俳句集団【itak】第13回イベント トークショー抄録
「読(詠)まずに死ねるか!~短詩型文芸の可能性~」
俳句集団【itak】 五十嵐 秀彦 ・ 山田 航
俳句集団【itak】 五十嵐 秀彦 ・ 山田 航
「読まずに死ねるか!」というタイトル、ある世代にとってはなつかしいフレーズなのかもしれない。これは80年代に「月刊プレイボーイ」で連載された内藤陳さんのハードボイルド小説の書評コーナーのタイトルだった。
ハードボイルド小説人気に一役買った名物コラムである。
なんとなく景気づけでこんな威勢のよいタイトルにしてみただけで、あんまり意味はない。しかし短詩型の作家と言うのは、概して作るのは好きなくせにあんまり人の句を読まないものだ。短歌はどうかしれないけど、きっとそんなところがあるんじゃないかと思う。
読む楽しみ。それをもっと、私自身楽しみたいものだなぁと、このごろ思っていたので、人の作品を鑑賞して好き勝手に話してみようかなと思った次第。
それだけでは2周年企画としてあまりにもひねりがないものだから、itak旗揚げから短歌の世界からitakに参加してくれている若い才能・山田航君をまきこんでしまえという、実に安易な企画であった。
今回、その内容を抄録にするに当って、やりとりの部分は削り、作品鑑賞を中心にまとめてみた。
事前打合せを行わなかったにもかかわらず、二人の持ち寄った作品には共通点が多く見られたのは大いに不思議なことである。
おそらく「短詩型文芸の可能性」というサブタイトルがそのような流れを誘導したのであろう。
(五十嵐秀彦)
1、
「それは宗教行為ですか?」「数回の中断を挟みます」「いずれは冬の季語になります」
吉田恭大「早稲田短歌43号」
1989年生まれ、早稲田短歌会出身の歌人。
カギカッコでくくられた3つの言葉をつなげて定型に近づけているという歌。実際に発話された台詞を短歌に移し替えるという手法は穂村弘らによって先例があり確立されているが、この歌の場合はそれぞれの言葉がシュールでどういうつながりを持っているのかわかりにくい。
都会の喧騒のなかで全く無関係に発話された3つの言葉を並べただけという解釈もできる。
2、
ベランダに名月を見るふうんと言ふ 榮猿丸 「点滅」
短歌も俳句もいずれも吃音症ともいえる文字数の少なさで、どちらの作者もそのことを逆手にとって作っている。しかし、そのやり方が短歌と俳句とでは違ってくる。
榮猿丸さんは、いま注目されている若手の代表的な作家の一人、と言ってもいい。昨年『点滅』という句集を発行して話題となり、そしてこの句集で今年の「田中裕明賞」の受賞を決めている。
猿丸さんは、結社「澤」の人。
この句は、思わず通り過ぎてしまいそうな何気ない句だ。五七五と旧かな、有季ということで、型はとても保守的。ところがどうも妙なところがある。この句集に収められている句全体を見ると大変達者な人だなぁという感想を持つが、この句は意外なことに一見稚拙に見えるのだ。
「ベランダに名月を見る」
なんとも説明的。ベランダも説明的なら、「見る」も説明的。
ところがその流れをひっくり返すのが座の「ふうんと言ふ」なわけである。だから措辞的にひっかかる人は多いだろうけれど、この「ふうんと言ふ」で感心してしまう人も少なくないだろう。
さて困った。「ふうんと言ふ」のどこが面白いのか。そう考えると、さっぱり分からない。ひとことで言えば、無意味であることに無防備な作品。しかし、これは俳句でしかできない表現にも思える。
(五十嵐秀彦)
3、
花は樹をぼくはあなたをしならせるだけしならせて散つてゆくだけ
藪内亮輔「京大短歌20号」
作者は1989年生まれ。
京大短歌会出身で、2012年の角川短歌賞受賞者。大学では数学を専攻していたという。
岡井隆に強い影響を受けており、花や雨といった自然詠的モチーフを好みながら、文語をベースに口語を柔らかに混ぜた短歌をつくる。
成立当初より「重みがない」「格調がない」と言われ続けてきた口語短歌であるが、口語の成熟とともに格調と気品あふれる口語短歌は不可能なものではなくなってきている。
(山田航)
4、
春風や仮設便所を積んで去る 興梠隆 「背番号」
