   読みつヾけた。
                                      (四十六段「譃」より)(傍線は引用者)
                      〈芥川龍之介「或阿呆の一生」(『改造』昭2・10、改造社、全集第十六巻)〉

  ここから読み取れるのは、芥川にとって「日の暮」とは、「人生の日暮れ」
 のみならず、「精神の日暮れ」を意味していたのではないかということである。


 
 3. 季語の問題


  三つ目は季語の問題である。というのも「水涕」は「冬」の季語、芥川が亡く 
 なったのは七月。はたして芥川は季語をどのように捉えていたのだろうか。彼は
 次のように書いている。

   
    発句は十七音を原則としてゐる。十七音以外のものを発句と呼ぶのは
  ―或いは新傾向の句と呼ぶのは短詩と呼ぶのの勝れるに若かない。[…]
  発句を発句たらめるものもやはり発句と云ふ形式、̶即ち十七音にある訣
  である。

   発句は必しも季題を要しない。今日季題と呼ばれるものは玉葱、天の川、
  クリスマス、薔薇、蛙、ブランコ、汗、̶いろいろのものを含んでゐる。従つて
  季題のない発句を作ることは事実上反 つて容易ではない。しかし容易では
  ないにもせよ、森羅万象を季題としない限り、季題のない発句も出来る筈で
  ある。

                      〈芥川龍之介「発句私見」(大15・7、『ホトトギス』初出、全集第十三巻)〉

  ここから、芥川は五・七・五の韻律には非常にこだわっていたが、季語に関して
 はゆるやかに考えていたことがわかる。したがってこの場合、「水涕」は季語と
 して機能しているのではなく、「作者の心理状態」、つまり「日暮れ」のところ
 でもみてきたように、「鬱々とした精神の日暮れ」を象徴しているのではないだ
 ろうか。


 
 4. 「暮れ残る」とは


  最後に、さてそれではなにが「暮れ残った」のかという問題が残る。素直に句
 を読めば、暮れ残ったのは「鼻の先」である。彼の小説「鼻」では、鼻は「自尊
 心」の象徴として使われているが、亡くなる年に書いた「或阿呆の一生」の四十
 九段の「剥製の白鳥」にも注目してみたい。

    
    彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝を書いて見ようとした。が、それは彼自
  身には存外容易に出来なかつた。

    彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然或古道具屋の店に剥製の白
  鳥のあるのを見つけた。それは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根
  さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感
  じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往来を
  たつた一人歩きながら、徐ろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

                                           (四十九段「剥製の白鳥」より)

  ここにも「日の暮」が出てくるが、登場する「剥製の白鳥」が、まさに彼自身
 姿を投影したものだとすると、暮れ残ったものとは何か。それは、ぼろぼろになっ
 て、それでも頸を挙げて立っている「白鳥の挙げた頸」ではないのか。そして、こ
 の「白鳥の挙げた頸」、これこそが、「水涕」の句における「暮れ残った鼻の先」
 に当たるのではないだろうか。
  つまり、肉体的にも精神的にもぼろぼろになった彼の、けれど最後に残っている、
 「芸術家としての矜恃」とでもいったようなものではないかと考えるのである。


Ⅴ おわりに


 
 最後に、芥川が何故この「水涕」の句を辞世の句として選んだのか、ということに
ついて考えてみたい。
 Ⅳでみてきたように、自死を覚悟した、彼自身の心境を表すのに最もふさわしい句
であったということ、もちろんこれは大きな理由のひとつであろうが、私はそれとは
別の、彼がこの句にこだわった理由があるのではないかと考えるのである。
 それは、芥川は、「鼻」の句で終わるということを強く意識していたのではないか
いうことである。彼の小説「鼻」の主人公である「禅智内供(ぜんちないぐ)」の
鼻は、長かった鼻が一度は短くなるものの、最後にはまたもとの長い鼻にもどって終
わる。他に、「杜子春」あるいは「蜘蛛の糸」などの作品も、起承転結の「結」にお
いて、「起」の状態にもどって終わるのである。つまり、芥川の中には「永劫回帰」
というか、「はじめに還る」という意識が強くあったのではないかということである。

 したがって、小説「鼻」で文壇にデビューした彼は、その生をとざすにあたって、
 
「鼻」の句で終わりたかった、もう少し言えば「鼻」の句でなければならなかったの
はないかということである。そしてさらに言えば、小説『鼻』で代表される、彼の
品そのものが「暮れ残った」といえるのではないだろうか。



【参考文献】(句集を除く)
•『芥川龍之介全集』全24 巻(平7・11~平10・3、岩波書店)
• 芥川文〈述〉・中野妙子〈記〉『追想 芥川龍之介』(昭50・2、筑摩書房)
• 山本健吉『定本 現代俳句』(平10・4、角川選書)
•『中村草田男全集』(昭60・7、みすず書房)





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2012年8月19日日曜日

葉子が読む(その6)~第二回イベントの俳句から~

葉子が読む(その6)

「なぜか選べなかった心地よき句たち」


句会というのはその日の天気や朝の出来事や
昼に何を食べたかまでが影響するまさにライブだと思う。
投句一覧表を読み、なぜこの句をいただかなかったか?と
不思議に思うことがある。
だいたい八十句もあるところからたったの三句しか選べないのだ。
「心地よき無点の句」が量産される訳だ。




心地よき その1 



秋近し膳場貴子の髪の艶  久才透子



 まず笑った。女性ならではの句だろう。
しかし惜しむらくも予選句までにもいかなかった。なぜかな?
しかし、今こうして読んでみるとなんとも面白い。
膳場貴子。23時からのニュース番組の顔だ。
女性キャスターはファッションからメイクまで何くれと注目を浴び、
いちいちとご指摘の電話もあるという。
作者は、ある日気づいたのだろう。膳場貴子の髪の色が変わった事に。
或いは、秋がちかいなぁと思った時に
膳場貴子がテレビに映し出されただけのことかも知れない。
何れにせよ、女性が女性を見て季節を感じることには共感する。誰が何をしようと秋近し。だ。
ちなみに、あたしは有働由美子が好きだ。

