2014年1月19日日曜日

俳句集団【itak】第11回句会評(橋本喜夫)


俳句集団【itak】第11回句会評

  
2014年1月11日


橋本喜夫(雪華、銀化)
 
 
そういえばそんな役目もあったな。一回休むとすっかり忘れていて、J子に言われてたじろいだ。すっかり気持ちは閉店ガラガラ状態であった。もう11回目だというのに、60人突破。1月11日という丁度日取りもよかったかも、正月の間に家に居てそろそろ外出して、他人に会いたくなるころである。もちろん第一部イベントの久保田 翠氏見たさもあったろうが・・・懇親会が新年会と受賞祝賀会を兼ねたのもよかったのだろう。閉店ガラガラ状態の心だといつまでも着手する気がおきないので、句会の熱さを忘れないうちに書いてしまおう。いつものように好き勝手を書きますが俳人の広い心をもって御寛恕を。


 雪しんしん人に哲学木に年輪       平 倫子               



高点句であった。私は中七以後の警句(アフォリズム)的措辞が説教くさく感じて取れなかった。ふつうこういう知的操作あるいは人生訓的な句は人気がでないのであるが、なぜ高点句になったか?理由はひとつ「雪しんしん」が良いのである。この措辞を使った句で成功例は筋委縮性側索硬化症で早逝した俳人折笠美秋の「微笑みが妻の慟哭雪しんしん」を思い出す。美秋や掲句のように雪の降る様子を感性だけで捉えて、かっこつけてない純粋な子供のような措辞である。これと大人的な落ち着いた中七以後の措辞がみごとに連結して嵌った句である。


 古書包むセロハンの音読はじめ      ゆうゆう


静かな句である、正月の静謐さを湛えてゆるぎない。セロハンの怪しい、透明性、どこか金属とは違う手触り感、そして微かな音。何か有名な俳人の句集であろうか。昔の句集はセロハンを被覆していることが多い。今は邪魔くさい、手間がかかる感じで装丁上では毛嫌いされる傾向がある。読みはじめに、古書それもセロハンで被覆された書を選んだ選択の確かさに賛辞を送りたい。

 
 初春や黄泉より遠き針の穴       山田美和子


普通は近くで見る針の穴、こんな些細なものが逆に黄泉より遠くに存在しているという決めつけ、アンビバレンスな措辞が成功した。何より???がつき、フック(ひっかける鉤)が効いている措辞だ。こういう措辞を思いついたとき、季語が内包されれば邪魔にならない措辞を置き、季語が内包されなければ邪魔にならない季語を置けばよい。初春というめでたいのであるが、あまり意味をもたない邪魔にならない季語が奏効した。

 
 雪に消ゆまっとうだったはずの道    瀬戸優理子


中七以下たいそう気に入った。こんな素敵なフレーズがある場合は前句でもいったが、邪魔しない措辞がいい。「まっとうだったはずの道」ばりばりに口語調、口語的発想である。そうであれば上五も口語で攻めてほしかった。「雪が消す」ではだめかと思ってしまう。

 
 托鉢の傍らに侍す寒鴉         高野次郎


「托鉢」、「寒い」、「雪」、「冬の鳥」と出てくるものは少し、パターン化されているのは否めない。この句の美点はひとつ。「侍す」である。なかなか使えない動詞だし、ここではうまく嵌っている。もしこの「侍す」ではなくいわゆるビイー動詞であれば、単なる報告句に堕していたであろう。

 
 知床をがっしり掴む鷲の爪       林 冬美


この句も内容的には知床に生息するオジロワシの爪を述べただけで、内容的には不満なのだが、「鷲の爪ががっしり掴む」という表現ではなく「・・・・・・・の爪」と遠近法で小さいものにだんだんとクロースアップする手法が成功の起点となった。それと枝や獲物をつかむのではなく、知床という大づかみなものを掴ませたのも手柄である。

 
 ポインセチア怒りにも似た血管     高橋希衣


頂いた句である。確かに怒った時首や、こめかみに青筋が立つ。それを怒りにも似た血管と表現。怒りのごとく、怒りのようなというより数倍良い表現と思う。そして何が気に食わなくて怒っているか、血管を逆立てているか不明なまま、ポインセチアと取り合わせが成立している。ポンセチアの赤が「血」を想像させる。

 
 かりんとう抱へて星冴ゆる街へ     渡部琴絵


9音+8音のけだるいつくり。最近、私も8+9とか、7+10音とか作って楽しんでいるので、このけだるさにはまった。星冴ゆる街へゆくのに、わざわざかりんとうを持参して、しかも抱えてゆくアンビバレンス。星冴ゆる街をさまようのは小人なのかもしれない。「かりんと星人」が星冴ゆる街を闊歩していたら面白い。