「街」(今井聖主宰)の同人。先ほどの猿丸さんの句と同様に、伝統詩形であることに非常に保守的ながら、どこかこれまでの写生とは異なる世界だ。
カジュアル感とでもいおうか。俳句という詩形への信頼という裏の面もある。
それはこの句のような、詩になりにくいモチーフで作るところに詩形への信頼感を持っている人なのだろうと思う。
この人の俳句の特徴について「街」主宰の今井聖さんが序文で言及している。
それはつまり感動と俳句との関係ということ。
《俳句は自分の感動を詠うということが第一義なのではなくて読者を「感動させる」「気づかせる」ものであるということ。つまり俳句は詠うものではなく書くものだという意識が徹底しているのだ。感動の類型性というのが隆さんのもっとも嫌うところである》
ネタバレの序文になってしまっていて、どうかな、とか思ったが、主宰としての弟子への愛情を感じもする。
(五十嵐秀彦)
5、
メイン顧問・カオリ先生「試合中、髪をいじった奴、ぶっとばす」
千葉聡「今日の放課後、短歌部へ!」
作者は1968年生まれで、現役高校教諭のかたわら歌人として活動している。
この歌が収録されている「今日の放課後、短歌部へ!」は教員生活を綴ったエッセイとともに短歌を載せているという本。
作者が全く経験のないバスケ部の顧問に任じられ困ってしまい、バスケを専門とする若い女性体育教諭カオリ先生に指導を頼んだエピソードのあとにこの歌が出てくる。
発話者の名前のあとに発話の内容が書かれるというト書きのような構成となっている。
エッセイが事実上の詞書として機能するという構造の連作を、この作者はよく発表している。
(山田航)
6、
桃しろく匙のかたちに欠落す 西原天気 「けむり」
ご存知「週刊俳句」を立ち上げた仕掛け人の西原天気さんの句集「けむり」からの一句。
彼は「週刊俳句」という無思想なメディアを作った。この無思想というのが大事だ。
混沌としたものをメディア上で展開し、メジャーな俳壇が無視している世界をあからさまにした。
広くさまざまな傾向の作家の俳句を毎週発表していながら、だが、その中に「週刊俳句好み」と呼ぶべき傾向が見えないわけでもない。それが「軽み」なんじゃないかと思う。「軽み」と言っても芭蕉の時代のそれとはたして同じだろうか。ちょっと違うような気がする。あるいは「軽み」などと古臭いことは言わず西原さんが前にどこかで書いていたオフビートのような俳句とでも言ったらいいのかもしれない。
そうした若手に作品発表の場を作った「週刊俳句」の西原さんご自身はどんな句を作るのか、ということで今回句集「けむり」を読んでみた。
さっきも言ったように、新しい動きの代表選手のようにも捉えられている人物だが、しかしこの句、なんともぬけぬけと写生句だ。
そこが面白い。
ただ、彼は特に俳句は客観写生だというような主張はしない。そんなことには興味がない、というそんなスタンスでもある。
「けむり」という句集の中にはこんな句もある。
しゃっくりす満月ほどの寸法の
空ばかり見てブースカが芋畑
何か大真面目に言うことを嫌うような感じ、そんなことをするのは死ぬほど恥ずかしいというような感じ、だから満月みたいな「しゃっくり」をしたり、芋畑にブースカを置いたりする。それはとても都会的な感覚だなぁ、と思う。
洗練と言ってもいい。
そしてこの句は、その洗練がはっきりと前面に出た、というか出てしまった句だ。
写生とは言ったけど、素直さはない。普通の写生の裏をかこうとしているようにも見える。匙ですくった桃の果肉ではなく、桃にのこされた匙の形の虚ろを見ようとしている。
ここに私は都会的な詩を感じる。西原さんは嫌がるかもしれないが、ダンディズムのようなものを感じるのだ。
(五十嵐秀彦)
7、
自転車のサドルとわしのきんたまのその触れ合いとへだたりのこと
吉岡太朗「ひだりききの機械」
作者は1986年生まれ。
京大短歌出身で、在学中に短歌研究新人賞を受賞してデビュー。第一歌集「ひだりききの機械」を今年に出版して話題となっている。
この歌集は序盤はSF・ファンタジー風の世界観を持った奇想的な口語短歌であるが、中盤から関西弁で糞尿系の下品な単語を乱発した、無頼派的な作風に変わる。
これはどうやら作者が関西で難病患者の介護の仕事に携わっており、その患者の口調をヒントにしたもののようだ。