女性キャスターは季節もまた一歩先をゆかねばならぬのだ。



心地よき その2



裏窓に悲しき玩具夏屋敷  後藤友子




作者はあるとき夏屋敷を訪れた。一通り屋敷を見た後
ふと裏窓にある「悲しき玩具」が置かれているのを見つけた。
もちろん石川啄木の歌集だ。
それは無造作に忘れられたのではなく、丁寧に置かれていたに違いない。
それを作者は見つけ読みふけった。
26歳と言う若さで逝ってしまった啄木の歌を
作者はまた裏窓に置き弔ったのではないだろうか。
それにしても夏屋敷という言葉はひどくロマンチックだ。
夏屋敷を持つなど全く夢の話だが、夏の休暇にコテージを借りて好きな本を読む。
このくらいのゆとりは欲しいものだ。


「新しき明日の来るを信ずといふ自分の言葉に嘘はなけれど 石川啄木」




心地よき その3



水槽を見つめる夏の昼下がり  深澤春代



夏の昼下がり。水槽を見つめる。
この水槽が汚れているのか否かが分かれ道の掲句。
あたしならば、ああまた洗わなかったわ。
こんなに汚れちゃって・・・・と見つめながら昼下がりをどんより、
あれもどんより、これもどんよりと過ごすだろう
(だから、我が家に水槽はないのであるが)
作者は水槽はきれいに手入れをしたのであろう。
水槽を洗う・手入れするというのは本当に大変だと聞く。
その方法はあたしには分らないが力のいる仕事であろう。
午前中いっぱいかかってきれいになった水槽。
水はキラキラと光を映す。
そんな光景に作者は満ち足りた気分になるのだろう。




心地よき その4



サングラスセピアに染まる晴れの庭  藤井飛鳥



作者はサングラスをかけている。
庭に目をやるとそこはセピアに染まっている。
ここで、はたと立ち止まってみた。
サングラスをかけて見る世界はサングラスの色だ。
そしてその色の世界になる。

そこをあえて作者はセピアに染まると言った。
確かに庭はサングラスによってセピアに染まったのであろうが、
果たしてそれだけだろうか?
セピアという色はどこか懐かしさと郷愁を思わせる色だ。
そのセピアという色を選んだ作者は、
この晴れの庭に思い出を見たのではないだろうか?





心地よき その5



故郷の生家霞むや草いきれ  村元幸明




掲句。霞むがなかなかうまく理解しきれないのだが・・・
ふと気付いた。

あたしの故郷は噴火で多くの家を置き去りにして人々は非難した。
そして一時帰宅の時の事。
荒れた、生活の朽ちた家を見た時人々の目は霞んだのだ。

これを思い出した時。掲句が身近に感じた。
草いきれで霞んだのと、作者の生家への思い出が霞んだのと
両方だったのに違いない。

田舎を歩くと売家の看板の立った家が多い。そしてその多くが
雑草にまみれ、家人が暮らしていたころは丹精したであろう花が
咲いたりするのを見ると、涙が出そうになり霞むあたしだ。

句会中はここまで思いをめぐらせる時間がないのが残念だ。
しかし、今一番この句を実感するのは福島の方々なのだろう。




心地よき その6



夜涼みや静寂を切る救急車  新川託未




夕食後、暑かった一日を引きずりまだ熱のこもる夜。
作者は夜風に当たっていたのだろう。きっと一人で。
静寂の中ただ過ごしていたわけではない。
静寂を楽しんでいたのだ。

しかし、今の世の中夜とは言え静寂を得るのは難しい。
これは作者の心の静寂だったろう。
でなければ「静寂を切る」という感覚にはならないだろう。
静寂を切った救急車。静寂を切るものは他にもあるだろうが
はやり、救急車でなければこの句はならないと思う。




 
心地よき その7




カーネーションみな終焉の色をして  安藤由起



この句はあたしのテーマにも似ている句でずっと気になっていた。
気になっていたゆえに、どう書こうかと迷っていた。
花の終わりというものは、融けてゆく感覚がある。
それが終焉だ。花びらが一枚一枚落ちてゆく花。
花ごとぽたりと落ちる花。
花の盛りが終わり朽ちて行く寸前、花びらはねっとりとする。
まるで、最後あがきのように。掲句のいう終焉だろうか?
いつかその花びらの朽ちて透けてゆくさまを詠みたいと思って
いたところへこの句を目にし「終焉」という言葉に唸った。
そして、この句はカーネーションといっている。
カーネーションと言えば万人が納得する理由がある。
母の日にこぞってカーネーションを贈った。
鉢物のカーネーションもそろそろ終わりを迎えている。
その姿を終焉の色と解釈した。
五月からの時間を遡り、今を詠んだ掲句があたしは好きだ。





心地よき その8



喪服着て持つハンケチは真っ白で  福井たんぽぽ

 

お弔いに向かうときあたしはハンカチの色に迷う。白にしようか黒にしようかと。
作者は白に、しかも真っ白にした。亡くなった方への想いが真っ白を選ばせたのだろう。
「ハンケチ」という表現もまた作者の想いが込められているようだ。
通夜・告別式と涙と鼻水ととかく「ハンケチ」は必需品だ。
女ならばマスカラやら控えめなメイクでも泣けば落ちてハンケチにうつる。
泣くのをこらえれば、手に力が入りハンケチを握りしめる。
帰り道、しわくちゃになり汚れたハンケチに作者は何を想っただろう。
あたしは、お見送りの形としてハンケチがあったと思うのだが。



心地よき その9



滴りて低血圧と同期せり  恵本俊文




滴りと低血圧の取り合わせ。これはなかなか思いつかないだろう。
しかし、あたしは低血圧仲間として理解できるところだ。
あの滴りを見ていると「あれが俺の血の流れか?」とか作者は
感じたのだろうか?いや、同期せりと言っているのだから
滴り見つけると、作者の心拍は滴りと同期してしまうのだ。
滴りのテンポでは健康体とはいえない。まるで点滴のようだ。
同期と動悸。そんな遊びもまた入っている句であるかもしれない。
低血圧によい生活ってどんなだろうな・・・・と思う。




◆これをもちまして第二回【i t a k】イベント句会の
葉子が読むを終了させて頂きます。
拙い文章ではありましたがあたくし自身は、
大変勉強になる場を与えて頂けました事を
感謝申し上げます。