 
 朝刊に触れて冷え込み教えられ     宮沢帆風


言われてみればそうである。この気づきが俳人に必要な着眼点で、こういう句が「目が効いている」といわれ、写生句の大事な観点である。ただ惜しいかな、連用形で終わっている。これだと川柳的なのでやはり連体もしくは終止形で終わりたいものだ。読み下したときに「切れ」がないと感じたのは私だけではないはずだ。一案は「教えらる」と終止形にするか。「朝刊や」で切ればいいのである。比較的強い切れ字である「や」を季語以外に適応するのは違和感のある人は「厚刷や」とか新年の季語を使ったっていいのだ。

 
 燃え移るやうにみみづく発ちにけり   堀下 翔


みみづくの木から木へ飛び移る景を「燃え移る」と表現した措辞は素晴らしい。それとフクロウやミミズクは鳴き声や存在そのものを詠んだ句が多く、「飛ぶ姿」を題材にした名句は今までもないと思われ、そういう意味でも自信を持ってよい秀句だと思う。しかも耳のような羽毛ももつので、とぶときは青白い炎のように見えるはずである。周密な表現である。

 
 門松を猫よぎりたる速さかな     久保田 翠


俳句をやっているわけではないと聞いたが、佳句である。俳句もDNAかと思ってしまう。まず門松と猫を取り合わせた手柄。それぞれはもちろん季語でもあって使用されがちな題材であるが、門松の前を猫が通る句を誰が今まで書いたであろうか?それと「かな」の使用であるが、作者はよぎる速さに感心していることがよくわかる。これが松の内の過ぎる刻の速さと相俟って周密な内容となった。

 
 重ね着の内に裸の私いて        小張久美


これも着眼点がよい。着ぶくれの内側の自分の裸を表現した句はあまりないのではと思う。裸の私かな で終わらせる手もあったが、この表現の方が素直ではある。しょせん着ぶくれていないと生きられない「毛のない猿としての」人間の悲哀も感じられる。

 
 冬晴れや調査書一枚づつたたむ     太田成司


これも特徴の出た作品だ。中七以下でひとつづつ、一枚づつという動作を表現する句はたくさんあるが、「調査書をたたむ」  という行為、営為はごく限られた、限定した業種を示すものである。自分の職業のなかで行われた事、経験した日常をまず詠むことが大事であり、佳句の種だと思う。みんなすばらしい大自然を観たり、すばらしい大景に出会うことは日常生活では無理なので。そういう意味で「冬晴れ」の季語の選択もよい。

 
 味染みぬ玉子のやうな初仕事      大原智也


とても言いたいことはわかる。まだまだ序の口、まだまだ不完全的な表現を「味が染みてない卵」で初仕事をメタファーしてのであるが。味染みぬが文語なので本当に口語で言う「染みていない」という意味で取れるのだろうか?と考えているうちに締切時間が来た感じだ。「ぬ」は否定だけではないので、このあたりはあとから古典の先生Kちゃんに聞いてみるとする。誤解を受けない表現としては「染みてこぬ」「まだ染みぬ」だったらオーケーの感じがするが。

 
 楪や暮れゆく時に指入れて      五十嵐秀彦


最後までとるかどうか迷った句。作者名を聴いて、取らなくてよかったと思った。譲り葉という意味から、子孫繁栄、親から子へ譲るという意味で縁起のよい季語。この句のポイントは暮れかかった時間というものに指を入れている、つまり「掉さしている」と見た。つまり時間がどんどん過ぎて、親が老いてゆくのを「掉をさしたい」という気持ちもあるかもしれない。作者三が日親と過ごして少し苦労したらしい。そんなことを思って、この句を出したのかもしれない。

 
 大寒の鍵穴に星砕く音         籬 朱子


付き合いが長いと誰が作ったかわかるときがある。なぜなら一貫して追求するワールドというか美観があるから。高点句である。そして誰が作ったかわかった。ただし、推定した作者と違う場合がある、この場合は句会では「取りはぐれた」と後悔することにしている。今回の場合はよい句だと思ったが作者がわかったので、遠慮しておいたのである。大寒の季感と鍵穴の冷たい金属感覚、そしてその暗黒の中で星が砕ける(星が爆発する)金属音にも似た音がした という句だ。康秋さんだったか、「大寒や」で切る方がいいと言ったが、私もそう思った。この句の成功はやはり音で終止した、クロースアップ手法の選択と、大寒の「大」と鍵穴の「小」の対比の佳さであろう。

