谷 雄介「ブラジャー」を読む
~青山 酔鳴~
どういった訳か、ブラジャー(以下ブラ)には花の装飾が多い。発見を句にする。なるほど小さき花いくつ。
谷雄介さんの俳句は、群青二号に櫂さんが書かれているように、ひとかたまりの句群として愛される性質を持つ。創刊号の「髭」、二号の「鶴」も季語と単語の線引きはある意味自由で独特の雰囲気を醸し出しており、わたしのようなタイプの読者を惹きつけてやまない。
せっかくの作品評の機会なので、不肖・酔鳴は「ブラジャー」を一塊として読ませて頂こうと思います。
男ゐぬブラジャー売場年の内
ブラとは一般的には女性にとって必需品であり、しかもどちらかというと高価な消耗品である。歳末のバーゲンにあふれる熱気。そりゃぁ男はお呼びでない。あるいは彼女が戦闘態勢でゲットしているものは君に見せるためのブラかもしれない。これはひとつの祝祭の情景だ。
ブラジャーの寄せて上げたる淑気かな
古代ギリシャのブラジャーといふ展示物
ギリシャ時代にはすでにブラの原型ができていたようだ。ストラップレスタイプのそれは平常時ではなく、主に運動の際に用いられたらしい。しかしエドガー・ドガの『少年たちに挑むスパルタの少女たち』という絵画では彼女たちはトップレス。まだ堅い果実を惜しげなく曝け出す。作者はこの句でさらりと、女性と乳房とブラの来し方行く末を並べおいて見せるのである。
ブラジャーをはづし神話にでもなれよ
前句はこの句の「神話」に懸っている。投げやりな命令口調。バーゲンに振り回された苛立ちか、あるいはブラ装着による肩凝りに、恩赦を与えようというのか、ただ脱がせたいのか。全十句の中で一番好きな句である。
ノーブラと人こそ知らね西日暮里
二条院讃岐をモチーフに彼はここにだけ「ノーブラ」を置く。雪のない街の窓辺。小さな暖房器具。「アタシ今ノーブラなの」。作者と共に読者はここでやっとブラから解放される。後はもう「かわくまもなし」なんて。
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