高畠葉子拝


2012年8月16日木曜日

葉子が読む(その5)~第二回イベントの俳句から~

葉子が読む(その5) 「男と女」


「男の目・女の目

句会で披講前に「この句は女性だろうな」とか「これは男だよ」
などと勝手に思ったりしている。
ところが披講されると驚いたことに「これが貴方さまの句ですか?」
と言いたくなることが多かった。逆もしかり。
本当に面白いものだ。男だからとか女だからとかとばっさりと
分けてしまうつもりは毛頭ない。
しかし、微妙に違う男の目と女の目。
DNAに組みまれてでもいるかのような違い。
そこがまた面白いと思う。



男と女 その1


イヤリング片方失せし夏の恋 坂入隆人


これは女子でしょ!と思っていたら・・・・男性の句であった。
もし、これが女子の句であったなら失恋の句ということで
簡単に素通りしてしまうかもしれない。
が、男性の目だった。
この句のポイントは「夏の恋」と結んだところだろうか。
イヤリングを落とす程度のものさ。と。
夏に生れた恋は成就しないとかなんとやら。
悉く夏の恋というものは、堕ちやすく覚めやすい。
そこをイヤリングに例えて失せたという。これが男の目かも知れない。
もし、女ならきっぱり「恋失せし」とか言っちゃうのかもしれない。
現代の若者の恋はとんとわからないが。



男と女 その2

 
意気地なし背中が申すサングラス 松林槇子


意気地なしー!って思うことはよくある。自分にも。他者にも。
これは男を見る女の目だろうかと考えていたらやはり女の目だった。
「背中が申す」が面白い。この「もの申す」というのはどうやら
パートナーのように思えてならない。
或いは背中が「俺って意気地なしなんだよな・・・・」と言っているのかもしれない。
何れにせよ、「意気地なし」に情を感じる。サングラスという小道具は嵌っている。
これは、何方が意気地なしと申しているのか迷うところではあるが。
あたしは、男が背中で意気地なしと申していると思う。
ちょっと胸がキュンとする。



男と女 その3


鈴ひとつつけてをんなと山滴る 早川純子


掲句。あたしには大問題作だった。
鈴ひとつつけて。山滴る。
熊の季節でしょ?鈴ひとつで大丈夫?・・・・・・
ううむ。難しい。「をんなと」と言っているのだから
鈴をつけているのは「をとこか?」鈴は何かの象徴なのか?
あぁ・・・なに一つわからない。をんなと山滴る。だ。
「ただならぬ関係の二人」ではないだろう。
「をんなと」といっている。鈴をつけているのが男とはいっていない。
だが「ただならぬ男とをんな」でなければ鈴を一つにしないだろう。
滴る山へ何か覚悟を持って入って行くというのだろうか?




男と女 その4


夕暮れや砂利道急ぐ浴衣かな 川中伸哉


見事に情景が見える。よく「景」が見えるとか言うが
掲句の場合情景と言いたい。夕暮れや。と強い切れ。
暮れて来ると足元が見え難い。そこは砂利道。
急ぐと転ぶよ危ないよ。と作者は思う。
浴衣の裾のひらひらと動くさまや、両手でひょいひょいとバランスを
とりながら急ぐ少女(ここで確認。少女だよね!)の姿が生き生きと見える。
なぜ、句会で選ばれなかったか・・・・わからない。
さて、作者は男だ。句の中のには女性だ。
句の中には女性と、読み解けば案ずる男がいる。
作者に言いたい。おぬしなかなかやりますな。

2012年8月13日月曜日

葉子が読む(その4)~第二回イベントの俳句から~

葉子が読む (その4) 「食」


風も、音も、色も、この星と太陽の微妙な距離感や
力関係で奇跡とも言えるバランスでできたものだった。
次は「食」あまり難しくは考えていない。
たまたま句座に「食」があったから、くらいの
軽い気持ちではあるが、先に書いたとおり
「食」自体は奇跡といえる地球に与えられたものであることは
記したい。



食 その1


逃げられぬ状況にあり梅雨菌 室谷安早子 


まず「梅雨菌」とは不勉強ゆえ知らなかった。
一読「つゆきん」と読んでしまう。梅雨と菌はあまりに近い印象だからだ。
そして、帰宅してゆっくりと読んでみると「梅雨きのこ」であること。
写真もたくさん見た。なるほど。きのこと打つと菌と変換してくるではないか。
どうも写真からは食べられそうにない姿が多い。

ここで今、作者は逃げられぬ状況にある。
そこへ梅雨菌をもってきたのはなんとも愉快だ。
逃げられないという、切羽詰まった状況であるにも関わらずだ!
菌という字の選択もなかなか粋ではないか。

句会ではなかなか読取れないものだ。
後になってから「しまった!」と思う句が意外と多い。
本当に句会とは生もので、日頃の勉強と知識の積み重ねが鑑賞を
深くするものと大いに反省をした。

でも梅雨菌中には食べられるものもありそうだ。



食 その2


ソーダ水泡の数よりある記憶 小笠原かほる



ソーダ水の二句目だ。
ソーダ水の泡は次から次と浮かんでは弾ける。
作者は泡の数よりある記憶と言っている。
始めは勢いよく弾け、次々と泡も元気がよい。
そして、時間が経つにつれて泡の数が減り弾ける勢いも
弱くなる・・・・・まるで人生のようだ。
つまり、作者は負けないわよ!と自分を鼓舞しているのかもしれない。
気がすっかりぬけた、ただの甘い水となってもこの作者はここから
記憶を作り出し水泡を弾けさせるのだろう。
ソーダ水という、甘い季語から見える作者の強さを思う。



食 その3



ひとすくい心が笑う水羊羹 佐々木成緒子


水羊羹はするりと、のどごしがよく、夏の甘味好きにはたまらない。
甘いものは人の心をほぐしてくれる。作者はもしかしたら何か
心に引っかかるものがあったのかもしれない。
なぜなら、この句があまりにもすーっと読めるので逆に何かあったのだろうか?
と思わせるのだ。
あれ?誰かと喧嘩などしたろうか?などと野次馬根性が出てしまった。
しかし、水羊羹。なにがあってもなくても、ひとすくいすれば心が笑い
さて!がんばりましょうか。なんて気持ちになるものだ。
はて?心が笑う?これもなかなか面白いではないか。


