発行人は櫂未知子さんと佐藤郁良さんで、このお二人が代表のような存在なのだろう。開成高校つながり?という印象もあるが、同誌に参加しているメンバーはさまざまだ。
既にこの俳誌については当ブログでも何度か触れられている。というのも、itakつながりの作者が何人も参加しているからだ。
青山酔鳴、安藤由起、栗山麻衣、堀下翔、などの名前はitakでもおなじみの顔ぶれである。
「群青」第5号(9月)からいくつか作品を見ていきたい。
謝れば済むこと多し蝉時雨 青山酔鳴
ある程度の年齢になるとこれは実感となる。謝ることに抵抗がなくなって、特に何も感じなくなっている自分に気づくこともしばしばだ。
今日も頭を下げて、訪問先から出てきた。そのとき全身を包み込むような蝉時雨に気づいたのだ。
「済んだ」と思いつつ、「さて、何が済んだのだろう?」とも自問する。
かつて心臓を刺すような緊張感の中で頭を下げた若き日のことを、蝉時雨が思い出させてくれているのかもしれない。
魚捌くなに裁く夕立の音 青山酔鳴
今回の「群青」に掲載された酔鳴さんの「魚」十句では、「謝れば済む」とか、「ギルティ・オア・ノット・ギルティ」とか、そしてこの句であるとか、作者は何か罪の意識に追われてでもいるかのようだ。
「捌く」と「裁く」が音の同じであることに気づきながら、作者は魚を捌いている。包丁をたくみにあやつりながら。
前掲の句では蝉時雨だったが、ここでは夕立の音が、家の中にまで侵入してきて、まるで耳鳴りのようにそれは作者を包み込み責めたてている。
だが、「なに裁く」では作者の罪の意識のあり処はわからない。
この句の場合、いづれわからぬものであるのなら「なに」は余計であるのかもしれない。
上空に鳥ゐる証拠夏座敷 安藤由起
「気配」ではなくて「証拠」なのである。「屋根の上」ではなく「上空」なのである。
そんなことってあるのかなぁ・・・と不思議に思う。
ところが、理屈が成立しなければしないほどに説得力の増すこともある。
この句のやや突飛な「事実」が説得力を持って立ち上がってくるのは、季語「夏座敷」にあるのだろう。
この言葉には、窓も戸も開け放たれた座敷の中に読者を連れ込む力があるのだ。
読者は作者と一緒に、庇の深い古民家の薄暗い座敷に座り、夏の光が溢れている庭を見ている。
そして静かに風が通り過ぎてゆく。
その全てが「上空に鳥ゐる証拠」なのである。
薔薇ありぬ此の世にかくも落ちぶれて 安藤由起
薔薇の句として頭抜けて佳句であると思う。すくなくとも私は大好きな句だ。
薔薇という花は豪華・華麗でありながら、その盛りは短い。一見美しく咲いていても、近くで見ると早くも花弁の縁から萎れて薄汚れてしまっているものだ。
しかし、だからと言って、俳人や詩人はそれを汚いとは思わない。盛りの過ぎた薔薇の容(かたち)に心を尖らせてゆくのでもある。
「此の世にかくも落ちぶれて」、これを俗っぽいアナロジーととらえてはならない。擬人法でもない。ここに薔薇という花の核心があるからだ。
軒先に残る雨の香金魚玉 栗山麻衣
ちかごろは球形の金魚玉を見ることも少なく、普通の金魚鉢を見て、まあ金魚玉で詠んでみるか、なんて思うのは私ばかりではなかろうが、これは文字通り伝統的な金魚玉で、軒先に吊られているのだろう。東京の下町あたりが似合いの光景。
夕立が今しがた通り過ぎていったのだ。水の匂いと埃の匂いが混ざり合った夕立のあとの独特の香が家の中に流れこんでくる。
金魚玉をゆっくりと揺らして。
夏シャツの片手にありし文庫本 栗山麻衣
思い切って省略した句である。
ここで省略されたのは夏シャツを着ていた人物。その肉体。その片手だ。夏シャツの片手にありし文庫本 栗山麻衣
思い切って省略した句である。
そして文庫本もまた眼前にはすでに無い。
無いもの尽くしの中、夏シャツだけがそこにある。
あの文庫本はどこへ行ってしまったのか。
夏シャツさえも現実にはすでに無いのかもしれないが、句の世界の中ではあきらかに存在している。そうでなければならない。
他の全ては消え去った夏の日の輝きなのだ。
降りだしてきてあめんぼに当たりけり 堀下 翔
若い作者の句なのだが、この句は老成した印象を読者に与える。
降りだしてきてあめんぼに当たりけり 堀下 翔
若い作者の句なのだが、この句は老成した印象を読者に与える。
八十代になってようやく手にした軽みの境地、と言われればだまされそうだ。
しかしこれはそんな「句境」とか呼ぶべきものではないのだろう。
到達したのではなく、出発点を作者は模索しているのではないか。
そのために、ひたすらにじっとあめんぼだけを見ている。飽かず見つめている。
池のあめんぼを突き抜けて、作者の顔が水面に映っているかのようだ。
背泳ぎの髪いつぱいにみづ溜まる 堀下 翔
観察するところから発見がある。発見は常に常識の裏側にあるもののようだ。
プールで泳ぐ人の髪を濡らす水に着目。
そこで一句作るのでは底が見えてしまう。背泳ぎの髪いつぱいにみづ溜まる 堀下 翔
観察するところから発見がある。発見は常に常識の裏側にあるもののようだ。
プールで泳ぐ人の髪を濡らす水に着目。
もうひとつ奥まで見る。
背泳ぎの人の髪という視点。すでにそのとき一句が出来る。
それだけといえばそれだけの発見である。それだけで終わらせる書き方もある。しかし、それを発見に化けさせるレトリックもある。
「背泳ぎの髪」ということで、プールの中から上がってきた若い人の髪だけではなく、のびやかな肢体さえ見えてくるような作品に仕上がっているのだ。
(以上「群青」第5号より)
☆五十嵐 秀彦 ( いがらし・ひでひこ 藍生・雪華 俳句集団【itak】代表 )

※俳句同人誌『群青』(季刊)
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