牛後が読む(その2)
~旗揚げイベントの俳句から~
鈴木牛後
ハーモニカ春風すこし入れて吹く
ハーモニカといえば、小学校に入っていちばん初めに手にする楽器だ。少なくとも私にとっては音楽との出会いの楽器だったと思う。
しかし、実は私はハーモニカにはいい思い出はない。1年生の頃の私は、音楽、図工、体育が大の苦手で、勉強だけがよくできるというまったく可愛げのない子どもだった。担任の先生からもあまり好かれていなかったようで、先生の顔といえば怒った顔を思い出すほどだ。そのときのクラスにはハーモニカの級というのがあって、先生のところに行って吹いてみせて、合格をもらえば昇級できるという制度になっていた。
ハーモニカの苦手な私はひどく緊張して先生のところへ行き、うまく吹けなくて不合格になったことだけを覚えている。ほんとうは合格したこともたくさんあったのだろうが、子どもの頃の記憶というのはそんなものなのだろう。
今ならそのころの私に言いたい。ハーモニカなんか吹けなくたって、どうってことないんだよ。先生のところへ行く前に、一度外に出て春風を胸一杯に吸い込んで、それをすこしだけハーモニカに吹き込むんだよ、そうすればきっとうまく吹けるはずだ。
そんな思いとともに、この句は私の胸に吸い込まれるように入ってきた。
マンモスの玻璃の瞳に夏来る
マンモスの剥製というのはどこかで見ることができるのだろうか? シベリアの永久凍土からマンモスの氷漬けが発見されたというニュースは聞いたことがあるが、展示されているのかどうかは寡聞にして知らない。
しかしマンモスの硝子の眼に夏が来る、と言われてしまえば、そうだよなあと思う。それは、数万年ものあいだ永久凍土に閉じこめられていたマンモスが、とつぜん陽光の降り注ぐこの世に引き出されたときの輝きを思うからかもしれない。その身の内に塗り込められた暗黒が長ければ長いほど、明るいところに出たときには明るく輝くのだ。
それとともに、マンモスの発掘に一生を賭けた人々もいたにちがいない。そんな人々の夢や希望も、マンモスの剥製には宿っている。マンモスを発見したときの一瞬の心の躍動、それはシベリアの凍土が融ける初夏の風景によく似合う。もちろん、剥製のマンモスの瞳がそのことを記憶に留めているわけはないのだが、その光景はマンモスの皮膚に取り込まれ、ガラスの瞳の中に収斂しているような気がするのである。
(つづく)
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