食 その4



アカシアの花降る中を結婚す 田口三千代




食をとりあげたテーマの句で掲句?と思われる方もおられるかもしれない。
しかし、この句の中に「食べられる」ものがある。
アカシアの甘い花の降る中の、幸せな二人。
それを祝う人々。美しい花嫁と美しい花。頼りがいのある花婿どの。これ以上何がありましょう。
佳き季節佳き日佳人たち。
想像するだけで幸せな気分になれる。

さて。「食」
句意からは少々外れてしまうことを覚悟で書いている。
この、美しき祝典のあとには日常がまっているのだ。

この句の中の食材はアカシアである。

アカシアの花は天麩羅にすると美味しいのだそうだ。
ほんのり甘い香。そして、翌年アカシアのアレルギーが少し良くなるそうな。
むりやり感は否めないが、アカシアと聞くとすぐに天ぷらを思い出すものだから・・・・



食 その5



流しさうめん変なおじさん混じりおり 岩本碇




ああ・・・・もうだめだ。
掲句を読んだ途端にバカボンパパがさうめんといっしょに
流されてくる姿が頭に張り付いて離れない。
もちろん、作者はそんなつもりで書いた訳ではないと思う。しかし、
あたしの脳内ではそう変換されてしまい、どうにもならないのだ。
・・・・流しさうめんを楽しむ人たちの中にちょっとだけ
変なおじさんが混じってた。というだけのことだが、こうして
あたしのように、バカボンパパがさうめんと流されてくると
感違いさせてしまう変な句だ。いや、バカバカしい力があるのだ。
この句を旧かなで書いているところが技ありと思う。


2012年8月7日火曜日

葉子が読む(その3)~第二回イベントの俳句から~


葉子が読む (その3) 「色」

今まで「風」「音」を詠んだ句を読ませて頂いた。
今回は「色」を取り上げてみた。
「色=色彩」の特性の中に「光」がある。
光のない世界に色は存在しないのだ。光と色。
そもそもは太陽が生んだのが色であったのだ。
私達はそういう星に住んでいるのだという事をつくづくと感じる。


 色 その1

七色がそろうまで待つ虹の窓 瀬戸優理子 


メルヘンだなぁ。高校生のころ「詩とメルヘン」という雑誌を買っていた。
そこに載っていそうなイラストを思った。葉祥明の絵を思い出した。
掲句を何度か読んでいるうちにちょっと虹の実体を考えた。
七色がそろうことがあるだろうか?つい不思議に思った。
虹が七色なのは世界中では少数派だそうだ。
しかし日本人ならば七色といえば虹を想像する。

俳句は詩である。細かいことは置いてゆこう。なによりも惹かれたのは
「虹の窓」だから。作者の家にはきっとよく虹を見ることがある「窓」があるのか
それとも作者の心象風景なのか・・・・どちらでも良い。この「虹の窓」という
措辞が想像と期待と風景とを言い表している所が魅力だ。
その窓に頬杖をつきながら空を眺めている「あなた」を思う。
(あなたってあなたです。世界じゅうのあなた。)
そういえば、あたしの子供の頃「草の窓」と名付けた窓があった。
ひねりのない名前で裏庭の草しか見えない窓だった。


 色 その2

後れ毛やあじさい夜毎色深め 高木 晃


一言も浴衣姿と言っていないが、浴衣姿の女性が見えるようだ。
あじさいの色とは夜、深まってゆくのか。そうだったのか!とみょうに納得してしまう。
夜毎に深まる色にはうなじの後れ毛の美しい浴衣の女性が一役かっているのだろう。
後れ毛の違い、うなじの違い、匂いの違い・・・・女性の個性があじさいの色を深めてゆく。
なんと艶めかしいことだろう。
土壌の成分により色が変わる、と言われているがそんな話はあじさいには似合わない。
じっと色を深め、額の中に小さな星が降りてくるのを待つのがあじさいなのだ。





色 その3

墨吐いて夢の真ん中夏の烏賊 平 倫子


夏の烏賊釣り船の灯りは陸から眺めるとまことにロマンティックだ。
その船で烏賊と烏賊釣漁師との闘いがあるとは想像し難い。確かにテレビなどで
烏賊釣船の漁師が烏賊を釣り上げているところを見たことはあるがやはり、遠くから
眺める烏賊釣船の灯りの方が身近だったりする。
作者はそんな現実の烏賊が釣上げられまいと墨を吐いている姿を思ったのだろうか。
そこに目を持ってきた作者は面白い。お刺身にされて食卓に上がった夏烏賊は
夢の真ん中にいたんだ。なかなか読み難い掲句ではあったが、何度も読むうちに
上五の「墨吐いて」と中七「夢の真ん中」の取り合わせがなんとも面白く
ロマンチックな現実派みたいな印象と感じた。




色 その4

雨重し白薔薇特に首を垂れ 五十嵐 秀彦


重い雨。なぜ「白薔薇特に」なのだろうか。
反ナチ運動の白薔薇?薔薇戦争のヨーク家の白薔薇?などチラリと
考えたがまず違うだろう。
白い薔薇だけがそこにあったのではないだろうか?
いや、なかったのかも知れない。心象風景であるかもしれない。
雨に打たれ花びらが痛み首を垂れる白薔薇。
そこに、作者は何を見たのか。
あたしは、棺に入れられた白薔薇を思った。
少々思い切った切口だったかもしれないが
ここは、鑑賞者という自由な特権で読ませていただいた。




色 その5

緋目高を追ひて朱線の流れけり 籬 朱子



緋目高は鑑賞魚のエサとして販売されているというが
掲句の緋目高は違うだろう。
色の濃い緋目高の楊貴妃目高が水槽・・・・いいえ金魚鉢の中で泳いでいる様を
作者が目で追っていると、残像が朱線となり流れているという。
なんとも涼やかな一句だろう。
金魚でもなく、緋目高であるところが作者の嗜好の品が伺える。

 


