2012年8月4日土曜日
葉子が読む(その2)~第二回イベントの俳句から~
葉子が読む (その2) 「音」
さて次は音。ご存知の通り音とは空気の振動によるものだ。
よって、空気のない地球以外(現時点において)音を楽しむ事はできない。
聞こえる音、聞こえない音、感じる音、触る音、
音は実に多様だ。(その2)は「音」に触れた句を選んでみた。
音 その1
ソーダ水少女はいつも片思ひ 坂入隆人
ソーダ水は実に様々な音を放っている。しかしそれは聞くという心ががなくては聞けないだろう。
片思いの少女は敏感で、ソーダ水の音を雑踏の中でも見つけるだろう。
それは、自分の中の恋がどこかで偶然に「彼」と会わないかしら?
などと物語めいてソーダ水の弾ける様を見ているのだから。
「片思ひ」浮き上がってくる水泡を眺めながら彼を想う。
その時きっとソーダ水の音は饒舌に少女に語りかけているに違いない。
彼と、どうきっかけを作り話をしようか?という少女かもしれない。
ただただ、ソーダ水をながめながら彼を想う少女かもしれない。
時々氷をカラカラ鳴らしながら過ごす時間は切なくも心がドキドキとときめく時間だ。
もし、恋が成就しても「片思いが素敵なのなのよっ」て知っているかもしれない。
そして少女とはなぜか時々物憂くなるものだ。物憂い姿がなにかを放っている事を知っているのだ。
少女とは夢見がちであると同時に打算的で現実的だったりすることを忘れてはいけない。
だから、少女にはソーダ水が似合うのだ。これがいつかカクテルになったりして大人の恋をするのだろう。
ところで、これが少年だったら。何を飲むだろう?やっぱりコーラだったりするだろうか。
いやガラナだろう。それもストローなど付かない。少年の片思いはどこか投げやりなふりをする気がするから。
音 その2
真空管つてなあに八月十五日 内平あとり
親と子。いや祖父母と孫の会話かもしれない。或いは教室。老教師と子供。
最近は、お年寄りとの交流を積極的に進めている学校もあると聞くのでそういう場かも知れない。
とにかく、日頃よくよく接する機会のない世代の交流の中のヒトコマを切り取ったのだろう。
「真空管」とはそんな隔たりを感じる言葉だ。
あたしも久しぶりにこの言葉を目にし懐かしくてたまらない。
この言葉が世代を超えた話題にならないわけがない!
そこはかとなく科学っぽくて、ちょっと古臭いような言葉だ。
この「真空管」というものがラジオに使われていたのだと話すと子供達は
「へー!」「そうなんだ?」と目をキラキラさせるに違いない。
そして、中七にあたるであろう「つてなあに」というしゃべり言葉が
前後の歴史をしっかりと繋げた。この五文字でこの瞬間どんな年代の人が集っていたのかがわかるのだ。
もうこれ以上語る必要のないほどの取り合わせであろう。
8月15日という日をやわらかく、主張はしっかりとした句であり大変勉強になった。
音 その3
蝉時雨目を覚ましても声止まず 川中伸哉
夏の休み。蝉時雨を「んん。喧しいな・・・・」と思いつつもついつい睡魔に勝てず午睡。
そして目を覚ましても「声やまず」だ。この「声」は素直に読めば蝉時雨の声だろう。
目覚めても蝉時雨が止んでいなかった。と。
ここで少しばかり考えてみた。いや、遊んでみたい。
夏の蝉時雨の中の昼寝は目覚めがとにかくだるい。よって作者は夢を見てそれは良い夢とは言えず
誰かと言い争いをしていたのかもしれない。
あるいは、誰かに追われていたのかもしれない。そんな声が目を覚ましても現実に声が付いて来た。
この声は作者自身の声かも知れないと思った。
これはちょっと、妄想が過ぎているかもしれないがこんな風に考えるのは楽しいものだ。
昼寝とは、まったく上手に目覚めるのは難しいものだ。
掲句にも随分楽しませてもらえた。
音 その4
夏の夜はんなり響くボサノバや 中道恵子
この句はあいさつ句として書かれたものだろう。
ここには講師の今田先生のはんなりとした語り口調を詠みこんでいる。
とても心配りのある作者のようだ。夏の夜にはボサノバがよく似合う。
イパネマの娘が頭の中で鳴り出し、この曲が案外はんなりしたイントネーションだなぁと感じた。
掲句は一つ一つの言葉はよく選ばれているが、惜しくもリズムが躓いているように感じてしまったのが惜しい。
せっかくのボサノバだ。リズムよくすーっと読みたい。
たとえばこのままちょっと語順を入れ替えればぐんと良くなると思う。
音 その5
シンバルの合図にゲリラ豪雨かな 久才秀樹
数年前住んでいた街で豪雨にあったことを思い出した。丘の途中の家の土台が崩れたり
近所数件が土台がむき出しになっり、台所が流されたりした。
雨が強くなり山からコロコロと石が転がってくると要注意だ。
ゲリラ豪雨の前には雷が鳴るという。そうなると天気予報でも注意を呼びかける。
しかし、なぜかあたしは掲句を読んだあと物語りを読んだ様な気持ちになった。
例えば、宮沢賢治やポターの動物達の物語を読んだ後の様な不思議な気分になった。
ある世界。どこかに天候の見張番がいて「をーいくるぞくるぞ!」とジャーンとシンバルを鳴らす。
このシンバルは両手に持ち手がありオーケストラなどで馴染のある形のクラッシュシンバルだろう。
このクラッシュシンバルはオーケストラを支配するほど音量をもっている。
そのシンバルが合図というのだから、どれだけ降るのか知らせるには充分だろう。
この大音量が二つ出てくる句がなぜかのんびりと感じてしまったのだ。
ドボルジャークの交響曲第九番(通称「新世界」)全曲を通して
クラッシュシンバルは第四楽章の一打だけである話は有名である。
作者はこれを知って掲句を書いたのかもしれない。
「新世界」最後の一打のシンバルということかもしれない。
ノアの箱舟はあるのだろうか?
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