いつ死ぬともわからない身を抱え、「うんこ」や「おしっこ」がリアルな問題として突きつけられる、むき出しの生そのものを生きるはめになった難病患者たち。
作者はおそらく彼らの汚く拙いナマの言葉に、美と芸術の世界にはなかった真実の重みを感じたのだろう。方言という究極の口語が、ここでは強い説得力を放っている。
(山田航)
8、
はつきりしない人ね茄子投げるわよ 川上弘美「機嫌のいい犬」
これまでに挙げた句はどれも「軽み」とも呼ぶべき句であった。現代において「軽み」が端的に現れているのは口語俳句なのかもしれない。これも俳人というよりは、小説家として有名な川上弘美さんの口語句。
これまでに「機嫌のいい犬」という句集を出していて、この句はそこから持ってきた。
前の三句に比べると物語性が強い。平易な言葉を使いながら、しかし、自己主張が強い。やはり小説家なのかな、と思う。
「茄子」が入っていれば俳句なのか?という疑問も呈されるかもしれない。
そこに猿丸さんや興梠さんとは違う、あからさまに挑発的な姿勢を感じる。小説のセリフの一節を五七五で切り取って、わざとらしく「茄子」などを入れて、まさに読者に向かって投げつけてきている。これを俳句ではない、なんて言ったら「ほ~、やろうってのか!」ぐらい言われそうで怖い。
川上弘美さんの場合、内田百閒を尊敬しているのはその小説からも歴然なので、百閒が俳人でもあったことが彼女に俳句を作らせているのかもしれない。
9、
(五十嵐秀彦)
9、
おまえらはさっかーしてろわたくしはさっきひろった虫をきたえる
望月裕二郎「あそこ」
作者は1986年生まれ、早稲田短歌会出身。
前述の吉岡太朗とは対照的に、べらんめえ口調の短歌を多く発表している。
この歌も、まるで男子小学生のような物言いと発想でありながらその内容は不条理に満ちており、「わたくし」という公的な一人称が用いられるねじれがある。
集団での「さっかー」に馴染めず「さっきひろった虫をきたえる」遊びに一人興ずる姿は、幼い口語だからこそ表現できる哀愁に満ちている。
(山田航)
10、
水鳥は溺死できないぼくできる 石原ユキオ 「俳句ホステス」
口語俳句というと、私はこの石原ユキオという岡山の俳人が面白いと思っている。
彼女は、俳句の世界では若い世代に入る。特定の結社には所属せずに同人誌に作品を発表しているが、知られているとすればそうした同人誌での活動というより、ネット上の活動の方だろう。
句集は「俳句ホステス」という電子版のものを出している。
この句だが、作品と作者名を見ただけでは男性の作品かと思ってしまう。そんなある種のモノセクシャルなところが売りでもある。
あっけらかんとユーモラスな作品、あるいは性を笑い飛ばすような作品が多い人ではあるのだが、この句なども一見そんな感じながら、どこかブラックなものを感じさせる。明るさを装いながらの自殺願望が少し怖い。
水鳥を眺めていて、自分は溺死できるんだよなぁと思っている。それは作者自身の感慨なのだが、あえて男性の一人称で語り、正面から自分に対面することを避けているような印象もある。このあたり意図的に仕掛けているのだろう。
さっきの川上弘美の句とその点で似ているところもある。いろいろ細工をして、一句の物語化に成功しているともいえる。俳句ではなかなかその物語化が難しい。
彼女は俳人でありながら、物語志向が強い人だと思う。
だから、と言っていいかどうかわからないが、短歌も作らざるをえない性格で、句集「俳句ホステス」でも冒頭にいくつも短歌を並べ、短歌のほうがうまいと人に言われるなどと言っている始末だ。
11、
(五十嵐秀彦)
11、
北風が目にしみたんじゃ泣いとらんほらもう早うズボン上げねえ
石原ユキオ 「石原ユキオ商店」
それで、ここでユキオさんの短歌をひとつもってきてみた。
口語短歌。しかも方言バージョン。岡山の人なんで、地元のおっさんの言葉使いを借用しているようだが、これよく読むとわかるけど、主人公は女である。
女が男に言っているわけだ。「もう早くズボンを上げねえ」と。
こんな言い方はありえないなぁと思うが、しかしこういう状況はありえるかもしれないと思わせるちょっとした小説世界が作られている。それはさっきの俳句がきわめて直感的だったことと対照的だ。いずれにしても虚実の演出がとてもたくみである。