2012年8月4日土曜日

葉子が読む(その2)~第二回イベントの俳句から~



葉子が読む (その2) 「音」


さて次は音。ご存知の通り音とは空気の振動によるものだ。
よって、空気のない地球以外(現時点において)音を楽しむ事はできない。
聞こえる音、聞こえない音、感じる音、触る音、
音は実に多様だ。(その2)は「音」に触れた句を選んでみた。




音 その1


ソーダ水少女はいつも片思ひ  坂入隆人




ソーダ水は実に様々な音を放っている。しかしそれは聞くという心ががなくては聞けないだろう。
片思いの少女は敏感で、ソーダ水の音を雑踏の中でも見つけるだろう。
それは、自分の中の恋がどこかで偶然に「彼」と会わないかしら?
などと物語めいてソーダ水の弾ける様を見ているのだから。
「片思ひ」浮き上がってくる水泡を眺めながら彼を想う。
その時きっとソーダ水の音は饒舌に少女に語りかけているに違いない。
彼と、どうきっかけを作り話をしようか?という少女かもしれない。
ただただ、ソーダ水をながめながら彼を想う少女かもしれない。
時々氷をカラカラ鳴らしながら過ごす時間は切なくも心がドキドキとときめく時間だ。
もし、恋が成就しても「片思いが素敵なのなのよっ」て知っているかもしれない。
そして少女とはなぜか時々物憂くなるものだ。物憂い姿がなにかを放っている事を知っているのだ。
少女とは夢見がちであると同時に打算的で現実的だったりすることを忘れてはいけない。
だから、少女にはソーダ水が似合うのだ。これがいつかカクテルになったりして大人の恋をするのだろう。
ところで、これが少年だったら。何を飲むだろう?やっぱりコーラだったりするだろうか。
いやガラナだろう。それもストローなど付かない。少年の片思いはどこか投げやりなふりをする気がするから。




音 その2


真空管つてなあに八月十五日 内平あとり




親と子。いや祖父母と孫の会話かもしれない。或いは教室。老教師と子供。
最近は、お年寄りとの交流を積極的に進めている学校もあると聞くのでそういう場かも知れない。
とにかく、日頃よくよく接する機会のない世代の交流の中のヒトコマを切り取ったのだろう。
「真空管」とはそんな隔たりを感じる言葉だ。
あたしも久しぶりにこの言葉を目にし懐かしくてたまらない。
この言葉が世代を超えた話題にならないわけがない!
そこはかとなく科学っぽくて、ちょっと古臭いような言葉だ。
この「真空管」というものがラジオに使われていたのだと話すと子供達は
「へー!」「そうなんだ?」と目をキラキラさせるに違いない。
そして、中七にあたるであろう「つてなあに」というしゃべり言葉が
前後の歴史をしっかりと繋げた。この五文字でこの瞬間どんな年代の人が集っていたのかがわかるのだ。
もうこれ以上語る必要のないほどの取り合わせであろう。
8月15日という日をやわらかく、主張はしっかりとした句であり大変勉強になった。




音 その3


蝉時雨目を覚ましても声止まず 川中伸哉




夏の休み。蝉時雨を「んん。喧しいな・・・・」と思いつつもついつい睡魔に勝てず午睡。
そして目を覚ましても「声やまず」だ。この「声」は素直に読めば蝉時雨の声だろう。
目覚めても蝉時雨が止んでいなかった。と。
ここで少しばかり考えてみた。いや、遊んでみたい。
夏の蝉時雨の中の昼寝は目覚めがとにかくだるい。よって作者は夢を見てそれは良い夢とは言えず
誰かと言い争いをしていたのかもしれない。
あるいは、誰かに追われていたのかもしれない。そんな声が目を覚ましても現実に声が付いて来た。
この声は作者自身の声かも知れないと思った。
これはちょっと、妄想が過ぎているかもしれないがこんな風に考えるのは楽しいものだ。
昼寝とは、まったく上手に目覚めるのは難しいものだ。
掲句にも随分楽しませてもらえた。


 音 その4


夏の夜はんなり響くボサノバや 中道恵子




この句はあいさつ句として書かれたものだろう。
ここには講師の今田先生のはんなりとした語り口調を詠みこんでいる。
とても心配りのある作者のようだ。夏の夜にはボサノバがよく似合う。
イパネマの娘が頭の中で鳴り出し、この曲が案外はんなりしたイントネーションだなぁと感じた。
掲句は一つ一つの言葉はよく選ばれているが、惜しくもリズムが躓いているように感じてしまったのが惜しい。
せっかくのボサノバだ。リズムよくすーっと読みたい。
たとえばこのままちょっと語順を入れ替えればぐんと良くなると思う。




音 その5


シンバルの合図にゲリラ豪雨かな 久才秀樹




数年前住んでいた街で豪雨にあったことを思い出した。丘の途中の家の土台が崩れたり
近所数件が土台がむき出しになっり、台所が流されたりした。
雨が強くなり山からコロコロと石が転がってくると要注意だ。
ゲリラ豪雨の前には雷が鳴るという。そうなると天気予報でも注意を呼びかける。
しかし、なぜかあたしは掲句を読んだあと物語りを読んだ様な気持ちになった。
例えば、宮沢賢治やポターの動物達の物語を読んだ後の様な不思議な気分になった。
ある世界。どこかに天候の見張番がいて「をーいくるぞくるぞ!」とジャーンとシンバルを鳴らす。
このシンバルは両手に持ち手がありオーケストラなどで馴染のある形のクラッシュシンバルだろう。
このクラッシュシンバルはオーケストラを支配するほど音量をもっている。
そのシンバルが合図というのだから、どれだけ降るのか知らせるには充分だろう。
この大音量が二つ出てくる句がなぜかのんびりと感じてしまったのだ。
ドボルジャークの交響曲第九番(通称「新世界」)全曲を通して
クラッシュシンバルは第四楽章の一打だけである話は有名である。
作者はこれを知って掲句を書いたのかもしれない。
「新世界」最後の一打のシンバルということかもしれない。
ノアの箱舟はあるのだろうか?

