2013年12月17日火曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~青山 酔鳴 ~


句集『無量』の一句鑑賞

青山酔鳴




 赤とんぼ無数失踪者無数    五十嵐秀彦



 ほんの数年前まで、このひとの名前も存在も知らなかった。こうして句評を書かせていただけるようになるなど、出会いとは全く不思議なものである。

 どちらかというと不純な動機で参加した初めての句会にあったのが掲句である(ここは若いひとも多く集う句会である)。「なんだか物騒な句だな」というのがその時に感じた印象である。

 句集『無量』には季節は万遍なく盛り込まれ、読めば口角がすっと上がるような句も少なくないのだが、多くがそう云うようにやはり無常、寂寥、冬の乾燥した空気のようなものに支配されている感がある。掲句にしても、「失踪者」を持ち込むことで読者の心にチクリとしたものを否応なく打ち込んで来る。わかっていても自分ではどうしようもない出来事、問題として提示されても、だからといって自分に何ができるんだろうという無力感。新聞の見出しにあったとして、それを読んではいても、どうしようもないじゃないか。
 だが、考えてみれば自分に縁のない人間とは実のところほとんどがそうであり、それらはすでに失踪者となんら変わらない位置にあるともいえないか。それらは都市の、地球の欠片のように無数であるだろう。掌の細胞は足の裏の細胞のことは知らない。だがひとつの身体の細胞として共に存在し、共に代謝していく運命ではあるのだ。

 ちっぽけな赤とんぼ。実体としては捉えかねる失踪者。俯瞰されて、ともに無数。並べ置かれることであるいは遠い遠い相関が提示され、わが身もその一部であることを知らされる。掲句はそんな性質を持っているのかもしれない。

 この句と出会って以来、多くの句座を共にさせていただくようになった。『無量』にはそれから詠まれた句も多く収録されており、感慨深く読ませていただいている。生意気をおそれずに思ったままを云えば、掲句以前と以降では、氏の体温が少し上がっているようにわたしには感じられる。出会った時「物騒」と感じた句は『無量』のなかで、むしろ逆のオーラを放っていると思えるように、わたしの感覚も変化した。これからも無数の赤とんぼ、無数の失踪者の貌が氏の言葉によって明らかにされていくだろう。まったくもって個人的な感想ではあるが、氏の選り出す言葉のひとつひとつが興味深くて仕方がない。




(おまけ)
 ヨーロッパでは蜻蛉は「魔女の針」とも呼ばれ、嘘吐きの口を縫い付けるという迷信がある。あるいは魔女の針で口封じされた者が無数であるというオカルト句・・・あれれ?なんだかさらに物騒なような・・・。



☆青山酔鳴(あおやま・すいめい 俳句集団【itak】幹事・群青同人)


2013年12月15日日曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~山田 美和子~


句集『無量』の一句鑑賞

山田美和子

 



 月照らす机上流砂のごとき文字   五十嵐秀彦



シネマを想わせる句である。すでに一つのシーンが完成されている。
あとは各々好きな脚本で仕上げればよい。
シルクロードで駱駝に乗ろうか、ロレンスに逢いに行こうか、
どこか郷愁を誘う、足音を忍ばせて中腰で席を探した深夜の映画館を思いださせる。
美しい句は一編のシネマをも創りだしてしまう。


☆山田美和子(やまだ・みわこ 俳句集団【itak】幹事)
 

2013年12月13日金曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~三品 吏紀~


句集「無量」の一句鑑賞

三品吏紀
 

五十嵐秀彦氏の最初にして最後(?)の句集、「無量」の一句鑑賞ということで、駄文ながらもここに句評を書かせていただく。
全然見当違いな事を書くかもしれないが、そこは勘弁していただきたい。

「無量」出版直後は、様々な方がSNSや紙面を通して書評を発表していたが、不思議な事にこの句集は何かしら「冬の匂い」が強く感じられるようなコメントが多くあった。
五十嵐氏曰く、「どの季もほぼ同じ数の句を自選した」ような事をおっしゃられていたのだが、なるほど、皆あの表紙にすっかりイメージが焼きついてしまったとみられる。
そこへ五十嵐氏の句が持つ強い言霊が、より一層読者を冬の世界へと引き込んでしまったのだろう。かく云う自分もその中の一人だ。


 街角を曲がる角度で冬に入る    五十嵐秀彦


「無量」五十嵐ワールドの冬の句の中でも、最もシンプルですっきりと詠まれた句ではないかと思う。
通勤通学で通い慣れた街並み。しかし季節が一つ動くたびにその装いも大きく変わってくる。冬に入るともなれば、街路樹の葉はことごとく落ちて裸木となり、人々は着ぶくれして足取りが重くなる。冬囲いなども見られるだろう。
だがそれは四季のある私達の国での一つのルーティン。決して特別な事ではなく、ただ過ぎ行く日常の風景の一つ。
この句は他の冬の句に比べ、直感的に作られた感のある句のように思う。きっと通勤中にふと閃いてて詠んだ句だろう。隠喩的な表現を用いず、「街角を曲がる角度」という生身から発せられた言葉は、とてもシンプルでそして誰もが共感する句ではないか。
いわば「さっぱり風味」の句とでも言おうか。「無量」には難解で思考をフルに使う句が多く並ぶ中、一種の清涼剤としての役割も感じられる。

様々な感性を引き出しに持つ五十嵐氏の傍で、一緒に俳句を楽しむことができるというのは、本当に自分は幸せだとつくづく思う。


☆三品吏紀(みしな・りき 俳句集団【itak】幹事)

2013年12月11日水曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~小笠原 かほる ~


句集『無量』の一句鑑賞

小笠原かほる
 
五十嵐秀彦氏句集『無量』を読む
 
「無神論」より


 大寒や人は柩を空に置く    五十嵐秀彦


私が5歳の時に父方の祖父が亡くなった。
それは私にとって記憶に刻まれる初めての葬儀の参列となった。
極寒の旭川。姉妹兄弟合わせて15人の父の生家は身内だけでも
ごった返す人だった。辺り一面積雪で真っ白な家の正面には
ギラギラと飾りの付いた花輪がどんどん置かれていく。
まだ小さい私は珍しくてしばらくそれを見上げていた。
出棺の日も吹雪。父達がゆっくり大事そうに柩を持ち上げ戸外に運んで
玄関を出た瞬間、一瞬雪が止みその先に田舎の空が広がって
そこに向かって柩が掲げられている様にみえたのだ。
この一句は半世紀前のあの日の事を思い出させてくれた。
そしてこの時父の涙を初めて見た。一瞬父ではない誰かに
感じたのは父親を失った子供の顔をした父だったからと今なら思う
どの季節でも命の終わりを見送る辛さは同じであるが
真冬の別れは心の底をも凍るように寂しさが重く押し寄せてくる様
気がするのだ。


☆小笠原かほる(おがさわら・かほる 俳句集団【itak】幹事)

2013年12月9日月曜日

句集『無量』の一句鑑賞 ~大原 智也~


句集『無量』の一句鑑賞

大原智也

 奪ひあふ刻のかたみや古暦    五十嵐秀彦

 この句を読んで、思い浮かんだのは祖母の部屋。 
砂壁に貼ってある日めくりは、現在も亡くなる前日の3月3日で止まっている。
 
それまでちぎり取っていた1枚1枚こそ、北の開拓地で苦闘した日々そのものだったのかもしれない。


☆大原智也(おおはら・ともや 俳句集団【itak】幹事)