(五十嵐秀彦)
12、
後ろから刺された僕のお腹からちょっと刃先が見えているなう
木下龍也「つむじ風、ここにあります」
作者は1988年生まれ、山口県在住の歌人。
インターネット上で短歌を発表し始め、新聞や雑誌などの投稿作品で注目を浴びるようになった。
「発見の歌」を基本とした一首の発想力で勝負する傾向がある。その技術はかなり洗練されているが、洗練されているがゆえに作者の中にある苦悩や弱音が巧妙に隠されているようにも感じられる。
この歌は「なう」というtwitter用語を短歌に導入し、ただの口語ではない新たな文体を短歌へと持ち込もうとしている。
(山田航)
13、
天皇や男一匹精の虫 渡辺隆夫 「六福神」
これは俳句ではない。今年77歳になる川柳作家・渡辺隆夫さんの最新句集「六福神」から。
このアナーキーな言葉の選択には思わず息を呑む思いがする。川柳だからもちろんアイロニーがあるわけだが、それだけではない。最近の俳句に希薄なゴリッとした骨太の言い切りがあって面白い。こういう句が今の若手の俳人たちに作れるのか。いや、若手だけじゃない、私らに作れるのか、そう思う。
皇室川柳を氏はけっこう作っている印象があるけれど、ここにあるのは反天皇制というようなイデオロギー的な主張ではなく、権威と呼ばれるものに言ってみれば「アッカンベー」をしているようなそんな反骨だろう。
「男一匹」なんて見得を切っても所詮は一匹のスペルマでしかないじゃないか。そういう自分に対する風刺でもある。その言葉の開き方は、まさに川柳。
でもこの句の面白いのは、上五の「天皇や」の「や」でもある。
これは切れ字だ。俳句ではあたりまえかもしれないけど、川柳的ではない。
あらゆるものをパロディにしてしまう。俳句形式さえパロディにしてしまおうとする隆夫川柳に私は敬服してしまう。
(五十嵐秀彦)
14、
自慰のあとのかしこさのままで死ねればと思うのでこれから準備をします
吉田竜宇
作者は1987年生まれ、京大短歌会出身。
2010年に短歌研究新人賞を受賞した「ロックン・エンド・ロール」の中の一首。
男性がマスターベーションの直後に悟りきったような心持ちになる状況を指す「賢者タイム」というネットスラングを下敷きにした歌である。
口語と一口に言っても社会的な階層ごとに全く別のバックボーンを持っており、決して一枚板ではない。この歌のように特殊な文化層から独自の口語表現が立ち上がってくることも、これからは決して珍しくはなくなる。
口語の多様化という状況を伝えてくれる歌である。
(山田航)
15、
むさし野は男の闇ぞ歌留多翔ぶ 八田木枯 「鏡騒」
これは渡辺隆夫さんよりもっと高齢な俳人。八田木枯さん。残念ながら2年前に87歳で亡くなられた。最後の最後まで旺盛な創作活動を続けていた人。確かに年齢ゆえの「枯れ」を感じるんだけど、それが凡庸な枯れではない。
かみそりのように枯れていく意識のものすごさがある。
この俳句を読むと、「俳句とは・・・」と声高に論じている私らなどゴミみたいなものだと思う。
この人はすごい人で、週刊俳句にも新作を発表したことがある。20代の若者たちの作品に並んで、「夜の底ひに」10句を発表していたことが忘れられない。
そのときの句に、「黒なまこ汝臣民啜るべし」なんて、さっきの隆夫川柳にも通じるような世界の句があった。
(五十嵐秀彦)
16、
かたつむりって炎なんだね春雷があたしを指名するから行くね
雪舟えま「たんぽるぽる」
作者は1974年生まれ。
穂村弘の歌集「手紙魔まみ、夏の引越し(ウサギ連れ)」のモデルとなったことで知られる歌人である。近年は小説も執筆している。
世界全体を祝福するような多幸感のある作風だが、ここであえて社会的に弱い存在である「少女」の口語文体を用いることで、作風に陰翳をもたらすことに成功している。
それはたとえば、「現代を生きる普通の女性」の感覚を打ち出すために口語を用いた俵万智とも違う方向性であり、「女性の口語」もやはり多様化していることを感じさせる。
(山田航)
17、
少年や六十年後の春の如し 永田耕衣
これは97才まで生きた耕衣さんにとっては初老の時期の句。
