『 おヨネが読む 』 (その3)
~第12回の句会から~
栗山 麻衣
空は濡れ樹幹をのぼる春の水
「春の水とは濡れてゐるみづのこと」(長谷川櫂)「水の地球すこしはなれて春の月」(正木ゆう子)「春の夢みてゐて瞼ぬれにけり」(三橋鷹女)。春と水はとかく相性のいい組み合わせで、佳句がたくさんあります。この句は無謀にも(!)そこにチャレンジ、見事に成功しました。樹幹をのぼる春の水というイメージは頑張れば浮かべられそうですが、この上五はなかなか出てこないのでは。ワタクシは雨上がりのきらきらした空を思いました。濡れた空などとせず、空は濡れという連用形のままにしたことで、今の今なのだという瞬間をうまく描いているような気がします。出来そうで出来ない一句。
かたくりの花おそらくは人嫌ひ
うひょっ。片栗の花のイメージを覆されました。というのも「かたくりの花の韋駄天走りかな」(綾部仁喜)を歳時記で目にした時から、その印象にすっかりやられていたからです。一輪一輪が「あーらよっと」と尻っ端折りで走っているような庶民的なイメージ。しかし、思い起こせば「かたくりは耳の後ろを見せる花」(川崎展宏)と、奥床しさを詠んだ作品もあります。同じ花でも、見る人の視点や感情によって、さまざまに変化するのですね。あらためて俳句って楽しいなあと感じておりマス。
ユーラシアプレートの上つばくらめ
さまざまなお考えの方がいらっしゃるでしょうし、御不快に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、ワタクシ、季語保護→文化保護→人間的な暮らし保護的観点からも原発再稼働とかもってのほかだと思っておりマス。しかし、みなさま、この世の中の風潮はどうなんざんしょ、よろしいんざんしょか。ゴ、ゴ、ゴ、ゴと動いているユーラシアプレートの上に暮らしているということを忘れがちなワタクシたち。この句は警告を発しているのでありマス。掲句は警句って駄洒落ってる場合じゃないのですが。
歓声の消えてアリーナ冴返る
これはよく分かりマス。夜のグラウンドや体育館。昼間繰り広げられた試合の悲喜こもごも、選手の意気込みや涙、客席の熱気…。そうしたものが嘘のように静まり返った感慨に強く共感しました。アリーナというからにはカーリングかな? ただ、少し引っ掛かったのは「冴え返る」という言葉が季語として働いているのかという点。良いような気もするのですが、別の季節も同じような感慨がある気もしたりして…。
(つづく)
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