2012年8月1日水曜日

葉子が読む(その1)~第二回イベントの俳句から~



葉子が読む (その1) 「風」


7月。盛夏である。それがどうしたことか今年はいつまでも冷え冷えとした日が続いた。
会場は札幌市の中心部にある築50年という趣のあるビルだった。
空調はない。プロジェクター使用のため風が遮られるのではと幹事会は心配した。
冷夏と言えるような天候が続いたが7月である。
いきなり暑い夏がやってくるかもしれない等と心配しつつ
イベント前には「団扇や扇子などをお持ち下さい」とメールをしたほどであった。


それほど、私達にとっては「風」を意識したイベントであったのだ。
風とは気象学的には、大気の流れを意味するらしいが
様々なところで「風」は生まれている。そしてそれは「詩」となる。
今回も「風」を詠んだ句があり、あたしは迷いなく「風」を詠んだ句を
解いてみたいと思った。
そこで、葉子が読む(その1)は「風」についての作品について読むことにしよう。


風 その1

団扇からどこ吹く風の生まれけり   栗山麻衣


「どこ吹く風」どこかすっとぼけたこの言い回しはどことなく、粋な言葉だと思っていた。
しかしちょっと調べてみると本来、「関心がないとか知らん顔をして聞き流すとか」
あまり良い意味で使う言葉ではないらしい。
ところがこの句にはそういった色を感じさせない。
それはこの風の元が団扇だからではないだろうか?
扇風機やエアコンでは少々厭味っぽい。やはり団扇でなくてはならないのだろう。
団扇の風は自分で起こすものだ。自分自身が好きな時に好きなように起こせる風だ。
そんな、どこ吹く風。言ってみればそれは「良い加減に聞き流す風」であるのだろう。
なんでもかんでも真正面から浴びていたらそりゃぁ疲れるってものだ。
まさに、団扇が「生んだ」自己防衛のどこふく風って訳だ。
ところで、昭和の30年代、あっぱっぱでバタバタと煽ぐ団扇はまさに良い加減に聞き流す「どこ吹く風」を作者は知っているだろうか?団扇とは時々しか顔を出さないが登場する時はとにかく重宝するものだ。
それにしても団扇ってものはずい分と良い出来らしい。何年と、何十年といや何百年と姿は変わらない。


風 その2

風吹きて浮巣も我も流されむ     室谷安早子


浮巣。多くはカイツブリの浮巣を思うかもしれない。
北海道に暮らすあたしにはカイツブリと言われてもちょっとピンとこないものだ。
カイツブリ以外でも浮巣をつくる水鳥は多い。


さて、浮巣だ。浮巣はどんな風にも雨にも水の増減に応じて沈むことはない。
そこに、作者は浮巣も我も「流されむ」と言った。
自然に逆らわず、風にまかせしぶとく流され生きてゆこうという作者の決意の様に思えた。
決して肩肘を張るでもなく、たおやかに生きていこうと。
私はカイツブリの実物は知らないが、カイツブリは幼鳥を「おんぶ」をする。
その動画を見たことがある。その様子はどの動物にもある愛情あふるる情景であった。
我も子も流されむ。というところだろうか。



風 その3

夕立て音階の風散らばれり      後藤あるま


夕立の音は凄まじい。
さぁ、作者どの。音階の風とはなんぞや?
ジャズだろうな。いや、ストーンズだろうか。意外とソーラン節だったりして?
ああ完全に音階スパイラルに巻き込まれてしまう。
あたしはだいたいにおいて「音階」という言葉に過敏になってしいまうのだ。
個人的にはリストの超絶技巧練習曲あたりでけりをつけておこうか。
いや、音階だからと言って音楽を当て嵌めようなどナンセンスなことだ。
「音階の風」とはおそらく、今まで木々をゆらし音を奏でていた風が
夕立の激しい音でちりじりとなってしまった。ということだろうか?
この「散らばれり」で夕立の激しさを表現させたかったのだろうか。
だとしたら十分に伝わってきた。
作者が夕立が来た瞬間。作者にしか聞こえない音階の風が吹いていた。
そして、束の間その風は散り散りになってしまった。
う~ん・・・・その音階の風。感じてみたいものだ。

 風 その4

いつもどこかに夏風邪の妻がいる  橋本喜夫


妻というものは、いつもどこかにいるもの。だろうか?
あたしを引き合いに出すのは少々常識外れな例なのだが、
それでも、夜になれば家の「どこか」にいる。
では、本当にいつもいるのか?と問えばそれはやっぱり何かが引っかかる。
いつもどこかに。いつもどこかに。いつもどこかに・・・・・
と何度か呟いているとすーっとそこに居るはずの人が
透き通って行くように感じる。
いつもどこかに居た妻はもういないのだろう。
妻の本。妻のめがね。妻のハンドクリーム。きっと妻の名残がいつもどこかにあるのであろう。
夏風邪とはいつまでもぐずぐずと鼻水がとまらず、身体がだるいものだ。
夏風邪をひいているのは作者自身なのではないだろうか?と思った。
ちょっと風違いである・・・・・。



 風 その5

風死して君の匂いがあとづさる    山田美和子

 

風というものは、いつも必ずどこかで吹いている。
だって地球は回っているんだもん!というわけだ。
夏の盛。はたと無音になったかのように感じる風の死。
人も乗り物も止まってしまったかのような街。
この風の死の時人は何を考えるだろう?
暑いといいながらせっせと団扇や扇子で風を起こすだろうか。
冗談じゃないぜまったくとか言うだろうか。
計画停電?とかも思い出すだろうか。
そんな時、作者は「君」を思った。
匂いがあとづさるとはなんだろう?
なぜあとづさったのだろう?何が作者に起きたのだろうか?君は何を思ったのだろう。
きっとこの日二人は逢う約束をしていたのだろう。
なのに、風が死して二人に気持ちのズレが起きたのか・・・・などと二人の物語にずかずかと入り込んでしまう。
風が死ななければ二人にはこの先のドラマがあったのではないだろうか?
だから、作者は「風死して君の」と言った。
匂いは二人の関係の象徴であるように思える。
風の死んだ束の間の時間は本当に魔法がかかったような時間だと思う。
そして魔法が解けて涼やかな風が戻った時二人もまた近づいていることを
願ってしまう。

【第二回人気五句・披講】

俳句集団【itak】事務局です。

人気五句公開後、投句選句一覧を公開しましたが
なかなか捜すのが大変というご意見を頂き
先日公開しました【人気五句】の披講をいたします。
40名の大句会なもので天=3点、地=2点、人=1点の配点方式です。
覚書のようなものになりますので横書きにてご容赦くださいませ。


乳房のひとつは薔薇におきかへる    早川 純子 (26)
走り来て蛇口を夏の雲へ向け      今田かをり (15)
いつもどこかに夏風邪の妻がゐる    橋本 喜夫 (14)
夕立くるきざしきざはしすでに濡れ   鈴木 牛後 (10)
星涼し眼持たざる深海魚        今田かをり ( 9)

以上です。ご鑑賞ありがとうございました。
これよりしばらくは『葉子が読む』をご堪能くださいませ。

2012年7月31日火曜日

『葉子が読む』がはじまります!