この句は私にとってとても意味のある作品でもある。こういう俳句が名句として成立する限り、私は俳句を続けよう、そう思っている。
眼前のものを見ながら、もう心はそこにはいない。しかし、それは虚構空想ではない。直感的真実である。眼前を突き抜けて、異界にとびこむ詩人の目だ。
俳句というのは「今、眼前」だとよく言われる。
こういう句はどうなんだろう。私は俳句初心のころからこの手の句が好きで、視点も時間も制限されずに自由に往来するような句が好きで、自分でもそんな句を作ってしまう。
ただ、「今、眼前」というのはそれなりに意味のある考え方で、否定するつもりはない。
だけど私にとっての「今、眼前」はけっしてクソリアリズムではないのだ。
少年も、自らの老いも、今であり、眼前である、と。
少年を見ている。ふと、60年後の春だ、と思う。
この両者につながりがあるのかどうかわからない。が、「や」で切ってみた。
この少年を、「トシをとっても少年の心を持っている自分、永田耕衣」などと解釈してはならない。あくまでも少年は少年。勝手に観念的な理屈をつけて、これは観念句だ、などと決め付けるのは大変凡庸な鑑賞だろうと思う。
(五十嵐秀彦)
18、
俺なんかどこが良いのと聞く君はあたしのどこが駄目なんだろう
泡凪伊良佳「短歌ください2」
穂村弘が選者を担当する「ダ・ヴィンチ」の短歌コーナーへの投稿作品で、作者は16歳の女性。
十代の女性がふともらしたただの呟きといえる歌なのだが、徹底したてらいのなさが大きなインパクトとなっている。
(山田航)
19、
このようになまけていても人生にもっとも近く詩を書いている
山崎方代 「こんなもんじゃ」
航君のような歌人を前にして山崎方代を持ってくるのはちょっと勇気がいる。
この短歌が私にとって魅力的なのは、これが「へりくつ」「こりくつ」の歌であるにもかかわらず、そこに理屈を超えた哀しみがあるからだ。自分は怠け者だと認めざるをえない生活を送っている。しかし・・・、そう思うが、しかしの後が続かない。苦し紛れに後半の言葉が出てきているのだ。
「人生にもっとも近く詩を書いている」
人として、これではダメなのだ。それを方代はよく知っている。
(五十嵐秀彦)
20、
いくつかの死に会ってきたいまだってシュークリームの皮が好きなの
杉崎恒夫「パン屋のパンセ」
作者は1919年生まれで、この歌は70~80代の時期の歌。
とても老人が作ったとは思えないチャーミングで若々しい歌である。
この若々しさの要因は単に口語新仮名を使っているというだけではなく、男性がシュークリームの皮を好きであることを公言しても許されるような社会のやわらかさへの信頼と喜びによるものが大きい。
作者には食べ物や買い物の歌が多く、戦後の消費社会を心から楽しんでいたことがよく伝わってくる。
そしてそれはきっと戦争体験の反動なのだ。生の喜びを表現する文体として、最も適していたのがこの自在な口語であった。
口語短歌には、こういう可能性もあるのだ。
(山田航)
「最後に」
今回のトークショーは、私と航君とでそれぞれ勝手に作品を取り上げて、おしゃべりをするという企画で、話がかみ合おうとかみ合わなかろうと、まあ好きなようにやってみようということだったのだが、意外なことに二人の持ち寄ったテーマがとても近いものだったことに驚いた。
航君は「新しい口語」、私は「現代の軽み」。
言葉は違っているけれど、このふたつは共通しているのである。
この抄録からそのあたりが読み取れるかどうか・・・。
また機会があれば、次は伝統的話法をテーマにしてやってみたい。そう思った。
(五十嵐秀彦)
俳句集団【itak】事務局より
楽しみにお待ちになっていらっしゃる方も多くおいでとは知りつつも、抄録の公開時期がいつにも増して遅くなりましたことをお詫び申し上げます。
来週はもう第14回のイベントとなりますが、どうぞお誘いあわせの上、道立文学館にお越しください。必要なものは当季雑二句と参加料500円のみです!
詳しくはおとといのブログ更新をご覧ください。
http://itakhaiku.blogspot.jp/2014/07/itak.html
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