 
 七種やそらで言えなき核家族      三品吏紀


前句と逆でここは切れ字の「や」でないほうがいいと思った。この句の意味というか、コアは今の日本は核家族が多くて七草の種類をそらで言えないということであろう。核家族でなくても空で言えないから、おもしろい決めつけだと思った。ここはより句意をわかりやすくするため「七草をそらで言えざる核家族」でもよかったのではと思う。

 
 朝まだき寒の卵に黄身ふたつ     松王かをり


まだうすあかりの明け方の寒卵を割ったら、めでたいことに黄身がふたつあったという句意である。中七をそろえるため「寒の卵」としたのだが、それが少し気になった。わたしはこういう表現にあまりうるさくしないのであるが、やはり年取ってくると少し気にするんだなーと 句会のとき、自分の老いを感じた。

 
 犇めいてテロかも知れぬ初詣      青山酔鳴


一読面白いのだが、瞬間的に初詣でなくてもいいかも、と思った。テロという言葉も高点句になりえなかった誘因なのかもしれぬ。デモの方がいいのではなんてふざけて思った。叱られそうなのでこのへんにしておきます。

 
 寄り添ひて立寝の馬に寒波来る     小路裕子


寒立馬という季語もあるくらい、やはり寒中の馬は良い。黒い馬体から湯気が立ち上るのが見えるようである。「寄り添って立寝」という措辞がやさしい感じがして、「寒波来る」という厳しい季語の救いになっている。

 
 葉牡丹や騙されていい嘘もある     小張久美


やはり中七以下の措辞はインパクトがある。前述したようにいいフレーズが出来た時はその他の措辞で勝負が決まる。牡丹に似ているが実は花でなく葉っぱが花のように見せている「葉牡丹」はキャベツの変種であるという意味ではやはり騙しているのかもしれない。そう考えると近すぎる季語ともいえるが、中七以下の成語的フレーズを少なくても引き立てて邪魔はしていない。よって佳句としてよいと思う。

 
 雪煙にさっと一句書き付ける     渡辺とうふ


俳人としての日常、そして北海道への挨拶句と思うが、この句の面白味は雪煙を見て句帳に句を書きつけているのではなく、雪煙そのものに書きつけているような錯覚を起こすことと、微妙に中六にして字足らず感を出している。さっとというオノマトペに関しては賛否もあろうが、雪煙とも遠く響き合うのでいいのでは と思った。

 
 ロシア語の消印あはし日向ぼこ     増田植歌


ロシア語のあの字の感じ、たしかにカリギュラフィー 的で、一筆書き的でもあり、知恵の輪的でもあり、不思議な文字だ。書き順どうなんだろうと思ってしまう。そういう意味でロシアからきた葉書なり、「手紙の消印があわい」という感覚は肯える。あとは日向ぼこという季語の選択であるが、たしかに近すぎの感もあるが、中七までの措辞がいいので佳しとしよう。

 
 待ってゐてくれる手袋手を繋ぐ    星のぶあき


こころがほっこりする句である。個人的には幸福感が漂い、心の寒い私としては少し妬ましい感じもする。まず句またがりの「待ってゐてくれる」が泣かせる。作者にとって当然のことが当然でなく嬉しい気持ちが満載だ。もう一人の語り部(作者)はやはり手袋なのであろう。手袋同士が手を繋ぐというどうでもよい内容を今まで詠んだ句はあまりないかもしれない。または手袋をして待っていて、手袋を脱いで、手同士が繋ぎ合っていると読むと、なんか倖せすぎて、違和感を覚える。

 
 夫の読むニーチェトイレに冬深し    ゆうゆう


これは一時はやって売れた文庫本のニーチェ関連本であろう。けっして気難しい夫ではなくて、トイレにはいっている間でも少しでも無駄な時間にせず、人生勉強しようと言う真面目な、生活力のある、団塊の世代のような夫であろう。私も中七までは大変気に入った。問題は「冬深し」の選択であろう。読み手によっては静かさや、ニーチェ哲学の深さを彷彿してよしと思うひともいるであろうが。わたしはもっと軽い、ふんわかした季語でいいのではと思う。たとえば冬隣などでもいいと思った。
 


 
以上です。また機会があったらお会いましょう。

  ※機会は次回3月じゃないかと思いますよ、喜夫さん♪
 みなさまのコメントをお待ちしております(^^by事務局(J)


次回は第11回イベントに参加された東京の俳人・渡辺とうふさんより寄せられた、今回の旅程を詠んだ作品「Hey! 大洗サンビーチ」(50+5句)を発表します。俳句集団【itak】では、参加者のみなさんからの作品をいつでも募集しております。



 

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