俳句集団【itak】事務局です。

8月。暦の上では秋を迎えますが北海道では今がまさに盛夏です。

前回ご好評を頂きました『牛後が読む』に続きまして
新企画『葉子が読む』をスタートしたいと思います。

第2回俳句集団【itak】の句会には今回80句が投句されました。
その中から俳人・高畠葉子が各回テーマを決めて選んだ句を読んで参ります。
前回同様、ネット掲載の許可を頂いたもののみを対象といたします。
掲載句に対して、あるいは評に対してのコメントもお待ちしております。
公開は明日8月1日(水)18時です。ご高覧下さい。


☆高畠葉子(たかばたけ・ようこ、「現代俳句協会会員」)



2012年7月28日土曜日

俳句集団【itak】第2回句会評 (橋本喜夫)

俳句集団【itak】第2回句会評



2012年7月14日


橋本喜夫(雪華、銀化)




714日、少々手狭な会場ではあったが、第回の句会が第1回以上の熱気を帯びつつ、行われた。今回は高校生男子が参加したせいか、先輩女流たちの目がいつもより輝いていた感じがしたが、気のせいかもしれない。さてさっさと、無責任に、わがままにこの句会評を書いてしまおう。誤解、誤読は「俳句の華」だと思っていますので、どうか俳人諸氏ご寛恕を。それと紹介できない佳句もあったことをお忘れなく。





干梅にひとつひとつの夜空かな  久保田哲子

◆さっそく、今回の代表的秀句のひとつを掲げた。手作りの梅干しを作ったことのあるひとも、ないひとも想像すればわかることがある。それは夜干しの梅の背景にある気持ちの良い夜空だ。丹精こめて作った梅干しひとつひとつに時間、空間としての夜空があり、夜空ひとつには数多くの星がある。気持ちの良い夜空、夜の空気感が伝わる句ではないか。梅干しではなく干梅とした作者の言語感覚も素晴らしい。




星涼し眼持たざる深海魚   今田かをり

◆海底に澄む深海魚のひんやり感を夏の俳句に素材として使用することはよくあるだろう。眼の退化した深海魚を「眼持たざる」という表現もありえるだろう。この句の良さは星涼しの季語の斡旋なのだろうと思う。海底と天空という取り合わせだけではない、気持ちのよい飛躍がある。




団扇からどこ吹く風の生まれけり  栗山麻衣

◆どこ吹く風という措辞を使いたいとまず、思ったのだと思う。言葉派ではよくある作り方だ。そんなときにどんな季語を持ってきて、いかに処理するかは、作者の力量と作者の志向が決めることだ。団扇という俳諧味のある季語を斡旋するところはニヤッとさせられる。そして風で団扇か、つき過ぎでないかと思った諸氏?ためしに他の季語でやってみな。ここまでうまく俳句にならないと思う。




流しさうめん変なおじさん混じりをり 岩本 碇

◆流しさうめんを使った小芝居やコントの場面を想像する。流しそうめんに多くの箸が伸びて、皆でそうめんをすするクローズアップ画面のあと、大写しになる。
するとひとり、変なおじさんが混じっているという景。「人生はクローズアップでは悲劇だが、ロングショットは喜劇である 」といったチャップリンの言葉を思い出す。




鰻屋に酒好きそろふ走り梅雨     三国真澄

◆夏の暑いさかり、鰻屋にあつまり昼酒を楽しんでいるおじさんたち。そろいもそろった酔狂なひとたちである。今でも東京の下町などに行くと見かけそうな風景。この句の良さも走り梅雨の季感のよさであろうか。鰻屋との取り合わせも最高である。これを季重なりだとかいう無粋なひとはイタックにはいないであろう。




夕立て音階の風散らばれり      後藤あるま

◆夕立がきて、さっと涼しい風が起こり、屋根をたたく音が聞こえてくる。中七の「音階の風」の措辞が素晴らしい。夕立ての上五の措辞をどう取るか、説明的と思う人もいるだろうし、夕立の とかるい切れのある助詞を使うべきだとか、夕立やで一度切って座五を連体形で締めるという別案もあるだろう。作者はおそらく、切りたくなかったのだと思う。夕立がきて、風が起き、音を立てるといった連続性を重視したのだと思う。




月涼し今日ふたたびの水を買ふ    籬 朱子



◆水の宅急便とどくという句があったが、この句もそんなすがすがしさが伝わる。水を買うというごく日常的な行為が、とても気持ちよく感じられるのは、月涼しの季語のよろしさなのであろう。あわただしく、暑い日盛りが過ぎて、夜になり、涼しい月を仰ぎながら、ふと息をつぐように今日2回目の水を買った。背景にあるその人の繁忙な日常と夜の息遣いが伝わり心地よい。


真空管つてなあに八月十五日     内平あとり



◆おそらくあの玉音放送も全国に真空管ラジオを通じて発信されたものだろう。若者は真空管そのものも言葉では知っていても見たことないと思う。われわれの頃はテレビが壊れたときや、ラジオを壊してむき出しになった真空管をよく見た。当初の頃は鉄腕アトムのおなかのなかにも内臓されていた。この句も八月十五日への展開が見事である。



