『 秀彦が読む 』 (その2)
~第10回の句会から~
五 十 嵐 秀 彦
寒空に子供の声と早い闇
冬になると日の暮れるのが早くなる。まだ子どもは外で遊んでいるのだが、容赦なく日暮れが子供たちのまわりを、潮が満ちるように浸してゆくのだ。
この句の眼目は「早い闇」だ。「暮れ早し」ではない。
そこに作者がこの一句に注ぎ込んだ意欲と戸惑いのようなものを感じる。口語的であり、不安定で片付かぬ心の動きがこの措辞にある。
木の葉髪アフリカゾウの頭頂部
えぇっと・・・、頭のてっぺんが淋しい象と私とには共通点があるので、この句に残念ながら大いに共鳴してしまうのだった。
季語「木の葉髪」がいいかどうかは別として、「アフリカゾウの頭頂部」とはよく言ってのけたものである。この即物的ながらイメージの喚起力のある言葉は、強い。
象を見たとき誰もがそこに目が行くのに、それをこのように一句にしようとする人は多くは無い。俳句というのはコロンブスの卵のようなところがあって、簡潔であるほど強い印象を読者に与えるものだ。
すれ違ふ犬の後から冬来る
作者は散歩中の犬とすれ違った。そのとき、なぜかはうかがい知れないが作者の心の中で何かが揺れたのである。頬に当る冷たい風を感じた。犬がやって来た道の奥から、灰色の冬が吹いて来る。
はっと気がついて振り向いてみて、もう犬の姿はない。
風の音が耳をかすめるのだった。
立冬の癖字アリバイめいて浮く
「アリバイ」という言葉が好きだ。それを日本語に訳したときの「不在証明」という言葉も好きだ。実は、私が8月に出版した句集「無量」の最初のタイトル案は「不在証明」だった。まあそれはあまりにあざとい感じがしたので止めたのだが、「不在」を「証明」するという奇妙な言葉は、いろいろなことを考えさせる。「存在証明」なら面白くない。存在を証明するのは普通のことだ。不在を証明するのは、どこか非日常の印象がある。
高橋新吉の「留守と言へ/ここには誰れも居らぬと言へ/五億年経ったら帰って来る」なども、不在証明に通ずる詩であろう。
字には誰にも癖がある。達筆であれ悪筆であれ、人に固有の癖がある。だから、字は面白い。肉筆はその人を表す。
その癖字が、アリバイのように浮かび上がってくるのだ。
字というものは、怖ろしい。
(つづく)
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