乳房のひとつは薔薇におきかへる   早川純子


◆今回の最高点句かもしれない。私も頂いた句だ。俳句は「もの」と言われ、具体的なもの、具象的なものが好まれる。この句は医学的な乳がん、乳房切断といった具象を想定しなくても楽しめる句だ。私はむしろ「観念的」に楽しめばよい句だと思っている。具象的に理解したいひとは「にゅうぼう」と読めばよいし、より観念的に捉えたいひとは詩歌の古典的な読みである「ちちぶさ」でもよい。たとえば「胸の薔薇のタットウー」を「おきかへる」と表現したのであれば、好きだったロック歌手を思い出す。薔薇戦争や、薔薇星雲を思う人だっているはずだ。それだけ薔薇は喚起力のある言葉だし、私にとっては不吉の匂いもする。作者は乳がんのことを詠んだかもしれないが・・・私にはそれを詩的昇華する心の準備が出来ていなかった。




沈むこと忘れしくらげ月と居る    高木晃

◆下五の月と居る、がすこぶる良い。すばらしい乳房だ、蚊が居る みたいな。
こういう一点豪華主義的な俳句の場合は、素晴らしい措辞をじゃましない言葉が必要である。「沈むこと忘れしくらげ」がまるで月の枕詞のように私には読める。もちろん、海月と月の詩的相似性も美しい。




薔薇を剪る指は亡びに染まりけり   五十嵐秀彦

◆乳房の句のおかげで同じ薔薇の句でも損をした感が否めない。ただし亡びに染まるという措辞がこの句の美点でもあるが弱点でもある。抽象的なメタファーが薔薇の鮮烈さを弱めている感じだ。ただ亡びに染まるは美しい表現だ、きっとTPOを弁えれば、いつか復活する措辞だと思う。




夕立くるきざしきざはしすでに濡れ  鈴木牛後

◆実際の句会でも頂いた句。夕立は実際にまだ来ていないのに、階段がすでに濡れている感覚、きざし感覚とでも言おうか、この感覚が鋭い。夕立や で安易に切らずに夕立くる という措辞が、まだ来てない感を出している。もちろん、きざしきざはしの 言葉遊び的リフレインも口承性がある。階段がなくてナマコの日暮れかなのような、異界的な異星人的なフレーバーもあり、好きな句であった。




目覚めれば魂重き昼寝かな      高畠葉子

◆たましいの句は一般に難しいといわれる。観念的になりかねないし、暗い、重くれの句になりがちだ。この句は魂が重いと言いながらとても軽妙な句である。魂を使ってこんな軽い句を作った人はあまりいないのではないか。目覚めたときだけ、重い魂にクスッと笑ってしまう。




角皿の青きパセリの孤独かな     三品吏紀

◆料理の添え物でパセリの存在の軽さを、中原道夫も詠んだことがあったように思うが、この句はパセリの孤独をおおげさに詠んだところに眼目がある。「角皿の青き」はまさに添え物の措辞である。無内容で、あとくされない面白さがあり、味わったあとに胃がもたれない俳句を櫂未知子は良い意味で「おばか俳句」と名付けたが、まさにこの句のパセリは大真面目に角皿で主役を演じている。




風死して君の匂いがあとづさる    山田美和子


◆気持ちのよい風が吹いて、君あるいは恋人かもしれぬが、そのひとの匂いが遠ざかるのであれば、予定調和であるのだが、この句は風が止まってむせ返るような暑さとともに恋人の匂いが遠ざかっていったというのだ。このアンビバレンスがいいではないか。風死すという季語で、恋人の死をニュアンスとして伝えたいのかもしれない。そうであったとしても、この季語の新しい使い方である。


走り来て蛇口を夏の雲に向け     今田かをり


◆青春映画の一シーンを見るような景である。おそらく運動部の学生が汗を拭きつつ、駆けて来て、蛇口を上に向けて顔にかけているシーンだ。この句いい句なのだが、美しい断片をわれわれに呈示して見せてくれるが、切れがないのがやはり落ち着かない。切れは美しい断片を映像として繋げてくれる残像の役目もあるのだ。切れを求めるのは俳人の悪い癖かもしれんが、たとえば「走り来る」でも「駆けて来る」でもよいのだ、うーん切れが欲しい。




ソーダ水泡の数よりある記憶     小笠原かほる


◆ソーダ水の泡の数と記憶の数、とても具象的な数と抽象的な数を呈示して比較しただけであるが、面白い。いいさしのまま呈示したことで、ソーダ水を飲んでいたころの個人個人の記憶を想起させるよろしさがある。思えばソーダ水の泡も記憶と同じように消え去ってゆく運命を担っている。



昼寝覚ヒトのスイッチ切れしまま   栗山麻衣


◆人間そういえばスイッチ入った状態と、切れた状態ってあるよな、と思う。私などは医者のスイッチと俳人のスイッチをオン、オフしている。みなそうかもしれぬ。妻のスイッチ、母のスイッチ、おばさんのスイッチ、いじわるのスイッチなどもある。そんな面白いことを考える作者がこの発想を俳句にするために選んだ季語が昼寝覚、うーん周密である。しかも季語の選択に俳味がある。




日の暮は声なつかしき韮の花     久保田哲子


◆母の声だろうか、日暮れに声が聞こえるとなにかと懐かしい気持ちにさせられる。万人の感じる印象ではなかろうか。そこに持ってきた季語が韮の花。スキーの回転競技や大回転はポールにぶつかるくらいにぎりぎりを突っ切らないと良いタイムは出せない。もちろんポールに衝突したらおしまいである。名句とはそんなリスクを冒さねば作れない気がする。この句の韮の花の選択は一歩間違うと類句類想といわれるぎりぎりを突きぬける措辞だと思う。




ラジオから母校の名前夏は来ぬ    後藤あるま


◆ラジオそのものが今やノスタルジックなメデイアになりつつある。まさにメデイアとしての存在感すらも「壊れかけのラジオ」である。さて、そのラジオから母校おそらく高校だろうが、母校の名前が聞こえてきた。おりしも甲子園の予選が始まったかもしれない。その名前を聞いて夏が来たんだなーと心から思ったという句だ。そういえば懐かしき高校の名前(漫画の)、青雲高校、明訓高校、青葉高校などなど夏を感じさせる名前だなと思う。実名の湖陵、潮陵、江南、緑陵みなそうだな、とも思ったりする。高校時代は人生の夏だからなあと思ったりもする。そうすると今の私は人生の大寒か?やばい悲しくなってきたので今回はこれにて稿了